2014年12月28日

抽象画の不思議(深い水槽) (パソコンとインターネットから生まれた不思議現象)



抽象画の不思議(深い水槽)


(パソコンとインターネットから生まれた不思議現象)


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抽象画は何なのか?これは特にパソコンとインターネットで起きている新たな現象である
その色は電気の光だから絵の具でないから今までにない色を出しているから不思議な現象となる
そしてパソコンのソフトでいくらでも変化できるから絵が描けない人も作れる不思議がある。
これは本当に不思議だと思った。元になる抽象画も色鮮やかだからこんなものができたのだろう。ただ元の絵と変化させた絵は相当に違っているから原画とは別なものなのかもしれない

ただ自分でもこの変化が何なのかわからない
つまり原画からいくつも変化させてみれるのが抽象画である。
ただそしたらこれは創作ではないのかとなるとそうでもないかもしれない
なぜなら原画とはまるで別なものになって変化しているからである
二つ並べても全く別なものとなっている場合がある
すると著作権違反ともならないともなる

いづれにしろこれはパソコンとインターネットから生まれた不思議現象なのである。
そしていくらでも変化させることができるから固定しないから今までのものとは違っているのだ
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盆栽は江戸時代の文化 (育てるのに五年十年かかる時間感覚が江戸時代)



盆栽は江戸時代の文化


(育てるのに五年十年かかる時間感覚が江戸時代)

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盆栽は「年を重ねるほど価値が上がる」のです。
盆栽は驚くほど長寿です。
松柏類の中には樹齢千年を超えるものまであります
http://www.gardenxgarden.com/bonsai/life.html

江戸時代後期の浮世絵に見ることができる。歌川国貞の『ゑん日乃景』には、螢を売る虫屋、金魚売りと一緒に植木屋の屋台が並ぶ。狭い長屋住まいの江戸っ子の生活に季節感と彩りを添えたのは、他ならぬ鉢植えの花々。撫子の鉢を手にした女性の姿は、心なしか誇らしげだ。


金魚売りは戦後十年くらいまで来ていたから江戸時代のつづきがまだあった。
虫屋とはないが虫を愛するのも日本人である。やはり江戸時代から継続されているものはある。

毎日のように通る仮設でいつも盆栽を品評会のように並べている所がある。
今日その盆栽を作っている人に聞いてみた。

「いろいろみんな変わっていて個性があり興味もちました、これまでにするのには大変でしょう 何年くらいかかるのですか」
「まあ、最低で五年、十年は十分にかかります」
「そんなに長くかかるんだ、なんだか気が長いとできないな」
「水やりだけでも毎日30分かかるよ、だからなかなか遠くには行けない」
「土でも狭いから栄養とるとなるとやはり水やりは大事になるんだ」
「絶えず手入れしてないとまた形が崩れてゆくし・・」
「手入れは手間がかかるようです、何しろ生き物だから外から見てわかるな
今の若い人には向いていない、今の年寄りでもこれは手間がかかるからやる人も少ないでしょう」
「まあ、小高では50人とか仲間がいました、だんだんやる人も少なくなっています」
「テレビでやっていたけど外国で盆栽が人気になったとか、これは良くできているから高く売れるんじゃないですか」
「まあ、今は盆栽はあまり高くは売れないです」
「そうかな、なんかこれらは一つ一つかなり価値があるように思える、なぜって5年とか十年で形が作られる、手塩にかけけ育てるものだから価値があると思うんだが・・・」

盆栽で誤解していたのはこれはやはり江戸時代の文化の反映だった。
何がそうかというと盆栽は気長でないと時間をかけないとできない趣味である。
江戸時代にはそうした時間の感覚があった。
木材でも材料として使うのには50年とかかかる、だから山で暮らすのには木材を利用するのには50年かかるとしたらとても一代ではその仕事はやれない、受け継ぐものが必要になるるきだ。三代とかでやっと仕事ができる。実りは三代とかあとになってしまうのである農家でもそういうことがあり三代ではじめて農家として認められるというのもそのことである。その時間の感覚が今とはあまりにも違っているから盆栽は現代のめまぐるしい時間感覚に合わないのである。


だから江戸時代の時間感覚から生まれた文化だったのである。
この時間の感覚は歴史的に違っていて今では理解できない。
今は時間が百倍くらいのスピードで過ぎて行っているかもしれない。
情報でも大量の情報が毎日流れては消えてゆく、その感覚が江戸時代とはあまりにも違っていたのである。
だから文化というのはそうしたその時代時代の時間の感覚とかとも関係して生まれている
現代の時代はモビリティの時代である。モバイルの時代である。絶えず動いている、何かに動かされて追われている感覚である。だから針金で枝を曲げたりしているのが何か悠長になる。もう5年なんか待っていなられない、今できあがったのを見たいのである。

だからこの盆栽の趣味は老人にすら合わないものとなっている。
老人だって他にすることがある時代だからである。
それにしても盆栽には江戸時代からのがまだ生きているということに驚いた。
樹齢500年とかのもある。そんなにこんな小さい盆栽が生きていると思わなかった。
それも時間感覚があわなくなる。そんなに長く生きるものなのかと思わなかったのである小さいからどうしても早く枯れて死んでしまうのかと思った。
すでに江戸時代から残って生きている盆栽があること自体驚きだった。

何か仮設で小高の人もいろいろな人がいたがあの盆栽を並べている一角だけが一番目立つものだった。盆栽に興味もなかったがあの盆栽を見て興味をもったのである。
すでに四年近く仮設で暮らしている。それも長いなと思った。
あういう趣味があれば仮設暮らしも退屈しないと思った。
あの盆栽を作っている人はかえって仮設でその趣味を活かしたまれなる人だったである。
もう正月になるけどあの盆栽はまた正月にもあっている。松だからめでたいとなるからだそして長寿だということが盆栽の特徴だったのである。だから百才の時代にはこうした長生きなものはあっているともなる。でも時間感覚では江戸時代のものだったのである。
文化を理解するのがむずかしいのはその背景となるもの、時間感覚などが今とはあまりにも違いすぎるから理解しにくくなる。
江戸時代はモビリティの時代ではない、一カ所にとどまり定着しする生活だからこまめに盆栽を手入れする時間があり盆栽趣味が育成されたのである。
冬の日がさして盆栽を手入れしているのがいかにもあっている。

 
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