2014年12月20日

スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由 (相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由


(相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


odakajjj123.jpg

今回の津波は小高の駅を越えてきたのに驚いた


モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。

モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。
 先祖からの言い伝え通り津波が襲ってくる。そう直感し、ただちに245戸、約1200人の集落全員が村の高台に避難した。

モーケン族(Moken)とは、ほぼ一年中海上で過ごす海洋民族。モーケンやモーケン人とも呼ばれる。モーケンは、自称でビルマ語では、サロン族と呼ばれる。別名「海のジプシー」。
アンダマン海、タイ王国、ミャンマー、メルギー諸島(英語版)の近海に暮らしている。ミャンマーとタイの政府はモーケン族を文化的に同化させようと試みてきたが、その成果は限られたものである

主に、カバンと呼ばれる家船(えぶね)に住んでいて、見知らぬものと出会うことを恐れている。しかし最近はミャンマー政府の政策により、海岸で定住生活をさせられている者もある



海の遊牧民などというのはなじみがない、海だけを生活にしている人達である。でも狩猟もしている。ただ定着しないだけである。だから海というのは国境がないから広範囲に国を越えて海をわたりあるく人達だとなる。
砂漠の国でも国境はなくそういう人達が今でもいる。
砂漠とか草原は海とにている、馬であれラクダであれ平坦であり移動しやすい、そして国境は作りにくい、壁を作るにしてもできないからである。
だから今でもどうしても移民でも大陸は入りやすいのである。

そもそもなぜこれに注目したのか?学者が注目したのはやはり今回の地震と津浪でなぜ海岸沿いに住んでいた人達が津浪に対する警戒感もなく避難することもなく甚大な被害になったのかということが延々と語られているからである。
相馬藩でもたった一行700人溺死とした記録が残らないのはなぜかと探求してきたが良くわからない。
つまり津浪になぜこれほど無警戒になっていたのかということが解せないのである。
スマトラの被害も甚大だった、10万人とか死んだというから想像を絶する。
そのとき日本ではあそこでは津浪を経験していないから無警戒だったとか盛んに言われたのである。それがまもなく今度は日本で津浪で大被害にあった。
日本なら津浪の経験があるのだからこんな被害にならないとなるが実際は違っていた。

するとなぜこのモーケン族が津浪をさけることができたのかとなる。
そもそも津浪はそんなに度々こない、でもスマトラでも巨大な津浪が2500年の間に三回来ていたことがわかった。堆積物からわかったのである。
つまり今回だけではない前にも巨大な津浪が来ていたのである。
ただそれが忘れられていた、それでモーケン族だけが津浪をさけたのはなぜかとなった。
モーケン族がそんなに昔から一部族を形成して海をわたり生活していたのかとなる。
そんな古い人達なのかともなる。たいがい同化するのが普通だからである。
古代には日本にも隼人(はやと)などが九州にいたけど日本ではそうした異民族が蝦夷征服で終わっている。もう日本人しかいないし日本人に同化しない民族はいない。
モーケン族が小さい集まりであり部族だからそういうものが今までずっとつづいてきたのかとなる。
そういう一部族が存続していたというがどれだけ古いのかわからない。
ただその一部族が残ったということは何か民族の化石のようなものになるのか?
モーケン族は海を舞台に常に活動しているとなると海について詳しくなければ生きていけない。でもそもそもどのくらいの歴史があるのかとなるとわかりにくい。
ただ津浪についての知識をもっていた。だから大きな津浪は400年と2か500年とかのスパンで起こるからそういう津浪のことを伝えるということはそれだけ長くそうした部族が生き続け津浪について語りつづけねばならいないのである。
ただ海の遊牧民としての生活がつづいていたのだから海から離れなかったのだから津浪についてもその知識が伝えられたとなる。

相馬藩ではどうなっていたかというとちょうど津浪が起きた400年前は相馬氏が進出した時期であり戦国時代であり相馬地方はそうした地元でも混乱した状態になっていたのである。相馬氏は外来の氏族であり地元の勢力ではなかったのである。
だから海側に勢力をもっていたのは在地の勢力であり相馬氏ではなかったのである。
相馬氏が進出してきたときちょうど慶長の津浪が起きた。
それは相馬氏にとってはかえって海側の在地の勢力が津浪で大打撃を受けて勢力が衰退したのである。それは相馬氏にとって好都合だったともなる。
相馬氏進出の経路を考察してわかったことは小高に進出して原町は深野(ふこうの)は在地の勢力があり館とかの地名が残っている。それで大原に進出したのである。
ここは未開の原っぱになっていたからである。その大原から小池の方に進出した。
今の鹿島区は北郷となっていてもともとは岩松氏などが支配していた。
その家来の系統が横手にもいたりするからなかなか進出できなかったのである。
相馬市でも磯部館がありその後日立木の鬼越館に移りそこでも相馬氏と争いがあった。
伊達市と通じるとか海側の在地の勢力とは対抗していたのである。


海老村の藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村に残るこの伝説で注目すべきは
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。


なぜ大原村が関係しているのかというとまさに大原は相馬氏が最初に原町で進出してきた場所だったからである。

ooharaaaa123.jpg

ooharaaaa123444.jpg

相馬氏古支配帳(文禄)

このように大原にはいくつも記録されていることでもわかる。
相馬氏と何ら海老村の在地の勢力が敵対して争ったことが伝説になった。
これはちょうど中村城の天守閣造営にかかわっていたし慶長津浪の時期と一致するから
何か津浪とも関係していたのかもしれない、他に津浪の伝承はない
あっても慶長津浪かどうか判定できないのである。

今回なぜ福島県から宮城県と津浪の被害がこれほど大きくなったのかその原因はモーケン族のように一つの部族であれ語り継ぐ歴史が失われたからかもしれない。
宮城県でも大きな被害があったのは海側に都市化して住宅化したところだった。
多賀城でもそうであり家が密集してしまっていてもうそこにも津浪があったということすらイメージできない場所になっていたのである。
貞観津浪の末の松山が伝承として残っていたがその前はもう住宅地で家が密集してそこが海だったかとイメージもできない場所になっていた。
そして学者が津浪がくると仙台の海側の住宅地に警告したら不動産屋が価格が下がるからそんなこと言うなと脅されたという。
まさにこのことが象徴しているように津浪を警戒するということはまずモーケン族のように海と切り離されて生活しているのだからそういうことを意識できないのである。


そもそも海岸の港でも海を常に意識して漁業で暮らしている人は少ない、ただ松川浦では津浪が来たら海に船を出せということでそれを実行して90パーセントは船に被害がなかったのである。だから海と生活しているというときそういう伝承は伝えられていた。
でも住宅地化したらそんなことは関係ない、海側は景色が良くて涼しいから気持ちいいとかなるだけである。
海側に住んでいるからといって今は漁業している人はその海側に住んでいる人でも少ないのである。海老村などではほとんど海とは関係なくなっていた。
そこに漁港があったとしてみんな漁師になっているわけてではないのである。
そしてモーケン族のように代々強固な一族として継続していない、相馬氏が入ってきていろいろな氏族が混じり合うようになるとそうした伝承も残りにくくなる。
相馬氏が支配者になれば相馬氏の都合のいい一番関心のあることだけが相馬藩政記でも記されるようになる。そこでは跡目争いのことなどが詳細に記されている。
そして誰が功績があったとか戦争で活躍して恩賞をもらったとかが記される。
その時津浪の被害が大きくてもかえって相馬氏にとって敵対勢力が衰退すれば都合が良かったとなるのである。今の時代の考え方とは違ってる。

小高の縄文海進時代の地図を見ればわかる。小高の駅を越えて城近くまで津浪がやってきた。縄文時代は小高の城があった浮舟城当たりまで海が迫っていたのである。
だからその縄文時代が再現されたから驚きだったのである。
もともと海だったところが本当に津浪で海になったのである。
もし縄文人がモーケン族のように残っていれば津浪のことを伝承されたかもしれない、もうそうした共同体も複合体になり失われていた。
つまり何らかの伝承でも伝説でもその土地に残るとしたらモーケン族のような強固な族として残っていないとそうした伝承は忘れられる。
モーケン族は今でも海を生活の糧として一団として残っていたから津浪の被害にあわずにすんだとなる。
昔からのものを何か残す伝えるにしても社会が変わってゆくと忘れられ伝えられなくなるのである。

posted by 老鶯 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係