2014年12月16日

秋篠寺を想像で訪ねる (インターネットで編集の試み)


秋篠寺を想像で訪ねる


(インターネットで編集の試み)


本堂は国宝である。穏やかに手を広げた瓦屋根の勾配、白い壁と精緻な柱、格子戸のバランスは見ているだけで心が軽やかになるのを感じる。鎌倉時代の大修理を経ているが奈良時代の単純素朴な美しさがあると評されているようだ
http://blogs.yahoo.co.jp/geru_shi_m001/64310523.html

、私たちはその柔らかな物腰から視線をそらせなくなる。そこから微動だにしなくても、後ろの漆喰に映る濃い影──高く結い上げられた髪のかたち、抱きつきたくなるような丸い肩のフォルム──は仏の気配そのもので、その影がふいに壇上からおりて「さあ、なにも怖くない。いっしょに行きましょう」と寄り添ってくれるような気がしてならないのである。
http://nara.jr-central.co.jp/campaign/akishinodera/special/


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秋篠寺の伎芸天女

その体全体に満ちるふくよかさ、やさしさ、優美さ
その胸はほどよくふくらみ受容する愛の表出
なだらかな線は胸から脚の先まで作ることなく
まろやかに流れるように体全体をつつむ
その手は軽く繊細に指を合わせる
何を思ふやその顔は穏やかさに満ちて
その内発からその体躯には毒のなし
大輪のおおらかな花のように
微笑みは深く内面から表出される
それは一つの完結した美の典型
その脚も手も腕も胸も顔も頭も
未だ血がめぐり生きているように人を迎える

奈良に京めぐり年の瀬鐘の音
簡素なる秋篠寺かな前庭に冬の日さしてたずぬ人かな
秋篠寺屋根にとまれる鳩の二羽穏やかなれや冬の日さしぬ
秋篠寺伎芸天見て味わいぬ懐石料理や京の年の暮
京都なれ鐘の音の聞きて東京へ帰れる人や年の暮かな



インターネットの利用の仕方はまだ定まっていないし有効に活用されていない、それだけ活用される範囲が広いからそうなる。
文化的にはやはりインターネットで広がる世界があった。
自分は今はただ回想する旅をしているがその時インターネットが役たつのである。
なぜなら訪れた場所でもその謂われとかわかりにくいからである。
また訪れない場所でも想像をふくらませてその場を旅することがある。
秋篠寺はたずねたことがない、それでも写真が一杯でているしそこから想像で書ける。
常に言っていることだがインターネットは自分なりに編集しつつ読むことなのである。

インターネットから秋篠寺についてプログでもかなりの人が書いてある。
今回は三つくらいしか読んでいないがもっと読めばまた違った感想が書ける。
一つは「心に青雲」で書いていたので秋篠寺のことについて検索して読んだ。
著者は秋篠寺については感心している。
それはあまり観光化していないのと他の寺とは何か趣が違うものを感じたからなのだろう写真を見ると確かにずいぶん簡素な建物だと一見してわかる。
冬の日がさしている写真があったがそれもふさわしい。
ことさら伎芸天女に感心していたが確かに見ればこの伎芸天女は秀作である。
自分は仏像には感心したことがほとんどない、感心する感性がないともなる。
そもそも日本ではギリシャの彫刻とかの芸術がないと思っていた。
でも仏像はギリシャからインドへ伝わったものなのである。

この伎芸天女は彫刻として特に優れている。
女性の持っている良さをあますことなく顕している
女性の場合は心も体に顕われやすいということがある。
体と心が一つになるということがある。これはギリシャのビーナスとは違って女性を顕したものでは傑作である。
ただはっきりいって自分には鑑賞力が不十分である。
結局奈良とか京都は日本文化の伝統の場所だがそれがなかなかわかりにくい。
何回か旅したけどわかりにくいのはやはり文化とか伝統は簡単に身につかないものだからである。時間の中で徐々に身につくものでありそれも何代にもわたって受け継いで身につけるということもあるからだ。
そういう点東北となるとそうした文化の蓄積がないから日本文化が身につかないことがある。
それでも仙台から名古屋に船で行き自転車で奈良まで行ったように距離的には短縮化されているから精神的にも近くなっているのである。
それで旅の短歌なども思い出して書いているのである。

奈良京都というととにかく寺が多すぎるのだ。だから一方で寺はもはや何か仏教を追求するような場でなくなっている。観光化して修行の場でもない、それでも伝統があるから違っているとは言える。それは信長の時代からの継続なのである。
寺というのはそのときから実質的な支配階級だった現実に権力ももっていたから信長と敵対して戦争にもなったのである。大阪だった秀吉が治める前は本願寺があり真宗の拠点となっていたしそれで激しい戦争になったのである。
宗教でも権力化するとすでに宗教ではない、政治化して権力追求になる。
今のカルト宗教団体とか団体化した宗教はすべてそうである。
だから団体化した宗教は政治団体であり何ら宗教とは関係ない俗世の団体である。
だから自分はそういう所は信じない、それでもこの世にはそういう悪場所でも頼らざるをえない人達がいる。だからいくら否定してもそういうものは消えないということである。第一真宗とか日蓮宗が今でもこれほど勢力をもっているのは何なのかというと結局拝めば何でもかなえられるという大衆への洗脳に向いていたからである。
最悪の貪欲な人間でもその貪欲な欲望がかなえられるために祈っているのだから異常なのである。

秋篠寺は平安時代後期から寺領を増大させ、南に位置する西大寺との間にはたびたび寺領をめぐる争論があったことが、西大寺側に残る史料からわかる。
保延元年(1135年)には火災により講堂以外の主要伽藍を焼失した。現存する本堂(国宝)は、旧講堂の位置に建つが、創建当時のものではなく、鎌倉時代の再建である。


このようにすでに平安時代から土地争いで勢力争いになっている。
土地をもつということは権力をもつことであり土地に執着することは権力に執着することである。禅僧はだから一所不住であり旅していたことでもわかる。
寺をもつことはすでに権力をもつことに通じていたのである。
カトリックでも土地を所有したことが権力を持つことになったから宗教の歴史もまた東西でにている所はあるのだ。
結局奈良や京都は信長の時代と変わらずに今でもそうした宗教によってかえって汚された地でもある。だから修行には実際は向いていないのである。
そこには祇園で遊ぶ金持ちの坊主がいるとかなる。
今修行に向いているのはやはり荒野であり自然のある田舎なのである。
もちろん今は田舎も都会のように汚されているが自然がありそこで精神形成をすることが修行になるのである。
東京のようなところではもう精神形成は不可能である。
奈良や京都はまだ自然がないということではない、東京はもう人工化した荒野だからもう精神形成はできない、だから言葉もそこではすでに詩語は失われ死んでいるのである。
摩天楼のような世界で言葉も通じなくなっているのである。

タグ:秋篠寺

年の瀬ー雪ー冬の雨 (盆栽が目立つ仮設住まいも四年にもなる)


年の瀬ー雪ー冬の雨


(盆栽が目立つ仮設住まいも四年にもなる)

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枯菊や盆栽の木の根露かな
盆栽の手入れの人や年の暮
盆栽や仮設に四年冬の雨
盆栽の根元に雪や手入れかな
年の瀬やカラスに肉を食われけり
年の瀬や一軒また急ぎ建つ
寒雀三羽やみな一人者
冬の雨今日も買い物介護かな
冬の雨老いて作れる畑かな
葉牡丹に実る野菜や雪の朝
今朝の雪新し石に映えにけり

それぞれに盆栽見ればその形様々なれや冬の日暮れぬ
仮設住みはや四年にもなり盆栽のここに見につつ年も暮れなむ

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プログはその時々を書くのに向いている。こういうメデアはもてなかった。
俳句とか短歌だと毎日変化を書けるから向いていたのだ。
もう原発事故から四年にも来年はなる。仮設に住む人も長いと思う。
仮設の前に盆栽を並べている所がある。あればどうしても日々往き来すると見る。
あの盆栽は相当に価値があるだろう。
一つ一つを見ると良くできているなと思う。みんな違っていて個性がある。
盆栽に興味がなくても毎日あのように見ていると人間は自ずと興味を持つようになるのも不思議である。
盆栽が外国で人気だというのもわかる。ただ盆栽作りは相当にめんどうだから誰でもできるわけではない。日本人の感覚として庭でもそうだが盆栽でもミニチュア化するのが得意であり文化なのだろう。大陸のような広さではまず盆栽というものが生まれようがないからだ。茶室にしてもそうである。
なんかあのような長屋のような仮設に向いているということを発見した。
日本には長屋文化というものがあったからである。
今日は朝わずかに雪が降った。盆栽を手入れしていた。

ただもう四年にもなると仮設もそろそろ終わってもいいとなる。
仮設は一人くらい風流の人が住んでいるならいいがあんなに多いと回りから見ても嫌になる。
だから新しく建った家はんの前に松一本が立ち朝日が海の方から昇るとき、新しい生活がはじまったなとなる。それでも新しい家を建てた人は少ないだろう。
だから仮設すまいの人はその後どうなるのか?
小高に帰らない人はどうなるのか、そういう問題が切迫してくることは確かである。
やっぱり田舎では家と田畑があり資産をもっているのが安定している。
だがこの家に金がかかる、家を維持するのに金がかかる、リホームしたりするとさらに金がかかるし古くなるといたんでくる。
家というのは資産でありこの資産を維持するのに金がかかるのである。
田舎で普通に暮らすにはある程度の資産がないとできない
田舎でアパート暮らしなどは向いていないしみじめである。

ともかくこの辺の仮設で印象に残ったのはあの盆栽が並んでいる風景だった。
今日は雪が朝ふった。でもすぐにやんだ。それから冬の雨になった。
人間はどうしも同じ境遇の人が集まりやすい、男性も女性も独り者だと集まる。
男性で困るのは家事のこと特に料理がわからないことなのだ。
簡単なことがわからないのである。家事にも年季か必要なのである。

今年は結構寒いのか年もおしつまった。
コンビニに自転車とめて二回カラスに食われた。カラスは抜け目がない、常にねらっていたのである。人間もぬけめがない、油断もできない、田舎ももう今は信用できない。
はっきり言って人間の方がどれほど怖いかわからない、カラスの盗み食うのは知れてい人間だと財産を奪われてしまう、そういう経験したから本当に人間は怖い、あまりにも警戒しなさすぎだった。
とにかく年の瀬になったなと思う。今年も終わりだが今年も家事に追われたかたづけに追われた一年だった。未だに家がかたづけられない、本のかたづけが一番の問題なのである本は物のように捨てられないのが困るのである。本は中味の書かれたものが大事である。それを捨てるわけにはいかないから捨てられない。時々また読み返したりしているからである。でも本も増えるともう読みきれないし利用できないし整理できない。
通販でまた本を買うことが増えたのである。通販でいろいろ必要になり毎日のようにアマゾンで買っている。
やはり何か書くにはそれなりの本かそろっている必要があるのだ。


今年は一回しか仙台に行かないし近くでもほとんど原町相馬市しか行っていない。
家で過ごすことがほとんどである。そうなると家が居心地いいようにしたいとなる。
介護もしているとなるとなかなかその余裕がない
ただ老後はもし家にいる時間がこんなに長くなると住み心地がいいようにしたくなる。
そういうことは自分の家は広いからできる。ただ家が広いと掃除だけでも手間であり
毎日家の中をめぐっているだけで時間が過ぎるものだと思った。
冬は特に冬ごもりになるから余計に外に出ないからそうなるのである。



タグ:盆栽 年の瀬