2014年12月11日

文明は計ることであり計りえないことで滅びる (津浪や原発事故はまさにそうだった)



文明は計ることであり計りえないことで滅びる


(津浪や原発事故はまさにそうだった)


計りえない世界


石は
たくらみ
計ることがない
故に疲れることがない
人は絶えず
たくらみ計り
故に疲れる
人はこの宇宙を
計ることができない
予期せぬことが起きる
人間のはかりごとは
あえなく御破算になる
人は神の計らい
決して越えることができない
人は神の掌にありて
神に計られしもの
人の計りごとは
常に予期せぬことで破綻する
石は未だに計ることなし
神の御意にただそこに在るのみ


文明とは結局計ることが文明だとも言える。だけど計りきれないから文明は滅亡した。
マヤ文明でありこれも実際は相当な高度な知的文明だったのだ。
高度な天文学を有した文明だった。
ではなぜ滅びたのか?
つまり天文であれ気候であれ計りえないことだったのである。
人間の心臓まで神に捧げて文明を維持しようとした
しかし最後は迷信に陥り太陽の光が弱ると恐怖して神殿は放置されて森に埋もれた。
文明とは基本的にこの宇宙を世界を自然を計るという営みである。

だから現代では文明は科学文明になったことがわかる
科学によってこの世界は宇宙は計り知り得るものだとなったのである。
それは人間の信仰であり神の信仰とは違う
人間の力でこの世界のことを計りしりえるという信仰なのである。
ところが人間の力には限界がありそのはかりごとは失敗する
予期せぬこと計り得ないことがこの世には起きるということである。
それをまざまざと見たのが津浪であり原発事故だったのである。
原発を擁護する科学者が百万年に一回しか事故の確率はないと真面目に言っていた。
そんなこと確率でわかるはずがなかった。

人間の未来は計ることはできない、だから未だ来たらずであり未だ来たことがないことが来る、それがこの辺の津浪や原発事故だった。
未来が予期できないということが人間にとって致命的なのである。
本当は歴史的にみれば津浪も予期できるものであった。
ただ一万年とかのサイクルになるともうお手上げになる
でも地球の歴史は何十億とあるとしたら一万年も短くなるのだ。
その間に何か起きるか予期できないのである
結局人間のはかりごとが御破算になったことの驚きである。
海側を干拓したのは自然破壊であり自然に反することだった
一見自然と調和しているようでも自然に反することだった
松原も全部破壊されて元の自然にもどってしまった。

個々人の人生でも金のことやらいろいろと計算する、しかしほとんど計算通りに人生はいかない、マイホームをローンで買った人は払えないと老後難民になったと嘆いている
人生も計った通りにはならない、いくら計画して計算しても計算通りにいかない、
大企業に就職すれば安全だ公務員は安全だとか安定たとか言ってもこれも将来はわからない、例えば夕張のように自治体自体が消失するということが現実に起きる。
南相馬市などもあと十年二十年で相当に衰退する、工事関係者が去ったら火が消えたようになり夕張のようになるとしたら公務員も職を失うのである。
だから人生そのものが計算できないのである。
社会的にも天変地異でも何が起きるかわからない、突然個人的にも病気になったりするのが常にある。
いくら人間側で備えてもそうした天変地異は人間の計ることを越えているから対処できない、津浪で三陸などの高い防波堤も越えて津浪に襲われた
人間がいくら図ってもそれ以上のことが天変地異で起きる

そもそも津浪であれ原発事故で人が住めなくなったなど全く予期できないことだった。
だからどう対処していいかもわからない、でも明治維新の黒船であれ戦争の災禍であれ
おそるべき変化が過去にもあった。それも何百年前ではない、だから六十年くらいで社会は大きな変化の時が来ている。それは予測できないことなのである。
人間の計りごとに限界がある。だから絶対に安全だというものはこの世にない
原発は絶対安全だという安全神話が権力で形成された
それはマヤ文明ともにているかもしれない、原子力文明でありそれは事故で廃棄され廃墟となりその回りが住めなくなった、神殿は元の森に覆われた。
原発事故周辺も人が住まなくなり元の森に覆われたともなる。


タグ:文明とは
posted by 老鶯 at 10:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連