2014年12月07日

寒さしみいる石


寒さしみいる石


城の跡六万石や落葉かな
六万石城跡たずぬ冬紅葉
板塀や城下の細道冬紅葉
石の庭池に写せる冬紅葉
風吹かれ残菊あわれ夕暮れぬ

しんしんと石に寒さのしみいりぬここを動かずともにしあらむ

今日は寒い、外にも出歩きたくない、今まであたたかったから寒く感じる。北海道とか雪国だと外に出れなくなるだろう。ただ車もっていると中があたたかいから出歩ける
自転車だと寒いから外に出たくない、今日本当に出たくない
桂離宮の庭の池に冬紅葉が写っている写真が出ていた。
石と冬紅葉があっている。
自分のテーマは石なのである。
人間は自然でも認識するとき、なんでもそうだが人間化しているのである。


しんしんと石が冷えるというとき人間化している
石も人間と見ているのである。
石は動かず寒さに耐えているとかなる。石に気持がなくても人間が見るときそうなる。
だから不思議なのは飯館村とか人か住まなくなった村というのはどうなるのか?
あそこにも牛の背のような石がありあの石は見物である。
飯館村は牛と石の村でもあった。
でも人が住まなくなるとそこに人間がいなくなると石もただ自然の中の石になってしまうのか?
人間の思い入れがない石となってしまうのか?
みんな散り散りになってしったからである。

現代は昔のような村と違って人間の生活はグローバル化していると村で暮らすようなつながりが消失した。金の力が増大した。金さえあれば近くの人に頼る必要はない、生活するものが買えばいいとなる。
だから仮設に住んでいる小高の人でも何ら協力関係が生まれていない
金さえあれば別に助けてもらう必要もないからである。
かえって補償金が多くもらっていいなとかなるだけで関係ないのである。
「金にめんどうみてもらえ」と遠い親戚の人とと縁を切れたけど極端化するとそうなってしまう。


だから原発避難民はこれからそういわれるかもしれない、補償金をたんまりもらったんだからそれでやればいいと言われる、そしてもらわない人は俺たちはもらってもわずかだしもらえなかったんだからなとなる。
最初は絆とか言われたけどかえって広域社会化した世界は金の方が大事になる。
だから人と人は助け合わないのである。
それは別に原発事故があったからではなく前からそういう社会になっていたのである。
だから故郷でも市町村でもつながりがなく解体しやすいということがあったのだ。

相馬藩で飢饉のとき飯館村に小高であれ相馬藩内で援助していた。それも相馬藩だからであゃた伊達藩からなどは援助がない社会だからそうなった。
それも問題だが相馬藩内では助け合った。逆に今は外から来た人が働き助けている。
内部ではかえって助け合わないという矛盾も生まれているのだ。

 
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