2014年12月27日

「殺してでも金を借りてこい」 「金があるんだから金でめんどうみてもらへ」 これが現代の世相である



「殺してでも金を借りてこい」


「金があるんだから金でめんどうみてもらへ」


これが現代の世相である


埼玉県川口市のアパートで3月、祖父母を殺害し金品を奪ったとして強盗殺人罪などに問われた孫の少年(18)に、さいたま地裁は25日、
懲役15年(求刑無期懲役)を言い渡した。少年は母親の強い支配の下で学校にも通えぬ「居所不明児」として育ち、
公判でも「母親から『(祖父母を)殺してでもカネを借りてこい』と指示された」と主張していた。
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141225-00000572-san-soci
 
 
 金を借りにくる人は怖い、これは金を貸さなければ殺すということを前もって決めてきて借りに来たのだか怖い、祖父母であり子の親が孫に命じたらのだから怖い
 金に切羽詰まっていたら人間は金を借りるでもそれは金をくれということでもらえなければ殺すということだから強盗に近い。
 そういうこととにた経験をこの七年間でしてきた。
 一人は明らかに強盗と代わりない人だった。
 最初は知らないから地元だからそんなこと考えなかった。
 その人も金がなくて追い詰められていた。ただ贅沢するためのものという面もあった。
 普通に子供を育てた大人だからそんな人がいるとは思わなかった。
 自分が突然の病気になったとき偶然にその目的が果たされたのである。
 
 
もう一人も事業をして借金で首が回らなくなっていた人だった。
それも何か成功して羽振りがいいと思っていたからそんなことわからないし思ってもみなかった
ただ百万とかの単位で金を借りにきて実際その時遺産が入ってきて世話になったので払った。それ以後額が大きいのでその人には何も頼めなくなった。
車を頼んでも百万単位で借金を請求されるから怖い。
自分は借金した経験がないから金がないということはわからなかった。
というより自分はずっと大金など使ったことがない貧乏であり貧乏性がぬけていない
百円二百円にこだわる生活をしてきた。
ただ時間だけが制限なく与えられていただけである。
旅行するにしてもまず食事は最低であり泊まる所も安宿探すのに苦労していたのである。それから自転車旅行でもテントになれば宿賃はかえって節約できたのである。
だから貧乏性であり金にせこいものだった
そういう貧乏性の人は何か百円とか千円とかごまかそうとする
それがなんか悲しい性(さが)なのである

その後も借金を請求されてくれてやった。金を貸さないでくれてやる。
百万とかなればできないが些少の金はくれてやって貸さない
貧乏性の人は金を貸せというのか癖になっている
そして金を貸しても返せないのである。
いづれにしろ犯罪の半分は金にまつわるものだろう。
金の貸し借りで殺人事件は普通に起きている
檀家の僧侶が金を借りるために相談に来て女性を侮辱した
女性は怒り僧侶を殺したのである。
風俗でかせげとか侮辱した結果である。
会津の夫婦が残酷に殺されたのも外部から来た人が借金の相談をしたらしい
それが断られて殺害した、その経緯はわからないにしても借金にまつわることから殺人事件が起きるのが多いのである。

だから「殺してでも金を借りてこい」というとき
それはもう強盗と変わりないのである。
「金を出せ、出さなければ殺す」と変わりない
そもそも金を返すといっても返せないのだから金はとりかえせないのだからくれると同じになるのだ。
金を借りた人で返す人はまれである。
人間の心理として不思議なのは金を借りると物でも借りると自分のもののように思えてくるのである。だから金でも物でも返さない人が多くなる。
土地でも誰かの土地でもそこに居すわれば権利がでてくるようなものである。
だから家を貸すと家は他人のもののようになる。

現実に法律的にも権利がでてくるから800万軒の空家があっても貸さないのである
それはもう貸したら貸した人のものになってしまうことにも原因があったのである。
一旦借りられたら追い出すことが法律的にもできなくなるからそうなる
借りた金もそんな感じになる。まず個々人の金の貸し借りは法律的な縛りがない
だから貸したら取り返せないのである。
消費者金融とかなると法律的縛りがあるし後ろに怖いものがついている場合があるので強制的に返すことが強いられる
銀行だったら担保がないと借りられない、だから個々人の金の貸し借りはとりかえせないのである。

結局この辺も金をめぐってもめて今年も終わったとなる。
原発の補償金問題が最も関心事だからである。
ただ南相馬市では小高意外はたいがい終わっているが個々人では終わっていないだろう。農業して土地をもっている人の補償はまた違っている。

ともかく金のないことも苦しいが金をもっていることも怖い、金のために殺されることは普通にあるからだ。金がなければ殺されなかったろうにとなる。
ただ金回りが良くなるときは人生に一回くらいだれでもあるのかもしれない
生涯金回りが金運がない人もいた
そういう人はたいだい離婚しているのは統計的にも確かである
二人で働くのと一人だけで働くのは全く違ったものになるからだ
もしかしたら金も運なのかかもしれない
金運が回ってくると金が入ってくる。
株などもいくらプロでも失敗している
ただ株でも上り調子の時き下り傾向のときがありそれがめぐりめぐっているのである。
だから上り調子のときは別に投資のプロでなくてももうかる仕組みになっているのか資本主義社会である
株でも十年くらいの長期間で見れば必ず上がるという見通しができるのである
今は上がり調子になっているからここで金運が回ってくる人は回ってくる

ただこんな金に執着する、すべて金になる社会は異常である。
人間がただ金だけがすべてになると悲しい
そうなったらこいつがいくら金になるんだ、金にならないのかそんな奴は何にも関係ないとなる、死のおうがなになろうが関係ないとなる
実際にそうして関係は切れてしまった
病気になったとき今がチャンスだと金を借りる、せびる、金をとる、火事場泥棒になる。そういうことを経験した七年間だった
「殺してでも金を借りてこい」これも極端なもの、それも子供に親が命令しているのだから一見異常で関係ないもきのように見える
ところが人間の社会はかえってそうした異常なことが起きることがその時代の世相を現していることがあるのだ。
最初に遠い親戚が「おばちゃんは金があるんだから金でめんどうみてもらえ」
こう血相変えて勝ち誇ったようにして出て行った女性もそうだった。
それが極端なけどその極端なものが現代の世相を如実に現していたのである。

この辺の補償金問題でも小高の人に鹿島の人などは反発が大きい
そして極端化するとどうなるのか?
「お前らたんまり補償金もらっているんだから金にめんどうみてもらへ、俺たちは協力しない」となってしまうのである。現実にそうなっているのである。
浪江の会社を経営している人が仕事をくれと仲間だった人に言ったら
補償金たんまりもらっているんだからと仕事をもらえなかったということでもわかる
確かに会社なと経営していると億の金をもらえる場合が避難区域ではある。
あの人もいろいろもらっているのだろうなとかんぐられるのである。

「金あるんだから金でめんどうみてもらへ」
「殺してでも金を借りてこい」

これは極端にしろ現代の世相なのである。


 
タグ:借金
posted by 老鶯 at 20:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

熱帯の花(2) (これは著作権違反かも)


熱帯の花(2)


(これは著作権違反かも)


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川と街

これは著作権に違反している。
ただ実験として出した
絵が抽象画に変化しやすいものがある
この絵はそうだった
抽象画は抽象画に変化して無限に楽しめることがある
具象画と違い抽象画が一定の形がないからそうなる
変化させたときまた一つの創作となるのである。

でも元の絵がわかるようだと著作権違反になるだろう。
それでもインターネットで著作権違反を指摘されたことが抽象画ではない
これは俺の模造品だとか言われない
それよりインターネットでは利用されていることがわからないのである
田から著作権違反が指摘しにくいのである。
外国のものだと余計にそうなる。
要するに私的な範囲で変化させるのはいいが
このように自分の作品のように出すのは著作権違反となるかもしれない
ただ元の絵がわからなくななればそうはいえない

これはかなり著作違反と指摘されてもしかたがないかもしれない
実験として出してみたのである。
タグ:熱帯の花

2014年12月28日

盆栽は江戸時代の文化 (育てるのに五年十年かかる時間感覚が江戸時代)



盆栽は江戸時代の文化


(育てるのに五年十年かかる時間感覚が江戸時代)

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盆栽は「年を重ねるほど価値が上がる」のです。
盆栽は驚くほど長寿です。
松柏類の中には樹齢千年を超えるものまであります
http://www.gardenxgarden.com/bonsai/life.html

江戸時代後期の浮世絵に見ることができる。歌川国貞の『ゑん日乃景』には、螢を売る虫屋、金魚売りと一緒に植木屋の屋台が並ぶ。狭い長屋住まいの江戸っ子の生活に季節感と彩りを添えたのは、他ならぬ鉢植えの花々。撫子の鉢を手にした女性の姿は、心なしか誇らしげだ。


金魚売りは戦後十年くらいまで来ていたから江戸時代のつづきがまだあった。
虫屋とはないが虫を愛するのも日本人である。やはり江戸時代から継続されているものはある。

毎日のように通る仮設でいつも盆栽を品評会のように並べている所がある。
今日その盆栽を作っている人に聞いてみた。

「いろいろみんな変わっていて個性があり興味もちました、これまでにするのには大変でしょう 何年くらいかかるのですか」
「まあ、最低で五年、十年は十分にかかります」
「そんなに長くかかるんだ、なんだか気が長いとできないな」
「水やりだけでも毎日30分かかるよ、だからなかなか遠くには行けない」
「土でも狭いから栄養とるとなるとやはり水やりは大事になるんだ」
「絶えず手入れしてないとまた形が崩れてゆくし・・」
「手入れは手間がかかるようです、何しろ生き物だから外から見てわかるな
今の若い人には向いていない、今の年寄りでもこれは手間がかかるからやる人も少ないでしょう」
「まあ、小高では50人とか仲間がいました、だんだんやる人も少なくなっています」
「テレビでやっていたけど外国で盆栽が人気になったとか、これは良くできているから高く売れるんじゃないですか」
「まあ、今は盆栽はあまり高くは売れないです」
「そうかな、なんかこれらは一つ一つかなり価値があるように思える、なぜって5年とか十年で形が作られる、手塩にかけけ育てるものだから価値があると思うんだが・・・」

盆栽で誤解していたのはこれはやはり江戸時代の文化の反映だった。
何がそうかというと盆栽は気長でないと時間をかけないとできない趣味である。
江戸時代にはそうした時間の感覚があった。
木材でも材料として使うのには50年とかかかる、だから山で暮らすのには木材を利用するのには50年かかるとしたらとても一代ではその仕事はやれない、受け継ぐものが必要になるるきだ。三代とかでやっと仕事ができる。実りは三代とかあとになってしまうのである農家でもそういうことがあり三代ではじめて農家として認められるというのもそのことである。その時間の感覚が今とはあまりにも違っているから盆栽は現代のめまぐるしい時間感覚に合わないのである。


だから江戸時代の時間感覚から生まれた文化だったのである。
この時間の感覚は歴史的に違っていて今では理解できない。
今は時間が百倍くらいのスピードで過ぎて行っているかもしれない。
情報でも大量の情報が毎日流れては消えてゆく、その感覚が江戸時代とはあまりにも違っていたのである。
だから文化というのはそうしたその時代時代の時間の感覚とかとも関係して生まれている
現代の時代はモビリティの時代である。モバイルの時代である。絶えず動いている、何かに動かされて追われている感覚である。だから針金で枝を曲げたりしているのが何か悠長になる。もう5年なんか待っていなられない、今できあがったのを見たいのである。

だからこの盆栽の趣味は老人にすら合わないものとなっている。
老人だって他にすることがある時代だからである。
それにしても盆栽には江戸時代からのがまだ生きているということに驚いた。
樹齢500年とかのもある。そんなにこんな小さい盆栽が生きていると思わなかった。
それも時間感覚があわなくなる。そんなに長く生きるものなのかと思わなかったのである小さいからどうしても早く枯れて死んでしまうのかと思った。
すでに江戸時代から残って生きている盆栽があること自体驚きだった。

何か仮設で小高の人もいろいろな人がいたがあの盆栽を並べている一角だけが一番目立つものだった。盆栽に興味もなかったがあの盆栽を見て興味をもったのである。
すでに四年近く仮設で暮らしている。それも長いなと思った。
あういう趣味があれば仮設暮らしも退屈しないと思った。
あの盆栽を作っている人はかえって仮設でその趣味を活かしたまれなる人だったである。
もう正月になるけどあの盆栽はまた正月にもあっている。松だからめでたいとなるからだそして長寿だということが盆栽の特徴だったのである。だから百才の時代にはこうした長生きなものはあっているともなる。でも時間感覚では江戸時代のものだったのである。
文化を理解するのがむずかしいのはその背景となるもの、時間感覚などが今とはあまりにも違いすぎるから理解しにくくなる。
江戸時代はモビリティの時代ではない、一カ所にとどまり定着しする生活だからこまめに盆栽を手入れする時間があり盆栽趣味が育成されたのである。
冬の日がさして盆栽を手入れしているのがいかにもあっている。

 
タグ:盆栽

抽象画の不思議(深い水槽) (パソコンとインターネットから生まれた不思議現象)



抽象画の不思議(深い水槽)


(パソコンとインターネットから生まれた不思議現象)


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抽象画は何なのか?これは特にパソコンとインターネットで起きている新たな現象である
その色は電気の光だから絵の具でないから今までにない色を出しているから不思議な現象となる
そしてパソコンのソフトでいくらでも変化できるから絵が描けない人も作れる不思議がある。
これは本当に不思議だと思った。元になる抽象画も色鮮やかだからこんなものができたのだろう。ただ元の絵と変化させた絵は相当に違っているから原画とは別なものなのかもしれない

ただ自分でもこの変化が何なのかわからない
つまり原画からいくつも変化させてみれるのが抽象画である。
ただそしたらこれは創作ではないのかとなるとそうでもないかもしれない
なぜなら原画とはまるで別なものになって変化しているからである
二つ並べても全く別なものとなっている場合がある
すると著作権違反ともならないともなる

いづれにしろこれはパソコンとインターネットから生まれた不思議現象なのである。
そしていくらでも変化させることができるから固定しないから今までのものとは違っているのだ
タグ:abstruct

2014年12月30日

年の暮の短歌十首 (小さなる町に生きて・・・)



年の暮の短歌十首


 
(小さなる町に生きて・・・)

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今日の朝日


盆栽に根を張りしとと冬の雨

吾が母を介護しあわれ年暮れむ家を維持すと勤む我かな
掃除しつ料理をしつつ吾が家に勤めいそしみ年も暮れなむ
吾が家に勤む女あれ一年を過ぎて親しむ年の暮かな
我が町の花屋によりぬ新年を飾りを作る我が買わむかな
路地裏に誰が目をとむや残り菊日々に通れば目につきかも
この道を往き来して気になりぬ五賀の姓の墓年も暮れゆく
我が病癒えにけるかな新しき年迎えるに心剛しも
小さなる町にし生きてあわれかなそれぞれの勤めここにあるへし
仮設住む人の手入れす盆栽や日々に通りて年も暮れなむ
仮設住み働かざるは悲しかな我も働く一人にあれば
赫赫と朝日昇りて年終えむ我が体に力みなぎる

自分の仕事は介護と家に勤めていることである。これは仕事ではないといっても仕事なのである。何か生産しなくても買い物だけでも一仕事になるのが現代である。
何を作るかではなく何を買うかしること自体が現代の生活である。
それを否定しても現実にそうなっているのである。
料理でも何を買うかを知ることが大事になる。そもそも料理を覚える事はずかしいからである。買ったものですましてしまうからである。
ともかく今年一年も家の仕事に追われて終わった。一回しか仙台に行かないし遠くに行けないことは同じだった。
だから毎日一万くらいの町を行ったり来たりしているだけである。
そんな小さな町に暮らしてもやはり何か追われている。

花屋では新年の飾りつけをつていたがあそこの花屋は飾りつけがうまいので買う
川子の高台の墓には五賀の姓があるがこれは越中からの移民である。
この辺の墓には必ず三分の一は移民の墓である。
なんか仮設も四年にもなるけど盆栽を並べ手開く所を毎日通っているとその盆栽に情が移るというのも不思議である。盆栽を一つの樹のように見るということがある。
ただ仮設はもう終ったほうかいい、そこには生活はない
ただ補償金で暮らしているというのは生活ではない
毎日パチンコとか競輪とかギャンブルの生活になったらその街の未来はなくなる。
ともかく何か勤めているものがあればそこから力もでてくる
今年一年はやはり病が癒えたということが大きかった。
くるしかったのは自分の病気をみる人もなく介護とか家のことをしなければならなかったことであった。

年取ると一番怖いのは金がないこともそうだが病気になったら辛い
特に一人暮らしは病気になったら悲惨である。
誰もみるものがいないから余計そうなるのである。
その点では今年は体が回復したので力が湧いてきたので良かった。
そして来年も何か元気でやれると思うと違ってくる
実際は旅だってできるのだが介護でできないだけである
登山でも苦しいが低い山ならできるかもしれない。
病気になったらまず何もできなくなる。
そういう希望すらなくなる。
ともかく今年は自分の体の回復の年だった。



タグ:年の暮


来年は正念場の原発避難民の小高の人


(広域社会グローバル社会の矛盾が顕著になった場所)


●小高は帰らざるを得なくなる人もでてくる

来年でほぼ避難区域が解除にされると小高に帰るのか帰らないのか決めざるをえない
再来年にしろ来年で決めざるを得ない
補償金も打ち切られると厳しくなる
すると小高の外に住居を確保できない人は小高に土地と家があれば帰る他ないと決断する人もでてくる。
今日会った人は街内の女性だが帰るという、年配の女性であった。
今まで小高の人で帰るという人に会ったことがない
だからめずらしいなと思った。

仮設は後一年と何カ月かで撤去される、それで原町区に避難者を集める区域を作るというから住む場所を確保できない人はそこに集めるのだろう。
でもいつまでもそこちにも住めないとなるとどこかに住居を確保せねばならない
小高に帰らないとすると原町区と鹿島区だがみんなが土地と家を確保はできない
新しい家を建ったのはわずかだろう。
やはり年配の人は小高に帰らず家を建てたがめんどうなことに加わりたくないからそうしたという。
結局原発事故で起きた事は何なのか?
それか原発事故があったからではない、その前にあった社会の変化が極端な形で顕在化したのである。
広域社会とかグローバル社会が田舎であっても社会を変えてしまったのである。
そもそも原発自体がこの辺では社会を変えていたのである。

何か会津とか違って浜通りは羽振りがいいと言われたのは本当だったのだろう。
それは原発があったし火力発電もあったしそうした所から税も入っていたし働く場所もあった
ただそれでも不景気不景気だということは聞くことが多かった。
それは日本全国の問題でありここもそうした影響があったからである。
原発も出稼ぎしないとか過疎化をくい止めるとかそういうものとして積極的に受け入れられていたのである。
ただこの辺は東京に近いから結構工場も多いし岩手県とか青森県とか秋田とも違っている中通りの人はあそこは便利だから原発でも移住する人がいないというのも確かである。
中通りは一番交通の便が良く便利なのである。

●なぜ町や村全体が解体したのか?

原発事故だけでこんなに町や村が解体するようにはならなかったと思う。
放射能問題があるにしろ果たしてそれだけで町や村が解体して放棄されるたろうか?
現実に最近、大熊町でも双葉町でも老人などは帰りたいという人が増えているという。
やはり長く住んでいればそんな簡単に捨てられないだろう。
つまり現代が広域社会の中でグローバルの中で生きているということか相当に影響したのである
昔の自給自足の地域社会とは村社会とはあまりにも違った社会になっていた。
江戸時代だったらもう簡単に移動できない、飢饉のときはやむなく農民の逃散などがあったがそれも命懸けとかなっていた。
村を出たら生きられないような社会である。

明治時代になったとき鉄道の切符が手形代わりになりどこでも行けるようになった。
要するに今のように金かあれば移動が簡単であり住居も移すことができるようになったのである。その変化は実際は相当に大きかった。
日本のどこにでも行けるどこにでも住めるという社会は大きな変化だった。
そういうことができるようになったのは日本全国か金の力が大きくなった。
つまり日本全国で人も物を自由に流通するのだからそのために金が大きな力を持つようになる。それは今度は人も物を自由に流通するグローバル社会に進展したのである。
「金」さえあればどこの国でも住めるとまでなる社会である。
金さえあれば何でも手に入るという社会である。

この辺では原発事故でもなぜ補償金でもめたことでもわかる
仮設に住んで補償金をもらえて何ら生活に困らないのである。
これだけ人が移動すれば広域化やグローバル社会になっていなかったら移動した人は困窮して周りの人に助けを求めたろう。
それは最初わからずに雇ってくれと来た人がいた。
でもそれが逆だったのである。金をもっているのは避難している人たちで避難場所を提供した地域の人はかえって雇われる人になっていたのである。
「俺たちは金はあるぜ、お前ら金ないから雇ってやるよ、俺の元で家事をしてくれ」とかなっていたのである。
そういうことで南相馬市は小高、原町、鹿島で分断されてしまったのである。

●広域社会グローバル経済社会の矛盾

広域社会とかグローバル社会の矛盾が極端化している場所にもなっていた。
「一億円補償金はらうからどこでもいいからそれでやり直してくれ、暮らしてくれ」
「それはかえってありがたいな、もっといい便利な場所で生活しよう
、姑からも離れられるからかえっていいんじゃない、・・」
若い人は特にそうなってしまったしそういう広域化グローバル社会はそういう精神になっていたのである。
もともともう故郷にこだわり住むということから離れていたからこういう機会にそれが現実化しやすかったのである。
ただ街場の人が帰りたいという人が少なく農家の人が帰りたい心情はわかる。
代々その土地に住んでいた人は帰りたいとなる。
そうは言っても今はみんな農家てはない、会社員化しているのも農家である。
だから代々その土地で住み執着するということでもなくなっている。

原発事故の原因はいろいろあった、現代文明そのものもの問題でもあった。
一人一人の生活をみると贅沢になりすぎたのである。
それぞれが何でこんなに欲深くなっているのかということがあった。
借金してまで立派な家を建てる、常に金がたりないたりないとなっていた。
だから金になれば何でもいいとなっていたのである。
原発でも何でもいい、金さえなればそれでいいとなっていた。
すべて金で計られる社会はそうなってしまうのである。

それで浪江の会社経営の人が仕事をくれと前の仲間に頼んだらお前らはたんまり補償金もらっているんだから仕事もいらないだろう。
こっちももらいたいわとかなって協力しないのである。
「絆」とかなんとか言われたがこれも言葉だけに終わってしまったのである。
地元ではほとんど協力していない、避難民をかわいそうだとか同情もしていない
あいつらたんまり補償金もらって得したなとしか思っていない
かえって金によって人の心も分断されたのである
それは別に原発事故が起きたからではない前からそうなっていたのである。
そういう社会が原発事故で極端なものとして顕在化しただけなのである。
ただ最初の内は物資が入らなくなり何とか運んできてくれ助けてくれと全国に呼びかけたその時物資を運ぶことが助けることだった。
でもやがて別に金を払えば何でも送ってきてもらえると前と同じになった。
物を運んできてくれたから助けてもらっているとは思わない。
金で運んできてくれるし金を払えばそういうことはしてくれるのは当然だとなって前と同じになったのである。

ただでは金さえあればいいかとなると避難した人はたちはそうはなっていない
前だったらそれでもいい面はあったが大挙仮設に住んで金があるからと使ってやるとか自分たちのために働けとなると回りから反発される。
それでイワキでは大熊や双葉の避難した人達ともめた。
なぜなら避難した人が土地を買い立派な家を建てて地元の人は建てられないからである。普通避難民とかなると戦争であれ何であれ悲惨なテント生活とかになっている。
それが全然違っている。かえって金が入り贅沢な食生活になったとかもある。
これも原発事故の変なことだったのである。
それも結局は現代の広域社会とかグローバル社会となったことがもともと原因していたのである。
結果的には飢饉になったら相馬藩内でしかたすけられないとかではなく全国から援助があから助かるともなる。
一方で広域社会グローバル社会の矛盾が顕著になった地域にもなってしまったのである。

東京辺りから老人か金があるからと田舎の施設でめんどうみてくれと言われる。
でも金があるからといって田舎でそうした人達を歓迎するのかとなる。
高級な金持ちの入る施設でもいいことばかりではない、金でなんでもかなえられるわけでもない、金を全面に出すと嫌われるし金があっても老人は弱者なのだからいじめられることもある。
だからいくら広域社会グローバル社会でもすべて金で解決することはできないのである。
原発事故周辺の問題はグローバル社会の世界的な問題でもある。一地域でもグローバル経済社会の中に組み入れられてしまっているからである。そもそも金がドルが世界中で通用していることことが如実に物語っている。自分にしてもアメリカの投資でもうけていることが矛盾なのである。そうした金の世界から批判しても離れて生活できない
だからもう資本主義は矛盾であり限界だから世界も破壊するから崩壊すると言われる。
資本主義社会の大崩壊がまもなくやってくる。
それで世界がどうなってしまうのか誰も予想はつかない、金は紙屑になり物々交換の世界にもどる。同じではないにしろ貨幣より物だとなる、具体的な使用価値があるものであり紙幣は通用しなくなる。そういう境目の時代にきている。
2015年は資本主義社会の破局のはじまり?



posted by 老鶯 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年12月31日

近江の秋の俳句と短歌連作 (東北とも福島県と近江は古代から関係していた)


近江の秋の俳句と短歌連作


(東北とも福島県と近江は古代から関係していた)

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湖の道


秋深む銅鐸古りぬ近江かな
一葉の紅葉の浮きぬ竹生島
三井寺に鐘なり暮れて秋の湖
秋風や昔の栄堅田かな
秋鴎あまた群れ飛び浮御堂
一時を塩津に止まる枯木かな
湖西線日本海より秋の暮
高島に家型古墳や秋の暮
彦根城望む琵琶湖や刈田かな
織りなせる近江の興亡紅葉散る
秋深む金箔の瓦夢の跡

塩津駅あわれ一時とまるかな枯木に家の数軒見ゆかも
高島の野に宿りして奈良遠く淋しさ募る秋の夕暮
奈良よりし琵琶湖をわたる船のあれ菅原の名や秋の夕暮
義仲寺に秋の柳のそよぎつつ誰かたずねむ古き井戸かな
高島をたずねてあわれ湖に鳥居や波寄す秋の夕暮
堂々と家型古墳残りける誰が君眠る秋のくれかな
多賀神社たずねて帰る電車かな窓にかそけく月の見ゆかも
幾度かたずねてあわれ近江かな波音ひびく秋の夕暮
旅路きて真野の入江や葦枯れて鴨の浮きにつ京を離れ見ゆ
清盛の瀬田の唐橋馬に乗り勢い良く渡る歌の残りぬ
石山寺たずねあわれ一隅に源氏の間や秋深むかな
石山寺石に誓ふと信心の歌そ詠みける秋深むかも
一望に近江平野や信長の天守に望む天下ふぶかも
比良の山伊吹の山や打ち仰ぎ秋の陽没りぬ琵琶湖光りて
韓国に近江の人と会いにつつ別れるし秋を偲びけるかな
葛尾(かつろう)に近江八景模し作り庭に偲びぬ秋のくれかな



どういうわけか近江には3回くらい行っている。近江は琵琶湖もあり風光明媚であり歴史もある。三井寺の鐘は奈良時代となるとやはり古い。あそこで確かに鐘の音を聞いた。
しかし記憶も薄れてゆく、ふりかえると自分ほど旅した人もいない。
それも何かただぶらぶらしていただけである。あてもなくそうして旅していた時間がなつかしい。
多賀神社などたずねる人は少ない、伊勢神宮は今でも多いけど多賀神社はたずねない。
でも多賀神社は昔は伊勢神宮とも並んだ大きな神社だったのである。
そんなところまでたずねて電車で帰ったその時乗っている人も少なくかそかに月がでていた。
それも30年前とかなると記憶も定かでなくなる。
ただ近江に関しては地理的にわかりやすいことがあった。

でも旅すると方角がわからなくなる。どうして湖西となると西になるからあの方向が西なのかわかりにくい。東となると東であるがこの辺で東となるとどうしても海側なのである西となると山側になるから方角的にわかりやすい、旅すると方角がわからなくなる。
湖西線は日本海から回って京都の方に通じている。
塩津駅は印象に残る場所である。古代でもそうであり万葉集にも塩津のことは歌われている。つまり琵琶湖を船でわたってきて塩津の港で日本海の方に向かったのである。
太陽が沈む方向は湖西線の方であり比良の山の方である。
t錯覚していたのは菅原は高島に近い方だった。湖東の長浜の近くだと思っていた。
つまり何かこの方角が旅するとわからなくなる、錯覚するのである。
ただ近江がわかりやすいのは中心に琵琶湖があるためである。

近江に魅力を感じたのはそこが都会ではない、関が原を出ると広々と近江平野が望まれ解放された気分になる。

浅みどり三上の山の春霞たつや千歳のはじめなるらん(大江匡房)

この山は形がいいし目立つ、電車が走りこの山を望むと気持ちがいい。
あそこが電車が走っていて一番気持ちがいい、でも大津になると都会化して高層ビルなどかあるからいいと思わないし京都までも家が繁華で広々とした解放された感じがなくなるそれは大阪もそうであり神戸辺りから瀬戸内海を望むとほっとするのである。

近江は相当に歴史がある。らその点でも魅力がある。いろいろな歌も残されているのも魅力である。京に近く東への出口となっているのも魅力である。つまり近江は地理的なものと歴史的なものが積み重なって魅力を作っているのである。日本の要、要衝の地になっているからである。奈良時代は奈良から敦賀などの通り道であり越の国へ出た。
そして一番古いのは敦賀はツノガノアラシト伝説のツノガでありこれは朝鮮半島から来た製鉄技術などをもった渡来人の一団だった。
そしてそれはみちのくと深く関係していたのである。
今回の東北の大津波で津神社が津波神社だと話題になったがそれは嘘だった。
津神社はたいがいつのみやとか言われたものが津神社に漢字化されてわからなくなったのである。津(つ)神社とは言わない必ずツノミヤ神社と言っていることでまぎらわしく誤解されたのである。すてに700年に浪江の棚塩に津神社が祭られていたのである。それはツノ神社でありツノガノアラシト系統の製鉄の技術をもった人がわたってきたのである。

近江は意外と東北と関係が深い、古代も近江系統の渡来人が来ていた形跡がある。陸奥の真野の草原の万葉集の歌は地名が三つでている。陸奥と真野と草原(かやはら)である。
草原には異論があるがこれも地名らしいのである。真野という地名は近江にもあるし吉備にもある。もともとは味真野が越にあったように葦き間から見える野だったのである。
近江の古代は今の大津や堅田ではなく高島町が中心だった。
だから立派な家型古墳が発掘された。それは本当に貫祿のある石作りの立派なものであるそこから金銅双魚も出ている。それは真野の草原(かやはら)の歌われた鹿島町からも出ているのだ。そこにも一つのつながりがある。
戦国時代は日野から蒲生氏郷が会津の領主になったことは有名である。
それから石田三成は戦国時代に相馬藩と深く関係していたのである。
なぜなら三成の旗が江戸時代の野馬追いの絵に出ていたからである。
自分の住んでいるすぐ近くの田中城にもきていたというから不思議である。

それから近江商人というのも有名であり相馬藩の元の中村に支店を出していた。
東北でも近江商人の支店が結構あった。
それから面白いのは製鉄で財を築いた葛尾(かつろう)村の葛尾大臣という跡が残っているがそこに近江から連れてきたという嫁をヨネという女性がいた。
その女性が近江八景を模した庭を作って故郷を偲んでいたのである。
自分も韓国の旅で世話になった人が大津の人だったというのも縁があった。
だから近江には特別興味をもっている。それだけではない近江は風光明媚であり歴史もあるから魅力がある、大阪だったら大坂城だけしか歴史がわからないからである。

ともかく近江は歴史絵巻物として書きやすいのである。織田信長の安土城もあるし古代からち中世から江戸時代と歴史てとして重層的に継続されているものがあった。
奈良というと京都に都が移ってうらは田舎化したという歴史の継続が断たれたこともある奈良は古代で歴史が途絶えたが京都と近江は江戸時代でも職人の町商人の町としてつづいていたのである。
それも東北と関係していたということが魅力になるのである




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