2014年12月18日

短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男) 一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集



短歌でつづる吾が半生ーやすらぎ(平田義男)


一冊の戦争を歌った松川浦に住む人の歌集

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この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)であった。今は2014年だからこの人は生きていたら108才だから死んでいるだろう。この人は別に教師でもない学者でもいない、松川浦の漁師であり農民であった。
でそのことは紹介されているが歌も稚拙な所もあるがそれなりにうまい、普通はなかなか訓練しないと歌も作れない、この人はそれなりに才能があったともなる。
何か万葉集の防人の歌とにていたのである。防人の歌も戦争するわてでなかったか古代に九州まで行かされるのはまさに外国に行くと同じだったのである。

赤紙を手にとり受領の印おせど吾が心も心ならず
今日だけはオゴモとらむと舟出せど心も空にオゴモは見えず
父さんはいつ帰るのとさびしげに涙ぐみつつ吾を見つめる
万感を胸に車の人となる釜山の駅よ会う日もあらば
幾月か吾がを追う吾が妻の便りの文はすでに汚れぬ

赤紙を受け取った気持はみんなこうだったみたいだ。突然のことであり思いもかけないものとして受け取ったのである。自分の姉もシンガポールに四年従軍看護婦として行って辛酸をなめた話を認知症になってからも延々と聞かされたから嫌になった。
同じことを何度もしゃべるのが認知症なのである。千回も同じことを聞かされたら嫌になるし聞きたくなくなる。そして遂に死ぬ間際でそのシンガポールの辛苦の四年間を語り続けて死んだ。それだけ忘れられないものとなっていたのが戦争の思い出なのである。
だからどうしても戦争というとき姉のことを思い出してダブってくるのである。
この人は松川浦の人であり漁師でもあり農業もしていた。そして妻と子があったからそのことに思いがあり歌っている。ただこのオゴモとは

オゴノリ(海髪、学名:Gracilaria vermiculophylla)は、紅藻の1種で、潮間帯付近の岩場に生育する。単にオゴ、ウゴなどとも呼ばれる。食用として、刺身のつまなどに用いられる

このことだろう。
赤紙をもらってからは落ち着かなくなったということがありそのことを書いている。
生業が身につかなくなったという感じである。
ともかく招集命令はと急なものだったのである。それは万葉集の防人の歌と通じるものがある。防人の歌も何か急に命令が下ったのでにた心境があった。
ここで妻と子と別れを惜しむというのは姉とは違っていた。
しかし姉も母と別れて帰った時は母は死んでいたのである。
その別れが最後になったのが多かった。それは戦死したためにそうなった。
ただ姉の場合は戦地から帰ってみたら母が死んでいたのだから違っていた。
普通は戦場に出て行って帰らずに死んで帰ってこなかったのである。

赤紙の急ぎ受け取り戦場へ永久の別れとなるを知らずに

ベートベンの運命ではないが突然に運命的なことが起きる。今回の津浪でもそうだし自分が突然病気になったこともそうである。戦争に招集された人や戦争の経験した人達は共通したものをもっている。この人は満州に出征した。

万感を胸に車上の人となる釜山の駅よ会う人もあらば

釜山から日本が敷いた鉄道があり満州鉄道に通じていた。釜山とか満州に旅したからその跡を見てきた。朝鮮総督府も残っていた。今はなくなった。

地平の彼方 雲映えて
コーリュンの波 果てもなき
満目千里広茫の ここ北支邦の大平野

満州はどこまで行ってもトウモロコシ畑だった。こんなにトウモロコシを食べきれないと思った。満州はそして相当に寒い、北海道より寒い場所である。

銃音の絶えて静けき陣営に残月あわく霜に光れる

この短歌はいい、戦争中にこうした短歌を作れる余裕があった。でも無惨な戦争の場面も目撃している。ただ歌が作れということはまだ人間的な状態があった。
もし悲惨な人殺しばかりしていたらこんな余裕はないだろう。
そもそも戦地では常に命が脅かされているから短歌とか詩を作る余裕がなくなるのが普通だからである。

幼児に罪のなければと携帯のパンかみくだき吾はあたえぬ

時々こういう子供をあわれむ歌がでてくるのは一人の親であったからである。
日本人は残酷だというけど日本人もまた人の情があった。ただ戦争という異常事態だからこそ一部には残虐な行為があった。戦争そのものが殺し合いなのだからどうにもならないその中でもやはり人の情がありこの人は子供に情けをかけていたのである。

今はなき戦友の写真にありし日の厚き情のしのばるるかな

戦争体験者にとって戦友というのは肉親と同じように重いものだったのである。
生死をともにしているからそれは今ではありえない親交があった。
姉もその従軍看護婦の戦友のことを語りつづけていた。
それは島根の人であり手紙のやりとりをずっとしていた。ただ最後に年賀すら読めないしわからなくなり途絶えた。
その人のことは三陸会とかの記録に残っている。その女性は文学少女だったのである。
だから短歌も書いている。だからそのことも次に紹介する。
まだ生きているかもしれない、90歳にはなっているたろう。
戦争の記録が膨大である。ただこれも忘れられてゆく。
ただ家族に戦争経験者がいたし故郷でも戦争に出た人の記録があったのかとたまたま埋もれていて本を整理したら出てきたのである。
郷土史研究というとき資料を集める必要がまずある。図書館では研究しにくいのである。

戦争に青春費やすシンガポールそのこと忘れず姉は死ににき

もう一つ戦争で問題になるのは戦死者のことである。靖国問題である。

強く雄々しき桜花 海の果てに 散りたれど

君がみたまは海越えて今ふるさとにへ帰り来ぬ

戦友の遺骨を迎えしときと題にある。この感覚もまた戦争経験者として共通のものがあった。
そういう心情は何か理屈を越えたものでありなかなか理屈では否定できない重いもの菜である。
なぜなら人が死んでいるから軽々しく言えなくなるのである。


故郷に一つの生の重みかなその跡たどり今年も暮れぬ

人間はやはり死ぬと何か一庶民でも重みがでてくることがある。
生前はそう思わなくても死んでかちふりかえり思うのは違ってくる。
死んだ人は確かに客観的に見やすくなるから書きやすいということもある。
生きているときは定まっていないから書きにくいのである。
戦争というとき常に全国民のことを思うけど実際は個々の戦争のことが刻まれている。
そこを読まないとわからない、人間は全体として見るとかえってわからなくなる。
何百万人死んだと言っても全然ひびかないのである。
こうして一人の故郷の戦争経験をふりかえると訴えるものがでてくる。
生の重みがでてくるのも不思議である。
いづれにしろ人間はなんらか生の跡を残すのである。
死んでからその生をふりかえることは人間にとって大事である。
この人は一人の人間としてやとり何か生の重みを残して死んだのである。
人間は何かしら必ず生の重みを残してゆく。
ただそれに後の人が気づかないし忘れられるのが多いのである。



この歌集を出したの70歳の時であり1976年(昭和51年)
終戦が1945年であるから70歳のときから31年前である
39歳のとき出征した。
だから妻も子供いた。普通20代を想像しているが最後の方ではかなりの年の人も招集された。若い人がいなくなっていたのである。
全体的に短歌を読んだら落ち着いているし戦地でも子供のことを特に気にかけていた。
こういうことはあまりないかもしれない。
この人は相当な大人でありだから若い人とは違っていたのである。
戦争をある程度客観的にも見ていた。
客観的にならないとまず俳句でも短歌でも作れないからである。
何かものを書くでも客観的に見ないと書けないのである。


一般的に戦争から生き残り長生きした人は戦争のことでもその後のことも語られるが若くして死んだ人はその後忘れられた人か多い。
なぜなら本人が生きていれば自分の姉のように千回も同じことでも戦争のことを語りつづけるから後の人の印象として残るからである。
もう20代で死んだ人は名前すらわからなくなっている。
300百万人も死んでいるのだからとてももう記録できないのである。


タグ:戦争短歌
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2014年12月19日

冬の日 (横手から栃窪に大原の幽霊屋敷をたずねる)


冬の日

(横手から栃窪に大原の幽霊屋敷をたずねる)


栃窪村

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鴨百羽餌のありしも争わず

昨日(きぞ)の雪山陰に残り墓地のあり栃窪村や誰か眠らむ
栃窪に相馬藩士大谷氏の五輪塔や冬の日暮れぬ
栃窪に冬の日さして重なれる石やここにしいつきけるかな
昨日の雪山陰に残り磐を打つ流れのひびく朝の清しき
昨日の雪大原に残り川の土手竹にそよげる風の清しき
病院にともにありにし大原の人の空家や冬の日さしぬ
かつて棲む人のありしも冬日さし煉瓦の風呂に炬燵残りぬ

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大原の幽霊屋敷

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レンガの風呂

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横手に70歳の老人がいたので話した。70歳だと別に自分とたいして変わらなくなった。
何か今では80歳くらいにならないと老人という感覚がなくなる。
どういうわけかその人は栃窪村の大谷(おおがい)は飯館村で争いがありその功績で栃窪村に土地を報償としてもらって居ついたという。
確かに写真にとったように大谷氏というのは相馬藩士として墓地がある。そこは大谷氏の墓地なのである。


飯館村は山中郷としてあり相馬藩であった。伊達藩と境をなしているから伊達藩との争いがあった。それで前に飯樋で森林資源をめぐり一族の争いがあったことを書いた。
これは親戚同士で争った。伊達氏もかかわったというがそれより一族が別れて紛争になった。これで実際に人が死んでいるのだからそれなりに深刻なものがあった。
飯館村は森林資源が豊富だったのである。
横手には岩松氏系統の子孫が住んでいる。折笠氏などがそうだとかいう、その墓もある。最近わかったことは北郷は相馬氏が進出する前は岩松氏とかの支配領域であり相馬氏はあとから進出してきたのである。
深野(ふこうの)にも在地の勢力があり中世の館があり進出できず大原に入ったのである。大原は未開の原っぱでありそこから今度は小池の方に回った。
郷土史というとき本からだけではわからない、その土地の人のみが知っていることがかなりある。
大谷氏というと自分の家の身内が大谷氏と親交があったからなじみの姓である。
栃窪に大谷の姓が多い。
その人が言うには米なんかとっても金にならねえ、安いよと言っていた。
補償金もらっていたほうがいいなと言ったらそうだなと言っていた。
こういうことは前から何度も言われてきたのである。

大原の病院で知り合った農家の人もそうである。跡継ぎがいないと一人住んでいた。
息子はいても街に住んで父親の家には住んでいなかったのである。
栃窪からじさばらを通り大原に出たがここでも昨日降った雪が残っていた。
やはり山の方になると寒いから雪でも消えず残っている。
大原でいつも注目するのがあの幽霊屋敷のようになった空家である。
今日は中をのぞいてみた。そしたら煉瓦の風呂があった。
これは結構贅沢なものだったと思う。煉瓦で作った風呂はなかなか作れないだろう。
五右衛門風呂のようでも煉瓦になっていたのである。
だからこの家はそれなりに財力があったのかとなる。
とにかく何かのぞいてみると柱時計があり時がとまっている。
そこに炬燵があり壁は土壁だろう、なんとも不思議なの光景である。
なんかあそこは前も思っていたが幽霊が住み着いているように本当に思う。
あそこはそもそも空家になってから相当な年月が過ぎていると思う。
だから幽霊屋敷のようになってしまったのである。
空家とか廃村をたずねている人がいるがその廃村というときぶっと山奥の感じがする。
ここは別に山奥ではない、村自体が廃村になってはいない、第一市街も遠いと言っても
車て行けばそれほどではない、車がない時はかなり離れた場所だったのである。

この辺は田畑が田んぼが荒れ地になってしまったから余計に何かこうした空家が余計にふさわしい場所になっているというのも変だがそうである。
新田川の土手には竹林がつづいているがあれは竹は深く根付くから堤防代わりになっている。そういう話を南相馬市立病院で大原の人から聞いたのである。
その人は死んでしまい空家が残っている。

 

タグ:空家

2014年12月20日

スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由 (相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


スマトラ津浪でモーケン族が津浪から逃れられた理由


(相馬藩でもなぜ400年前の津浪が忘れられていたのと通じる)


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今回の津波は小高の駅を越えてきたのに驚いた


モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。

モーケンは「海の遊牧民」と呼ばれる海洋民族で海岸に住んだり船上生活をしていて、おもに漁業を営んでいる。
 海洋民族にとって潮の満ち干は頭に精密に入っているが、それ以上に潮が引いたのだ。
 先祖からの言い伝え通り津波が襲ってくる。そう直感し、ただちに245戸、約1200人の集落全員が村の高台に避難した。

モーケン族(Moken)とは、ほぼ一年中海上で過ごす海洋民族。モーケンやモーケン人とも呼ばれる。モーケンは、自称でビルマ語では、サロン族と呼ばれる。別名「海のジプシー」。
アンダマン海、タイ王国、ミャンマー、メルギー諸島(英語版)の近海に暮らしている。ミャンマーとタイの政府はモーケン族を文化的に同化させようと試みてきたが、その成果は限られたものである

主に、カバンと呼ばれる家船(えぶね)に住んでいて、見知らぬものと出会うことを恐れている。しかし最近はミャンマー政府の政策により、海岸で定住生活をさせられている者もある



海の遊牧民などというのはなじみがない、海だけを生活にしている人達である。でも狩猟もしている。ただ定着しないだけである。だから海というのは国境がないから広範囲に国を越えて海をわたりあるく人達だとなる。
砂漠の国でも国境はなくそういう人達が今でもいる。
砂漠とか草原は海とにている、馬であれラクダであれ平坦であり移動しやすい、そして国境は作りにくい、壁を作るにしてもできないからである。
だから今でもどうしても移民でも大陸は入りやすいのである。

そもそもなぜこれに注目したのか?学者が注目したのはやはり今回の地震と津浪でなぜ海岸沿いに住んでいた人達が津浪に対する警戒感もなく避難することもなく甚大な被害になったのかということが延々と語られているからである。
相馬藩でもたった一行700人溺死とした記録が残らないのはなぜかと探求してきたが良くわからない。
つまり津浪になぜこれほど無警戒になっていたのかということが解せないのである。
スマトラの被害も甚大だった、10万人とか死んだというから想像を絶する。
そのとき日本ではあそこでは津浪を経験していないから無警戒だったとか盛んに言われたのである。それがまもなく今度は日本で津浪で大被害にあった。
日本なら津浪の経験があるのだからこんな被害にならないとなるが実際は違っていた。

するとなぜこのモーケン族が津浪をさけることができたのかとなる。
そもそも津浪はそんなに度々こない、でもスマトラでも巨大な津浪が2500年の間に三回来ていたことがわかった。堆積物からわかったのである。
つまり今回だけではない前にも巨大な津浪が来ていたのである。
ただそれが忘れられていた、それでモーケン族だけが津浪をさけたのはなぜかとなった。
モーケン族がそんなに昔から一部族を形成して海をわたり生活していたのかとなる。
そんな古い人達なのかともなる。たいがい同化するのが普通だからである。
古代には日本にも隼人(はやと)などが九州にいたけど日本ではそうした異民族が蝦夷征服で終わっている。もう日本人しかいないし日本人に同化しない民族はいない。
モーケン族が小さい集まりであり部族だからそういうものが今までずっとつづいてきたのかとなる。
そういう一部族が存続していたというがどれだけ古いのかわからない。
ただその一部族が残ったということは何か民族の化石のようなものになるのか?
モーケン族は海を舞台に常に活動しているとなると海について詳しくなければ生きていけない。でもそもそもどのくらいの歴史があるのかとなるとわかりにくい。
ただ津浪についての知識をもっていた。だから大きな津浪は400年と2か500年とかのスパンで起こるからそういう津浪のことを伝えるということはそれだけ長くそうした部族が生き続け津浪について語りつづけねばならいないのである。
ただ海の遊牧民としての生活がつづいていたのだから海から離れなかったのだから津浪についてもその知識が伝えられたとなる。

相馬藩ではどうなっていたかというとちょうど津浪が起きた400年前は相馬氏が進出した時期であり戦国時代であり相馬地方はそうした地元でも混乱した状態になっていたのである。相馬氏は外来の氏族であり地元の勢力ではなかったのである。
だから海側に勢力をもっていたのは在地の勢力であり相馬氏ではなかったのである。
相馬氏が進出してきたときちょうど慶長の津浪が起きた。
それは相馬氏にとってはかえって海側の在地の勢力が津浪で大打撃を受けて勢力が衰退したのである。それは相馬氏にとって好都合だったともなる。
相馬氏進出の経路を考察してわかったことは小高に進出して原町は深野(ふこうの)は在地の勢力があり館とかの地名が残っている。それで大原に進出したのである。
ここは未開の原っぱになっていたからである。その大原から小池の方に進出した。
今の鹿島区は北郷となっていてもともとは岩松氏などが支配していた。
その家来の系統が横手にもいたりするからなかなか進出できなかったのである。
相馬市でも磯部館がありその後日立木の鬼越館に移りそこでも相馬氏と争いがあった。
伊達市と通じるとか海側の在地の勢力とは対抗していたのである。


海老村の藤金沢堤の傍らに塚あり、上元塚と名づく、六十六部回国上元なる者の塚という。
在昔村に匠人善次なる者あり、中村城天守造営の時日々中村にいたり造工たり。
深更に及び家に帰る。円光塚よりいず。転々として大いなること茶銚のごとし。
その光青色なり。また垣の如きもの路に横たわる。善次中刀をぬきこれを切って
通行す、この如きこと数回なりという。記者言う、狐狸の如きもの怪か。
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。宝蔵寺の僧これを聞き走り来りり七重の袈裟を雲中に投ず。
声ありて曰く、「おいか」と。
棺おく雲散じ空晴れてこれを葬るという。是の世に希有のことなり。
知らず「おいか」とは何の言なるか。
ある人いふう葬礼の諸品を海水に洗えばすなわちこの怪異ありと。
海老村に残るこの伝説で注目すべきは
その後善次病死して棺を出す。時に大原村二森の方より黒雲持ち上がり棺をつかんで
雲中に入る。


なぜ大原村が関係しているのかというとまさに大原は相馬氏が最初に原町で進出してきた場所だったからである。

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相馬氏古支配帳(文禄)

このように大原にはいくつも記録されていることでもわかる。
相馬氏と何ら海老村の在地の勢力が敵対して争ったことが伝説になった。
これはちょうど中村城の天守閣造営にかかわっていたし慶長津浪の時期と一致するから
何か津浪とも関係していたのかもしれない、他に津浪の伝承はない
あっても慶長津浪かどうか判定できないのである。

今回なぜ福島県から宮城県と津浪の被害がこれほど大きくなったのかその原因はモーケン族のように一つの部族であれ語り継ぐ歴史が失われたからかもしれない。
宮城県でも大きな被害があったのは海側に都市化して住宅化したところだった。
多賀城でもそうであり家が密集してしまっていてもうそこにも津浪があったということすらイメージできない場所になっていたのである。
貞観津浪の末の松山が伝承として残っていたがその前はもう住宅地で家が密集してそこが海だったかとイメージもできない場所になっていた。
そして学者が津浪がくると仙台の海側の住宅地に警告したら不動産屋が価格が下がるからそんなこと言うなと脅されたという。
まさにこのことが象徴しているように津浪を警戒するということはまずモーケン族のように海と切り離されて生活しているのだからそういうことを意識できないのである。


そもそも海岸の港でも海を常に意識して漁業で暮らしている人は少ない、ただ松川浦では津浪が来たら海に船を出せということでそれを実行して90パーセントは船に被害がなかったのである。だから海と生活しているというときそういう伝承は伝えられていた。
でも住宅地化したらそんなことは関係ない、海側は景色が良くて涼しいから気持ちいいとかなるだけである。
海側に住んでいるからといって今は漁業している人はその海側に住んでいる人でも少ないのである。海老村などではほとんど海とは関係なくなっていた。
そこに漁港があったとしてみんな漁師になっているわけてではないのである。
そしてモーケン族のように代々強固な一族として継続していない、相馬氏が入ってきていろいろな氏族が混じり合うようになるとそうした伝承も残りにくくなる。
相馬氏が支配者になれば相馬氏の都合のいい一番関心のあることだけが相馬藩政記でも記されるようになる。そこでは跡目争いのことなどが詳細に記されている。
そして誰が功績があったとか戦争で活躍して恩賞をもらったとかが記される。
その時津浪の被害が大きくてもかえって相馬氏にとって敵対勢力が衰退すれば都合が良かったとなるのである。今の時代の考え方とは違ってる。

小高の縄文海進時代の地図を見ればわかる。小高の駅を越えて城近くまで津浪がやってきた。縄文時代は小高の城があった浮舟城当たりまで海が迫っていたのである。
だからその縄文時代が再現されたから驚きだったのである。
もともと海だったところが本当に津浪で海になったのである。
もし縄文人がモーケン族のように残っていれば津浪のことを伝承されたかもしれない、もうそうした共同体も複合体になり失われていた。
つまり何らかの伝承でも伝説でもその土地に残るとしたらモーケン族のような強固な族として残っていないとそうした伝承は忘れられる。
モーケン族は今でも海を生活の糧として一団として残っていたから津浪の被害にあわずにすんだとなる。
昔からのものを何か残す伝えるにしても社会が変わってゆくと忘れられ伝えられなくなるのである。

posted by 老鶯 at 14:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年12月22日

東京駅開業100周年限定Suicaで混乱 販売中止に (百歳になる自分の母が生まれた年にもなっていた) 今年も暮れようとしている。


東京駅開業100周年限定Suicaで混乱 販売中止に


(百歳になる自分の母が生まれた年にもなっていた)
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1904(明治37)年2月:日露戦争がおこる。
1906(明治39)年11月:南満州鉄道株式会社ができる。
1912年(明治45年)石川啄木死去
1914 東京駅開業
1915(大正4年)母生まれるー2015年で100歳
1921年(大正10年)7月に現在の福島県南相馬市原町区高見町二丁目(北緯37度38分8.58秒
原町無線塔は、底面直径17.7m、突端直径1.18m、尖塔高約201m、鉄筋コンクリート製の電波塔で、1928年12月に依佐美送信所の鉄塔(250m)が完成するまでアジアで最も高い建築物であった。
1923(大正12)年9月:関東大震災がおこる(死者9万9000人、行方不明者4万3000人)。
1932(昭和7)年3月:満州国建国宣言が発表される。
1933(昭和8)年3月:国際連盟から脱退する。
1945(昭和20)年8月:日本が連合軍に無条件降伏し、天皇自ら終戦の詔勅を放送する。


最初鉄道で旅していたから鉄道に興味を持つようになった。
自分の母親が来年で2015年で百才になるとき東京駅が開業したのは次の年であり2カ月くらいだった。ほぼ東京駅が開業した年に生まれたのである。
明治とか大正時代で錯覚しているのは人口が今の半分だったということである。
6千万しかいないとしたら風景まで変わっているだろう。
その変化が大きかったのである。百年で人口が倍になるということがどういうことか
そういうことは日本の歴史でもなかったし世界でも人口がこんなに増えることはなかったのである。
鉄道の歴史は日本が全国に鉄道網を張りめぐらされた結果日本人という意識をもったというほど鉄道の影響は大きかったのである。
切符を買えば日本だったらどこにでも行けるということは徳川時代からすれば関所があり簡単に他国に行けない時代からの大きな変化だったのである。
年表を見ると石川啄木が死んだのは1912年でありそのあとに東京駅が開業している。
だから上野駅の短歌を残しているが東京駅についてはない。
東京駅は大正時代を象徴する建物だった。

1921年に原町無線塔が建っている、関東大震災のことをアメリカに伝えたというので有名である。これも時代を象徴する建築物だった。
昭和になると戦争準備の年のようになっていた。満州へすでに進出していたからである。
鉄道の歴史をたどればそれも日本の歴史でもあった。満州鉄道というのもそうである。
釜山からソウルまでの鉄道を敷いたのも日本だった。その駅舎も残っていた。
日本は明治から鉄道の技術が進んでいたのである。それは現代では新幹線となりリニアまで発展している。鉄道が国を造ったという側面があった。
だから「国鉄マン」というとき誇らしいものがあった。
また地方でも国鉄で働く人が多かったしその人たちの組合が社会党を作っていたのであるそれが国鉄民営化になったとき衰退した。社会党も消滅した。車社会となり鉄道は衰退した。高速道路の時代へ車社会へと移行した。

東京駅はやはり何か東京の中心という感覚になる。東京は地理がわかりにくいし何か目印となるものがないし文化財にしても見るものが少ないからあれだけの都市でも歴史としての重みが感じられないのである。江戸時代300年の歴史を象徴するものがない、だから江戸城を復活させようとする運動かあるのもわかる。
皇居となっているのは明治からであり新しいからである。
ただ東京駅から皇居に通じているから東京駅に降りると東京の中心にまたは日本の中心に来た感覚になる。
日本はやはり天皇がいる所が中心になる。
ただ江戸時代は京都と江戸があり江戸が中心だったのである。
その江戸城に皇居が作られたから何か違和感を感じる。京都のように御所があればふさわしいとなるが江戸城というとどうしても徳川幕府の城だとなるからである。

京都だったら天皇からイメージするものがいくらでもある。だから天皇の都だったという意識がいたるところから感じる。江戸時代はむしろ東照権現が家康が起こしたものとして江戸があり日光があった。天皇にまつわるものは江戸時代はないから歴史的な連続性が感じられないのである。
江戸城が再建されたら皇居を見下ろすようになり宮内庁が反対だというのもわかる。
そもそも明暦に消失していたのだから江戸のシンポル的存在ではなかったというのもわかる。だから江戸時代の侍でも町民で意識されていないものだった。
徳川時代だったら日本橋が江戸の日本の中心だったのである。そこも交通の要所であり東京駅とにていたのである。
建物だけが建ってもそれがシンボルとなるにはやはり民衆の中でそれが価値あるものとならないとシンボルにはならない。
ヨーロッパが人気があるのは歴史がローマ時代でも二千年前でも遺跡として残っているから昔を偲べる。駅舎がドーム型になっていて聖堂のような感覚になっているのもあった。すると何か建物から威厳を感じて人間にも威厳を与えている。
「アテネの学堂」のような絵がなぜできたのか納得した。
ヨーロッパは都市でも建築の中に組み入れられたものとして作られていた。
だから整然として計画的に街自体が建築のように作られているのである。
建築には私的なものではなく公共的な概念が強いのである。
だから市民共同体はヨーロッパにあっても日本にそいういう基盤がなかったのである。

ただ東京はあまりにもビジネスへ一辺倒であり文化的なものがないから魅力がない
京都だったら寺が多くて困るけどそこには歴史があり文化的なものに満ちているから違ってい。江戸時代300年の歴史を象徴するものがないのが淋しいのである。
東京駅はやはり明治からの日本を象徴するものだがこさもオランダの駅の真似であり独特のものではない、だから日本独特なものを見たいとなると城がいいとなるのである。
東京駅に煉瓦作りであるときやはり名詞大正とかまでは煉瓦作りの建物が多い、それが日本全国でシンボル的建物になっている。特に銀行に煉瓦作りの立派なものが残っている。それから南相馬市の大原の廃屋の外風呂は煉瓦作りだった。
だから煉瓦作りとなると何か明治大正の時代を象徴していた、あそこもそれだけ古いのかともなる。富岡の製糸工場も煉瓦作りであり郷愁を感じるのである。
煉瓦は木より火事に強いから日本に普及したとも言われる。
とにかく江戸城もすでに明暦時代に火事で消失したように木だと常に火事で燃えているからである。

道幅を広げて飛び火を防ぎ、特に銀座の表通りの建物だけは、延焼を防止するために、従来の木造建を廃して、総て煉瓦造りの英国風建築に改造する都市計画を立てます

東京駅黄金色の銀杏散りしきて皇居に向かふ威を正しつつ
東京駅煉瓦の古りぬ行き交える人のあまたや年のくれかな
東京駅一騒動や百年をすぎて迎えむ新しき年を

東京駅の短歌とか詩とかはインターネットに見つからない、相当あると思ったがない
本の中にはあるがどこにあるかわからないから困る。
東京にはすでに十年は行っていない、月日がたつのは早い。
今年も暮れようとしている。


タグ:東京駅

2014年12月23日

この世はみんなブラックじゃねえか? (回りも見ても自分もその一人だった)


この世はみんなブラックじゃねえか?


(回りも見ても自分もその一人だった)


みんなそうだよ。この世は超ブラックですから。でも逆説的なんだけど、それでも努力しないよりはしたほうがマシな方向に行くというのも事実です。

そして、大企業で働いたことがあるなら誰でも知っている。
一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。
http://tokunoriben.hatenablog.com/entry/2014/08/02/164000

プロレタリア革命といいつつ国民総奴隷化が現実だった共産主義なんだから
別におかしくもなんともないだろ
共産主義が労働者のためとか笑わせてくれるわ
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1383967037/



ブラックというときただ安い賃金でこき使われて奴隷のように働かせられる人のことを言っている。それもブラックなのだがそのブラックを指摘する側もブラックなのである
共産党がブラック会社を追求してやめさせるというとき共産党が一番ブラックじゃないかというときそうなのである。
幹部は貴族になって下で支える人は奴隷のような扱いしかない、たた同然で働かせられている。
結局共産主義とかカルト宗教団体なども最大のブラック団体である。
どっちもイデオロギーを基にしているからにている。
これらの団体が世界平和を達成するとか平等な社会にするというがそもそもその組織内で極端な階級制がしかれているのである。
宗教を看板にしていてもそのその内実は全く正反対の団体である。
共産主義でもカルト宗教団体でもそもそも人間の欲望を否定的できない
「おまえら、拝んだら金持ちになれるぞ、議員様にもなれるぞ、勲章も山ほどもらえるぞ、俺を見ろ(池田大作)」と見本を示しているのになぜ疑問を感じないのか?
結局みんなも池田大作のようになりたいということしかありえないのである。

そんな宗教やイデオロギーなどを掲げて運動している奴らほど危険なものこの世にいないそいつらがこの世を支配したらまさにこの世はブラックになり共産主義国家で大粛清殺戮になったようになる。カルト宗教団体でも同じである。
むしろ戦国時代や侍の時代が正直な時代だった。
つまり強いものが勝つのであり弱肉強食がこの世の現実だったのである。
侍は平和だとか宗教のようなきれいごとを言わない、人間の欲望を否定したりしないのである。だから敵の首を多くとったものに報酬を与えて出世させているのである。
これが現実であり正直なこの世のありさまだったのである。
だからイデオロギーとか宗教は偽装にしかすぎない、そこには最も俗悪な人間が跋扈しているのである。
信長はそれを見抜いていたから僧侶を敵とみなして殺戮したのである。
だから政治でもきれいごとを言う人は信じられない、政治家になるには大衆をだますことであり嘘をつかないではなれないと議員本人が言っている。

ブラックだというときこの世の中あらゆるものがブラックなのである。
個々人でもあの人はな腕のいい大工なのにまた別なブラックな仕事を手を出すのか?
あの人はなぜ事業に成功していたというけど借金で首が回らなくなっていた
なせこんなに生活保護者が多いのだろうか
何か個々人を問うてみても人間の生活はブラックなのである。
原発事故が起きていた浜通りは他より欲が深くブラック的だったかもしれない。
だからこそ小高でも東北電力で原発が作られすでに工事がはじまるところだったのであるだから大工さんは原発できれば景気が良くなると言っていた。
そして今の個々人を見るとアメリカのリーマンショックは住宅をローンで借りたり金もないのに買っていたから起きたのである。
それが何かそういう人が日本にも多い。
知っている人も立派な家を借金で建てたから金が欲しい欲しいとなっていたのである。
現代では身の丈にあった生活をしている人はまれなのである。
だから8人に一人は危ない金融機関から借金していることでもわかる。
最近はローンで買った家を老後になり払えなくなり手放すとか苦しむ人が増えているのもそのためである。

この世がブラックだというとき個々人でもそうだが社会そのものがブラックなのである。賃金を払わない飲食業の人がいたがあれは明らかなブラックだった。
賃金未払いというのも常にある。
それだけではない、そもそもブラックというとき例えば公務員というのも官僚も犯罪人だというときこれもブラックなのだ。
公務員になればたいして努力しなくても得なことが多いのである。
国民から税金をとりその莫大な税金を操作して天下り先とかを確保するために働いているそういう金が集まる操作するとるなとブラックになりやすい。
銀行も実際はブラックだというとき金が集まっているからである。
サラ金の資金源になっていたのは銀行だったことでもわかる。
そういう職業がこの世にはまた結構あるしなんらかブラックになんているのが多いのである。

一定の規模の会社になると、なぜかなーんにも仕事をしないのにただそこにいるってだけでべらぼーに高い給料をもらってる人がゴロゴロしてる。

こういう人も結構この世には多い。福祉事業もまたブラックなのである。もうけているのは経営者でありその下で介護士などが過酷な労働を強いられているし薄給である。福祉の名によってもうけいるのは幹部であり経営者であるからこれもカルト宗教団体とか他のイデオロギー団体とも組織ともにているのである。福祉の名のもとで搾取される人立ちかいるということである。
ぎりぎりで働かされ過労死したりする人達もいる。ブラック企業にこき使われている人達である。
そもそも会社というのもまたブラックなものがある。
グローバル経済でそうした会社が巨大化して国のようになりやりたいことをやる。
そのグローバル経済で低賃金で働かせられている人達が世界にはいる。
グローバル経済では必ずそうしたブラックな会社が他国のものを搾取するようにシステム的にできているのである。

要するにこの世の構図はブラックになることをいつの時代でもまねがれない、ただ戦国時代などはそれが正直に行われ殺し合いが正当化されていただけである。
現代ではブラックなものが法律で守られていたりするからまたわかりにくくなる。
そもそも法律自体が会社を罰することができないというのも何なのだろうとなる。
東電の社長や幹部は海外の子会社で優雅な暮らしをしていると言われのもそのためである会社そものがブラックなところがかなりある。それが法律で守られている。
資本主義自体がこれもブラックなのである。そのシステム自体がブラックである。
なぜなら資本を金でももっている人は金が金を生む、資本が資本を生むで金を持っているだけで働かなくても金が入るシステムなのである。

だから貧乏人はいくら働いても働いても豊かにはなれないシステムなのである。
なぜ今アメリカが景気が良くて一千万を投資して配当金が一月40万入っている人がいるという。それも実感として理解した。
株で今までもうけたことがないからそんなことありえないと思っていたのである。
でもグローバル経済になるとそういうことがありうる世界なのである。
金が金を生む、資本が資本を生むというのが資本主義なのである。
だから資本主義自体がブラックなシステムだともなる。
いくら汗水たらして働いても資本主義社会では豊かになれないのである。
結局自分も他人をブラックな奴だとかブラックな会社だとか批判しているけど
自分自身も資本主義社会のシステムで甘い汁を吸っているのだから自分自身もブラックだとなっていることに気づいた。
遺産とか土地持ちとか金融で生活している人はブラックである。

ただブラックについて考えるとフラックでない人がいるのか?
それはいることはいた、それは例えば職人だったら職人で農民だったら農民で自力で暮らしていた人達がそうだったかもしれない、でも今の農家がブラックでないかというとそうでもない、補助金を国からもらっていて減反してももらえるしなぜ田舎がわずかの田をもっていて生活がなりたつかといえば補助金かもらえるからだとなるとこれもブラックな面があるのが現代である。
フリーターとか派遣とか時給で暮らしている人は現代のフラック社会の奴隷であり犠牲者なのかもしれない。
ただ昔から働くことだけで豊かになるとは考えていなかった。

三年寝太朗の伝説はなまけものでも豊かになれる言い伝えである。
なまけていても何らかの才覚と知恵があってそれを機会に豊かになった。
金持ちの家に婿入りしたりしたらそうなる。
それも才覚であり三年寝ていても何か才覚があれば豊かになれる。
資本主義でもその才覚があれば金持ちになれるということじ通じている。
こつこつ働いてもなかなか金持ちになれないということは昔もあったのである。
だから資本主義社会はもともと勤勉からはじまったとしても今では消費が優先されているし働くことが馬鹿らしいということになっている。
働くの機械にさせろロボットにさせろともなっている
だから資本主義社会は何らかのきっかけで限界に達して世界恐慌となり終了すると言われている。それは資本主義自体がブラックになりすぎたからだろう。
共産主義もブラックでありでは何かいいのかとなると結局人間社会は決してブラックがなくならない、この世はそうできている、もしブラックでなかったらこの世が天国になっているからである、カルト宗教団体なども最悪のブラックな団体なのである。
だからこの世はサタンが支配するブラック社会なのは人間が生まれてから変わらなかったのである。

 
posted by 老鶯 at 11:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

原発事故は神からの罰(詩) (過去の貧しさも忘れることの危険)



原発事故は神からの罰(詩)


(過去の貧しさも忘れることの危険)


人間はいつしか過去を忘れる
過去にどんな暮らしをしていたか
その貧しさも忘れる
醤油も使わない
味噌も満足に使えない
そんな生活がありえるのか
醤油や味噌や塩や砂糖はあまり捨てる
しかしそれらは貴重なもの
その貧しさはもう想像すらできない
しかし確かにそうして生きてきた人達がいた
ランプの灯で過ごして時
その前は蝋燭である
燃料は山でとれる薪であり
一本一本大事に燃やしていたろう
なんでもあまり捨てるものはない
江戸時代は蝋燭の燃えかすを拾う職の人もいた
その時すべてがもったいないとなる
今電気は煌々と照らし夜中も明るい
エアコンやらすべて電気をふんだんに使う
もう百倍のエネルギーを使っているだろう
もっと電気をもっと便利にもっとうまいものを
もっといい新車をもっといい家をもっともっと
その欲望は限りなくとどめることができない
原子力発電もいいじゃないか
景気が良くなり金がもらえるんだよ
危険なことはない政府のオスミつきなんだよ
電気はいくらあってもたりないんだよ
電気がなければもう何もできない
金もいくらあってもたりないんだよ
この世の中金なんだよ
金があればなんでも手に入れられる
今の世の中金がなかったら誰も相手にしないよ
しかしその富がどこから来たのか
天からふってきたのか
労せずして富が得られるのか
紙幣をすって富が得られるのか
あらゆるものを買って捨てる生活
もったいないという言葉もすたれた
大量生産大量消費の生活
そんなことをしていて地球が許してくれのか
森すら消失して環境が破壊されている
そして人間は過去を忘れたとき災いが来る
災害は忘れたころにやってくる
人々は津浪のことを400年過ぎて忘れていた
そして大津浪がやってきて大被害にあった
人々は飢饉があったことなども忘れている
食料がなくなるなど考えない
しかし飢饉もまた食料不足も来るかもしれない
人々は戦争の悲惨さをいつしか忘れる
その時戦争をまたくりかえすかもしれない
人間は同じ不幸のカルマをくりかえす
過去を忘れ再びカルマが襲う
自然災害でも人災も過去にあったことがまた起こる
昔の貧しい時代がもどってくる
ものがたりない、ものはもうない
貧しい時代にもどりものを大切にするようになる
もう限りない欲望は充たせない
人間の限りない欲望は神から拒否される
原発事故で故郷が消失したように
それは神からの罰だった
限りない欲を求めて故郷に住めなくなった
限りなく人間の欲望を充たすことを神は許さない
原発事故は神が下した罰だった
現代の文明に下した罰だった
そして文明は崩壊して元の原野になった
そこには誰も住めない・・・・・・
放射能の毒は二万年消えない・・・・


人間と過去にあったことを忘れやすい、醤油や味噌も満足に使えないということが想像すらできない、そんなもの今は一番安い、ありあまっている、食料でも捨てている。
ただそういう昔の生活を忘れるとき今回のように原発事故か起きて故郷にも住めなくなるような罰を受けたのである。
個々人でもみんなブラックだというとき、なぜこんなにみんな欲望が強くなったのかということである。
欲望はきりがないのである。金でも常に増えることを願う、人間の心理として一億円あったとしてももっとふやしたい、増えると消費も増えるのである。
ただそうした消費社会がいいのかとなると疑問である。
それは明らかに自然に反しているし自然破壊にも通じているしそれが神から自然から復讐されるのである。

原発事故はやはりそうした人間の限りない欲望から生まれたのである。
それは個々人の欲望も原因になっていた。
一人一人を見てもなぜこんなに欲望が深いのかとなる。
多額の借金までして贅沢をしようとしているのが現代である。
昔の貧しい生活からするとその差が大きすぎるのである
それを象徴していたのが醤油や味噌を満足に使えない貧乏だったのである。
醤油をご飯にまぜて食べる話を聞いたけど醤油は贅沢でありご飯にまぜるだけでうまいものとなっていたのである。醤油ご飯は贅沢だった。
ご飯と梅干しの食生活であり味噌汁さえ毎日のようにはとれない
味噌が高いとなればそうなる。

戦後十年は卵も食えなかった。高度成長化したときまるで社会が変わってしまったのである。
人間は過去を忘れるときそれが再び災いとなって襲ってくる。
自然災害でも災害は忘れたころにやってくるとなる。
人間は過去を忘れやすいのである。
そしてその忘れた過去が再び再現される、カルマが再現される
津浪も忘れていたから襲ってきた、飢饉もないというけど食料不足がやってくるかもしれない、戦争だって人災だけどこれも忘れているとまた戦争が起きる

なぜなら人間は食料不足になって食料のありがたさを身にしみてしる
戦争があって平和のありがたさをしるからである。
人間の歴史上に起きたことがカルマのように再現される
原発事故もすでにギリシャ神話で予言されていた
プロメテウスが神から火を盗んだとき過酷な刑罰を受けたのである。
その火とは今では原子力だったのである。
現実にその刑罰を受けたのがこの辺だったとなる


 
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posted by 老鶯 at 22:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年12月24日

南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話 (家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)



南相馬市鹿島区の大内村で津浪の被害にあった人の話


(家もなくなり原発の補償金ももらえないので同情)



河原の土手で休んでいる人がいたので話しかけた。
その人は大内村の人で津浪の被害にあっていた。
大内村の不思議は道をはさんでわずかに高くなっている場所の家は
被害が少なく残っていた。
道を挟んで田んぼ側は被害が大きかった。
だからもともと古い家は道を挟んで高い所にあったのだろう
大内村はも古い村である。館とあるのは中世だろう。
古代にも船がさかのぼってきたという曽賀船の地名がある。
これも前が海だった時のことを伝えている
船が海からさかのぼってきたからその名がついた。
烏崎の船着も船が着いたからその名がついたけどそこが海だったということを意識することはむずかしかった。
ただ今回の津浪で本当に古代に海だったところが海になっていたのである。
大内に潮水が流れてきたとか言っていたけど真野川から何か小川をさかのぼって潮水が流れてきたことも考えられる、それなりに海の影響があったともなる

ただ大内村は道を挟んで高い所と低い所で明暗をくっきりと分けたのである。
その人が助かったのは家族でみんな石神の親戚に行っていたから助かったという。
でも家も何にもなくなったという。
大内の低い場所は海から離れているけど意外と被害が大きかった。
あそこのトラック運転手が津浪が来るのを見てトラックで必死になって逃げたという話を聞いた
あの位置だと津浪を見てまだ逃げられる場所にあった。
でも大内村だったらすぐに坂を上れば助かったのである。
トラックで逃げたということはトラックを流されないようにするためだったのだろう。


その人はすでに90才越えていたけど自転車にのりしっかりしている。
ただ小高の人が原発被害で避難して仮設に入っていることがわからない
今の事情は飲み込めない、自分の母親も99になって津浪や原発のことを言ってもわからないのとにている。
その人は困っているのは冠婚葬祭に出る着るものがなということだった。
田舎ではそういう場に出るのが多いからそう言っているのかもしれない
でも着るものもみんな流されて何にもないとか家も金が建てられないというのはあわれだと思った。
ただそれは冠婚葬祭用の礼服がないということであり着るものに困るということではないだろう。
真野川は大内川とも河口では言っていた。浪江で高瀬川が下流では請戸川になっていたのとにている。

往古鮭を漁するもの上流上栃窪村坂上神祇八竜権現を以て真野川の鎮守と崇め豊漁を祈るといふ。古より毎秋初鮭を捕へ公に献ず、袋村また当村に属して課業す
(鹿島町誌)

八竜権現は多い神である。水の神だから川の神にもなっていた。
川子の高台にもあり烏崎にもある。烏崎の八竜神社は津浪からぎりぎりで助かった。
だから何かあれは奇跡的に思えたのである。
そしてなぜあんな高い所にあの場所に建てたというのが問題になった。
津浪の前に建てられたのか後に建てられたのか追及したがわかりにくい。
烏崎は岩松氏が船で上陸したという伝説があり南北朝時代にもすでに寺があり遠藤氏が住んでいた。大内にも遠藤氏が多いからその系統が移り住んだ。
慶長津浪の前に八龍神社はあったと推測される。
袋村は消失したがもともと大内村の人が開拓して開いた村だった。


その人は津浪のとき石神の親戚に家族で行っていたということは運が良かったのだろう。そうでなければ家族の人も死んでいるいうこともあった。
ただ家は流されて何もなくなってしまった。金もないから家も建てられない、そして原発避難民のように補償金ももらえないから損だとなる。
ただそうした事情がのみこめないから別に小高の人をどうだこうだとは言わない
津浪の被害者もあり原発被害者も同じ仮設にいる。
だから鹿島では原発被害でも補償金がわずかだから同じ仮設に住んでも不満が大きい。
この人は着るものもなく家も建てられないから他の人より不遇だとなる。


その人は20才で甲種合格で中国に行ったという,20だと90まで生きていればまだ戦争のことを直接聞くことができるがやがて直接は聞けなくなるだろう。
戦争で生き残ったのもやはり運が良かったのか、無惨に死んだ人達のことを語っていた。今回も津浪の時に家族で親戚の所に行っていて助かったのである。
これも運か良かったからかとなる。
そのことは次に書いてみよう




posted by 老鶯 at 14:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話 (中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


南相馬市鹿島区大内村の中国で戦争を経験した人の話

 
(中国の捕虜になった人は残虐に殺された!)


その人は故郷にいるより日立製作所で働いていた。
だから戦争のときも日立製作所関係の技術担当で中国に出征した。
福岡から船で韓国の済州島により上海に上陸して南京まで進撃に加わった。
何かしらないが南京攻撃では中国側にアメリカの武器をもっていて
それで日本兵が多数死んだという
その時アメリカがすでに中国に武器を与えて応援していた
南京は中国の首都であり陥落したことが中国を支配下にするということでもあった。

実際に負け続けた後、蒋介石は”米国が中国を支援しないと共産主義化する”とルーズベルトを脅し、無償武器援助を勝ち取った。(『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』加藤陽子著の書評)

蒋介石軍に武器援助をしていた。アメリカは中国に肩入れしていた。
 

その人は飛行機の技術担当でありそれで従軍した。
特攻隊は片道の油しかなくアメリカの空母に体当たりする前にほとんど一斉射撃をあびて何ら戦果もなく死ぬだけだったと言っていた。
つまり無駄死にだったとその人は盛んに言っていた。
油は帰りの油がないのだから帰ることができない
だから死ぬほかない、成果があがるもあがらないも死ぬために出撃したのである。

腕をあげるための訓練用ガソリンも枯渇した。
航空潤滑油も枯渇し航空機も粗悪品だらけとなり、概ね25%程度(4機に1機)は機器が故障し本来の目的を達し得ないまでになった。
特攻機も多くエンジン不調でひき換えすか、不時着している(25%程度)。 これも潤滑油にその問題の要因があったような気がしている。当然日本国内と熱帯で同一の潤滑油は使えない
http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/yamato/tokkou/tokkou_1.htm

日本は燃料がない、肝心の飛行機でもう飛ばす燃料がなくなっていたのである。
その人の話で一番興味深かったのが捕虜になったときの話である。
南京虐殺のことを盛んに言われるが捕虜になった人はさらに中国人に虐殺されていたのである。

首を木の枠で固定して吊るし餓死するまでそのまま放置するなど、中国兵は様々な拷問方法で捕虜を虐待殺戮したとシメンさんの父は彼にそう言ったという
http://redfox2667.blog111.fc2.com/blog-entry-80.html


この写真を見たらショックである。いかに戦争がむごたらしいものになるか、それは戦国時代と同じである。中国人の復讐も凄まじいものがあったのだ。
こんなところで捕虜になったら生きた心地がなくなっていたろう。
その人の話では食べるものなく脱出して食べ物を近辺の農家に盗みに行ったという、
ところがそれを中国人が知っていて日本兵の捕虜を狙い撃ちして殺したという。
これも悲惨な話しである。中国人もいかに残虐だったかということである。
戦争はこういうものだというけど欧米の捕虜になったらここまではならない。
一応捕虜を扱うルールが戦争のルールがあったといえばあったからである。
中国にはそれがなかったのである。

その人が言うにはロシアにシベリアに連れていかれなくて良かったと言っていた。
シベリアの捕虜は最悪だったのである。
戦争で日本だけが残虐だったのではない、アメリカも原子爆弾を落としたように
中国も捕虜を残虐に殺したようにロシアはさらに日本と戦わないのに被害ものないのにシベリアに抑留して殺したのである。
戦争というと日本の残虐性ばかりとりあげられるがどっちもどっちなのである。
戦争というのはもう人間を人間でなくならせるから怖いのである
もう人間の普通の感覚常識すらなくなる。
食べ物がないということは一番苦しい、殺されると思っても脱出して食料を得たいとなる戦地ではもみ殻を食べていたというし兵士は何を食べていたのかわからない。

戦争もだんだん忘れられる。でもまだ90才の人が生きているから20才で戦争に行った人の話が聞ける。これももうやがて直接戦争のことが聞けなくなる。
その時また戦争に対する見方も変わってくる。
やっぱり戦争というのは喧嘩両成敗であり日本だけが悪いというのは欧米とか中国とかロシアからおしつけられた見方なのである。
もちろん日本側も戦争だから人殺すことが戦争なのだから残虐なことはあった。
では原爆を落としたアメリカが残虐ではないのか?
中国の日本兵に対する残虐な殺し方はあまり伝えられないのである。
いづれにしろ戦争の暗黒面をさらしだしたらきりがなく反吐がでるだろう。
だからあんまりそうした暗黒面を見たくないということはあるがそれだと戦争を美化するという危険性が出てくるのである。
だから現実を見るということが歴史では大事なのである。
戦争の現実は眼をおおいたくなるような残虐なものだったのである。
津浪の被害もそうだったが戦争もまたあまりにも残虐なものだった。
ただそれらに眼をそらし忘れるということもまた後のかためにならならない。
津波の被害もあまりにも残酷だったので語りたくないとして伝わらなかったとも言われる人間はあまりに残虐なことは語りたくないし戦争で人を殺したことなど語る人はいないだろう。
ただそういうことを隠しておおってしまってしまうと戦争を美化する人がでてくる。
いづれにしろ戦争のことを直接聞ける人はもういなくなる。
その時そうした戦争を美化することがありまた戦争になるということがあるから怖いのである。

タグ:日本兵捕虜
posted by 老鶯 at 15:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2014年12月25日

今年も終わる2014年の南相馬市の現状 (南相馬市は補償金問題で分断して心も荒廃)



今年も終わる2014年の南相馬市の現状


(南相馬市は補償金問題で分断して心も荒廃)



南相馬の仮設住宅で女性死亡

 南相馬市鹿島区の仮設住宅で、東京電力福島第一原発事故に伴い小高区から避難している50代女性が遺体で見つかったことが14日、分かった。南相馬署は自殺とみて調べている。
 関係者によると、女性は13日朝に遺体で発見された。一人暮らしだったという。
 市によると、女性宅には市が委託した生活支援相談員や絆職員らが交代でほぼ毎日見回っていたという。

東京電力福島第1原発事故で避難区域となっている福島県南相馬市小高区の住民344人が避難生活を余儀なくされたとして、東京電力に総額60億円を超える損害賠償を求める訴訟を19日、東京地裁に起こした。
 原告側弁護団によると、原告1人につき、将来避難指示が解除されて3年が経過するまでの月額20万円と、ふるさとを失ったことに対する慰謝料1000万円を求めてい
 
http://www.sankei.com/smp/affairs/news/141219/afr1412190040-s.html (2014-12月)

2014年10月 南相馬市 交通事故多発
昨日、原町区仲町で女子高校生がダンプにはねられ命を落とした。
http://www.police.pref.fukushima.jp/oshirase/kikaku/jiko_minamisouma_141014_066.htm

避難区域外で作付けする農家の戸数は76戸と、昨年の146戸から半減した。市は「賠償金の有無が農家の意欲をそいでしまった可能性がある
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/140511/news1.html

熊井さんは「南相馬市の避難指示解除準備区域の場合、暫定的に支払われる2年分(の賠償金)だけで先は見えない。移転費用の全額賠償をしてもらいたいのが本音だが、浪江町のように区域の別に限らず6年分を一括して支払う配慮がほしい」と話した。(小沢地区)
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/130904/news3.html

郡山市の高校に通う長男が同級生から「賠償金もらっているんだろ」とからかわれたと聞いた。「帰れないなら、市民になるしかない」と割り切り、新居への入居と同時に同市に住民票を移した
http://www.minyu-net.com/osusume/daisinsai/serial/fukkou-kage/130920/news.html

被災地域の自治体職員の心の病が深刻になっているらしい
新聞などで読んではいたけど、このままでは業務に差し支えかねないとか何とか

ここ小高区も、20から30%の人が帰らないと考えているそうだ
特に郡部より、線量の低い街場の人が多いらしい

近所のスーパーの募集も、年齢の上限が70歳まで引き上げられた
70過ぎても働けるって、なんて老人にやさしいんだろうって話じゃない、
働く人がいない、のではなく働かない人が多いんだという

この頃原町では立派な車がたくさん走っている
外車なんか、医者かヤーサンの乗り物だと思っていたが、、、
Lのマークの車とか他にも高そうな車
相馬郡医師会(此処ら辺のお医者さん)の平均年齢が、
65歳を超えたそうだ、他所がどう何だか知らないが、
南相馬市は、超高齢化にまっしぐらだが、


ここのプログは地元で詳しい
http://musentou2.blog.fc2.com/



今年をふりかえると南相馬市はやはり津波原発事故の混乱状態が継続している。
むしろ深刻になってきた面もある。
一人暮らしの女性が自殺したというのも仮設暮らしに疲れたのか避難生活が長引くとそういう人もでてくる。
女高生がダンプにひかれて死んだというのもこの辺はともかく毎日ダンプが多い。
鹿島区のローソンでもダンプが横転した。昨日も鹿島区で交通事故があった。
これもダンプが多いから事故になりやすいのである。
南相馬市の最大の課題は補償金で分断されて精神的に荒廃してしまっていることである。農家でも米を作っても補償金をもらっていた方が得だとか高齢化もあり米を作りたくないとなる。
前々から米を作っても金にならないとか言ってやりたくない人が多かった。
でも円安になると日本人はいい米は輸出して米さえ食べられなくなるとか週刊誌に書いてあった。
後進国では輸出するために養殖したエビなどは食べていないのである。

だから何でも買っていたら高くつく、前だったら米とか野菜は自給していて食べ物には困らないとなっていた。
いくら補償金をもらっていてもいつまでももらえないし金はいつ紙屑になるかわからない、その恐怖が常にある。
小高の人はまた補償金の増額を要求した。ところがこれも南相馬市内部では特に鹿島区では反発が大きくなるのだ。
まだ補償金もらいたいのか、鹿島区じゃたいしてもらえないで終わっているのにとなる。要するに南相馬市全体で補償金の増額を要求すらならいいのである。
なぜって南相馬市は小高も原町も鹿島も合併して一つになったのだ。
それが前のように補償金でばらばらになってしまったのである。
鹿島区では小高の人に反発が大きい、小高の人は鹿島区に一番多く住んでいるからそうなる。
小高の人達は若い人が帰らないとしたらあとは老人が帰り残るだけになる。
そんなところにすでに老人も帰りたくない、特にその気力もなくなってくるからそうなるでは土地を買って新しく家を建てるとなると原町区の小沢の人のように金がないとなる。鹿島区の大内の人も90才で金がないから家が建てられないと言っていた。
でももうその年になったら新しい家は建てる必要もない、あと何年生きているかわからないからだ。そういう人はかえって施設のようなものに入った方がいい。
相馬市では津波の被害にあった一人暮らしの老人が入れ施設を作った。
一軒の家を作るのはもうあきらめるほかない。

でも新しい家が建ったのを見ると庭の松に雪をつみ海の方から朝日が昇り日がさしてくるそれが新しい生活のはじまりだと感じる。
だからどうしても新しい家を建てた人はうらやましいとなるだろう。
それでも新しい家を建てられる人は恵まれているし少ないだろう。
百軒以上は軽く鹿島区でも建った。これからも建つが建てられない人もいる。

役所の人も様々な問題に対処しなければならないから疲れるというのはわかる。
問題が山積みであり解決方法が簡単に見つからないのである。
小高に帰れというとき水の問題があったのである。
津島の方から水道水を使っていたとなるとその水が大きな問題になる。
そして街場の人は帰らないと言う人が多く農村部の人は帰りたいというのはわかる。
なぜなら農村部は代々土地をもって土地を耕し利用して生きて来たから愛着が深いのである。
街場の人は自分でもそうだが二代目であり農家じゃないから土地に愛着がまだないのである。だから離れやすいということは言えるのかもしれない。

南相馬市は一体これからどうなるのか?
復興事業で除染などで外部からの人がまだ多い。
それで活気あるなと見ている人がいた、それは地元の人でないし錯覚していたのである。地元の人は働かずパチンコ通いだというのも矛盾しているのだ。
働かないで心も荒廃しているのである。
補償金があるから働かなくてもいいということになるが人間は金のためにだけに働いているとは限らないからだ。
働くことには様々な意味があるからそうなる。
南相馬市であれ原発事故周辺の問題は簡単には解決しない。
復興するといっても簡単ではない

何か前々から思っていたのだけど津波や原発事故だけが原因ではない
高齢化とか地方の衰退とかそういったものが津波や原発事故で極端化した
衰退する市町村に最後の一撃を与えたという感じになっている。
もし高度成長とか人口増大の昇り調子の時代だったらこうはならなかったかもしれない
戦争後焼け野原になったのに復興したことは奇跡とされた
それはそのとき人口が増大していたのである。
今は人口が減退して高齢化になっいる。
だからスーパーでも70才まで働く人を募集しているというが働く人手がいないのである。鹿島区のスーパーでは退職した60代の人が働いていた。
簡単な掃除だけど働いていた。必ずしも金銭のためではないらしい。
相馬市の人だからまた南相馬市とは事情が違っている。

いづれにしろ介護でもそうだし医者も高齢化だとかこの辺の環境は悪くなる。
結局何か暗い感じになるし未来が感じられない場所になっている
ただこれまで書いてきたように原発事故周辺は何か現代文明の負の部分が集約的に現れた場所なのである。
だから何か哲学的になり社会運動家を養成するとかいろいろなことを考えさせられる政治的場所にもなってしまった。
だから他とは違った文明を見直すという場を目ざすという場を指向する。
それが何なのか?再生エネルギーとかいろいろあるがそれだけではない
思想的な面で考え方を変えるという場所にもなる。
だからといって山尾三省きようなパンも食えない場所になったら誰も住まないのである。若い人は広域社会になっているから今でも帰らないといっているから本当そんなふうになったら修道士になってしまうし誰も住まなくなる。
でもそうは言ってそういうことを強いられている場所だということもあるのだ。
ここは他とは違ったことを原発事故で指向せざるをえないのである。

自分のことを今年をふりえってみるとこの七年間の介護人生では一番平穏だった。
一回はもめたがまた回復した。
体も楽だし介護していてもさほど問題はなかったから楽だった。
ただ家事に追われることは変わっていない、だから今年は仙台に一回しか行っていない
こんなことはなかったがバスだと行きにくいし何かと用事がかならずあって行けないのである。
ともかく自分の一年は今年は一番平穏だった。
来年はどうなるのか?
また家事に追われあと創作したものをまとめる作業がつづく
本作りというか自家本作りがある。パソコンでできるが全部自分でやるのはめんどうである。
プログにしたって膨大なものを書いているから整理する必要があるのだ。
この整理するのが家のことでも創作のことでもめんどうなのである。





 
posted by 老鶯 at 17:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年12月26日

寒さ(今年も終わるー人間に安住の地はない・・・)


寒さ(今年も終わるー人間に安住の地はない・・・)


木にしみる寒さやここに耐えて立つ
冬の雁飛び立つ朝や陽の昇る
寒雀群れて騒ぐや里明けぬ
餌あれや百羽の鴨を養いぬ
大き家をかたずけきれぬ年の暮
90過ぎて家もなくなる年の暮

人間は長く住んでいるとその場所に石や木のようになる。
若いときはそういう感覚がなかった。
むしろ故郷にはいたくなかった。
故郷だからいいとは限らないからだ。
ただ人間も生物の一種だからその土地に根ずき石や木のように最後なってゆく
それは理屈ではない、要するに人間も機械ではないからそうなってゆく
だから都会だとどういうふうな感覚になるのか?
そこに土地も土も石も樹も山もないからどうなるのか?
田舎に住みたいというというときやはり人間も生物だからそうなる。
ビルの谷間で死んでゆきたいとは思わない
最後にそんな風景を見て死ぬというのも嫌である。
海でもいい山でもいい森でもいい
大地でもいい、自然につつまれて死にたいとなる

一本の木でもそこに長く根付き立っていた
やがてそこで朽ちてゆく
それは人間が共感するのは同じ生物だからである。
石は朽ちてゆかないけど木は生きて朽ちてゆくから
人間と通じているのである。

動物を見ていて不思議なのは雀でも烏でも鴨でも相当な数がやはり生きている。
餌がなんなのだろうとなる。
鴨の数は今は多い、あれだけの数を養うものが川などにあるのかとなる
猫は人間が餌をやらないと生きていけない
鳥なんかは何か食べるものがある

毎日掃除してもかたづけてもかたづけきれない、それだけ家が広すぎるのである。
家が広いと掃除するだけで手間になる。
今日は母が百才になるので市役所の人が聞きにきた。
長生きの秘訣は何ですか?
「無理をしないことです」
と答えたからまだ正常な意識はもっている
母は無理は確かにしていない、人生は過酷だったけどそもそも細いから無理できないのである。

無理に耐えられない、力仕事もできないむしろ体が弱い
でも長生きしたのは何か無理をしない、省エネタイプだったからかもしれない
男が長生きしないのはかなり重労働を強いられたり体を酷使するからかもしれない
ほとんど外には出ず家の中で過ごしたのである。
ただ家の中にいても危険はある。
洪水になり炬燵の穴に落ちて大怪我をしたし
自分でも外から入ってきた人が強盗のような人だったとか
まず人間はどんなに安全を図っても危険からまねがれないのである。

この世に完全な安全などない、田舎でもそれは同じである。
津波でもそうだった。突然これだけ家に危険があることを思い知らされたのである。
家が安全なのようでも家すら安全ではない
昔なら大火事で家は簡単に焼失した
要するにこの世は無常であり安全などどこにもない
常に変化にさらされ同じであることはない
第一町でも村でもなくなってしまうことなど考えもしなかったからである。
この世に本当に安住の地はない、これほどの変化と無常を経験したら誰でも思うだろう。90才過ぎて津波で安住の地の家も奪われてしまった。
つくづく人生は無常であり過酷である。

 
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