2014年11月21日

アメリカは景気がいいの? (グローバル経済は理解できない、でも今は金がアメリカに流れている)


アメリカは景気がいいの?


(グローバル経済は理解できない、でも今は金がアメリカに流れている)


170億円って、一生使い切れないですよね。

cis:いや、そんなことはないですよ。去年の生活費は、家賃など3000万円、みんなで飲食1億1000万円、個別で飲食1億3000万円、夜の飲み代1000万、ワイン購入5000万円、その他雑費5000万円で、だいたい4億円弱でした。使おうと思ったら使えるものです(笑)。ただ、稼げてない今年は、家賃など3000万円、みんなで飲食4500万円、個別飲食3000万円、ワイン購入1000万円、夜の飲み代1000万円、その他雑費3000万円で、1億5000万円くらいに抑えようとしてます。資産や収入に対して僕は一生稼ぎがなくても暮らせるペースでしか使ってないから、すごく倹約してるほうですね(笑)。これで200歳まで生きても大丈夫ですよ!


こんな生活している人が現代にいることが信じられないだろう。こういう人は田舎にはいない、いても住んでいられないだろう。田舎は何か何でも平等にしようとする。
目立つことができない、確かに金持ちはいても金がないようにもふるまわないといけないこんな桁外れの金持ちなどは住めない、よってたかってきて金くれとなって殺されるかもしれない。
田舎では一億もっていたら大金持ちだろう。公務員とかはそういう人がいてもこれだけの金を使う人は想像すらできないだろう。その差があまりにも大きすぎるからだ。
最低の人は毎日千円貸した返さないとかでもめている。東京だってそういう人が結構いるだろう。そうするとこれは何なのだとなる。


そもそも株は何なのだとなる。そういう自分も株に興味をもったのは株をもっていたからである。するとどうしても株に興味がててくるしどうして株があがるのだろとか下がるのだろうとか考える。それも自分に直接影響するから考える。
世界情勢に興味をもつのは実に利己的なものだなと思った。
自分がもうかるから世界情勢を見て株が揚がるうになるといいなと思う。
それは平和を願うのとは違う、どこかで戦争があったり災害があると株が日本でも外国でも下がるから自分が困るからそう思うようになった。
こういうことはグスローバルで普通に起きている。
中国と戦争になったら日本でも中国でも大損害になる時代である。
鎖国時代とは違うからどっちにとっても相互に経済で結びついているからそう思うようになる。だからすぐに戦争になりにくいのである。

そしてなぜ今アメリカが景気が良くなって株が上がっているのか?
ええ、アメリカってそんなに景気がいいのかというのがわからない。
なぜならたリーマンショックとかなったりしてアメリカが世界恐慌の引き金を引いたようなときがあったのは最近でもあるからだ。
だから今はこんなに景気がいいのか?それも変だ、わからないとなる。
何かまた級に下落するのかという不安がある。
日本の株も無理して上げているのを感じるからアベノミックスは失敗するだろう。
ではアメリカはどうなのだろうとなる。

アメリカに依存していればアメリカが傾いたら自分も一緒にやられます。
まして、アメリカの選挙権を持っていないのですから、自分の会社の運命はアメリカ人任せと言うことです。


こういうこともそうなのか?経済でもグローバル化するとそうした判断もなかなかできない。でもアメリカが景気がよければアメリカに物が売れとシチズンでも時計を売るためにアメリカにまた店をもち売ろうとする。アメリカという巨大市場があって日本の製品も売れて日本は高度成長できたのである。戦争では負けたが経済では負けないとかなっていたそれがバブルがはじけて日本はその誇りも高度成長も終わったのである。
明治時代から内村鑑三などはアメリカに留学したがアメリカは金しかない、金がすべてだとアメリカを嫌って日本に帰ってきた。アメリカをまねるべきではないと言っていた。
戦争に負けてアメリカ一辺倒になったとき日本も金だけを求めるものとなって日本人のもっていたモラルもなにもなくなった。内村鑑三の時代はまだ武士道などがあった。
ただその武士道というのも江戸時代の継続としてあったものであり武士道がなにかなど今になるとわかりえようがないものである。
明治時代は江戸時代の継続があったから日本文化の継続もあり魅力のある時代であった。漢詩が一番盛んになったのが明治時代だったということでもわかる。
明治時代は江戸時代三百年で培われていたものが生き続けていて日本が新しく作られていたのである。

アメリカに依存していれば・・・というのは何も経済だけではない、モラルとか文化の面でも日本はアメリカとともに腐敗して豊かになってもアメリカのよう人心は乱れる。
だからアメリカで起きることが日本で起きるというのもそのためである。
日本ではそんなことが起こらないよなとかいうことが実際は起きている。
田舎では東京のような残酷な事件は起きないよなというのも今はない。
田舎も東京であれ大都会と同じ信じられない残酷な事件が起きている。

いづれにしろ170億を株で得てそれを使う人がいるのだから信じられない。家賃が3000万の所があるのかというのも東京にあるのこと自体驚きである。普通はワンルームマンションとかに住んでいる貧乏人のことばかり紹介されているからそうなる。
特別金持ちの人はほとんど紹介ささないからみんな貧乏だなと比べて安心することもあるだからこういう人がいること自体何なのだろうとなる。
汗水垂らしてもわずかの収入しか得られない人が無数にいるからである。
テレビでも紹介されるのはそういう人ばかりである。


そもそも金が何なのかということ自体がわからない、巨額の金になると実感できないのである。ただ金は使っているとき実感できる。お手伝いさんに一時間ばかり手伝ってもらって二千円とか三千円とか払ったとき毎日払うから高いなと思った。
ところが百万とかの金を計算すると実感できないのである。一年で百万とか計算すると実感できなくなる。もちろん自分の生活はまず貧乏人の生活だったからそうなる。
貧乏人は金持ちになっても貧乏性からぬけられないのである。
人間はあることが習慣化するとぬけられないことが怖いのである。
金があって浪費癖がある人もそうでありそういう生活が習慣化したらぬけられない、麻薬でも酒でも何でも習慣化すると改めることがむずかしくなるのだ。


とにかくグローバル化経済というのは人間の実感することからかけ離れている。だから個人的には判断もなにもできない、そして突然リーマンショックのようなことが起きてくるから怖い。そもそも紙幣をすったり金をただ右から左と流して景気が良くなったり豊かにはならない。新しい資源が発見されたり何か景気が良くなる具体的なものが生まれない限り豊かにならない。
だからアベノミックスは疑問になるのだ。
ただ金は使ってみないとその金が何なのかわからないのである。
ちょっと家のことを手伝ってもらうのも金を払うことだからそこから金を具体的に実感する。今は自分の家を情報基地にしようとして金を使っている。
それは車を買うより安くできる。
そして発信するために本などは金を気にしないで買って参考にしている。
百億円使ってもいいよというとき何に使うのか問題になる。
家に使わないとしたら何に使いそれがみんなのためになるのかとなる。
つぐつぐこんな人にこんな巨額の金か入ること自体間違っている。
何かそこで生み出すものがあればいいが何も生み出さない、まさに消費するだけであり生産しないからである。
結局人間は何かを提供するかがその人の価値を決める。株でこれだけもうけても何も提供しないのである。金はただ消尽されるだけだとなる。



posted by 老鶯 at 23:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

冬薔薇 (写生がそのまま深い趣を現しているー俳句はやっぱり写生が基本)



冬薔薇

(写生がそのまま深い趣を現しているー俳句はやっぱり写生が基本)


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冬薔薇我のみ見てや散りにけり
冬薔薇三輪ほどが散りしまま
冬薔薇しきりに風に吹かれをり
冬薔薇白き清楚の聖衣かな
冬の空大地の広く石一つ
我が家の二階の広く鳶の舞ふ
墓の前今日もまた通り冬椿
冬日さし鬼風の碑の隣かな
見張り塔シエナの裏道冬の暮

俳句は写生だというとき、薔薇が咲いているのを毎日通るから見ている。
白い薔薇か咲いているのは空家なのである。
そこはすでに十年くらい空家なのだけど荒れた感じはしない
誰かが戻ってきて手入れしているのだろう。
それにしてもいつまで空家のままなのだろうかとなる。
今は家が不足しているからこの辺では売れるはずだからである。

自分のみがみて冬薔薇は散りその薔薇が散ったまま残っていた。
見るというときsee、look、watchがあるがwatchingが写生である。
定点観察で見続けるのが写生である。
冬薔薇が咲いている、何輪か咲いている、一輪散った、二輪散った・・
その散った花がそっくり散ったままだったとかな見続けるのが写生である。
それはなんでもないのだけど何か深いものが写生から生まれているのである。
だから写生そのものが俳句芸術の基本になる。

自分は何か人とつきあうより何もない所に石のように黙っているのが性分として合っている。それは母の性格とにている。人といるだけで疲れるということがある。
だから付き合いがないのはそういう性分なのである。
母も何か人付き合いが苦手だしじっとしているのか向いている性格である。
だからそれは何か他から見ると人も寄りつけないというふうに見える。
ただ冷たいというのではなくそういう性分なのである。


鬼風の碑が隣にあるということが不思議である。
会ってもいないしどんな人かもわからないが何か近くそういう人がいてその碑があることが何かいるような感じになるから不思議である。
ここにもこんな人いたのか、自分ともにているなと思うから不思議である。
それは俳句を残したことや江戸時代に全国を旅していたということで親近感を覚える。
ただこの人は恵まれていたというのも自分とにている。
自分より恵まれていたと思う。江戸時代には俳句を作るとか旅するだけで相当に恵まれていた。

詩人がいたとしても戦前でもみんな貧乏であり生活に追われ悲惨なものとして終わっている。詩を書いても金にはならないからである。
その恵まれていたということはこの人に関しては貧乏で苦しんだとか語る必要はないし
お前は恵まれているとかも言われないともなる。
だからこの人の墓に冬の日がさしているときそこから不遇だったことは語られない。
一茶などとも全然違っていた。
ただそんな恵まれていた人が東北の辺鄙な村に町にいたということが不思議なのである。それでも商人の家なら江戸時代でもこんな片田舎でも恵まれていた人がいたということである。
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