2014年11月18日

人間は何に労力を費やしたかで見る文明論 (超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)


人間は何に労力を費やしたかで見る文明論


(超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)

●技術から見る歴史はわかりやすい

歴史の見方はいろいろある。一つの見方などない。だからそれぞれの分野で異なった見方をしている。人間は道具を作るものであるとか言うのも一面の見方である。それは技術の発展が深く関係しているから理系的に科学的なものとして見る。
例えば弥生時代から古墳時代とか奈良時代でもノコギリが確かにあったのだが一般には使用されていない。
石斧とかは縄文時代からあるし石刀とかもあるがノコギリがなかった。
ノコギリがないということは同じ寸法に木が切れないのだから家も建てられない。
奈良時代は法隆寺とか五重の塔をすでに建てていたのだからノコギリも使用したていた。ただ一般的には使用されていなかった。ノコギリが普及したのはかなり後の時代だった。そういう技術的な面から歴史を見るのも歴史の大きな見方である。
中世で城壁が無用となったのは大砲が発明されたとかが原因であった。
信長が鉄砲を利用して天下を制したとか技術的側面から歴史を見るのは何かわかりやすい一方で歴史は複雑であり様々な要素がからみあっていて歴史とは何かは一つの答えはない
歴史はその人の専門家でもみんな見方が違う、それぞれの個々人の関心から歴史を見るとしたら無数の見方があることになる。
歴史は絶対に決まった見方はない、マルクス主義がもてはされたのは経済を階級という視点から見たものでありそれが歴史を明確に説くものとしてわかりやすいからもてはやされた。でもそれも一つの見方に過ぎなかったのである。
歴史はあまりにも多様であり人間の過去に生きた集積だとしたらそれを一つの見方として解析などできないのである。
ただあらゆるものに歴史がある。

例えば墓にも歴史がありこれも不思議なのである。
江戸時代には個人墓であり夫婦墓が主である。それが明治時代になると一家の家族の墓になる。それは江戸時代前まではなかった。
ではなぜそうなったのか?それは明治になり国家から強制されたものであった。
だから家族墓というのは歴史的に見たら新しく不自然なものだとさえなる。
個人墓とか夫婦墓はかえって理解しやすい、自分の名前を墓に刻むことは残すことは庶民にとって誇らしいことだったからである。侍は苗字があっても庶民にはなかったからである。夫婦墓というのもその結合の深さから理解できる。
ただ家族墓となるのこれは明治以降であり新しいものだから本当は理解しにくい。
また家族墓になる必然性もなかったのである。
何でもこうして歴史的にふりかえると見えてくるものがあるから歴史の研究は欠かせないのである。

●歴史を建造物から見るのもわかり安い

今回歴史の一つの見方として人間は何に時代時代に労力を費やしたかで見るのもかりやすい。ピラミッドをなぜ作ったのか?あんな巨大なものを膨大な労力を費やして作ったのか?それが今になると不明になっている。王の墓だというのは近年否定されている。
つまり王の権力の象徴として作られたのではなく庶民も積極的に参加して作り上げた。
自主的な民衆の支持があって作られたという説も有力になっている。
一つの宗教的建造物だったという説もある。何か信仰の対象だったというのも理解しやすい。あれだけのものに費やした労力はやはり王の権力だけでは作れないからそう見るようになるのも理解できるのである。
明確な理由はわからないにしろエジプト文明はピラミッド建設にその労力を費やされた文明だったともなる。
そういう建造物、建築関係から歴史を見るのもわかりやすいのである。


ローマは公共の建築に力を入れた。またコロッセウムとか競技場にその労力を費やした。未だにそうした建築物はヨーロッパに石の建造物だから残っている。
もう一つは道を作ることにその労力が費やされたともなる。それは道によってローマ帝国の支配権を確立するためたったのである。
次に中世はキリスト教の聖堂に民衆の労力が費やされた。それはヨーロッパ行けばいたるところ大聖堂が残っている。それは荘厳な立派なものであり石で作ったから残っている。それだけ宗教の時代だったともなる。宗教というとき、インドでも中国でも韓国でも日本でも宗教の時代があり仏教の仏像や伽藍の建築に労力が費やされた。
だから仏教文明だったと中国でも韓国でも日本でもなる。
なぜそれだけのものに労力が費やされたかとなるからだ。
奈良の大仏がその象徴でありあのように巨大なものはピラミッドに匹敵する。
それから古墳時代は仁徳天皇の巨大古墳がいくつも奈良に作られた。
古墳を造ることに民衆の労力が費やされたのである。だから古墳時代とされる。
それはなぜなのか?となるとこれも良くわからなくなっているのだ。
ただ歴史として見れば仏教に民衆の力でもその労力が費やされた時代だとなる。
つまりこれも科学や技術から見ると同じく残された物として歴史を見るからわかりやすいマヤ文明でもなぜあのようなピラミッドのようなものが作られたのかとなるとそれは天文を知ることにその労力が費やされたためである。天文台がマヤ文明を象徴していた。
文明は建築物から見るとわかりやすいのである。

●江戸時代は米を作るための開墾に労力が費やされる

ただ建築物だけではない、人間の労力が費やされるのは江戸時代なら開墾して開拓して米を生産することに労力が費やされ続けてきたのである。米を食べることのためにいたるところに海側は埋め立てて開拓して山側は棚田のようにわずかの土地でも米を食べたいから作られてきたのであり米を作ることに労力が費やされた文明だとなる。
これは古墳とかピラミッドとか仏像とか天文台とかとは違いわかりやすい。
米を食べたいということはうまいものを食べたいということでありこれは今でも本能としてあるから変わりない。でもピラミッドはそうした食べるものとは違う、古墳にしてもなぜそこにそんな労力を費やしたのか今になるとわかりにくい、それは食料生産のためではない、ただマヤ文明は天文を知り豊作を祈ったのだから実用として天文台のピラミッドを作った。ただ古墳にしても仏像にしても聖堂にしても精神的なものとして作られている。ローマの建造物や道も実用的なものとして作ったから現代でもわかりやしすい。
でも古墳でもピラミッドでも宗教的建造物になるとなぜそれだけの労力を費やしたかわかりにくくなる。
なぜなら近代化したときヨーロッパでも宗教への情熱は失い現実の利得一辺倒になったからである。
世界へ船で未知の大陸に向かったのも黄金を求めて求めてとか一攫千金を得るためとか何か実利的なものとして大航海時代生まれた。
そのエネルギーは実利的なものを求めてでありアメリカ大陸発見はまさに実利の大陸となったことでもわかる。
アメリカには精神文明はない、物質文明しかないことでもわかる。
アメリカが何に労力が費やされているか見ればわかる。科学があったとしてもそれは実利であり軍事力の強化でありエジソンの発明でもすべて実利のためであった。
だからローマとにているというのもわかる。
科学のために労力が費やされているというときそれは実利に結びつくからであり金となるからである。機械を発明することに労力が費やされるのもそのためである。

世界的にみてもそうだが日本でも何に労力が費やされたかを見れば時代が見える。
江戸時代は開墾開拓新田開発に労力が費やされた。それは米を食いたいということのためでありわかりやすい。
でも明治維新からは人間の労力は米を作ることも継続されていたが養蚕に労力が費やされた。いたるところに今でも養蚕した農家が全国に残っている。
明治維新後も日本は八割が農民であり農業が主体であった。養蚕は絹を作りそれを外国に売る外貨を稼ぐためだった。それで富岡工場が世界遺産になったのである。
その絹で稼ぎ軍事力を強化して富国強兵の政策がつづいていたのである。
つまり養蚕に労力が費やされた文明だったともなりうるほど養蚕が盛んだったのである。それから仕事としては家事に多大な労力が費やされていた。
それは世界的にそうである。セーヌ川が洗濯する女性でうまっていたという絵もある。
洗濯すること自体その労力が膨大なものとなる。
日本でも戦前の女性の仕事が家事であった。中産階級すら女中を二人も雇っていた。
それほど家事というのが機械化かされていないから労力がかかるものだったのである。
自分は今一人で家事とか介護をしているがこれも機械化したからできているのである。
そうでないと本当に二人も女中が必要となっていたろう。
今どき女中という言葉すら死語となってしまった。
女性の労力は今や別な方に費やされているのだ。

●超高齢化社会は老人の寿命を伸ばすために労力が費やされる

そして戦後という高度成長時代とは何に労力が費やされたのかとなる。
社会全体から見れば電化製品などメイドインジャパンが世界を席巻した時代だからそこに労力が費やされた時代にもみえる。車も輸出品になっているから車を作ることと利用することに労力が費やされた時代、車社会の時代だともなる。
それは技術的な面から見ればわかりやすいとなる。
一方で明治から大正から太平洋戦争があり戦争の時代、戦争に労力が費やされた時代だとも見える。太平洋戦争では3百万人も死んだということはまさに人命まで費やされたからてある。
ではなぜそんなに人命まで費やさねばならなかったのか?そもまた良くわからないとなってしまっている。何故に人命までそんなに費やさねばならなかったのか?
それすら一つの歴史の謎になってしまうだろう。
それは明治維新から西欧列強に伍するための結果でありそれが太平洋戦争で終結した。
そして次の労力はエコノミックアニマルとして企業戦士となり物作りに励み電化製品などで世界を席巻した時代だったとなる。
何に労力が費やされたから見ればそうなる。

そして今何に最も労力が費やされているのか?それは奇妙だけど超高齢化社会になり寿命を伸ばすこととか健康であり介護や医療に労力がついされている時代である。
この分野でどれほどの労力と金が費やされているか、それは自分の住んでいる田舎で一番立派なのが病院と老人ホームとか介護施設であることでもわかる。
それはまるで神殿のようになっているのだ。なぜなら田舎では高いビルディングがないから一番目立つのは病院であり老人をホームであり介護施設だとなってしまう。
この老人のためにどれだけの労力が費やされているのか?病院だってほとんと老人であることを見ればわかる。若い人などほとんどいないのである。
老人のためにみんな労力を費やして何十兆円が老人のために使われている時代なのであるつまりそれこそが超高齢化社会であり介護施設には90歳以上の人が多いのである。
現代を象徴するのはまさに百歳の人は百万くらいになるかもしれないとんいう超高齢化社会なのである。
そんなことに金を使うのは無益だというのもわかるが現実にそれだけの使う金が労力があるからそうなっている。それが仕事を造り出しているからそうなる。
あとの仕事は機械がしているのかもしれないからそうなっている。

こんな無用な老人に労力を費やしてどうなるんだともなる。
それは大古墳にピラミッド建設に膨大な労力う費やしたのはなぜかと問うのと同じである超高齢化社会とは老人に労力が費やされる時代なのである。
そんなこと必要ないつづかないということもこれからありうるが現代の文明の特徴がそうなっているしこれは自分の地域だけの問題ではない、世界的なものとして特に先進国では長寿をあくことなく求める社会になっているのである。
ただそういう余力があるからそういう文明にもなるということである。
江戸時代だったら米を作ることにその労力が費やされていたからである。
米など今は余っていて困っていることでもわかる。
時代によって何に労力が費やされるかとみれば現代は超高齢化社会であり老人の寿命を伸ばすことに労力が費やされた時代だとるでなる。
これも一つの見方としてありうるのである。


posted by 老鶯 at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題