2014年11月13日

鬼風の俳句集を読む (当時の生活を偲ぶ言葉がでてくる)


鬼風の俳句集を読む


(江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)

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鹿島区秋葉神社

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雨の日や客の炊きたるぬかこ飯


ぬかこ飯とはむかごのこととある。この実をだはんにまぜて炊いた。
それはまさに自然のものでありそういうものを食べていたことがわかる。
ただなぜ客なのか?客がぬかご(むかご)をもってきたのか?

梅が香に水まで白し萱の箸

茅(カヤ)の箸で食物を食べる7月(旧暦では6月)下旬の行事。新箸の祝ともいう

 軒葺(のきぶき)も芒(すすき)御はしもすすき哉   一茶

 ススキの箸は一般的にはそれぞれ自前で用意するわけですが、武井神社ではそれを神萱箸として御射山祭の日に頒布しています
 http://blog.livedoor.jp/ichironagano/archives/4621112.html
 
 箸はいいろいろあった。もともと箸は何でも箸になる。箸がなくて枝を折って箸にした箸は簡単に作れる、材料になるものはいたるところにあるのだ。
ここに萱の箸と出てくのは一つの行事として萱の箸があったためである。
普通は箸としては使っていない。

石なこの唄もほとけて梅の花

いし‐なご【石▽子】

女児の遊戯の一。石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊び。お手玉などの原型。石な取り。石投げ。

筆者はこの語の語源は石投げ、であろうと推察します。 勿論、根拠はすかさず開いた古語辞典ですが、 いしなご(名詞、石投げ、女子の遊戯の一種、お手玉)によります。 この言葉が更に変化して石な取り(名詞、いしなごに同じ、石なごを取る遊び) ともいうようになったのです(宇治拾遺、雑賀、詞)。 賢明な筆者はおわかりですね、古くは宇治拾遺に名詞・いしな、が記載されており、 その意味も飛騨方言・いしな、にピタリと一致します。
http://www.geocities.jp/sashichi2004/dic/a/i/ishina.html

これはどこでも子供が石で遊んでいた。石蹴りとかもあるから神社は特に昔から子供の遊び場になっていた。秋葉神社でも子供が毎日集まっていた。
そういう風景もなくなった。

山吹の宿も芝居の留守居かな

梅遅し笠嶋あたり草履道


それまで野も山も、田も畑も、泥んこであったのが、砂埃のたつ、乾いた道に変わると、待ちに待った本格的な春が訪れた証拠である。一茶はそれを草履道と呼んで詠っている。
蝶とぶや信濃の奥の草履道\小林一茶

春樵はるごりの柴つみ車牛弱み


牛車で柴を積んで運んだ。柴は燃料であり山にとりにいった。芝居を見に行って宿が留守だったというのもそれだけ芝居を見る人がいたということになる。



歸田園居其六

陶淵明

種苗存東皋 苗を種(う)うるは東皋(とうこう)に在り
苗生滿阡陌 苗は生じて阡陌(せんはく)に満つ
雖有荷鋤倦 鋤を荷(にな)うに倦むと雖も
濁酒聊自適 濁酒聊か自ずから適う
日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車
路暗光已夕 路暗くして光已に夕べなり
帰人望煙火 帰人 煙火を望み
稚子候簷隙 稚子 簷(ひさし)の隙(すき)をうかがう
問君亦何爲 君に問う また何を為すやと
百年會有役 百年 役有るに会す
但願桑麻成 但願わくは 桑麻(そうま)成り
蠶月得紡績 蚕月(さんげつ) 紡績を得るを
素心正如此 素心まさにかくのごとし
開徑望三益 径を開きて三益(さんえき)を望む

苗を東の沢に植え
苗はあぜ道に満ちている
鋤を担うのにあきてきたが
濁り酒は丁度よい具合に熟成した
日暮に柴を覆う車があり
路は暗くなり、まさに夕べとなった
家に帰る人は夕餉の支度の煙を見、
幼子はひさしの隙から外をうかがっている
「あなたはなぜそのような事をしているのか」とおっしゃるか?
これ(農耕)が一生涯かけての仕事なのだ
ただ願うことは桑と麻がなって
養蚕をする月(陰暦四月)に生糸ができることだ
私の願いはただそれだけだ
路を開いて三益の友(正しい人、誠実な人、見聞のひろい人)をまつとしよう

日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車とあるから見慣れた風景でもあった。



二本松にて

氷売る声はきれたり夏の月

気の長い老いの句俳や麻地酒

麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。
http://www.nikaido-shuzo.co.jp/nikaido/history2.html

麻地酒〔豊後〕あさじざけ
江戸時代初期、豊後日出(ひじ)城主木下家の創醸になる諸国名酒の一つ。うるち米ともち米を半半に用い、寒仕込みしてから草や茅などで覆って土中に埋める。この特異な熟成法から《土かぶり》の異名がある。夏、熟成した酒を汲み出して飲む。肥後産のものもあるが亜流にすぎない。●麻地酒の方豊後 (*中略)人の歩き申さぬ屋根の下の風の吹ぬき候所よく寒の中に仕込来年六月の土用のうちに口を明る、色はひわ色の濁酒なり──料理&『合類日用料理抄』巻一
http://hanasakejijii.seesaa.net/article/401648043.html

...と遊び過ごして落とし味噌(秋の部)

おとしみそ【落とし味噌・落し味噌】
粒味噌をすったりこしたりせず,そのまま入れて汁を作ること。


・・・や草履をはかぬ何所の人

名月やありて苦になる水時計

水時計な度か使われていた。ただこれが苦蜷というとき時計がわずらわしいと同じである時間を気にせず名月を観賞したい、月見をしたいとなる。

松川浦眺望

こっそりと月をもてなす葦家かな

葦の家とは藁葺きの家なのか?葦と萱は違っているけど別な家のことか?
松川浦はひなびた漁村でありそんな風景があった
津島という山里にて

八朔や風呂の煙のたつ山家

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである

見ぬ人に酢茎もら月見かな

酢茎【すぐき】
スグキナの漬物。京都上賀茂地方の特産。11〜12月,塩をふって十分のおもしで漬け,のち特殊な室(むろ)に入れ1週間ほど発酵させる。自然発酵による独特な酸味と香味が好まれる

たまさかに月見の宿や蕨餅

萩なとは催馬楽諷へ虫の中

雨の夜を崩して拾ふ柚子味噌かな

松川浦眺望

時雨るや夜喰の箸の杉くさき

夜食した箸が杉くさい、杉の箸だから、箸にもいろいろ種類があった

朝凪や死なぬ薬の雪の里

鬼風の俳句集や旅の記録が残っている。長崎まで行っているとなると全国を旅しているから江戸時代にしてはこの辺でそんな旅をした人かがいたのかとなる。
この人は相当裕福な家の人だった。吉田とあると今でもあるから吉田屋というのは呉服屋であり古いからその家の系統なのだろうか?
ただいつの時代なのか記していない。
この人の俳句で面白いと思ったのはすでに死語になった言葉がでてくる。
江戸時代だと当然そういう今では使われない廃れたものがありいくらでもある。
それは当時は生活の中で活きていた言葉なのである。
死語となったのは別に江戸時代だけではない、戦前でも戦後十年でも死語になった言葉が結構あるのだ。
だから江戸時代を探るとき、そうした死語となった言葉を探らねばならない
幸いインターネットでそうした言葉には詳しいから引用した。


この人の俳句集は旅の俳句が主でばらばらになっている。
地元のことは俳句に少ない、旅の俳句集なのである。
旅だから土地の食べ物をいろいろ書いているのかもしれない、その土地だけで食べられるものがあった。酒でも麻地酒とは九州の豊後の酒だった。これも二本松で飲んだのか?
二本松だったら九州からもそうした酒が入ってきたのか、ただ作り方が伝播されて二本松で作ったのか何かわかりにく。
ただ今ではない食べ物のことなどが良く記されているのは江戸時代はやはり土地が代われば今と違って食べ物も相当違っていたから記した。


この人は恵まれていたから長生きしたのだろう。

朝凪の死なぬ薬の雪の里

薬を飲んで死なないとは何か今の時代に通じている。病気になっても病院に行き手当てして介護するからなかなか死なないという現代に通じているのも不思議である。
ただ飢饉があったことは二カ所書いてある。旅で見聞したのだろう。
草履を履いていないとかあり草履すら買えない人がいたためだろう。
この人のことからこの辺の江戸時代のことを知りたいと思ったが旅の俳句が主だからわかりにくい。
石なことは秋葉神社などでも子供が遊んでいて俳句にしたのかもしれない
ただこの遊びはどこでもしていた。この俳句集からは地元のことがどうだったのかほとんどわからない。
それでもまだこれは地元では貴重なので考察する価値がある。










posted by 老鶯 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)