2014年11月11日

晩菊から冬の俳句十句 (自然は飾らない、ありのままだから美がある)


晩菊から冬の俳句十句


(自然は飾らない、ありのままだから美がある)

KOFUNNNNN.jpg

クリック拡大

またデジカメ買った、ソニーの20倍のズームのWX350である。
これは前に買ったのだか新しくなって良くなっている。
軽いからサブカメラとしていい、常にカメラはもって歩く必要がある。
重いともってあるけないことがある。
これは軽いし気軽にとれていいカメラである。
こういうものでも何かとると違っている。
同じようでもとるものが機械によって左右されるのである。
これは拡大しないと全体が映えない、芒のところがもっと鮮明になれば良かった
でも全体を枯野とするには広くとる必要があった。
この辺ではここは刈田になっているだけど田を作っていないから本当に枯野になっているのだ。古墳ができたときは田んぼはなかった。枯野だったからあっているともなるのが不思議である。



晩菊や今日も買い物に裏の道
晩菊や石に添い咲き年古りぬ
晩菊や99の母介護かな
99生きるを知るや残る虫
我が墓の前を今日も行く冬椿
冬あざみ十輪ほどや屋形村
飾らざる雀の来るや冬紅葉
ひよどりの朝に飛びきて冬紅葉
みちのくに円墳いくつか枯野かな
冬日さす津波の跡に石一つ
貨物船沖に見えつつ冬の海


俳句とは季語があって俳句である。日本の季節は四季がはっきりしているから天候があいさになりやすい。特に農民は絶えず天候を心配している。
雨がふっても降らなくてもこまるのである。適当にふって適当にふらないといいのだけとそうもいかない、農業は天候に左右されることが多すぎるのである。

だから俳句というのは日本では毎日変化しているからあいさつかわりになり季語かできてそこから思考を深めてゆくのが日本なのである。だから季語を知らないと俳句は作れない。季語がすでに日本語のように日本文化になっているからだ。
菊にしても今の季節になると以前として晩菊という感じがあり残菊にもなりやがて冬菊から寒菊となってゆく。そういう時間とともに細分化されたのが季語なのである。

今年は何か変である。自分の家の楓は紅葉にまだなっていないのである。何の影響かわからない。他の庭は紅葉になっている。でもすでに冬紅葉になる。
自然がなぜ心うつのかというとそれは自然は何も飾らない、ありのままだということである。
雀を見ても樹を見ても何かそこに人間によってつけ加えられないからかえって心を打つものがある。雀はなにか貧しいものの象徴になる。でも自然のものは何も飾らないからいろいろなものを着たりもしないからかえって素朴な美が生まれる。
要するにシンプルだからひかれるのである。人間はあまえたにも複雑であり何重にも覆い隠されていて何が本心かもわからないのである。
カルト宗教でも宗教などと何の関係もない、ただ欲心があるのみである。
政治家がきれいごといってもそれは票をえるためであり何か犠牲になってやるなどないのである。むしろ民衆を犠牲にして自分は甘い汁を吸う方なのである。
だからこの世自体が嘘偽りだとなってしまう。


ただ人間は今がそうかというと昔も江戸時代でも変わりなかったところがある。
聖徳太子がこの世は虚仮(コケ)だと言っていたことでもわかる。その時代から人間がいかなるものかこの世がいかなるものかは変わっていない。
一見科学とか技術の機械で飛躍的に変わっていても人間の心とか欲は変わらないのであるこれだけ贅沢しているのにますます欲は深くなりとどめることができないことでもわかる。
原発事故も人間の限りない欲を追求することで事故になったのである。
ここだけではない、すでにサラ金から8人一人は借りているということでもわかる。
それだけみんな無理して贅沢している飾っているのが現代文明社会である。

一人の人間がくる、すでにそこに様々な欲望人間であり雀のような人は貧しい人でもいない。貧しい人は今やこういう何でも金が必要な時代になると清貧などというのは成り立たない。まず金を貸してくれとか延々と金を要求される。
格差社会になると貧乏な人とつきあうの本当に怖い、身ぐるみはがれる恐怖を味わった。金で必ず現代は問題が起きてくる。大金持ちは実際危険である。
ニュースで見逃されていたが家政婦二人を雇っている大金持ちが東京で強盗に入られて殺された。ただ家政婦は何の被害もなかったのである。
こういう事件はこの世で絶え間なく起きている。
金がないのも困るがこのうよに家政婦ふたり雇うような金持ちはまた危険なのである。
殺されるという危険をかかえているのである。
この世はまさにどんなことしたって災いの地だった。
津浪であれ原発事故であれ自分が犯罪にあったことであり様々な災いを受けのがこの世だったのである。
これは死ぬまでまねがれない、だから死がいちがいに悪いとは言えない
生きている限り災いを受けざるを得ない、老人になれば必ず老化して体が弱り体自体がすでに災いの元なのである。
もう死ねばやっと災いがなくなったとなるのか人間だったのである。


シェークスピアのソネット
SSSSSSEEE1222.jpg

SSSSSSEEE1.jpg

クリック拡大



この詩はやはりうまい,
陸の王国を大洋が襲うとは津波のことであり現代も変わらないことを詩的に表現している
人間社会は聖徳太子の時代から変わっていないのである。



なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか? (中世の城館を見ればわかる)


なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか?

(中世の城館を見ればわかる)

BUNNROKUNMM222.jpg

深野と泉では在地の勢力が大きく相馬氏は進出できないでいた。

;fukanooo111.JPG

koikehaka11.JPG


深野の墓地
fukanobbbb123.jpg

fffffttt1.jpg

これは宝暦なのか?

kannho1 - コピー.jpg

これは寛保である。

houei1 - コピー.jpg

これは宝永である

明暦とあるみたいだからここの墓地は相当に古い
深野館があったときからの継続もあるかもしれない
この辺では一番古いのは相馬氏の殿様の墓で慶長とかである。
ここは在地の勢力の深野館があってそのときも墓地だったかもしれない。


1655 明暦 01 江戸 053 − − −
1658 万治 01 江戸 056 − − −
1672 寛文 12 江戸 070 − − −
1680 延宝 08 江戸 078
1683 天和 03 江戸 081 − − −
1684 貞享 01 江戸 082 − − −
1703 元禄 16 江戸 101 − − −
1710 宝永 07 江戸 108 − − −
1715 正徳 05 江戸 113 − − −
1735 享保 20 江戸 133
1740 元文 05 江戸 138 − − −
1743 寛保 03 江戸 141 − − −
1747 延享 04 江戸 145
1748 寛延 01 江戸 146 − − −
1758 宝暦 08 江戸 156

宝永は読めた、 寛保もはっきりしている。
こご天しか読めないのがありこれは天和なのか?
天明はずっとあとである。
暦とあってもそれか明暦なのか宝暦なのかまぎらわしい
寶歴の方が有力である。歴の上の字が旧漢字になっているからだ

一字しか読めないのがありその解読がむずかしい
これは何か科学的な方法で調べられるかもしれない
この墓地がいつからあったのかが問題になる
宝永からはあったみたいだ
ただ墓地は墓が建てられない前からもありえる
歴史はこの時代特定するのが基本にあった
いつの時代なのかわからないと過去を探り得ようがないのである。
伝説は時代特定できないから津浪のことでもわからなくなる。
文書だと時代特定できることが強みなのである。


小池の墓地

koike1122334445556667777.jpg

koike11.jpg

koike1122.jpg

koike112233.jpg

koike112233444.jpg

koike112233444555.jpg

koike112233444555666.jpg

文化文政時代であり江戸時代後期が多い
ここの墓の特徴は立派な墓でそろっていることである
そしてなぜか大姉という女性の個人墓が半分もある
これもなぜなのかとなる



南相馬市の中世の城館

泉館
泉廃寺
泉平館
岩迫館
牛越城
岡田館
小高城
金場館
田中城
田村館
中館
西館
花輪館
東館
深野館
別所館
堀内館
真野古城
明神館
村上城
優婆館


これは相馬氏が太田に一族を引き連れて移住してきたときあった中世の城館である。
ここにはきけ旧来の勢力があった。
ただ村上とか小高とか牛越城とか中世の城館があった所を支配した所もある。
でも最初はそういう在地の勢力が強いところに入れない。
それで
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
で書いたようになぜ大原が多く出ているのに深野はでていないことがわかる。
深野の方が開墾しやすい地であり大原はその奥だからである。
最初に入るのだったら順序としては深野になる。
そこが疑問だったがそこはもともとの在地の勢力があった深野館があった。
館という地名が残るところには中世の城館があって戦国時代になる前から在地を支配していた。最初の草分けでありそこに回りの人々が集まり小さな国を作っていたのである。
聞いた話ではある武家では回りを堀で囲んでいたという。そして殿様を迎える部屋もなっこという。ということは武家ではもともと堀之内というように堀をめぐらして防御していた。鹿島の田中城は平地にあり回りは湿地帯であり自然が堀になっていた。

中世で館と地名にあるのはたいがい山の上であり高い所にありそれば自然の要害となって敵から防御のためにそこに舘か作られたのである。
城でも古いのは山城であり次に平城になっていった。
小高城から村上城から牛越城と山城である。今の相馬市の中村は平城である。
そこに相馬市が城を築いたのは相馬氏が太田から小高城へ牛越城へと移り中世の在地の勢力を支配下に治めるためだった。
中村地域は今の相馬市は黒木氏が治めていた。それで黒木氏は伊達についたり相馬氏についたりと苦しんだのである。
つまり相馬氏が中村に移ったのは在地の中世の勢力を治めるためであるというのがわかりやすい理由である。
相馬氏が力をもったのはやはり野馬追いに象徴されるように馬を使う軍事力があったからだろう。

相馬氏の進出経路の図でわかるように最初に牛越城から入るとしたら深野になる。
そこをさけてさらに奥の山側に入ったというのは不自然だったのである。
そこは在地の勢力があり中世の城館まであったからそうなる。
つまり大原は相馬氏は移ってきたとき開墾に入ったとき何もまさしく大原だった。
在地の勢力は深野館にあって大原にはなかった。
だから深野は中世からある生活があり古い地域だった。
そこで深野の小池に行く方の台地にある墓は古い。
明暦からありもともと古い所だったのだろう。

そしてなぜ小池にも古い立派な墓があるのか?
それは士族のものであり相馬氏の一族が開墾に入った。
深野→小池と相馬氏が移って開墾した地域だったのである。
鹿島区でも中世の城館があった真野中館とか館など田中城があった所は在地の勢力があり入っていない。寺内なども総士録古支配帳にはでていない。
原町では牛越城に相馬氏が小高から城を移したのは泉氏を牽制するためだったという学者の考察は記録からみればそうなる。
泉館や泉平館や泉廃寺などがあった所であり港の機能も有していた勢力がある場所だった寺は中世でも城でもあった。
萱浜からしふさ(渋佐)の記録が総士録古支配帳にあるのもまさに泉氏が大きな勢力だからこそ相馬氏はそこをさけていたのである。
牛越城に移ったのは泉氏や深野館などがあった中世の城館の支配地域を牽制して勢力を伸ばすためたったのである。

小池の墓地は江戸時代後期のものだから新しいとしてもやはり古いものの継続がありあそこに立派な墓を残した。第一あそこにあることが解せなのである。
回りにほとんど家もないから不思議なのである。
ただ資料を見れば納得するのである。

小池の墓地の謎は大姉とついた個人墓が半分もしめていることである。
普通女性の地位は低いとされたが個人墓として女性の立派な墓がある。
武士だとすると女性の地位も高かった。または僧侶の墓かもしれない。
江戸時代は庶民では墓はなかなかもてなかった。
ただ個人墓も江戸後期から残っている。
一家とか家族の墓は明治以降なのである。
それは国の政策でそうなった。江戸時代までは個人墓かか夫婦墓である。
明治になっても継続されていて夫婦墓が多いのである。

まずこの墓は本当に謎である。これは墓しか探る手だてだないのかもしれない
墓は最後まで残ることに意義がある。この墓が無縁墓としてかたづけられると
ここに生きた人を探ることはむずかしくなる。
墓はそこに人が確かに生きていたということを感じさせるものなのである。
書類と文書みてもそういう人が生きていたという実感をもつことができない
だから郷土史には墓の研究が欠かせないのである。

相馬氏進出の経路
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104996155.html


タグ:相馬氏
posted by 老鶯 at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)