2014年11月09日

抽象画(熱帯魚生まれる)


抽象画(熱帯魚生まれる)

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熱帯の花



これも全くでたらめな線で遊んでいたらこうなった。全く予想できないのがパソコンの抽象画である。ソフトが違うと必ず別なものができる。
これもペイントというwin7についていたものである。
これも何か色合いが違って出ているのだ。
それはソフトによって違った色がでているのである。
このいろは絵の具では出せないのである。
これは熱帯魚と見えるからわかりやすい、こういうのは見ている人も一目でわかるからいい。
抽象画のどこがいいとかなかなか指摘できないからだ。
その人の見る目に左右される。
芸術は俳句だってその日と見る目に大きく左右される。
かえっていい俳句が見逃されくだらない月並みのがもてはやされるは
それだけ芸術を見極めること自体むずかしいからである。
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冬菜 (土着して代々生き継ぐことに生の意味がある) 冬菜 (土着して代々生き継ぐことに生の意味がある)


冬菜

 
(土着して代々生き継ぐことに生の意味が見いだされる)

 
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日々に見ゆ生き継ぐものや冬菜かな
墓あわれ誰か参るや残り菊
離れじも祈りの像や蔦紅葉
ヒヨドリの朝に飛びきて冬紅葉
故郷に老いて枯れゆく枯芒
冬の雨また石を打ち時過ぎる

姉残す家に住みにつ冬に入りまた思ふかな5年はすぎぬ
我が一人重しのごとく残りけり故郷に生き死ぬるものかも
諭すとて無益なるかな大いなる石はも黙して冬に入るかな

人間はやはり生命の一つだから土着してゆくのが自然なのだろう。
ある土地に長く住んでいると人間もやはり樹や石のようになる。
ただ人間の生が自然のものと違っているのは人間は歴史人間なのである。
必ず誰でも親があり祖父母がいて何かを受け継いでゆき継続している。
一代で終わらないし何代も重ねて継続した時間を生きているのである。
だから家というものも継続された家には重みがでてくる。
例え親が死んでも子が受け継げばやはり家とともに親も生きている。
なぜなら親の残したものを家を通じてふりかえりその土地に密着していれば
その土地からふりかかるのである。
だから人間は樹や石のように自然となってゆくのは人間も自然の一部だからそうなる。

だから故郷が失われたということはその継続も失われる。
そうなると過去も失われ歴史も失われ先祖が亡霊になるとういこともある。
だから廃村はそうした先祖が幽鬼化して彷徨っているような凄まじい荒廃になっている。もともと原生の自然のままだったらそうはならない、一旦人が住んだからそうなっているのである。
人間は一代だけで生きるものではない、それで生は途切れることはない
意味あることは何度も思い返されその意味がさらに深いものとして残される。
庶民の諺でもそれがいかに今でも通用しているかはやはり人間は変わらずに同じこと繰り返している。カルマを繰り返しているからそうなる。
いづれにしろこの辺の混乱はなかなか治まらない、なんとか十年くらいたつとやっと治まったかなとなるだろう。それは神戸の地震でもそうである。
その傷痕はあまりにも深かったのである。
原発事故のことを考えると冬菜というのをいつも今の時期になると見ているけどそれは昔だったらその冬菜があってこの地に生きていけるという実感をもったろう。
今は野菜はスーバーで買えばいい、どこからでも入ってくるという感覚になっている。
そのためには金が必要だとなり金に追われるようになった。
実はそのことが原発事故を起こした要因にもなっていた。
冬菜というとなにか貧しい生活にふさわしい。もし冬菜とかに頼っていれば地元でとれるものに頼っていれば原発事故はなかった。故郷も受け継がれたのである。
つまり貧しい生活はかえって跡を継ぎ安いということがあった。
回りにあるもので生活していればいろいろな復興にかかる労力も費用もいらない
津波でも家が流されたらあきらめてまた掘っ建て小屋でも建てて漁業をすればいいとなるそれでまた海の近くに人は住んだのである
今になるともう便利な生活になれているからそうはいかない
だから住むことあそらめるようになり移動してしまうのである。

人間は年取ってくると自然と死に場所を意識してくる。
どこで死のおうかとなる。それは長く生きた場所がいいとなる。
というより人間も生物だから自然と樹や石のようになってゆくのである。
大地に根をはりやがて老木となり枯れてゆくのが自然だとなる。
百歳まで生きたりしたらそうなる。
故郷に生き死ぬというのも自然であり幸いだったのかもしれない
都会に出て死ぬというのも何か殺伐とした感じになるからだ。

今年の気候は何か変だ、冬になっているのだが庭の楓が紅葉していないのも変である。
ただ冬紅葉している所もある。季節感が狂うのも日本でなくなる。
日本はとにかく四季があってその心持ちも変化してゆくのである。
他の国ではこうした季節感がない国が結構あるからだ。
あの祈る像も何か願いがあってここに建てられた。人の願いがあって建てられたのであるただそれは何かわからなくなって放置された。
でもここの土地に根付いているように祈っているのも不思議である。
何かを形として残ろうとしているのかもしれない。
つまり何らかの心が反映されて形となって残っている。
その心が何であったかわからなくなってしまうのである。
ただなんでも時間のなかで意味が帯びてくるし重みがましてくる。
石でもそうであり短いと重みが出ない、時間の中で何でも重みが生まれ意味が見いだされる。
古典などは何度読んでも何か発見があるのはそのためなのである。

一年中夏の所もあるしそういう所では何か変化がないからつまらないともなる。
日本は何かと島国でも何か変化の大きい国だと津波などでもつくづく思った。
こんな大きな変化を経験するとは思ってもいなかったからだ。





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