2014年11月14日

冬の日の石(詩)


冬の日の石(詩)

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冬の日に動かぬ石の重きかな
冬の日に鬼風思ふ隣かな
冬の日やここに変わらず立目石
貨物船沖に見えつつ冬の海
一雫顔に時雨や山翳る

俳句はその背景を読まないかぎり鑑賞できない、動かぬ石がなんだとなってしまう。
でもその背景を読めば百歳になる人が住んでいるとなればその石は人間のことなのである人間はやはり長く住んでいるとその土地と一体化してゆくのである。
そもそも動かぬというけど動けなくなるというのが現実である。
年取ると変化すること移動することが苦手になる。
だから原発で避難した老人は精神的には苦しい、経済的には楽していても精神的には苦しい。でも回りから良く思われれないのも苦しいのである。
ただそうはいってもそれも他者からみれば贅沢だとなってしまうのである。

ともかくすぐとなりに江戸時代に俳句を作った人がいたということも考えなかった。
江戸時代は商人が俳句を作っていた。裕福でないと俳句も作れない時代である。
一茶は特別でありだからあんな辛酸をなめた俳句を作ったのである。
この辺でも街では裕福な人がいた。
ただこの辺の街の江戸時代というとイメージできないのである。
戦前から大正明治とさかのぼるのだが江戸時代になるとイメージできなくなる。
つまり明治にはすでに汽車が電車が通ったが江戸時代は徒歩とか駕籠の時代だから
その差が大きいからイメージできないのである。
自分の詩のテーマは石だった、すでに石だけの詩でも相当書いているが発表していない
詩集として自分なり制作しようとしている。
まず小冊子で本のように自分で作ってみる。
詩集だと本は作り安い。



冬の日の石

石は一所に動かず
歳月とともに
だんだん重くなってくる
もう百歳も生きる人がいる
他人の家に嫁いでも
石のように重くなり動かない
石は歳月とともに
重みを増してくる
石はその土地と一体化して動かない
石は何も言わなくても
大地と通じて動かない
冬のめぐり石はまたそこにある
石は信頼しあって互いに動かない
冬の日がさして動かない
そこに安らぎがある



今日はぽつりと時雨が顔をぬらした。それが一滴だったのである。いかにも時雨らしい。秋時雨ともあるがこれは本当の時雨だった。今日は結構寒いから本格的な冬になるのだろう。




タグ:石の詩

2014年11月15日

万葉集東歌二題の鑑賞 (空間と時間の感覚が現代とあまりにも違っていた)



万葉集東歌二題の鑑賞


(空間と時時間の感覚が現代とあまりにも違っていた)


信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)にほととぎす鳴く声聞けば時過ぎにけり

天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)の時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ


万葉集の歌はその後の古今集との歌の相違は大きい。
古今集になると宮廷内の歌になり一般の農民の生活とは離れた感覚の歌になった。
宮廷人の歌であり源氏物語のように宮廷内のことが話題の中心になる。
万葉時代はそうした宮廷内とは全然違ったものとして歌われている。
東歌は土地に根ざした歌であり方言ば使われいるから余計にそうなる
万葉集の歌は何を意味しているのか理解しにくいというとき
短歌の歴史で万葉集と古今集の相違が大きいから理解しにくくなる。
古今集になると生々しい庶民の土の匂いのようなものがなくなり
何か宮廷内の遊びごとになり日々の生活から離れてしまった。
そもそも庶民の歌はなくなり宮廷人の歌しかなくなったのだから当然だとなる。
自然でも宮廷内の庭を見ている自然とか何か自然を人工化した自然を歌うようになる。
それは現代にも通じている。
とても狭い庭では自然を現し得ないのである。
だから京都に庭の文化があるとしてもそれは雄大な自然とはあまりにも違う。
人工化したし自然である

信濃(しなの)なる須賀(すが)の荒野(あらの)・・・万葉集には地名が歌われることが多いというときその場所に特別な思いがあり歌われている。
信濃という全体があり須賀の荒野がある。当時は荒野がどこでも広がっていたから珍しくない。その広大な荒野にホトトギスが鳴く、それか時を告げる声として広大な荒野に響いている。
現代の時は機械で一分一秒が刻まれている機械の時に酷使されている。
万葉時代は広大な自然空間がありそこに過ぎてゆく時である。
要するにここでは空間と時が一体化している。
現代ではこうした広い空間で時を意識することはない
例えば常に時は学校であれ事務所であれ工場であれ家庭ですら何か狭い範囲で時は意識されている。常に時に追われているのが現代人なのである。
それは空間の感覚が失っているからである。
働く場所でも工場とか事務所とか狭い範囲で過ごしているからそうなる。
そういう中で一分一秒で時が刻まれて酷使される時間の中に生きている。
奈良時代は200万人くらしか日本全国で住んでいなかったというのも意外である。
その時日本が広大な原野の部分が広がっていたのである。
だから空間の認識も違っていたのである。
ここでは時は広大なな空間にありホトトギスが鳴くことによって時の移るのを知る。
雄大な自然が時を知らせている。

天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)・・・

これもそうである。天の原というときさらに広い空間を視野に入れている。
冨士山の壮大な姿が望まれ柴山というのは柴は燃料として使うものとして生活がある。
そういう雄大な空間があり生活があり人と人が会うのである。
文明はそうした雄大な自然の空間も奪ったのである。
絶えず空間が建物でさえぎれさまざまなものでさえぎられている。
人間があうというときそれは雄大な自然空間の中で会うのではない、林立するビルの下とか狭い路地とか狭い家の中とか何か狭い押し込められたような所で会う。
万葉人は広大な自然空間で合い別れる。
すると人間が会い別れるとしてもその後に広大な自然がそこに広がっている。

単に人間が会う別れるにしても今とは感覚的に相当違っていた。
ただ会う別れるにしても深い余韻を自然の中に反映されていたのである。
時の流れも悠長である。

時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ

時が移ればあわてなくてもまたあなたと会えるでしょうという感覚であり追われて会うのとは違う。この広大なの天地でまた会うことがあるでしょうという時間感覚なのである。
ここには不思議なのが言葉の感じから例え別れても必ずこの広大な天地の中に二人は会うというたことを暗示している。合わなということはないでしょう・・・という確信みたいなものが歌われている。だから何か会う別れるにしても悲哀感が感じられないのも不思議なのである。
要するに現代ではこうした空間感覚でも時間感覚でももてなくなった。
だから万葉集のような歌は一見なんでもないようでも今になると作れないし理解できないものとなっているのだ。

この二つの歌は調べ自体が日本語の大和言葉でまるで水が流れるように自然に歌われている。言葉がよどみなく詩となっているのだ。
つまりその国にはその国から生まれた言葉があり言葉はまず詩語であったというとき万葉集の歌はまさに日本人の原点となるものがあった。
万葉集の歌は多様であり古今集とか宮廷人の歌とはあまりにも違っていた。
タグ:万葉集東歌
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北風唸る家 (家は城であり守るのも命懸け)


北風唸る家


(家は城であり守るのも命懸け)


北風の今日は吹きつけ
独り身に買い物あわれ
寒さ身にしむ
川の面に鴨の浮きにつ
芒は枯れて寄り合いぬ
母はい寝につ我は台所にまかなふ
北風は家にし鳴りぬ
我が勤めて我をあたたむ
我が家を支えるものは
今や我のみなりき
風に鳴る屋台骨かな
この家を残せしは姉に父かな
我が母の百歳にもなれや
長くもあれや石は動かず
我はこの家を継ぎて支えむ
我も老いしもなおしばらくは
我が家に勤め果たさむ


今日は寒かった。北風が吹きつけた。本格的な冬が来た。けんちん汁を作った。
里芋がちょうと川むいたのが売っていた。里芋は川むくのがめんどうなのである。
すでにお膳立てできているばせのを買ったからできた。
けんちん汁は好きだし野菜が入っているから体にはいい
鍋物は一人だと損である。一人分のものがなかなか売っていない
今は一人暮らしでも何とかやれるようにできている。
機械を使い料理もできているから楽である。
ただ野菜をとるようにしないと一人暮らしは栄養的にかたよる

今やここ7年は家を維持するための格闘だった。姉が気丈夫で家を支えていたけど認知症になり崩れ去った時、全部自分に責任がのしかかった。
家は城と同じだった。家が傾けば油断を見せれば家自体乗っ取られる。
この世とは同情したりしない、相手が弱ればチャンスだと思って盛んに責めてくるだけである。
犯罪にもあい財産はのっとられかかり今度は借金のチャンスだと病気の時に責められて
散々な目にあった。ちょうど保険金殺人のようにな目にあったのだ。
「こいつが死ねば財産が入る」それしかなかったのである。
だから今はそういう奴らに復讐したくなる。
弱いとき責められたから今度はこっちから責めてやろうとなる。
弱いとき責めるのだからこれほど相手にとって楽だし責められる方にとってはこれほど苦しいことはなかった。

もうはっきり言ってもう自分の家を城を守るために刀をもって襲ってきたら刀で抵抗して相手と戦わないかぎり家も城ものっとられるという状態になっていた。
それがこの世の現実だった。
姉は一倍気丈夫だったから守られていたのである。男でも姉を怖がっていたのである。ただ認知症になりすべて崩れさったのである。
どんな強い人でも最後は弱くなる。老人るなるということは弱者転落することなのである

ともかく家は城と同じであり弱体化したとき責めてくる。同情などしない。
そのことが今でも憤りになっている。弱者になったから責めるのが容易である。
相手を従わせることも容易である。それで親戚の人が親が認知症なったとき
介入してきてさんざんな目にあったことが書いていたがそさと同じだった。
そういう家が弱体化したときカルト宗教も入りやすいのである。
先祖がどうのこうのとか何らかいいがかりをつけられると信じやすいのである。
いづれにしろ弱者を責めてきたやつらは本当に許せない
そういうことは絶対怨念となり忘れられないのである。
人間は甘いとつけいれられる。それは国でもそうである。
中国の船でもなんでもやり放題になってしまう。
だから果たして平和憲法があっても守れるのかとなる。
軍備がないと守れないというのもまた厳しい現実を経験したから考え方も変わる。
日本でも外国にやり放題に蹂躪されたから変わるのである。
何もされないなら相手もいい人だと思ってしまうのである。

アメリカでは今でも銃をみんなもっているのは家に入ってきた人はすぐ殺すという準備をしている。それほど自分を守るために備えている。
そもそも侍がなぜ生まれたのか?それは自分の家を守るためだった。
自分の家が襲われるから回りを堀で囲み刀であり槍であり備えていたのである。
その家に仕える人も一体となり家を守っていた。それが館となり城となったのである。
極端にしろ何かそんなふうにしてまでも守る意識がないと家が守れないと思った。
相手もまた金がなくて金をとろうと必死になっていたのである。
そういう人は相手のことなどかまわない、自分が苦しいのだから相手が弱るとチャンスだと責めてきたのである。それがこの世の現実でもあった。
この七年間経験したことを書いてきたけど信じられないことの連続だった。
回りもそうである。それは今も継続している。

屋台骨とか大黒柱とかの言葉があるけどまさに屋台骨がぎしぎしと北風にもゆらぐように自分が屋台骨となり必死で支えていたのである。
北風が家にずっと唸っていた。最近はようやく楽にはなってきた。ただ一人だから苦しいことはある。

タグ:家を守る

2014年11月16日

東歌の富士山の歌の解釈が間違っていた (木の暗とは青木が原の樹海だった)



東歌の富士山の歌の解釈が間違っていた


(木の暗とは青木が原の樹海だった)


天(あま)の原富士の柴(しば)山木(こ)の暗(くれ)の時移(ゆつ)りなば逢はずかもあらむ

柴山の木の暗(くれ)とは青木ヶ原(あおきがはら)の樹海だったと説明する人がいた。
木の暗(くれ)とは(木の下の暗い茂り)てはないが此の暗の時刻がすぎたら会わなくなるであろうかという意味だった。
ということは柴は確かに燃料として使うものとしてと青木が原にとりにいった。
しかしそこは今も広大な樹海であり昼なお暗いのである。
だからその暗さは今も変わりない、確かにここでは暗いということをイメージする必要があった。それは今でも昼なお暗いから変わっていないのである。
これだけ広い樹海で一度会って別れたらもう会えないということを暗示していた。
今の時代とは違って歩きであり離れていれば会えなくなる。
当時はもっと暗いしその樹海はさらに広がっていたのである。
今も怖いが当時はそういう樹海に行くことは怖いということもあった。
道に迷ったりしたら出てこれないという恐怖もあった。
まともな道すらない時代だからである。
そういう経験を丸森でしたから樹海は出れなくなるということで怖いのである。
日本は森が深く今でも道に迷うことがあり近くでも遭難している人も多いことでわかる。
この歌は解釈が間違っていたけど何かやはり当時の自然の広大さを偲ぶものである。
万葉時代は二百万人しか住んでいないから広大なの原野とか開拓されない土地が広がっていた。それは今では想像を絶するものとなっていた。

天地の別れし時ゆ、神さびて、高く貴き駿河なる富士の高嶺を、天の原振り放け見れば、渡る日の影も隠らひ、
照る月の光も見えず、白雲もい行きはばかり、時じくぞ雪は降りける


富士山はこんな感覚で歌われていた。その下は原野であり樹海の上にそびえていたのである。
東歌は男女の生々しい土着的な赤裸々な表出である。
だからこの歌は何か自然の広大さを歌にしているから何か異質なのである。
もちろんこれも男女の相聞歌にしても何か違っている。
樹海になると昼なお暗いとする本当に太陽が傾き暗くなったら本当に怖いとまでなる。
この歌はまだ手つかず広大な自然の中の逢瀬があってもそれが自然によって会えなくさせられる。自然によって人間の生活は覆われて別れさせられてしまうことを暗示していたのである。
つまり万葉集時代の自然というのをイメージできないから何か間違った解釈になる。
この解釈の間違いは言葉通りに読んでいなかったことにあった。
言葉の正確な解釈をしていなかったことの失敗だった。

この歌は逢はずかもあらむ ・・・とあるときもう会わないだろう、会うこともないだろう・・・という深刻な歌かもしれない、それが現代にも通じていたのである。
青木ヶ原樹海は自殺の名所であり今も行方不明者が白骨化して埋もれていた。
それを考えると何かこの歌は不気味なのである。
別れるは万葉時代は死別でありまた二度と会わなくなるという深刻なものがかなりあった今のように一回別れたもう二度と会えないということがあった。
それは江戸時代でも一旦別れたらなかなか会えない、飛行機で帰るというわけにもいかないからである。だから別れるということは今とは全く違っていた。

「幼くして母と別れる」

◇『万葉集』八九一「一世にはふたたび見えぬ父母をおきてや長く吾(あ)が和加礼(ワカレ)なむ」(山上憶良)

別れるは死を意味していたし一旦別れたらなかなか会えないということがあった。
だから別れるというのは今とは全然違ったものだった。

武藏野の小岫が雉(きぎし)立ち別れ去にし宵より夫ろに逢はなふよ(3375)

戦争でも別れて二度と会えないということが無数にあった。現代は会うとか別れることの意味が浅薄になったのである。簡単にどこでも会えるとなれば会うことも別れることもそんなに意味がなくなってゆくからである。

陰々と昼なお暗き青木ヶ原
誰そ埋もれて知らじ
相別れて跡もなしかも
その闇深くヅクの鳴く声木霊す

何かこの歌は謎であり不気味なものを感じる歌である。要するに万葉集に解読できないものがあるのはその背景がわからなくなくなったからである。


タグ:青木ヶ原
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2014年11月17日

抽象画(岩の造形)


抽象画(岩の造形)


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岩の紋章


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岩を分解するといか抽象化するとこんなふうにも見えるかもしれない。
つまりもしこれだけだったら岩とイメージできない
これが岩なんだよといえば岩なのかと見える
だから抽象画はその人の想像力がないと見えないのである。
これなんだろうとなり鑑賞もできない
つまり岩だったら岩という具象画でないからそうなる
言葉ともにている。石とあればどういう石なのか実際はわからない
抽象的な石であり石にもいろいろあるからわからなくなる。

だから分解するということでは何抽象画はハソコンと相性がいいのである。
それはピカソの絵でもわかるように何か具象画を分解しているからである。
抽象画が具象画でいなからまた無限に変化する
これが山だとか石だとかとしてイメージ固定させないから変化させられる。
だからパソコンのソフトによって無限に変化させやすいのである。
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残る虫 (介護とか医療にこんなに労力費やす社会の疑問)




残る虫


(介護とか医療にこんなに労力費やす社会の疑問)


前畑に老婆あわれや時雨かな

道に会う老人多し枯芒

ここに鳴く残る虫を聞き里暮れぬ


10人歩いていて6人くらいは60以上かもしれない、若い人は二割りも会えばいい方だろう高齢化社会は老人にエネルギーが費やされる時代である。
それか個々人の家で終わっていればいいがディサービスでも介護保険で受ければ社会の負担になる。
ただ田舎では何か介護関係と医療関係の仕事が多い。
介護はこれは長いし大きな社会問題である。介護社会とすらなる。
その負担が家々にととどまっていればいいがこれが社会負担になると十兆円とかなんかそれだけでも途方もない労力とエネルギーが金も費やされる。

そういう社会とは果たして活力ある社会なのかいい社会なのかわからない
介護によって社会自体衰退してゆくということもありうる
それだけの労力を費やすとなるとそうなる
ただ介護も仕事であり仕事を与えているという面はある。
それにしても社会全体が介護や医療に費やす労力も金も莫大なものとなり負担となる。
そしてそもそもその意義が見いだされるのかという疑問もでてくる。
家族だったら祖父母でも親しいことがあり家に尽くしたとかで世話することがある。
なんらか家族内で介護する意味は意義はでてくる。

自分の場合は特別世話になったから恩返しとしてやっている。
しかし他の人はそういう意義を感じられるのかとなる。
社会自体でこれだけ多くの人を介護する労力と金でもその負担が天文学的になる。
それかついには社会まで疲弊させてしまうから若い人の大きな不満になる。
確かに何か死んでゆく老人にそんなに金を使い介護して90歳百歳まで生かしているというのも社会にとっていいものかどうかわからない。
だからといってすぐ安楽死だとか60代でも始末しろとか極端になるのは疑問である。
75くらいまではそんなこと言えない時代なのが高齢化社会である。
ただ近くのディサービスの大きなホテルような施設に来るのは90以上の人が多いのである90はもう珍しくもない普通である。
でも90あたりからどうしても介護状態になってゆく人が多いのである

90となるとまさに残る虫である。でもそんな年になると誰も残る虫の音に耳を傾ける人もいなくなるということもある。
あまりにも長生きすることの問題は現役で働いてから老後が長すぎる問題がある。
自分の姉も公務員として働いているときは良かったがやめてからなにもしていない、
自分が優秀だったといっても退職してから何の社会の用にもたたないし家族でも料理もしなかったから無用の人となってしまった。
意外とそのことか怖いことだった。つまり認知症になることの大きな要因だったともなる人間は退職したりすると何も用がない人になりやすい、社会での役割がなくなる。
そして家族でも役割がなくなる場合がある。


するとその人は用ない人となり社会から忘れられるてしまうのである。
社会から忘れられるということは存在しなくなることでもある。
それが社会で知られるときは認知症とか病気とか困ったことになったとき社会のやっかいものとしてめんどうかけるものとして知られる。
そういう老人が膨大なものとなってゆく。
何か今は社会か変化が激しいから経験豊かな老人の出番がなくなっている。
ほんの一部の人しか社会では老人は必要としない
ただの社会のお荷物になりやすいのである。
専門的な技術職は時給7万とかもあるというからそういう技術をもっていれば別に退職しても社会的に有用なものとして迎えれられるのである。
ほとんどの人はそうならないから問題なのである。

いづれにしろ介護とか医療とかにこれだけ労力でも金でも費やしている高齢化社会は何か普通ではない、だから社会自体か介護医療や障害者の世話で衰退してしまうということもある。近くで障害者一級の人が69歳で死んだ。その人は二人も介護していた。
だから一人死んで楽になったなとかなってしまう。
多重介護ほど苦しいことはない、一時自分もそうなったからどうなってしまうのだろうとものすごく不安だった。でも一人が死んで助かったのである。
その時自分も病気になっていたのだから辛かったのである。
タグ:介護社会

2014年11月18日

人間は何に労力を費やしたかで見る文明論 (超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)


人間は何に労力を費やしたかで見る文明論


(超高齢化社会は寿命を伸ばすために労力が費やされる文明)

●技術から見る歴史はわかりやすい

歴史の見方はいろいろある。一つの見方などない。だからそれぞれの分野で異なった見方をしている。人間は道具を作るものであるとか言うのも一面の見方である。それは技術の発展が深く関係しているから理系的に科学的なものとして見る。
例えば弥生時代から古墳時代とか奈良時代でもノコギリが確かにあったのだが一般には使用されていない。
石斧とかは縄文時代からあるし石刀とかもあるがノコギリがなかった。
ノコギリがないということは同じ寸法に木が切れないのだから家も建てられない。
奈良時代は法隆寺とか五重の塔をすでに建てていたのだからノコギリも使用したていた。ただ一般的には使用されていなかった。ノコギリが普及したのはかなり後の時代だった。そういう技術的な面から歴史を見るのも歴史の大きな見方である。
中世で城壁が無用となったのは大砲が発明されたとかが原因であった。
信長が鉄砲を利用して天下を制したとか技術的側面から歴史を見るのは何かわかりやすい一方で歴史は複雑であり様々な要素がからみあっていて歴史とは何かは一つの答えはない
歴史はその人の専門家でもみんな見方が違う、それぞれの個々人の関心から歴史を見るとしたら無数の見方があることになる。
歴史は絶対に決まった見方はない、マルクス主義がもてはされたのは経済を階級という視点から見たものでありそれが歴史を明確に説くものとしてわかりやすいからもてはやされた。でもそれも一つの見方に過ぎなかったのである。
歴史はあまりにも多様であり人間の過去に生きた集積だとしたらそれを一つの見方として解析などできないのである。
ただあらゆるものに歴史がある。

例えば墓にも歴史がありこれも不思議なのである。
江戸時代には個人墓であり夫婦墓が主である。それが明治時代になると一家の家族の墓になる。それは江戸時代前まではなかった。
ではなぜそうなったのか?それは明治になり国家から強制されたものであった。
だから家族墓というのは歴史的に見たら新しく不自然なものだとさえなる。
個人墓とか夫婦墓はかえって理解しやすい、自分の名前を墓に刻むことは残すことは庶民にとって誇らしいことだったからである。侍は苗字があっても庶民にはなかったからである。夫婦墓というのもその結合の深さから理解できる。
ただ家族墓となるのこれは明治以降であり新しいものだから本当は理解しにくい。
また家族墓になる必然性もなかったのである。
何でもこうして歴史的にふりかえると見えてくるものがあるから歴史の研究は欠かせないのである。

●歴史を建造物から見るのもわかり安い

今回歴史の一つの見方として人間は何に時代時代に労力を費やしたかで見るのもかりやすい。ピラミッドをなぜ作ったのか?あんな巨大なものを膨大な労力を費やして作ったのか?それが今になると不明になっている。王の墓だというのは近年否定されている。
つまり王の権力の象徴として作られたのではなく庶民も積極的に参加して作り上げた。
自主的な民衆の支持があって作られたという説も有力になっている。
一つの宗教的建造物だったという説もある。何か信仰の対象だったというのも理解しやすい。あれだけのものに費やした労力はやはり王の権力だけでは作れないからそう見るようになるのも理解できるのである。
明確な理由はわからないにしろエジプト文明はピラミッド建設にその労力を費やされた文明だったともなる。
そういう建造物、建築関係から歴史を見るのもわかりやすいのである。


ローマは公共の建築に力を入れた。またコロッセウムとか競技場にその労力を費やした。未だにそうした建築物はヨーロッパに石の建造物だから残っている。
もう一つは道を作ることにその労力が費やされたともなる。それは道によってローマ帝国の支配権を確立するためたったのである。
次に中世はキリスト教の聖堂に民衆の労力が費やされた。それはヨーロッパ行けばいたるところ大聖堂が残っている。それは荘厳な立派なものであり石で作ったから残っている。それだけ宗教の時代だったともなる。宗教というとき、インドでも中国でも韓国でも日本でも宗教の時代があり仏教の仏像や伽藍の建築に労力が費やされた。
だから仏教文明だったと中国でも韓国でも日本でもなる。
なぜそれだけのものに労力が費やされたかとなるからだ。
奈良の大仏がその象徴でありあのように巨大なものはピラミッドに匹敵する。
それから古墳時代は仁徳天皇の巨大古墳がいくつも奈良に作られた。
古墳を造ることに民衆の労力が費やされたのである。だから古墳時代とされる。
それはなぜなのか?となるとこれも良くわからなくなっているのだ。
ただ歴史として見れば仏教に民衆の力でもその労力が費やされた時代だとなる。
つまりこれも科学や技術から見ると同じく残された物として歴史を見るからわかりやすいマヤ文明でもなぜあのようなピラミッドのようなものが作られたのかとなるとそれは天文を知ることにその労力が費やされたためである。天文台がマヤ文明を象徴していた。
文明は建築物から見るとわかりやすいのである。

●江戸時代は米を作るための開墾に労力が費やされる

ただ建築物だけではない、人間の労力が費やされるのは江戸時代なら開墾して開拓して米を生産することに労力が費やされ続けてきたのである。米を食べることのためにいたるところに海側は埋め立てて開拓して山側は棚田のようにわずかの土地でも米を食べたいから作られてきたのであり米を作ることに労力が費やされた文明だとなる。
これは古墳とかピラミッドとか仏像とか天文台とかとは違いわかりやすい。
米を食べたいということはうまいものを食べたいということでありこれは今でも本能としてあるから変わりない。でもピラミッドはそうした食べるものとは違う、古墳にしてもなぜそこにそんな労力を費やしたのか今になるとわかりにくい、それは食料生産のためではない、ただマヤ文明は天文を知り豊作を祈ったのだから実用として天文台のピラミッドを作った。ただ古墳にしても仏像にしても聖堂にしても精神的なものとして作られている。ローマの建造物や道も実用的なものとして作ったから現代でもわかりやしすい。
でも古墳でもピラミッドでも宗教的建造物になるとなぜそれだけの労力を費やしたかわかりにくくなる。
なぜなら近代化したときヨーロッパでも宗教への情熱は失い現実の利得一辺倒になったからである。
世界へ船で未知の大陸に向かったのも黄金を求めて求めてとか一攫千金を得るためとか何か実利的なものとして大航海時代生まれた。
そのエネルギーは実利的なものを求めてでありアメリカ大陸発見はまさに実利の大陸となったことでもわかる。
アメリカには精神文明はない、物質文明しかないことでもわかる。
アメリカが何に労力が費やされているか見ればわかる。科学があったとしてもそれは実利であり軍事力の強化でありエジソンの発明でもすべて実利のためであった。
だからローマとにているというのもわかる。
科学のために労力が費やされているというときそれは実利に結びつくからであり金となるからである。機械を発明することに労力が費やされるのもそのためである。

世界的にみてもそうだが日本でも何に労力が費やされたかを見れば時代が見える。
江戸時代は開墾開拓新田開発に労力が費やされた。それは米を食いたいということのためでありわかりやすい。
でも明治維新からは人間の労力は米を作ることも継続されていたが養蚕に労力が費やされた。いたるところに今でも養蚕した農家が全国に残っている。
明治維新後も日本は八割が農民であり農業が主体であった。養蚕は絹を作りそれを外国に売る外貨を稼ぐためだった。それで富岡工場が世界遺産になったのである。
その絹で稼ぎ軍事力を強化して富国強兵の政策がつづいていたのである。
つまり養蚕に労力が費やされた文明だったともなりうるほど養蚕が盛んだったのである。それから仕事としては家事に多大な労力が費やされていた。
それは世界的にそうである。セーヌ川が洗濯する女性でうまっていたという絵もある。
洗濯すること自体その労力が膨大なものとなる。
日本でも戦前の女性の仕事が家事であった。中産階級すら女中を二人も雇っていた。
それほど家事というのが機械化かされていないから労力がかかるものだったのである。
自分は今一人で家事とか介護をしているがこれも機械化したからできているのである。
そうでないと本当に二人も女中が必要となっていたろう。
今どき女中という言葉すら死語となってしまった。
女性の労力は今や別な方に費やされているのだ。

●超高齢化社会は老人の寿命を伸ばすために労力が費やされる

そして戦後という高度成長時代とは何に労力が費やされたのかとなる。
社会全体から見れば電化製品などメイドインジャパンが世界を席巻した時代だからそこに労力が費やされた時代にもみえる。車も輸出品になっているから車を作ることと利用することに労力が費やされた時代、車社会の時代だともなる。
それは技術的な面から見ればわかりやすいとなる。
一方で明治から大正から太平洋戦争があり戦争の時代、戦争に労力が費やされた時代だとも見える。太平洋戦争では3百万人も死んだということはまさに人命まで費やされたからてある。
ではなぜそんなに人命まで費やさねばならなかったのか?そもまた良くわからないとなってしまっている。何故に人命までそんなに費やさねばならなかったのか?
それすら一つの歴史の謎になってしまうだろう。
それは明治維新から西欧列強に伍するための結果でありそれが太平洋戦争で終結した。
そして次の労力はエコノミックアニマルとして企業戦士となり物作りに励み電化製品などで世界を席巻した時代だったとなる。
何に労力が費やされたから見ればそうなる。

そして今何に最も労力が費やされているのか?それは奇妙だけど超高齢化社会になり寿命を伸ばすこととか健康であり介護や医療に労力がついされている時代である。
この分野でどれほどの労力と金が費やされているか、それは自分の住んでいる田舎で一番立派なのが病院と老人ホームとか介護施設であることでもわかる。
それはまるで神殿のようになっているのだ。なぜなら田舎では高いビルディングがないから一番目立つのは病院であり老人をホームであり介護施設だとなってしまう。
この老人のためにどれだけの労力が費やされているのか?病院だってほとんと老人であることを見ればわかる。若い人などほとんどいないのである。
老人のためにみんな労力を費やして何十兆円が老人のために使われている時代なのであるつまりそれこそが超高齢化社会であり介護施設には90歳以上の人が多いのである。
現代を象徴するのはまさに百歳の人は百万くらいになるかもしれないとんいう超高齢化社会なのである。
そんなことに金を使うのは無益だというのもわかるが現実にそれだけの使う金が労力があるからそうなっている。それが仕事を造り出しているからそうなる。
あとの仕事は機械がしているのかもしれないからそうなっている。

こんな無用な老人に労力を費やしてどうなるんだともなる。
それは大古墳にピラミッド建設に膨大な労力う費やしたのはなぜかと問うのと同じである超高齢化社会とは老人に労力が費やされる時代なのである。
そんなこと必要ないつづかないということもこれからありうるが現代の文明の特徴がそうなっているしこれは自分の地域だけの問題ではない、世界的なものとして特に先進国では長寿をあくことなく求める社会になっているのである。
ただそういう余力があるからそういう文明にもなるということである。
江戸時代だったら米を作ることにその労力が費やされていたからである。
米など今は余っていて困っていることでもわかる。
時代によって何に労力が費やされるかとみれば現代は超高齢化社会であり老人の寿命を伸ばすことに労力が費やされた時代だとるでなる。
これも一つの見方としてありうるのである。


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2014年11月19日

野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性 (ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)


野馬追いの旗とシエナのコントラーダ(騎士祭り)の共通性


(ヨーロッパの中世と日本は城が多いことでにている)

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この山は苗字をとったものである

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こういう波頭の旗印も野馬追いにあった

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これは明らかに水運か海運と関係していた
船としては小さい


Aquila ワシ
Bruco 毛虫(カイコ)
Chiocciola かたつむり
Civetta ふくろう
Drago 竜
Graffa キリン
Istrice はりねずみ
Leocorno ユニコーン
Lupa オオカミ
Montone ひつじ
Nicchio 貝
Oca がちょう
Onda 波(マスコットはイルカ)
Pantera 豹
Selva 森(マスコットはサイ)
Tartuca 亀
Torre 塔(マスコットはゾウ)

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自作の海の紋章


たとえば、「カイコ」さんチームは、昔、絹の生産者の集まりだったとか、

13世紀ごろ、シエナの勢力範囲は、海側のグロッセートから、
山側のアレッツオまでと、トスカーナの広域にわたっており、
中世自由都市として繁栄し、コントラーダも42あったそうです。
それが、14世紀のペストの流行で人口が大幅に減少し、
シエナの勢力も領地も縮小し、コントラーダも23になってしまいました。
そして、16世紀中ごろには、自由都市の終焉を向かえ、
フィレンツェの支配下に入ります。
時代の流れとともに、しだいに有力なコントラーダが、弱いコントラーダを
吸収合併して、18世紀に、現在の17コントラーダになったそうです。
「波」のコントラーダは昔、海に面した領地のなごりだそう。

コントラーダは「家」に所属するのではなく、「どこで生まれたか」に
よって決まるそうです。
http://gogosiena.exblog.jp/11524726/


封建制があったのはヨーロッパと日本だけである。他にはないから歴史的に共通している小さな城がヨーロッパには多い。それが日本とにている。騎士がいて武士がいるのもにている。だからヨーロッパの歴史は日本の歴史と共通性がありその比較研究がしやすいのである。ただヨーロッパは中世でも大陸だし交通が地中海などでも盛んだから外国の文化が入りやすくそれがヨーロッパを作り出した要因である。
ルネサンスはそうしたイスラムとかでも外国の文化を取り入れることによって成し遂げられた。
ギリシャから発展してイスラム文化も融合していたのである。イスラムとは争っていても文化も入ってきたのである。例えば数学でもアラビアから代数を取り入れたとかいろいろな学問も入ってきた。ギリシャの文献がイスラムで翻訳されたのとしてまずヨーロッパに入ってきたのである。

ヨーロッパを形成したのはローマ帝国でありキリスト教である。ローマ教会がヨーロッパを支配することにもなった。教会はカトリックによって政治化しているから支配地域が教区に無数に別れた。コントラードの起源もそうした教区と関係もしている。
ただ自由都市というときそれが一つの独立した都市国家なのだから城壁で囲み都市として防備されていた。
絶えず他から攻められることを恐れているから城壁をめぐらして小高い丘に城を作り城下町を形成した。その路地も細く攻めにくいのは日本の升形とか細い路地で見通しを悪くしたのとかにている。
橋にしてもそうである。橋をかけるとそこから敵が入りやすくなるから日本でも橋は作らず江戸時代でも川を人を担いでわたっていた。大きな橋を造れないこともあったが防衛のためにも橋を造らないこともあった。
ヨーロッパの橋は石であり頑丈であり橋を渡ると門があり市内に入る。
橋は市の一つのシンポルとなる。また川はヨーロッパでも中国でも運河のうよになっていた船での交通が盛んであった。川が交通路となり商業が盛んになったのがヨーロッパの都市でありその川の故にヨーロッパが栄えたということもある。
ライン川にして川で結ばれた都市があった。都市は川の近くに教会があり市場があり川と直結していたのである。


ヨーロッパの中世に親近感を覚えるのは日本の歴史とにているからである。一見かなり違ったように見えてもいたるところに小さな城があることがにている。そして相馬野馬追いと共通していることが興味深いのだ。ヨーロッパの中世は様々な紋章が発達したし騎士の時代でもあった。それは侍の時代があった日本とにているのである。ヨーロッパにも旗祭りがあり野馬追いも旗祭りとあるように3000もの旗の種類があることには驚く。
なぜこれほどの旗の種類があるのか謎になっている。
野馬追いの旗印は村々の旗ではない、地域の旗ではない、家系で伝えられた旗であり相馬氏一族関係の旗だともなるがそれが千葉氏とも関係していたりその由来は関西までたどることになるから複雑であり由来が解明できないのだ。
地域で同系統の旗が生まれたときはそれは親戚関係などで同系統の旗が生まれた。
だから野馬追いの旗は村々の地区の旗ではないことがこのシエナのコントラーダの紋章や旗とは違っている。


名誉の鉾先、雄々しき系図
勇気に魅せられた獅子の心
騎士の華、フランスの栄光
勝者にして果敢なる戦士
心賢く事にあたって、あやまたず

ではなぜこんなに多様な紋章が生まれているのか?それはそもそもヨーロッパの歴史はイタリアならろローマからはじまっている。するとローマはアフリカまで支配していてそこには象がいて象をコロッセウムで戦わせたりした。ライオンでも豹でも戦わせていた。
アソリカとローマ時代から関係していたからそうした動物もなじみだったるきである。
現実にカルタゴのハンニバルは象の軍団を率いてアルプスを越えてきて恐れさせたことでもわかる。
このコントラーダの紋様はそうしたヨーロッパのイタリアの長い歴史から生まれているのだ。野馬追いも戦国時代から生まれているから長い歴史があるからその由来が不明になっているのである。
ただ根本的な相違はコントラーダ(地区)の旗印だったことである。都市を守るための一つの軍事的役割もあったのかもしれない、馬を飼うことも重要視されていたことでもわかる騎士と馬も一体であるのは野馬追いでも同じだからである。

日本とヨーロッパの封建制でわかりにくいのはヨーロッパが自由独立都市国家があったことである。日本にはそれがなかったから理解しにくいのである。
自由都市国家があってヨーロッパの文明がありえたのである。

civilizationとは

文明とは civilization の語源 civitas (都市、国家、都市国家)に由来し、同系統の言葉として city (都市)やcitizen (市民) civil (市民の、公民の)があります


このことであるから日本にはその都市がなかったのだから自治都市の歴史がないからそこにヨーロッパ文明を取り入れてもその基本になるものがないから文明化しえたないものとなる。それは中国でもそうであり都市国家から由来して作られたものがないからヨーロッパ文明全体を理解しにくいし取り入れても実際はその本質的なものは取り入れられなかったのである。

コントラーダの紋章をみると野馬追いの旗と共通したものがある。波模様の旗があり
森の紋章があるがこれも木の旗印がある。勇ましい動物の旗印はヨーロッパの特徴である野馬追いでもイノシシとかが良く旗印にあるから共通している。また鹿の角を模した兜もあり共通している。ユニコーンなどはギリシャ神話から入ってきている。
中世の森には狼もいたし日本でもいた。飯館村の佐須村の山津見神社は狼を祭っているのである。
中世では森は食料を得る場所でありそれは狩猟時代や採集時代の継続があった。
そこには狼もいた。毛虫はカイコで絹織物の生産を象徴していたとなるとこれも日本でもそうだったからわかりやすい。羊もわかりやすい。その他の動物はアフリカ由来だけどこれもローマ時代からなじみの動物だったのである。
貝は海側と関係していたというがイタリアは海に囲まれているから珍しくない。

相馬でも海と関係していたがもともと相馬氏は海とはか関係していない出自であるが
意外と中世は海運が盛んであったこともある。相馬氏には海運に従事していた人たちもいた。だから小高には港があり船が相当に出入りしていたのである。
コントラーダにも歴史がありペストの猛威で半分に消滅したとかこれは津浪でこの辺の村がいくつも村ごと消滅したことともにている。一つの街の歴史はそうした重層的になっていてこれを理解するのは容易ではない、ヨーロッパはローマ時代からの歴史があるから軽く2000年前にさかのぼるからちょっと一回行ったくらいでは理解しにくいのである。
ただ理解するとしたら日本との比較で理解するという方法が親しみやすいとなる。

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川で洗濯して橋の門から市街へ入る


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タグ:野馬追い
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2014年11月20日

相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか? (熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)


相馬藩内に鈴木、渡辺の姓が多いのはなぜか?


(熊野から黒潮に乗り伊豆から常陸と移動した水軍の末裔)

●立谷氏は熊野水軍、渡辺氏や天野氏は伊豆水軍の系統

立谷家ル―ツ Vol.3

鈴木重原は元々義経に従って勲功あり、功績を上げていた。その後紀州に帰ろうとしたが、里人に尊ばれるに及びこの地宇田郡中野邑にとどまり、宇田郡の那主と称し数村を領し、熊野大社をまつり祭祀を怠らなかった。
 また、建武年中(1330年〜)国司北畠顕家は特に熊野神社を尊信し大社として多くの神官、社僧をおいて中野地区は大繁栄していた。その後、乱世時代に成り下火になっていった。鈴木重原は中野左近亮の先祖にあたり立谷と名を改める。
 
Posted by tachiyafamily at 20:06 │Comments(0) │TrackBack(0)
2004年12月25日
立谷家ル―ツ Vol.2
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった
 http://blog.livedoor.jp/tachiyafamily/archives/2004-12.html 
 
 
 天野氏(あまのし、あまのうじ)は日本の氏族、藤原南家工藤氏の一族(藤原北家の一族足立遠元を祖とするとも)で、伊豆国田方郡天野郷(現・伊豆の国市天野)に居住した地名を取って天野と称した。天野氏は後に遠江守護となった今川氏と結び、国人勢力として遠江にて共に力を拡大した。遠江国のほか、天野氏の支流が駿河国・相模国・三河国・尾張国・甲斐国・安芸国・能登国等に繁延している。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E6%B0%8F

その先祖渡辺喜兵衛は伊豆の舟大将として、徳川家康の信任厚く護送役人をつとめた。
豊臣家5大老のひとり宇喜多秀家が関ヶ原の合戦に敗れ、八丈島へ流された際、護送の任にあたったのもこのひと。
http://www.town.matsuzaki.shizuoka.jp/FMPro?-db=m_faq_02.fp5&-format=p01f.html&-max=all&-sortfield=NO&NO=761&-find

長浜城址

長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
 天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました
http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm
 
 
 熊野の鈴木氏は、熊野信仰の発展とともに各地に発展し、全国一位を占めるほどになった。もと穂積氏といい、紀州新宮を本拠とし、榎本・宇井と三家をなした。もち名草郡藤白湊を中心として発展、同地に王子社があり、水運の要地であった関係から、熊野湛増の「頼切りたる侍」として、熊野水軍の重要な要素をなした。
  源平争乱のときには、摂津の渡辺党とともに、源氏の水軍として活躍し、義経の都落ちにも従った。四国・九州にも熊野信仰を伝えているが、やはり東海から関東にかけての活躍が著しい。三河では、幕府の御家人として江戸に移ったものが三十数家というから、如何に鈴木党が三河に栄えたがわかる。下総の香取郡・匝瑳郡にも多いが、江戸の発展が何より鈴木姓の増加をもたらしたものと思われる。
  伊豆の西海岸江梨にも、鎌倉幕府の水軍として重きをなした鈴木の一族があった。室町以降、鈴木党は水軍の将として各地に迎えられたようであるが、その一方、熊野のすぐれた漁業技術と、熊野の信仰を背景として、鎌倉中期には、三陸の海岸にまで進出した。http://www.harimaya.com/o_kamon1/seisi/busi_myo2.html
 
 
●古代から熊野、伊豆水軍は知られていた
  
 島隠り我が漕ぎ来れば 羨しかも 大和へ上るま熊野の船
 
  柿本人麻呂と並び称される大歌人、山部赤人(やまべのあかひと)の歌。
 
万葉集には熊野の船と特定して四首がある。熊野の船がどういうものかわからないにしろ熊野の船は奈良時代にすでに知られていたのである。
熊野は地形的に海に迫って山があるから山には楠の木などの造船に適した木があり造船が盛んになっていた。
この地形は伊豆と相似形であり伊豆も造船の基地として古くからあった。

 [五年]冬十月に、伊豆国に科(ふれおほ)せて、船を造らしむ。長さ十丈(とつゑ)なり。船既に成りて、試に海に浮くるに、便ち軽く泛び疾く行くこと馳するが如し。故、其の船に名(なづ)けて枯野(からの)と曰ふ。船の軽く疾きに由りて枯野と名くるは、是、義(ことわり)違へり。若し軽野と謂へるを後人(のちのひと)訛(よこなま)れるか。(応神紀)
  三十一年の秋八月に、群卿(まへつきみたち)に詔して曰はく、「官船(みやけのふね)、枯野と名くるは、伊豆国より貢れる船なり。是朽ちて用ゐるに堪へず。然れども久に官用(おほやけもの)と為りて、功(いさをし)忘るべからず。何ぞ、其の船の名を絶へずして、後葉(のちのよ)に伝ふること得む」とのたまふ。群卿、便ち詔を被(う)けて、有司(つかさ)に令(のりごと)して、其の船の材(き)を取り、薪として塩に焼かしむ。是に五百籠(いほこ)の塩を得たり。則ち施して周(あまね)く諸国(くにぐに)に賜ひ、因りて船に造らしむ

堀江漕ぐ 伊豆手の舟の 楫つくめ 音しば立ちぬ 水脈早みかも
(巻20/4460)


古代から海に囲まれた日本だから船の技術が発達していても不思議はない、でも海の歴史はわかりにくい。遺跡としても残りにくいからわかりにくくなる。そしていたるところで洪水であれ今回のような津浪であれ栄えた港自体が消滅しているのがかなりあるのだ。
相馬藩内から黒潮が流れる海岸一帯には熊野信仰が本当に多い。なぜこんなにあるのだろうかというくらい多いのである。そのこと自体が熊野信仰をもたらした人々が相当数いた結果なのである。

相馬氏は千葉氏から出て千葉県から移動してきたとしても鎌倉時代に関東武士団が東北に移住したことから鎌倉武士団の姓が東北に移動して広まった。鎌倉時代にさかのぼる姓が東北では一番古いとなるしそこまでは史実的にもたどれるのである。
南相馬市の鹿島区の岩松氏は鎌倉時代に烏崎に船で到達したという伝説がある。
その時船運は相当に発達していたのである。だから戦国時代は伊豆の海、相模の海、駿河湾で北条氏などや武田水軍までが交わり熾烈な海上での水軍の三つ巴四つ巴の激しい戦いがあったのである。海上の派遣争いがあった。それだけの戦いをするには相当な船の技術がなければできない。
熊野水軍、伊豆水軍などはそれだけの力を古代からもっていたのである。

だから相馬藩内にはとにかく鈴木とか渡辺とかが多い。これは全国的にそうでも相馬藩内では目立った姓であり主な姓になる。それは熊野伊豆などの水軍の系統につながるものであった。
文治五年三月(1189年)泰衡が義経を岩手県衣川高舘に攻めた時、鈴木重原(紀州藤代和歌山の住人で熊野三山新宮・衆従の子孫に当ると思われる)
 

鈴木重原は、兄重家が義経と共に戦うと聞き、義経と兄重家を慕って家臣安子、蟹田、石田、山津田氏等を率いて奥州に下る途次、既に衣川の高舘は灰燼となり皆闘死したことを知り、成すところなく、やむなく宇田郡中野邑にとどまった.
 

だからこれなどは興味深い、義経は山伏とか水軍関係の人たち、この人達は村上水軍で知られるように元は海賊だったのである。水軍の元はバトイキングでもイギリスの海軍でも海賊だった。そういう人たちが義経臣下になっていた。だから頼朝に追われるときも黒潮の流れる関東から常陸から東北へ逃れたという説もでてくる。
黒潮海流は船には大きな影響を及ぼしていた。だから黒潮文化圏が熊野から東北まで海岸地帯に生まれた。それは奇しくも今回の津浪の被害地域と一致していたのである。
ただこの海流は船に乗ってみないとわかりにくい、船が山を目印にして航海していたというのも乗ってみないとわかりにくい。つまり海とか船が理解しにくいのは自ら体験できないからである。陸地だったらある程度体験できるが海は船は体験しにくいから船のことがわかりにくいのである。
鎌倉時代から南北朝時代も畠山氏も水軍を司る氏であったり深く海と関係した氏族だったのである。だから鎌倉時代から南北朝時代は海からの視点がないと解読できないのであるただ港は一時栄えても跡形もなく消えてしまうことがある。
それが今回の津浪で証明された驚きであった。

●相馬氏にとって慶長津浪は支配地域を広げる契機となって中村に城を移した

(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
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これだけ舟のことがでていて村上ニというのが記されている。村上ということに相当にこだわっていたのである。村上に小高から城を移そうとしたのは単なる思いつきではない、明確な意志があって村上に城を建てようとした。
そして中世に塚原には大きな港があり蔵院まであった。それだけの船が集まる港だった。海運で栄えていたのである。
つまり明らかに村上は小高い丘であり
長浜城址 海上に突出した小丘全体が城で、戦国時代の北条水軍の根拠地。
 天正八年(1580)の武田氏との海戦では、 前線基地として、水軍の主力が集結しました http://www.izunet.jp/manabu/c-izk.htm
 
 この長浜城と同じ機能を有する場所として明確な意志でもって選定されたのである。
 小高には街中にも貴布船神社があり村上にも祭られている。これは船の神を祭ることでもあり小高が浮船城と言われたのも船と関係していたのである。
 小高だけではない、八沢浦も天然の良港であり船運があった。
 海老村には天野氏がいてこの天野氏は伊豆水軍の末裔なのである。
 何を運んだかというと重に塩を運んだ。当時は塩が貴重であり塩がすでにかなり作られていて運ばれていたのである。
 
 八沢浦 小魚を漁して浦舟20艘、13漁船、七荷運舟 浦辺に塩場、釜屋あり 村人塩を焼く   (南海老村)

 七荷を運ぶ大きな船が出入りしていたのである。これは磯部でもそうであり原町の泉氏も海運を担って力をもっていたのである。
 
 ではなぜそうした港が栄えていたことが忘れられたのか?
 
 それが津浪と関係していた。津浪で今回のように小高が甚大な被害があったことでもわかる。津浪が来た所はもともと海で港だった。そこに多数の船が停泊していた。
 それが慶長津浪で壊滅したのである。
 それが契機となって相馬市前の中村に城を慶長津浪の一カ月後移したのである。
 そんな大事件をなぜ一行しか記されなかったのは謎である。
 相馬氏進出の経路で解明したように相馬地方は最初は鎌倉から鹿島区の烏崎に船できたといわれる岩松氏が支配していた。それは原町の新田とかも支配していた。
 そのあとに入ってきたのが相馬氏だった。

 今の鹿島区は北郷となっていてそこは単に小高より北というだけではない、そこは別な勢力があり支配できなかったのである。 原町の泉氏の支配していた地域もそうである。
 かや浜とかしふさ(しぶさ)までは進出しても泉までは入っていないのである。
 慶長津浪によってそうした旧勢力が大打撃を受けて相馬氏は旧勢力を支配しやすくなった。だから一カ月に中村に城を移したのである。
 相馬氏の進出にとって津浪はかえって支配地域を拡大するのに都合がいいとまでなっていたのである。
 だから津浪の復興のために公共事業のために中村に城を移したことはありえないのである。


 
 相馬氏進出の経路
 http://musubu.sblo.jp/article/104996142.html

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この本は面白い、伊豆水軍は東北にも関係していた

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これは水軍の紋章にもなる


タグ:水軍
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2014年11月21日

冬薔薇 (写生がそのまま深い趣を現しているー俳句はやっぱり写生が基本)



冬薔薇

(写生がそのまま深い趣を現しているー俳句はやっぱり写生が基本)


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冬薔薇我のみ見てや散りにけり
冬薔薇三輪ほどが散りしまま
冬薔薇しきりに風に吹かれをり
冬薔薇白き清楚の聖衣かな
冬の空大地の広く石一つ
我が家の二階の広く鳶の舞ふ
墓の前今日もまた通り冬椿
冬日さし鬼風の碑の隣かな
見張り塔シエナの裏道冬の暮

俳句は写生だというとき、薔薇が咲いているのを毎日通るから見ている。
白い薔薇か咲いているのは空家なのである。
そこはすでに十年くらい空家なのだけど荒れた感じはしない
誰かが戻ってきて手入れしているのだろう。
それにしてもいつまで空家のままなのだろうかとなる。
今は家が不足しているからこの辺では売れるはずだからである。

自分のみがみて冬薔薇は散りその薔薇が散ったまま残っていた。
見るというときsee、look、watchがあるがwatchingが写生である。
定点観察で見続けるのが写生である。
冬薔薇が咲いている、何輪か咲いている、一輪散った、二輪散った・・
その散った花がそっくり散ったままだったとかな見続けるのが写生である。
それはなんでもないのだけど何か深いものが写生から生まれているのである。
だから写生そのものが俳句芸術の基本になる。

自分は何か人とつきあうより何もない所に石のように黙っているのが性分として合っている。それは母の性格とにている。人といるだけで疲れるということがある。
だから付き合いがないのはそういう性分なのである。
母も何か人付き合いが苦手だしじっとしているのか向いている性格である。
だからそれは何か他から見ると人も寄りつけないというふうに見える。
ただ冷たいというのではなくそういう性分なのである。


鬼風の碑が隣にあるということが不思議である。
会ってもいないしどんな人かもわからないが何か近くそういう人がいてその碑があることが何かいるような感じになるから不思議である。
ここにもこんな人いたのか、自分ともにているなと思うから不思議である。
それは俳句を残したことや江戸時代に全国を旅していたということで親近感を覚える。
ただこの人は恵まれていたというのも自分とにている。
自分より恵まれていたと思う。江戸時代には俳句を作るとか旅するだけで相当に恵まれていた。

詩人がいたとしても戦前でもみんな貧乏であり生活に追われ悲惨なものとして終わっている。詩を書いても金にはならないからである。
その恵まれていたということはこの人に関しては貧乏で苦しんだとか語る必要はないし
お前は恵まれているとかも言われないともなる。
だからこの人の墓に冬の日がさしているときそこから不遇だったことは語られない。
一茶などとも全然違っていた。
ただそんな恵まれていた人が東北の辺鄙な村に町にいたということが不思議なのである。それでも商人の家なら江戸時代でもこんな片田舎でも恵まれていた人がいたということである。
タグ:冬薔薇