2014年11月08日

自分の近辺の昔 (天明の碑がありここも古い場所だった)


自分の近辺の昔


(天明の碑がありここも古い場所だった)

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秋葉神社も荒れ果てている。でもこんてふうに墓が倒れていたのは自分が子供のとき遊んだ時と変わりないのである。この墓の上をはねまわって遊んでいたのである。
つまりここの墓は60年前と変わりないのである。
ただ何か変わったのか?そこに生きた人々の生活が変わりすぎたのである。
例えば農家がありそこには馬を飼っていた昔ながらの生活をしていた。
養蚕は町内でも農家がありこの辺でしていた。
町内でも農家があった。

1702 元禄15年
1710 宝永07年
1715 正徳05年 家継 長崎貿易制度令(正徳新令)
1716 享保01年 吉宗 徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1758 宝暦08年
1767 明和04年
1772 安永01年
1782 天明02年 〃 天明の大飢饉
1787 天明07年 家斉 天明の打ちこわし。 松平定信、老中となる
1808 文化05年

宝永の碑は自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地にある。
あそこが鹿島町では一番古い場所である。
その前に立った復興団地は地盤が悪く沼地だったろうは言っている。
街中でもそういう場所があった。町と言っても回りが田んぼや畑だったのである。
沼地もあるし淋しい場所でありそれはどこでも同じである。
だから田町とか町田とかの地名が残っている。

人間は自分の住んでいる最も身近な所を知らないという不思議がある。
灯台下暗しなのである。今の時代外国に詳しい人がかなりいても地元の最も身近なことを知らない人が多くなっているのだ。
常に外へ外へ遠くへ遠くへと目が向けられるようになったからである。

子供のときからふりかえると何か失われたかというと近辺の生活そのものが失われてしまったのである。
自分の家でも子供相手の駄菓子屋からはじまった昔で言う三文店屋だった。
その頃菓子でも何でもバラ売りであり計り売りだったのである。
袋は新聞紙で毎日作っていた。

これはインドとか中国でも後進国に行くと同じ生活があるからなつかしいとなる。
昔を知りたかったら後進国にゆくと昔に帰ったような感じになるから不思議である。
インドのベナレスの狭い路地を行ったらあそこは昔と今と太古すら混在している。
野良牛が歩いていている。野良猫がいて野良犬がいるのはわかる。
でも野良牛がいるというのはありえない、インドでは牛は大事にしているし猿など動物を大事にしている。どうもインドで仏教が生まれたのはこの動物と深く関係していたのである。飢えた虎に子供が食べられるというので生身の人間が虎の餌食にあえてなったという法華経の話でもそうである。それだけ動物を大事にして動物とのかかわりで仏教が生まれている。

犬でも猫でも飼ってみればわかる。犬と猫は極めて人間に近いのである。
野良猫の子供かきて困っている。オスの親がいてついてくる。オスは子供に関心がないと思っていた。餌をやっていると子供に優先して食べさせたり頭をなでたりしていたからやはりオスでも子供とみているんだなとわかったのである。
母親はいなくなった。でも雨の日だった細い家の裏を子供つれて餌を探していた。
それは悲痛な表情をしていたのである。餌がなくて困っていたのである。
それは何か人間の母親と同じに見えたのである。
犬猫になると実際は人間化している。だから墓までいたるところに建てられるようになった。
ホームレスがペットより人間を大事にしろというのもわかる。でもペットも人間化しているのである。

そこでは炭が積んであったからまだ燃料として炭を利用している。それでも白黒のテレビで子供がゲームをしていたのである。その辺が現代と同じである。
牛の糞も燃料として干されているのも不思議である。今と昔が混在しているのがインドである。
バラックの小屋で店を出したりしているのもそうである。それは江戸時代のような雰囲気もある。江戸時代の店もそんなものであり棒振りなんかも何も資本もいらないでできるのが多かった。今はあまりにも何でも大がかりだから個人単位ではできなくなったのである巨大資本の系列に入るコンビニやスーパーになってしまった。
その時街でも村でも近隣に密着した生活は喪失した。

近くに豆腐屋があり魚屋が酒屋があり駄菓子屋があり神社には子供が山のように集まって遊んでいたとか何かそうした地域の活気が喪失した。地域が死んでしまったという感じになる。その路地を通っても今はほとんど歩く人はいない。
昔はそれなり歩く人がいた。生活の匂いというのが街からも失われたのである。
店だって近所にあって繁盛していた。だから近くが活気があったのである。
映画館などがあり駅に通じる細い道には店があり繁盛していたのである。
それらが全くなくなってしまったとき地域からも活気がなくなった。
それはこうした一地域のまた一地域だけではない、全国規模でも東京一極集中で地方は衰退した。スーパーでも農協とかが駅前にあったがなくなりイオンのような大きな所に車で集まる。車社会になれば遠くでも行けるからである。

近くにあった水をもらった井戸も枯れている。何かその井戸が今は象徴している。
その井戸水をもらってバケツで運び父が作った離れの風呂桶に入れて自分がバタなどを集めてたきつけて風呂たきしていたのである。
その頃まだ水道がなかったのである。
だからその時井戸があるということはその井戸はその家のものだけではないみんなのものとしてあることがあり近隣のつながりもできていたのである。
そういうふうに何か近隣とのかかわりが生活から失われた結果として活気がないし人と人の綱かりもなくなったといえる。
ではそうした子供時代がありそれは江戸時代からの継続でもあった。炭を使っているということはそうなる。ではここにある天明の碑があり文化の碑もある。
法印とかの墓もある。でも天明時代は飢饉の時でありこの町でどんな状態だったのだろうかとなるとわかりにくいのだ。
近くなのに江戸時代の暮らしなるとなかなかイメージできないのである。
町内でも相当に困窮したから天明の碑が残っている。
ただ町の場合はあとから移り住んだ人たち多いだろう。
自分の家もそうだった。もともと酒屋だった。この辺に農家があったからそういう家は古いのである。

ただ天明の飢饉でも江戸時代のことをこの辺で語り伝えるものはない。
なぜか鬼風という俳人がいて全国を旅した記録がある。
俳句などを作れる人は今ならいくらでもいるが江戸時になるとたいがい裕福な商人であり普通の人は作っていない、第一文字を書ける人はそんなにいなかったからである。
たからそれだけの教養があるとなると裕福な商人でないとできないとなる。
そもそも全国を旅できたということが裕福だからできた。長崎までも行っていたからである。
今なら誰でもしているが江戸時代そんなに旅することはできない、自分が旅もできたのはやはり家に余裕があったからできた。
普通の人でも外国に行かない人はいないのである。
会社で行っているからそうなる。

ともかくこうして近くでも道も死んでいるし生活も失われて活気がない、人のつながりもない。ただ六号線は夜中まで車がひっきりなしに通っている。
夜まで何しているのかと思うくらい車が通っている。
だから車社会だとつくづく思うのである。近くの生活は活気を失い衰退した。
車社会だからこそ道の駅に人が集まる。
今はこの編では全国から人が集まっている。ナンパーみればわかる。
そういう点では活気がある。その他は地方でも地方の一地域でも活気が失われたのである


タグ:天明
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2014年11月09日

冬菜 (土着して代々生き継ぐことに生の意味がある) 冬菜 (土着して代々生き継ぐことに生の意味がある)


冬菜

 
(土着して代々生き継ぐことに生の意味が見いだされる)

 
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日々に見ゆ生き継ぐものや冬菜かな
墓あわれ誰か参るや残り菊
離れじも祈りの像や蔦紅葉
ヒヨドリの朝に飛びきて冬紅葉
故郷に老いて枯れゆく枯芒
冬の雨また石を打ち時過ぎる

姉残す家に住みにつ冬に入りまた思ふかな5年はすぎぬ
我が一人重しのごとく残りけり故郷に生き死ぬるものかも
諭すとて無益なるかな大いなる石はも黙して冬に入るかな

人間はやはり生命の一つだから土着してゆくのが自然なのだろう。
ある土地に長く住んでいると人間もやはり樹や石のようになる。
ただ人間の生が自然のものと違っているのは人間は歴史人間なのである。
必ず誰でも親があり祖父母がいて何かを受け継いでゆき継続している。
一代で終わらないし何代も重ねて継続した時間を生きているのである。
だから家というものも継続された家には重みがでてくる。
例え親が死んでも子が受け継げばやはり家とともに親も生きている。
なぜなら親の残したものを家を通じてふりかえりその土地に密着していれば
その土地からふりかかるのである。
だから人間は樹や石のように自然となってゆくのは人間も自然の一部だからそうなる。

だから故郷が失われたということはその継続も失われる。
そうなると過去も失われ歴史も失われ先祖が亡霊になるとういこともある。
だから廃村はそうした先祖が幽鬼化して彷徨っているような凄まじい荒廃になっている。もともと原生の自然のままだったらそうはならない、一旦人が住んだからそうなっているのである。
人間は一代だけで生きるものではない、それで生は途切れることはない
意味あることは何度も思い返されその意味がさらに深いものとして残される。
庶民の諺でもそれがいかに今でも通用しているかはやはり人間は変わらずに同じこと繰り返している。カルマを繰り返しているからそうなる。
いづれにしろこの辺の混乱はなかなか治まらない、なんとか十年くらいたつとやっと治まったかなとなるだろう。それは神戸の地震でもそうである。
その傷痕はあまりにも深かったのである。
原発事故のことを考えると冬菜というのをいつも今の時期になると見ているけどそれは昔だったらその冬菜があってこの地に生きていけるという実感をもったろう。
今は野菜はスーバーで買えばいい、どこからでも入ってくるという感覚になっている。
そのためには金が必要だとなり金に追われるようになった。
実はそのことが原発事故を起こした要因にもなっていた。
冬菜というとなにか貧しい生活にふさわしい。もし冬菜とかに頼っていれば地元でとれるものに頼っていれば原発事故はなかった。故郷も受け継がれたのである。
つまり貧しい生活はかえって跡を継ぎ安いということがあった。
回りにあるもので生活していればいろいろな復興にかかる労力も費用もいらない
津波でも家が流されたらあきらめてまた掘っ建て小屋でも建てて漁業をすればいいとなるそれでまた海の近くに人は住んだのである
今になるともう便利な生活になれているからそうはいかない
だから住むことあそらめるようになり移動してしまうのである。

人間は年取ってくると自然と死に場所を意識してくる。
どこで死のおうかとなる。それは長く生きた場所がいいとなる。
というより人間も生物だから自然と樹や石のようになってゆくのである。
大地に根をはりやがて老木となり枯れてゆくのが自然だとなる。
百歳まで生きたりしたらそうなる。
故郷に生き死ぬというのも自然であり幸いだったのかもしれない
都会に出て死ぬというのも何か殺伐とした感じになるからだ。

今年の気候は何か変だ、冬になっているのだが庭の楓が紅葉していないのも変である。
ただ冬紅葉している所もある。季節感が狂うのも日本でなくなる。
日本はとにかく四季があってその心持ちも変化してゆくのである。
他の国ではこうした季節感がない国が結構あるからだ。
あの祈る像も何か願いがあってここに建てられた。人の願いがあって建てられたのであるただそれは何かわからなくなって放置された。
でもここの土地に根付いているように祈っているのも不思議である。
何かを形として残ろうとしているのかもしれない。
つまり何らかの心が反映されて形となって残っている。
その心が何であったかわからなくなってしまうのである。
ただなんでも時間のなかで意味が帯びてくるし重みがましてくる。
石でもそうであり短いと重みが出ない、時間の中で何でも重みが生まれ意味が見いだされる。
古典などは何度読んでも何か発見があるのはそのためなのである。

一年中夏の所もあるしそういう所では何か変化がないからつまらないともなる。
日本は何かと島国でも何か変化の大きい国だと津波などでもつくづく思った。
こんな大きな変化を経験するとは思ってもいなかったからだ。





タグ:冬菜

抽象画(熱帯魚生まれる)


抽象画(熱帯魚生まれる)

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熱帯の花



これも全くでたらめな線で遊んでいたらこうなった。全く予想できないのがパソコンの抽象画である。ソフトが違うと必ず別なものができる。
これもペイントというwin7についていたものである。
これも何か色合いが違って出ているのだ。
それはソフトによって違った色がでているのである。
このいろは絵の具では出せないのである。
これは熱帯魚と見えるからわかりやすい、こういうのは見ている人も一目でわかるからいい。
抽象画のどこがいいとかなかなか指摘できないからだ。
その人の見る目に左右される。
芸術は俳句だってその日と見る目に大きく左右される。
かえっていい俳句が見逃されくだらない月並みのがもてはやされるは
それだけ芸術を見極めること自体むずかしいからである。
タグ:熱帯魚

2014年11月10日

時間軸で形成される文化の理解はむずかしい (歴史も時間軸で長い時間で形成されるから理解しにくい)



時間軸で形成される文化の理解はむずかしい


(歴史も時間軸で長い時間で形成されるから理解しにくい)


●空間と距離の制限はなくなった

現代は空間的には地球大に広がっている。飛行機でどこにでも行ける。地球の裏側からも物が食料でも入ってくる時代である。空間の障壁はなくなっている。
江戸時代あたりまでは空間の障壁は大きかった。遠くとの交流はむずかしいから自給自足の村でまかなって外部に頼ることはないし頼れなかったのである。
鉄道ができたとき日本国内で空間をさえぎる障壁がとりはらわれて交流するようになった日本人として意識されたのは明治維新で鉄道ができたからたというのもある。
物流でも人の交流も一気に何百倍となったかもしれない。

現代は交通の便が格段によくなったから空間の障壁、距離の障害はなくなっている。
通販は本当に便利だと思う。
なぜなら何かを買う場合、店で選ぶ方がめんどうだし不便なのである。
例えば今最新のデジカメはなにかとか自分に適した今必要なものを手に入れるとき何でも通販でキーワードで探す方がぴったりなものに出会う。
そししてボタン一つ押せば次の日は届いているのである。
その人によって必要なものは多様化しているから余計にそうなのである。
田舎だと何か目立ったものしかみんなが使うものしか電器店ですら置いていない。
大型のテレビとか何か決まりきったものしか置いていない。
でも通販だった中古品から何でもあるから驚く
自分が今必要なものが手に入るからいいのである。
店でも隣近所に店があったがスーパーになり今度はイオンなどの郊外のショッピンクセンターになりと拡大して今度は通販になっていくというのも時代である。

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情報というのは常に今必要とするものがある。
困ったとき近くに聞く人がいない、相談する人もいない
それはもうこんな複雑な社会では答えられる人もいないのである。
生活保護が何だろうとなるとこれもめんとうだけどそうしたインターネットで情報は深く詳しい、だから何とか対応できた。
現代はもう複雑だから経験ある人年寄りでも相談して無駄であり年寄りの価値はなくなったのである。
それでも会社勤めして専門性のある技術者は自給で7万のところもあるというから驚く。
そういう専門性のあるものはそれだけの価値かあるのが現代でもある。
部長とか課長とかの経験は役に立たない、専門性があれば退職して金を稼げる時代である何かスキルをもつことが現代では要求されているのである。
ただ年取って何の価値もないのである。

●文化は一様化できないから理解するのがむずかしい

ただここで問題なのは距離の壁はなくなっても文化の壁はなくなるない
文化とは何かというといろいろ多様であるが例えば言葉の障壁は簡単に取り払われない、英語を共通語にしようとすることがあるが以前として言葉の壁は大きい。
その国の言葉がなくなば文化も喪失するから簡単に英語に変えることはできない
だからポリネシアとか南洋の島々では多くの言葉が違っていた。
それは方言ともにていた。そうなると意思疎通もむずかしくなる。
その言葉がそんなに違っていたのはやはり土地土地で違った文化が育まれたからだとなる言葉もその土地から生まれるから違っているのである。
日本では四季が豊かであり俳句が生まれたのはまさにそういう風土によって育まれた。
日本語でも各国の言葉でもその土地から生まれるている文化だからその障壁は大きい。
文化はそのように距離を空間を克服しても相違が生まれる。
その相違の故に文化は価値がある。
明治維新後は鉄道などで標準語も普及したのはいいが江戸時代のように地方地方で育んだ文化は衰退したのである。
みんなコカコーラとかハンバーグを食べていてはつまらないのである。

つくづく文化というのはなぜ理解しにくいのか、それはヨーロッパの歴史でもローマ時代にさかのぼれば2000年とかの歴史がある。するとそこまでさかのぼるとなるとちょっと飛行機で行けるから理解できるかとなるとできない。ローマからキリスト教時代の中世とかも長いし城のあった歴史も長いからなかなか理解しにくくなる。
それは日本だってそうである。現代ある物にばかり目を奪われるから過去を歴史を知ることは容易ではない。今も見ればビルかいたるところにあり工場もあり何かどこも同じじゃないかともなる。でも歴史をさかのぼる城でも何かそうした古くからあるものが理解しにくいのである。それが文化の特徴なのである。

どうも文化というのは空間とか距離の制限がなくなると破壊されやすいのである。
その土地土地がどうして成り立ったのかそういう長い間に作られてきたものが無視されやすい。
原発事故などもそういう地域の文化というか歴史が無視されて建てられた。
科学は何か数学と同じであり世界共通になりやすい、一つの世界共通の言葉が科学でありその基本に数学がある。何でも数字に還元すれば共通になるからだ。
ただその土地土地の風土はみんな違っている。
たから放射能汚染されたとき、風が影響して飯館村があんな大きな住めなくなるほどの被害を受けたのである。この辺では春になると東風が吹くからである。
それが運が悪かったとなる。イワキ地方などは本当に低かった。それも風が関係していたのである。それこそ風が違うというとき風土が違うとなって影響したのである。

●一極集中の情報発信は危険だった

現代は空間とか距離の制限がなくなったとき、大きな問題として地域地域の歴史、時間で積み上げられた文化が無視される。
情報でも経済でも教育でも明治以降は東京一極集中になった。
その弊害は今になると大きくなっているのだ。東京に労働力でも何でも集まり東京ばかりから何でも発信されるということが大きな問題になる。
津波でもNHK一局が大きな力を持つことは危険なのである。
津波の放送でも最初に3メートルが来るということを放送したときこれは気象庁でそうしたにしてもそのことが多数の人命まで奪ったと今になると批判される。
テレビとかマスコミが一局集中だからそうなってしまう。六局あってもそうである。
そうした六局ばかりのそしてNHKばかりに全国民が注視していることは危険になる。
NHKでも気象庁でも的確な判断ができなかった。
地震が起きてから3分ではマグニチュードは判定できないと気象庁の人が言っていた。
マグニチュード8ではなく9だったのだから今までにないことだから判定できなかった。
するとかえって個々人の体感の方が正しい判断をできたとなるが
マスコミの判断にNHKの放送に一局に判断をゆだねていたから3メートルからたいしたことがないとか判断して逃げ後れた犠牲者が多かったとなるといかに緊急のとき情報が大事かわかる。

例えば2ちゅんねるだとかなるといいかけぜんにしろ

「3メートルの津波が来るとNHKで放送した」
「3メートルじゃたいしたことがないよ」
「この地震で3メートルだってもっと大きなものが来るよ」
「10メートルくらい来るかもしれんぞ」
「おい、脅かすなよ」
「ともかく早く逃げた方かいいな」

とか必ずなる。何かあればマスコミの言うことを信用しなくなっているのがネットになった。それも全部は正しくないのにしろマスコミの一方的情報を信用すると危険なのであるこういう対話があるだけで危険だと思い逃げる人も出てくるのである
現実に駅があるところに津波が来たのを見てこれが3メートルかと疑問に思った人がいたがその時すでに時遅しになっていたのである。
これも自分の目で見て自分の判断力の方が正しかったとなる。
だからち一局集中のマスコミは影響力が大きすぎて危険なのである。
報道が一方的になっているからだ。
それは何でも東京一極集中化しているのと同じなのである。
その土地土地からの多様な見方ができないことが危険なのである。
結局今回の津波で原発事故でもマスコミと科学への盲信が大きな被害を生んだ原因でもあったのだ。





タグ:空間と時間

秋葉神社の墓 (ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)


秋葉神社の墓


(ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)

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明治に森忠太郎という人が寄進している。
その森家の子孫はまだ生きている


ここに天明の墓があったことは意外だった。

天明の飢饉があり天明は特に記憶されるべき時代だった。

ただその時この辺がどういう状態にあったのかどんな暮らしをしていたのか想像つかないのである。

ここの墓は明治までは確実にあり大正時代頃無縁化した。

ここに接して森という姓の家があり広い庭があり今住んでいる。

明治時代に二十三夜塔を寄進したのは「森忠太郎」でありこれは森家の先祖である。



ここは天明から文化から明治まで継続して墓としてあった。

この墓はこの回りに住んでいた人たちの墓である。

「法印」とかあり祈祷する山伏とかも住んでいた。

これはどこにでも住んでいた。病気になれば祈るほかないからである。

加持祈祷が商売だったのである。



そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。



離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97



天明時代は飢饉の時代だから全国的に影響していた。相馬藩では3三分の一に人口が減って

越中などから移民を呼んで立ち直った。ただ全国的に飢饉になり村から離れる人が多かった。

それで都会に集まったとういのもわかる。ここだけではない人口が流動化したのである。

原発事故で町村が消滅する危機になったように時代の変化で人口が流動化するのである。

それが社会変革につながる。

これは外国でも同じらしい、何か天候の異変などで凶作になったりして大移動があった。

それがゲルマン人の大移動とか有名だけど世界的に人口は移動している。

人間は普通は移動したくない、慣れ親しんだ所にいたいのである。

でも移動が強いられる。満州に移動したのは農業社会では土地が得たいからそうなった。

実はそうした大規模なの移動が戦争になっているのだ。



こうした神社とか寺は昔は一つの共同体のシンボルとしてあり実際に機能していた。

だから二十三夜でも講がありおんな集まっていた。

つまりこうした神社とか社が無数にあるのはただあるのではない

生活の中で活きていたとき意味があった。

だから村々でも町でも昔は狭い地域で生活していたからそうなる。

車もないし遠くへ行くことはない生活である。

毎日隣近所とか顔合わせて狭い地域で暮らしていたのである。

身の回りのことでも近くてすましていたのである。

第一今のように原町や相馬市までだって行くことはまれだったろう。

確かに汽車が通じても汽車賃が高くて歩いて行ったとか言う人が多いのである。

汽車は客車というより最初は貨物輸送が主だったのだろう。

それで原町機関区が木材や石材の積み出しのために設置された。

平機関区は石炭を東京に運ぶために設置されたのである。



神社は子供の遊び場にもなっていた。

自分の子供のときは子供が多いから毎日群がって遊んでいたのである。

そのころはまだ近隣中心の生活だったのである。買い物でもそうである。

魚屋があり駄菓子屋があり豆腐屋があり酒屋があり職人の大工や指し物師がいたり

近くにあるもので用をたししていた。

地球の裏側から物が入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。

米だって地元でとれたものであり野菜だってそうである。

他の県から九州とか来るはずがなかった。

バナナさえ戦後十年くらいは売っていない、バナナの叩き売りというのは秋市とか市が立ったとき売っていたのである。店では売っていない。

自分の父親が病気になったときバナナを食べさせるために仙台まで姉が行って買ってきたバナナがそれだけ貴重なものだったのである。



何かわからないが中学辺りから急速に高度成長化したみたいなのだ。

東京オリンピックのときはもう高度成長へうなぎのぼりに経済は発展したのである。

高度成長といっても実際は二十年くらいだったのかもしれない。

あのころはみんな景気が良かったから今のような時代とは違っていた。

企業戦士とか言われたのもそれだけ日本経済か世界へ進出していた時代だったからであるそれで金の卵として中卒で東京に労働力として集められたのである。

その時クラスで大学に行ったの4,5人だった。高校に行ったのも半分にも満たないくらいだったのである。文系の大学を今廃止しろというのもわかる。大学は遊びの場でしかなかったのである。



今国に余裕がなくなったので予算が回せない、そしてグローバルで競争する人材を育成しなければならないから文系はいらないという議論になっている。

文系は自分がしてきたようにほとんど独学でできる。

今ならなおさらそうである。大学に行かなくてもそういう環境はネットでも通販でもそうだし整ってきたからである。

第一専門的な本を買うのにこの辺では売っていないから仙台まで行くほかなかったのである。今はボタンを押せば次の日に本が届いているのである。

ただ自分の行った大学は東京でもすでに大衆化した大学でありマンモス大学だった。

だから3000人とか入れる講堂で講義していたからみんなやる気がなくなっていた。

それが学生運動が起きた原因でもあった。

一方は汚い工場で油まみれになり狭い宿舎で中卒は働いていたのである。

その時はどこも人手不足であり小さな工場でも店でも繁盛していたのである。



いづれにしろ神社は江戸時代は近隣の生活の要の場所としてあった。

今は全く機能しないのは社会が変わりすぎたのである。

隣の人間が何をしているのか田舎でもわからないというときそうである。

まず都会だったらますますわからない、それだけ無数の職業が生まれ分化してしまったのである。

だから農民が八割という時代が戦前でもそうであり長く歴史的にはつづいた。

そういうときは農民的感情で国も一つになれていたのである。

そういうものが高度成長時代からは特に破壊されて感情的にも人間はバラバラにされていたのである。



現実に農業では食えないとか跡継ぎがいないとか漁業ではやっていけない、林業は外材で衰退したとかこれまでの産業が衰退産業となり原発が誘致されたのである。

そうした時代の変化で原発事故が起きたとなる。

現代の繁栄は何か無理した虚飾の繁栄という側面があった。

生活の基本となる第一次産業が衰退して低くみられたことが原発事故の要因にもなっていたのである。

ただ電気がいらないとかではない、危険を犯してまで経済成長が必要なのかどうかが問われたのである。

今の生活は本当に最低の人でも昔から比べた最高の生活なのである。

貧乏でも刺身を食べない人はいない、自分の父親はサシミが食べられるようになったが

食べたくないと言って死んだいった。



だからつくづく人間は昔の事を家族でも近隣でも知る必要がある。

これにはこんな意味があったのかとこんな貧しい生活をしていたのかとか

こんなことで苦労していたのかとか家族でもその家族なりの苦労があた語られる。

そういうことが死んだ後にそういうことだったのかとわかる。

生きているうちはなかなかわからないのである。

やはり祖父母とか親の代になるとまだ生々しいものとして記憶されているかそうなる。

でも死んでから何かさらにその語った事生きた事の意味が深く感じられるのである。

これは大きな国の歴史でもそうである。



歴史というと何かむずかしく考えるけど実際は祖父母とか親のことを知るというこにはじまっている。

そういう身近なものさえ何なのか死んでからかなりの年数たって親のありがたみがわかったとかなる。

ただ今は親孝行したいとは親がいないとはならない。必ず親がいるし親孝行をさせられる時代なのである。必ず介護させられる。

だから今度は子供を粗末にすると介護のとき困るとなる。

戦前までは子供は労働力であり親に使われるものだった。

それが逆になったのだけど今度は逆に必ず親孝行は強いられる。介護問題が必ず起きてくる。それも時代の変化だった。








タグ:天明の神社
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浪江で帰らない人が10パーセント増える (原発避難区域に帰らない人が時間がたつにつれ増えている)


浪江で帰らない人が10パーセント増える


(原発避難区域に帰らない人が時間がたつにつれ増えている)

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小高の人は農家で土地をもっている。その土地は放射能廃棄物の処理場とてし貸しているという。津波の被害にもあっていて帰らないという。
小高でもそうだが南相馬市でも津波の被害にあった人が多い。
そういう人たちは家もなくしたから小高だったら余計に帰らないし他でも津波の被害にあった地域では家が建てられない、その津浪の被害者と原発事故の被害者と混じり合っているから複雑になる。
とにかく小高ですら変える用意ができているのに帰らない、浪江で10パーセントも帰る人が減ったのは時間がたつにつれて帰る意欲がなくなっているのだ。
町自体が崩壊してそれを建て直すというより他で便利な楽な生活をしたいというのが
ある。

老人は帰りたいとしても若い人は帰りたくないというと家族自体が分離するし町を支える人もいないのだから老人も帰らないとなってしまう。
だから意外と便利な社会は何か大きな災害でもあるとかえって崩壊しやすい。
便利な生活を維持するにはその負担か大きくなるからだ。
まず病院であれ医者であれ看護婦であれ確保すること自体できなくなる。
そうした崩壊した町には住みたくないのだから医者も看護師も嫌だとなる。
他で楽をできるのなら楽した方がいいとなってしまうのが現代である。
北海道とかに開墾するような時代ではない
その時は農民は土地がないし職もないし北海道に開墾に苦しいけど入った。
そうして力尽きた人がかなりいる。
今なら一億円もらったら他で生活すれば楽だとなりそんな苦しい道を選ばない
特に年寄りはみんなめんどうだから帰らないと言っている

でも来年に小高などは避難区域が解除されると補償金がもらえなくなる。
その時かなり深刻な状態になる。
自分の前の墓地にできた復興団地に入るのに7万円家賃がとられるというのは高いと思った。都会並だと思った。ただこの辺では普通にアパートだと二部屋あれば4万以上とられている。ただ市営住宅が5000円とかあるから違っている。
三つの部屋があって住んでいる人を知っている。
復興団地に入ると援助されないというのも苦しいとなる。
土地を求めて家を建てた小高の人もいたがみんなは簡単にはできないだろう。
小高の土地は双葉とか大熊と同じく放射性廃棄物の処理場となり土地をもっている人はそこから定期的収入がもらえるのかもしれない。
定期的収入がもらえれば小高に帰らなくても他での生活もやりやすくなるのである。
老後は年金とか定期的収入があると楽なことがわかった。

いづれにしす浪江町でも帰らない人が10パーセント増えたとういからますます時間がたつと帰らない人が増えてくる。そうするともう町は再建できない。
小高の隣は浪江町でありその影響も隣り合っているから大きいとなる。
鹿島だとまだ相馬市もあり原町もあるから暮らしにはそんなに困らないのである。
今の社会は広域社会だから一つの町が崩壊すると隣でも影響が大きくなる。
閉鎖された自給自足社会ではない、だから他にも移り安いのである。
それで何か故郷でも簡単に崩壊して再建できないのかとなる。
江戸時代の天明の飢饉の時はやはり村かの逃散がありその人たち江戸とか都会に流れてスラム化したとか無宿化したことなどがあった。
現代ではかえって一億もらったらそれを資本にして暮らせる。
かえって大内村の人は郡山市に避難していい暮らしになり便利になり大内村に帰りたくなくなったのである。
年寄りはどうしても病気になるから病院とか医者が多い都会がいいともなる。

その人は鹿島は住みにくいとか差別されているとか言っていた。
何もしないでいるのも批判されるし回りの目が違うとかなる。
それは自分も前に小高の人は帰れと言ったとき、鹿島の人はそういう気持ちになっている小高の人は補償金もらっていて遊んでいるとか見られている。
鹿島では少ないから不満が大きい。
それで共産党の市議会候補が小高のように「乗合タクシーを鹿島にも作る」と言ったのは好感がもてる。介護タクシーも鹿島にはな原町から呼ぶと一万かかると言われた。
普通のタクシーでも4000円くらい片道かかるから高くなるのである。
つまり何か小高は鹿島から見ると何でも優遇されていると見られているからだ。
実際そうなっているから鹿島の人は小高の人を良く思っていないのである。

では小高の人たちは避難区域が解除されたときどうするのか?
結構厳しいものとなかもしれない。
復興団地でも家賃が七万では高いなと思ったからだ。
仮設は無料であり援助もあるからだ。
だから今はいいにしても避難区域解除されると原町の避難区域でも解除されると困ると東電に訴えたことでもわかる。
収入がたたれるし何で生活していいかわからなくなるだろう。
回りからも冷たい視線をあびている。それはここだけではない原発避難者は良く見られていないからだ。
だから放射能廃棄物処理場に反対もあるがそこから定期的に土地代が収入としてあれば他に移っても生活できる。
だから避難区域の人でも反対しているが収入を考えると仕方ないとかなる人もでてくる。第一帰らないとなるとそこに住まないのだから放射能廃棄物処理場になっても被害はないとなるからだ。
ただ帰還することは絶たれということはある。

でも放射性廃棄物は隣の町でも飯館村でも南相馬市でも相馬市でも回りに影響する。
なぜなら汚染された水が流れてくるからである。
ともかく避難区域が帰らない人が増えるとさらにみんな帰らないとなる。
そうすると廃村とか町まで廃墟と化してしまう。
そこで自分の近くの神社の誰もお参りもしない墓が捨てられ放置されるようになる。
何かそこには幽鬼がさまようような異様な感じになる。
ただ近くの神社はとにかく人が住んでいれば自分のように墓の年代を見たりして
郷土史として興味をもつことはある。
誰もすまなくなったら誰もふりかえらなくなる。
猫すら住まなくなる。猫も人が住まない限り住めないのである。
猫がいるだけでも何か何もいないよりはいいとなる。

市議会選挙は誰に投票していいかわからない、でも具体的政策で「乗合タクシーを鹿島に作る」ということを言うのはわかりやすいとはなる。
たた共産党ということで抵抗はある。
他の人は何か具体的な政策を出していないのは選択しにくいのである。

タグ:原発避難者
posted by 老鶯 at 22:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年11月11日

なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか? (中世の城館を見ればわかる)


なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか?

(中世の城館を見ればわかる)

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深野と泉では在地の勢力が大きく相馬氏は進出できないでいた。

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深野の墓地
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これは宝暦なのか?

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これは寛保である。

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これは宝永である

明暦とあるみたいだからここの墓地は相当に古い
深野館があったときからの継続もあるかもしれない
この辺では一番古いのは相馬氏の殿様の墓で慶長とかである。
ここは在地の勢力の深野館があってそのときも墓地だったかもしれない。


1655 明暦 01 江戸 053 − − −
1658 万治 01 江戸 056 − − −
1672 寛文 12 江戸 070 − − −
1680 延宝 08 江戸 078
1683 天和 03 江戸 081 − − −
1684 貞享 01 江戸 082 − − −
1703 元禄 16 江戸 101 − − −
1710 宝永 07 江戸 108 − − −
1715 正徳 05 江戸 113 − − −
1735 享保 20 江戸 133
1740 元文 05 江戸 138 − − −
1743 寛保 03 江戸 141 − − −
1747 延享 04 江戸 145
1748 寛延 01 江戸 146 − − −
1758 宝暦 08 江戸 156

宝永は読めた、 寛保もはっきりしている。
こご天しか読めないのがありこれは天和なのか?
天明はずっとあとである。
暦とあってもそれか明暦なのか宝暦なのかまぎらわしい
寶歴の方が有力である。歴の上の字が旧漢字になっているからだ

一字しか読めないのがありその解読がむずかしい
これは何か科学的な方法で調べられるかもしれない
この墓地がいつからあったのかが問題になる
宝永からはあったみたいだ
ただ墓地は墓が建てられない前からもありえる
歴史はこの時代特定するのが基本にあった
いつの時代なのかわからないと過去を探り得ようがないのである。
伝説は時代特定できないから津浪のことでもわからなくなる。
文書だと時代特定できることが強みなのである。


小池の墓地

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文化文政時代であり江戸時代後期が多い
ここの墓の特徴は立派な墓でそろっていることである
そしてなぜか大姉という女性の個人墓が半分もある
これもなぜなのかとなる



南相馬市の中世の城館

泉館
泉廃寺
泉平館
岩迫館
牛越城
岡田館
小高城
金場館
田中城
田村館
中館
西館
花輪館
東館
深野館
別所館
堀内館
真野古城
明神館
村上城
優婆館


これは相馬氏が太田に一族を引き連れて移住してきたときあった中世の城館である。
ここにはきけ旧来の勢力があった。
ただ村上とか小高とか牛越城とか中世の城館があった所を支配した所もある。
でも最初はそういう在地の勢力が強いところに入れない。
それで
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
で書いたようになぜ大原が多く出ているのに深野はでていないことがわかる。
深野の方が開墾しやすい地であり大原はその奥だからである。
最初に入るのだったら順序としては深野になる。
そこが疑問だったがそこはもともとの在地の勢力があった深野館があった。
館という地名が残るところには中世の城館があって戦国時代になる前から在地を支配していた。最初の草分けでありそこに回りの人々が集まり小さな国を作っていたのである。
聞いた話ではある武家では回りを堀で囲んでいたという。そして殿様を迎える部屋もなっこという。ということは武家ではもともと堀之内というように堀をめぐらして防御していた。鹿島の田中城は平地にあり回りは湿地帯であり自然が堀になっていた。

中世で館と地名にあるのはたいがい山の上であり高い所にありそれば自然の要害となって敵から防御のためにそこに舘か作られたのである。
城でも古いのは山城であり次に平城になっていった。
小高城から村上城から牛越城と山城である。今の相馬市の中村は平城である。
そこに相馬市が城を築いたのは相馬氏が太田から小高城へ牛越城へと移り中世の在地の勢力を支配下に治めるためだった。
中村地域は今の相馬市は黒木氏が治めていた。それで黒木氏は伊達についたり相馬氏についたりと苦しんだのである。
つまり相馬氏が中村に移ったのは在地の中世の勢力を治めるためであるというのがわかりやすい理由である。
相馬氏が力をもったのはやはり野馬追いに象徴されるように馬を使う軍事力があったからだろう。

相馬氏の進出経路の図でわかるように最初に牛越城から入るとしたら深野になる。
そこをさけてさらに奥の山側に入ったというのは不自然だったのである。
そこは在地の勢力があり中世の城館まであったからそうなる。
つまり大原は相馬氏は移ってきたとき開墾に入ったとき何もまさしく大原だった。
在地の勢力は深野館にあって大原にはなかった。
だから深野は中世からある生活があり古い地域だった。
そこで深野の小池に行く方の台地にある墓は古い。
明暦からありもともと古い所だったのだろう。

そしてなぜ小池にも古い立派な墓があるのか?
それは士族のものであり相馬氏の一族が開墾に入った。
深野→小池と相馬氏が移って開墾した地域だったのである。
鹿島区でも中世の城館があった真野中館とか館など田中城があった所は在地の勢力があり入っていない。寺内なども総士録古支配帳にはでていない。
原町では牛越城に相馬氏が小高から城を移したのは泉氏を牽制するためだったという学者の考察は記録からみればそうなる。
泉館や泉平館や泉廃寺などがあった所であり港の機能も有していた勢力がある場所だった寺は中世でも城でもあった。
萱浜からしふさ(渋佐)の記録が総士録古支配帳にあるのもまさに泉氏が大きな勢力だからこそ相馬氏はそこをさけていたのである。
牛越城に移ったのは泉氏や深野館などがあった中世の城館の支配地域を牽制して勢力を伸ばすためたったのである。

小池の墓地は江戸時代後期のものだから新しいとしてもやはり古いものの継続がありあそこに立派な墓を残した。第一あそこにあることが解せなのである。
回りにほとんど家もないから不思議なのである。
ただ資料を見れば納得するのである。

小池の墓地の謎は大姉とついた個人墓が半分もしめていることである。
普通女性の地位は低いとされたが個人墓として女性の立派な墓がある。
武士だとすると女性の地位も高かった。または僧侶の墓かもしれない。
江戸時代は庶民では墓はなかなかもてなかった。
ただ個人墓も江戸後期から残っている。
一家とか家族の墓は明治以降なのである。
それは国の政策でそうなった。江戸時代までは個人墓かか夫婦墓である。
明治になっても継続されていて夫婦墓が多いのである。

まずこの墓は本当に謎である。これは墓しか探る手だてだないのかもしれない
墓は最後まで残ることに意義がある。この墓が無縁墓としてかたづけられると
ここに生きた人を探ることはむずかしくなる。
墓はそこに人が確かに生きていたということを感じさせるものなのである。
書類と文書みてもそういう人が生きていたという実感をもつことができない
だから郷土史には墓の研究が欠かせないのである。

相馬氏進出の経路
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104996155.html


タグ:相馬氏
posted by 老鶯 at 11:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

晩菊から冬の俳句十句 (自然は飾らない、ありのままだから美がある)


晩菊から冬の俳句十句


(自然は飾らない、ありのままだから美がある)

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またデジカメ買った、ソニーの20倍のズームのWX350である。
これは前に買ったのだか新しくなって良くなっている。
軽いからサブカメラとしていい、常にカメラはもって歩く必要がある。
重いともってあるけないことがある。
これは軽いし気軽にとれていいカメラである。
こういうものでも何かとると違っている。
同じようでもとるものが機械によって左右されるのである。
これは拡大しないと全体が映えない、芒のところがもっと鮮明になれば良かった
でも全体を枯野とするには広くとる必要があった。
この辺ではここは刈田になっているだけど田を作っていないから本当に枯野になっているのだ。古墳ができたときは田んぼはなかった。枯野だったからあっているともなるのが不思議である。



晩菊や今日も買い物に裏の道
晩菊や石に添い咲き年古りぬ
晩菊や99の母介護かな
99生きるを知るや残る虫
我が墓の前を今日も行く冬椿
冬あざみ十輪ほどや屋形村
飾らざる雀の来るや冬紅葉
ひよどりの朝に飛びきて冬紅葉
みちのくに円墳いくつか枯野かな
冬日さす津波の跡に石一つ
貨物船沖に見えつつ冬の海


俳句とは季語があって俳句である。日本の季節は四季がはっきりしているから天候があいさになりやすい。特に農民は絶えず天候を心配している。
雨がふっても降らなくてもこまるのである。適当にふって適当にふらないといいのだけとそうもいかない、農業は天候に左右されることが多すぎるのである。

だから俳句というのは日本では毎日変化しているからあいさつかわりになり季語かできてそこから思考を深めてゆくのが日本なのである。だから季語を知らないと俳句は作れない。季語がすでに日本語のように日本文化になっているからだ。
菊にしても今の季節になると以前として晩菊という感じがあり残菊にもなりやがて冬菊から寒菊となってゆく。そういう時間とともに細分化されたのが季語なのである。

今年は何か変である。自分の家の楓は紅葉にまだなっていないのである。何の影響かわからない。他の庭は紅葉になっている。でもすでに冬紅葉になる。
自然がなぜ心うつのかというとそれは自然は何も飾らない、ありのままだということである。
雀を見ても樹を見ても何かそこに人間によってつけ加えられないからかえって心を打つものがある。雀はなにか貧しいものの象徴になる。でも自然のものは何も飾らないからいろいろなものを着たりもしないからかえって素朴な美が生まれる。
要するにシンプルだからひかれるのである。人間はあまえたにも複雑であり何重にも覆い隠されていて何が本心かもわからないのである。
カルト宗教でも宗教などと何の関係もない、ただ欲心があるのみである。
政治家がきれいごといってもそれは票をえるためであり何か犠牲になってやるなどないのである。むしろ民衆を犠牲にして自分は甘い汁を吸う方なのである。
だからこの世自体が嘘偽りだとなってしまう。


ただ人間は今がそうかというと昔も江戸時代でも変わりなかったところがある。
聖徳太子がこの世は虚仮(コケ)だと言っていたことでもわかる。その時代から人間がいかなるものかこの世がいかなるものかは変わっていない。
一見科学とか技術の機械で飛躍的に変わっていても人間の心とか欲は変わらないのであるこれだけ贅沢しているのにますます欲は深くなりとどめることができないことでもわかる。
原発事故も人間の限りない欲を追求することで事故になったのである。
ここだけではない、すでにサラ金から8人一人は借りているということでもわかる。
それだけみんな無理して贅沢している飾っているのが現代文明社会である。

一人の人間がくる、すでにそこに様々な欲望人間であり雀のような人は貧しい人でもいない。貧しい人は今やこういう何でも金が必要な時代になると清貧などというのは成り立たない。まず金を貸してくれとか延々と金を要求される。
格差社会になると貧乏な人とつきあうの本当に怖い、身ぐるみはがれる恐怖を味わった。金で必ず現代は問題が起きてくる。大金持ちは実際危険である。
ニュースで見逃されていたが家政婦二人を雇っている大金持ちが東京で強盗に入られて殺された。ただ家政婦は何の被害もなかったのである。
こういう事件はこの世で絶え間なく起きている。
金がないのも困るがこのうよに家政婦ふたり雇うような金持ちはまた危険なのである。
殺されるという危険をかかえているのである。
この世はまさにどんなことしたって災いの地だった。
津浪であれ原発事故であれ自分が犯罪にあったことであり様々な災いを受けのがこの世だったのである。
これは死ぬまでまねがれない、だから死がいちがいに悪いとは言えない
生きている限り災いを受けざるを得ない、老人になれば必ず老化して体が弱り体自体がすでに災いの元なのである。
もう死ねばやっと災いがなくなったとなるのか人間だったのである。


シェークスピアのソネット
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この詩はやはりうまい,
陸の王国を大洋が襲うとは津波のことであり現代も変わらないことを詩的に表現している
人間社会は聖徳太子の時代から変わっていないのである。



2014年11月12日

パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた (機械は使ってみないとわからない)



パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた


(機械は使ってみないとわからない)


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パナソニックビビ

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PAS Brace XL



最初買ったのはパナソニックだった。なぜ買ったかというと長距離用に買った。
それが最新式で17アンペアのパッテリーであったから長持ちすると思った。
写真は26型ではなく27型だからさらに車輪が大きい。
これはスポーツタイプではないから実際は買い物には向いていた。
ただ買い物でも荷物には弱い、馬力がないから坂も強いとは言えない
平地では走りやすいしスピードも出るし軽い感じになる。

これはヤマハのスボーツタイプを買って乗ってわかったことは長距離用ではない
近くに買い物するには便利である。
これは自転車屋の進めで買った。最新式だから進められた。
そこでは会社に関係なくどこのメーカーのでも売っている。
実際に自分で試し乗りして買ってきているというから詳しい
今の時代何を買っていいかわからないのが多くなった。
自転車だって種類が多すぎるからだ。
電器店で買い物して失敗したのは店員に聞いてもわからない
よく説明もしてくれない、結局使えないもの買った
印刷機だったがこれもわかりにくいものだった
むしろネット下調べして電器店に行ったほうがいい
電器店ではその人にあったものなどすすめないからだ
だから最近は二三万のものは通販で買っている。

ヤマハの電動自転車は前も使っていた。
最新式かなり改善されていた。
これの乗り心地はパナソニックのとはずいぶん違うなと思った。
これは何か見た感じも重厚な感じになる。
実際はこれはマウテンバイクだから悪路に強い
もともと坂も強かったし馬力があるから荷物にも強い
乗った感じがまるで違うのである。
これはスボーツタイプだからち長距離向きだった。
12Aと17Aと差があるようだが実際はほとんど同じでありヤマハのバッテリーの方が長持ちする。坂で電池が消耗していないのである。
パナソニックでもスボーツタイプだったからたいして変わらなかっただろう。
スポーツタイプと普通の自転車でも作るコンセプトがそもそも違っていたのである。
それは電動自転車でも同じであった。
ただ乗った感じではヤマハのは何か高級感と重厚感がある。
悪路に強いから近くでも乗りやすい
パナソニックのくはサスペンションがないから買い物でも道が悪いとのりにくいのである自転車や歩道は段差があるから困るのである。
ただスポーツタイプは買い物用ではない
だから買い物ではパナソニックを利用している。

ともかく機械でも道具でも使ってみないとわからない
こんなに種類によって違うものかと思う
自転車は種類は本当に増えている
その一台一台が乗り心地が違うのである。
自転車の不思議はなぜこんな乗りここちか違ってくるのかということである。
だからその乗り心地が違うから車種が違うと違った楽しみがでてくる。
これはバイクでも自動車でも同じである。
カメラだってそうである。
みんな違った感覚で使うようになるのである。

例えば一つの景色がある、これは角度が違ってとると別なように見えるし
またカメラによっても違ったように写る、さらに加工すると別なものになる。
道具とか機械によって変化させられるのである。
こういうことは昔からあったが現代は何でも種類が膨大に増えてそうなった。

歩いて見える感覚、馬に乗って見える感覚、自転車に乗って見える感覚、
バイクで見える感覚、車で見える感覚、電車で見える感覚、これはみんな違って見えるのである。
今は徒歩で見える感覚か消失している。たいがい乗り物に乗っているから歩いて見える感覚がわからなくなっているのだ。
自分は自転車でものりはじめたのは40代と遅いからスポーツタイプは乗っていない
一台買ったけお乗らなかった。
つまり乗る時間すらなくなっていたのである。

人間は遊ぶだけでもすぐに時間も尽きるものだと思った。
なぜ中高年ライダーが増えたかがわかる。
金もある時間もある、一旦若いとき知った快感が忘れられないのである。
この際最高級品でも乗りたいとなる、その快感を味わって死んでゆきたとまでなるのだ。この快感にはいろろいある。
週刊誌でとりあげている男女の本能的快感もそうである。
人間はつくづく快感をあくなく追求するものだと思った。
苦しいことなどしたくないである。
だから原発事故で避難した人たちが楽な方を選ぶのである。
たいがい苦しいことを選んでいるのはそういう環境であり強いられたからである。

タグ:電動自転車

2014年11月13日

鬼風の俳句集を読む (当時の生活を偲ぶ言葉がでてくる)


鬼風の俳句集を読む


(江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)

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鹿島区秋葉神社

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雨の日や客の炊きたるぬかこ飯


ぬかこ飯とはむかごのこととある。この実をだはんにまぜて炊いた。
それはまさに自然のものでありそういうものを食べていたことがわかる。
ただなぜ客なのか?客がぬかご(むかご)をもってきたのか?

梅が香に水まで白し萱の箸

茅(カヤ)の箸で食物を食べる7月(旧暦では6月)下旬の行事。新箸の祝ともいう

 軒葺(のきぶき)も芒(すすき)御はしもすすき哉   一茶

 ススキの箸は一般的にはそれぞれ自前で用意するわけですが、武井神社ではそれを神萱箸として御射山祭の日に頒布しています
 http://blog.livedoor.jp/ichironagano/archives/4621112.html
 
 箸はいいろいろあった。もともと箸は何でも箸になる。箸がなくて枝を折って箸にした箸は簡単に作れる、材料になるものはいたるところにあるのだ。
ここに萱の箸と出てくのは一つの行事として萱の箸があったためである。
普通は箸としては使っていない。

石なこの唄もほとけて梅の花

いし‐なご【石▽子】

女児の遊戯の一。石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊び。お手玉などの原型。石な取り。石投げ。

筆者はこの語の語源は石投げ、であろうと推察します。 勿論、根拠はすかさず開いた古語辞典ですが、 いしなご(名詞、石投げ、女子の遊戯の一種、お手玉)によります。 この言葉が更に変化して石な取り(名詞、いしなごに同じ、石なごを取る遊び) ともいうようになったのです(宇治拾遺、雑賀、詞)。 賢明な筆者はおわかりですね、古くは宇治拾遺に名詞・いしな、が記載されており、 その意味も飛騨方言・いしな、にピタリと一致します。
http://www.geocities.jp/sashichi2004/dic/a/i/ishina.html

これはどこでも子供が石で遊んでいた。石蹴りとかもあるから神社は特に昔から子供の遊び場になっていた。秋葉神社でも子供が毎日集まっていた。
そういう風景もなくなった。

山吹の宿も芝居の留守居かな

梅遅し笠嶋あたり草履道


それまで野も山も、田も畑も、泥んこであったのが、砂埃のたつ、乾いた道に変わると、待ちに待った本格的な春が訪れた証拠である。一茶はそれを草履道と呼んで詠っている。
蝶とぶや信濃の奥の草履道\小林一茶

春樵はるごりの柴つみ車牛弱み


牛車で柴を積んで運んだ。柴は燃料であり山にとりにいった。芝居を見に行って宿が留守だったというのもそれだけ芝居を見る人がいたということになる。



歸田園居其六

陶淵明

種苗存東皋 苗を種(う)うるは東皋(とうこう)に在り
苗生滿阡陌 苗は生じて阡陌(せんはく)に満つ
雖有荷鋤倦 鋤を荷(にな)うに倦むと雖も
濁酒聊自適 濁酒聊か自ずから適う
日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車
路暗光已夕 路暗くして光已に夕べなり
帰人望煙火 帰人 煙火を望み
稚子候簷隙 稚子 簷(ひさし)の隙(すき)をうかがう
問君亦何爲 君に問う また何を為すやと
百年會有役 百年 役有るに会す
但願桑麻成 但願わくは 桑麻(そうま)成り
蠶月得紡績 蚕月(さんげつ) 紡績を得るを
素心正如此 素心まさにかくのごとし
開徑望三益 径を開きて三益(さんえき)を望む

苗を東の沢に植え
苗はあぜ道に満ちている
鋤を担うのにあきてきたが
濁り酒は丁度よい具合に熟成した
日暮に柴を覆う車があり
路は暗くなり、まさに夕べとなった
家に帰る人は夕餉の支度の煙を見、
幼子はひさしの隙から外をうかがっている
「あなたはなぜそのような事をしているのか」とおっしゃるか?
これ(農耕)が一生涯かけての仕事なのだ
ただ願うことは桑と麻がなって
養蚕をする月(陰暦四月)に生糸ができることだ
私の願いはただそれだけだ
路を開いて三益の友(正しい人、誠実な人、見聞のひろい人)をまつとしよう

日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車とあるから見慣れた風景でもあった。



二本松にて

氷売る声はきれたり夏の月

気の長い老いの句俳や麻地酒

麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。
http://www.nikaido-shuzo.co.jp/nikaido/history2.html

麻地酒〔豊後〕あさじざけ
江戸時代初期、豊後日出(ひじ)城主木下家の創醸になる諸国名酒の一つ。うるち米ともち米を半半に用い、寒仕込みしてから草や茅などで覆って土中に埋める。この特異な熟成法から《土かぶり》の異名がある。夏、熟成した酒を汲み出して飲む。肥後産のものもあるが亜流にすぎない。●麻地酒の方豊後 (*中略)人の歩き申さぬ屋根の下の風の吹ぬき候所よく寒の中に仕込来年六月の土用のうちに口を明る、色はひわ色の濁酒なり──料理&『合類日用料理抄』巻一
http://hanasakejijii.seesaa.net/article/401648043.html

...と遊び過ごして落とし味噌(秋の部)

おとしみそ【落とし味噌・落し味噌】
粒味噌をすったりこしたりせず,そのまま入れて汁を作ること。


・・・や草履をはかぬ何所の人

名月やありて苦になる水時計

水時計な度か使われていた。ただこれが苦蜷というとき時計がわずらわしいと同じである時間を気にせず名月を観賞したい、月見をしたいとなる。

松川浦眺望

こっそりと月をもてなす葦家かな

葦の家とは藁葺きの家なのか?葦と萱は違っているけど別な家のことか?
松川浦はひなびた漁村でありそんな風景があった
津島という山里にて

八朔や風呂の煙のたつ山家

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである

見ぬ人に酢茎もら月見かな

酢茎【すぐき】
スグキナの漬物。京都上賀茂地方の特産。11〜12月,塩をふって十分のおもしで漬け,のち特殊な室(むろ)に入れ1週間ほど発酵させる。自然発酵による独特な酸味と香味が好まれる

たまさかに月見の宿や蕨餅

萩なとは催馬楽諷へ虫の中

雨の夜を崩して拾ふ柚子味噌かな

松川浦眺望

時雨るや夜喰の箸の杉くさき

夜食した箸が杉くさい、杉の箸だから、箸にもいろいろ種類があった

朝凪や死なぬ薬の雪の里

鬼風の俳句集や旅の記録が残っている。長崎まで行っているとなると全国を旅しているから江戸時代にしてはこの辺でそんな旅をした人かがいたのかとなる。
この人は相当裕福な家の人だった。吉田とあると今でもあるから吉田屋というのは呉服屋であり古いからその家の系統なのだろうか?
ただいつの時代なのか記していない。
この人の俳句で面白いと思ったのはすでに死語になった言葉がでてくる。
江戸時代だと当然そういう今では使われない廃れたものがありいくらでもある。
それは当時は生活の中で活きていた言葉なのである。
死語となったのは別に江戸時代だけではない、戦前でも戦後十年でも死語になった言葉が結構あるのだ。
だから江戸時代を探るとき、そうした死語となった言葉を探らねばならない
幸いインターネットでそうした言葉には詳しいから引用した。


この人の俳句集は旅の俳句が主でばらばらになっている。
地元のことは俳句に少ない、旅の俳句集なのである。
旅だから土地の食べ物をいろいろ書いているのかもしれない、その土地だけで食べられるものがあった。酒でも麻地酒とは九州の豊後の酒だった。これも二本松で飲んだのか?
二本松だったら九州からもそうした酒が入ってきたのか、ただ作り方が伝播されて二本松で作ったのか何かわかりにく。
ただ今ではない食べ物のことなどが良く記されているのは江戸時代はやはり土地が代われば今と違って食べ物も相当違っていたから記した。


この人は恵まれていたから長生きしたのだろう。

朝凪の死なぬ薬の雪の里

薬を飲んで死なないとは何か今の時代に通じている。病気になっても病院に行き手当てして介護するからなかなか死なないという現代に通じているのも不思議である。
ただ飢饉があったことは二カ所書いてある。旅で見聞したのだろう。
草履を履いていないとかあり草履すら買えない人がいたためだろう。
この人のことからこの辺の江戸時代のことを知りたいと思ったが旅の俳句が主だからわかりにくい。
石なことは秋葉神社などでも子供が遊んでいて俳句にしたのかもしれない
ただこの遊びはどこでもしていた。この俳句集からは地元のことがどうだったのかほとんどわからない。
それでもまだこれは地元では貴重なので考察する価値がある。










posted by 老鶯 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)