2014年11月02日

天高し (自転車もバイクも車も老いるとのりこなせなくなる)



天高し

(自転車もバイクも車も老いるとのりこなせなくなる)



天高く高峰望む山の上

天高く登頂なりて歓喜の声

天高く頂上究めむ意気揚がる


山の魅力は大きい、いつも高い山を見ていれば心に反映される。
この辺ではその高い山がないからせのたりないのである。
ただ海があるから朝は気持ちかいい、
海は心を広くして山を心を高くする
福島県は広いから会津になると山国であり2000メートル級の山がいくらでもある。
でも浜通りからすると何か遠いのである。
交通的には電車だと二回乗り換えがあり遠いと思った。
盛岡は今は新幹線で50分だから本当に近い
距離的には遠くても交通としては近いのである
距離は今や交通の便に左右されているのである。
だから東京だったら外国の方が飛行機で何時間だとか外国が近いと思っている人もいる。この辺は電車が仙台まで通らなくなったので仙台が遠くなってしまった。
何かバスだと億劫になるのである。
ても車がある人は車で仙台に結構行っている。

吾妻連峰をきれいに見えるのは霊山の高い所に登った時見える。
山はやはり高い所に登って見るときれいに見える。
山は別に苦しい登山をしなくてもきれいに見える場所があればそこまで行けばいいのだ。ただそれか意外と地元の人でないとわかりにくいのである。
富士山は見る場所によって相当違っている。
プログの写真で雲が沸き上がって真っ正面に見える冨士が良かった。
バイクで旅しているのとあっていた。

3ab31708-s[1].jpg

湧き揚がる雲やバイクに夏の冨士

写真でもなにかうまく迫力あるものがとれる。
冨士を見ながらバイクを飛ばしている感じがでていた。
ここのプログがどこかわからなくなった
写真一枚拝借したがわかればリンクする

電動自転車でひさしぶりで今回霊山に行ったけど体中が痛くなって寝ていた。
もともと自分は若いときでも自転車旅行すくる体力もなかった。
登山でも体力がないから消耗する度合いが大きいのである。
今回はすでに老化であり筋肉が異常に疲れるということがある。
結局苦しい登山でも何でも若い内にやらないとやれなくなる。
海外旅行の一人旅でもそうである。
辛うじて50歳からしたがこれもさんざんなめにあった。
人間はどうしても若い内しかやれないことがある。

全身全霊をもって事にあたれ
若き日に全力を尽くして悔いなかれ
汝もまた老いの早かれ
全身全霊をもって果敢に挑戦せよ1
力あるうちに力を尽くせ
老いの早きを知るべし
成しえることを成さずして終えるべからじ
老いればもう成しえざりき
夏の雲が沸き上がるように
青春の日の再び蘇らむ

人間は老いるのか早い、自転車でも何台か買っても使っていない、使えなかった。
バイクに老人が再び乗っているのもわかる、青春時代に乗った快感が忘れられないのである。だから金があると一番いいバイクに乗ってみようとなる
若いときは金がなかったから乗れなかったバイクに乗ってみようとなる
でもその乗る時間がすでに限られているのである。
だから高価なバイクを買っても意外と乗る度合いが少なくなる
車でも75過ぎの人が運転してる人を知っているがだんだん運転がてきなくなるとき恐怖である。
田舎では車が運転できないと相当に不便になる。

自分も自転車で買い物できなくなることが恐怖だった。原町とかにここから行く必要があるからだ。それで原付バイクの免許をとる勉強をした。
でも原付は何か普通のバイクより危険なのである。
同じスピードで走れないからかえって危険である。
路側帯も走れないのも危険だと思った。
それでもだんだん電動自転車でも疲れが激しくなると乗れなくなる
老人になると金があっても物を買っても使いこなせないということになる
若いなら別に苦しい旅でも自転車はいいものでなくてもバイクでもできる。
つまり体力あれば金がなくてもできるということがあったのだ。
金があっても体力がなくなればできなくなることか多いのである。


タグ:天高し

2014年11月03日

機械化が社会を根本的に変えた (刀自には一家の主的役割があったー機械化で失った主婦の役割)


 
機械化が社会を根本的に変えた


(刀自には一家の主的役割があったー機械化で失った主婦の役割)

●機械化工業化で明治以降は社会が激変した

現代の社会を根本的に変えてしまったのは機械化の影響が大きい。信長の時代だと鉄砲が入ってきてそれが時代を変えた。戦争でも常に武器が社会を変えていった。中世の城壁が無用になったのは大砲がでてきたためである。会津の戦争でも大砲で旧式の鉄砲で戦いなかった。現代社会を大きく変革したのは機械だった。江戸時代まで大量生産ができなかったから工場もないから時間にルーズですんだ。大量生産で効率的にするには時計で時間を絶えず計り規格製品を大量に作り出さねばならない。
その大量生産のために学校が作られたのである。学校もまた機械化される社会に適応させるために世界中で作られたことでもわかる。
それは国と関係なく機械化社会に人間を適応させるためにそうなった。
江戸時代の寺子屋は意外と自由であり机を並べて一人の先生の指示に従うものではない。学校は規格化された大量生産のために必要だから作られたのである。
time is moneyになった資本主義もそうして時間を機械化して計ることにより人間を機械化することだった。
現代文明とは機械文明でありそれは機械を使いこなせなければ生きていけなくなった。
それは非人間的なものであっても機械化された社会になるとその中で生きる他なくなるのである。
戦争すら機械化戦争であり高度な機械は殺人兵器となり大量殺戮になった。
原子爆弾がその象徴でありナチスのガス室送りでの大量殺戮もそういう文明の結果だともされる。ともかく人間がこれほど大量に殺されたのは機械が発達して機械が大量殺戮を可能にしたからである。空爆だったら大量に殺戮できることでもわかる。
人間は機械に使われ機械によってその人間性も容赦なく奪われる。
ただ機械化しなければ他国との競争に勝てないから共産党主導の強引な政策の強制は失敗した。

全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となった
http://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm

要するに機械化できないから鉄鋼の大量生産ができないから農業から工業化ができずに遅れをとったのである。
戦後は農業でも機械化であり農機具なしでは農業もできなくなった。そのことは中国でも同じである。コンバインだと麦刈りするとき人力の百倍とか千倍の収穫ができる。
それで麦刈りの出稼ぎ者は極端に減ってしまった。ただコンバインの入れない地形の所で出稼ぎ者がまだ使われていた。それは日本でも田植機で田植えしてもその縁(へり)が機械でできないので手植えしているのとにている。
巨大な機械によって人間が隅に追いやれ人間の力は機械に比べていかに小さいものか認識される。中国は人口が多いから人力作戦で行う。その中国ですら機械の力にすれば小さいものになったのである。

●日本人意識は鉄道によってもたらされた

これは大局的に見た現代文明である。明治維新以後は鉄道化した結果江戸時代の社会が大きく変わったのである。江戸時代は簡単に藩を出ることはできなかった。範囲意外の人間と交わることはまれだった。それより隣の村との行き来すらしていない自給自足の閉鎖された社会だった。例えば伊達政宗が相馬藩の街道を通るとき相馬の殿様の許可を得なければ通れない、でも伊達藩にも恩義があるということで特別通された。
そういうことは全国であり簡単に道は関所もあり通れないのである。
鉄道の歴史で面白いのは切符が江戸時代の手形やパスポートのようになっていたという指摘がある。切符一枚あれば日本全国どこにても行けるからである。そんなこと当たり前だろうとなるが鉄道ができた当時はそれはありえないことだったのである。
そして鉄道に見知らぬ人が乗り合わせることもありえないことだった。江戸時代は見知らぬ人が出会うということは少なかった。だから全然知らない人が同じ車内にのっているということが何か普通の経験ではなかったのである。
そういうことを小説の描写で残しているのがあるし鉄道ができたことにより社会そのものが人間関係も変わってしまったのである。見知らぬ人が同じ車内で出会い切符一枚で全国どこでも行けることは日本の社会を変えてしまった。
だから鉄道が日本を統一国家にした日本人として意識させるようになったというのもあながち否定はできない、天皇ではなくそうした鉄道化した社会は日本人としての意識をもたらした。なぜなら天皇とはその頃まで庶民にはそんなになじみがあるものではなかったからである。
江戸時代までは日本人は他の藩のことなどしりえようがなかったのである。
現代の人間関係は常に見知らぬ人と遠くの人と交わるのが普通になっている。
狭い村の自給自足的な閉鎖された社会とは違い人の出入りが激しい社会である。
そういう中で犯罪も増えてくる。
機械化というとき通信の世界でも匿名の人が集まり文字で話し合うというのも現代的である。これも相手の顔も素性もからず文字だけで話しているのである。こういう世界もありえなかったのである。現代は膨大な人々が匿名で交わる社会である。
それもパソコンとか通信機械化社会に寄ってそうなったのである。
コンピュターライズド社会になった。その前にモータライズド社会が車社会ができあがっていた。車社会となったのも大きな変化である。
それは鉄道にまさる変化をもたらしたのである。

●昔の家事の重みは万葉集など刀自の言葉に伝えられる

機械化というとき家事も機械化であり機械なしでは今やありえない、機械化で効率化しているから仕事も外でできる。今は一人暮らしでも機械によって家事が簡便化した。
米たくにもスイッチ一つ押せばいいとか誰でもできる。
ただ家事のノウハウは多岐にわたっているからそれが家事を全くしていな男にとってはそのノウハウを知らないことで苦労する。
自分もここ七年間はそうした家事に追われていた。家事は簡単にそのノウハウが会得できないのである。まず料理からしてめんどうであり自分はほとんど買ったものでまにあわせている。それからいろいろな管理方法でもわからないのである。
その点女性は知っていて教えられることがあった。
全然家事したことがない男性が妻に突然死なれたりすると苦しむのはそのためである。
家事というのは昔でも大きな仕事であり

トヌシ(戸主)の転。戸口を支配する者の意。「家長(いへきみ)」の対。
「刀自」は女、つまり、「一家の主婦」なのですが、奈良時代には「一族の女主人的な立場の人」でもありました。年寄りでも若くても関係なく「刀自」です。
さらに転じて、「女性に対する尊称」として用いられるようになり、
 平安時代には、「内侍所・御厨子所・台盤所などに勤めて、事務・雑役に従う女房」に使われるようになったと書いてあります
 
 
 神道では故人は神(祖霊)になって、一族を見守るようになる。
刀自命(とじのみこと)、姫命(ひめのみこと)、大人命(うしのみこと)、命(みこと)は祖霊になった際につける敬称の1つ。

 意味合いは違うが、仏教における「戒名」と近いものとなっている。
※刀自命の刀自とは、戸口を守るという意味があるそうです。転じて女性を指す言葉となっています。

母刀自(その2)……駿河国の坂田部首麻呂の歌。

「真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)
目豆児の刀自/身女児の刀自……『万葉集』巻十六、能登国の歌。
「鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)


刀自は家事を背負った大きな役割を果たした女性である。その家事の内容が今とは戦前でも役割の中身が違っていた。今のように機械もないし買うこともないのだから自給自足となると一軒の家ですべてをまかなうということになる。
戦後でもまもなく農家では納豆まで作っていた。もちろんその前は味噌も自前で作っていたりと何でも自前で作っていた。今はただ買う生活なのである。
だからそこで刀自とかいう家の重みを背負っている女性は喪失した。

真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)

ここには家の重みのある時代を彷彿とさせる。家自体も真木柱とありその木が特別な木である。その柱のごとく殿はあった。そういう家に母刀自は重い存在だった。
お袋の味とか言われるがそれすら今もなくなったがそういうものを作り出していたのが母刀自である。その日々の仕事は家事に費やされていたのである。
時代をさかのぼればのぼるほど家の重みがあった。

鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)

一種の自家生産なのである。塩をもんでいるとなると塩を加工するのも仕事である。
売っているものを買うのではない、回りにあるものを利用して自給自足でありだから生産と消費は直結していたのである。ここに刀自が四つもでてくることでもわかる。
刀自の役割は大きかったのである。つまり今でいうなら言うなら主婦の座の役割は大きかったのである。
今は主婦はそうした刀自の重みはない、むしろ外でいくら稼ぐかとかで計られる。
家事はやはり料理でも自前でするというよりオカズでも買っている人が多いのである。
家の重みでも主婦の座の重みでも消失したのである。
刀自の重みは単に家だけではない自家生産して消費していたことにあったのである。

●刀自の役割が喪失して女性のフェミニズムが主張されるようになった。

昔の家事は機械など極力使わないから人力であるからその費やす労力も大きい。戦前でも中産階級ですら二人の女中を雇っていたというからそれだけ家事は機械化していなければ手間がかかるものだったのである。家事の労働に女性の労力は費やされていたとなる。
それが機械化されたとき女性の労苦も解放されたのだがまた新たな苦労が待っていた。
外で稼ぐには男性並みの能力がないと稼げない、でもそれだけの能力ある人は少ないから今度は外で働くのに女性は苦労するようになった。
つまり人間の社会は一見何かで楽になった機械で楽になったとか思うと別な苦労が待っている。機械化でもたらしたものは大変革だったがそれによる弊害も大きかった。
昔の女性はフェミニズヒムなどでは差別差別とか騒いでいるけど実際はそうした家事全般を受け持つことで大きな役割を果たしていたのだ。
刀自というのは今でも原町の大原の知って人の墓に刀自と記されている。
何か刀自というのには女性の高い大きな地位を示していたのである。
だから墓まで刀自と記しているのである。女性の地位をいろいろ言うが機械化でかえってその大きな役割を失ったということもあったのである。
男女平等を言うがそもそも男女平等というとき外で働くようになった女性が男並に能力を発揮することを強いられた結果としてそうなった。どうしても仕事では女性は男性並にはなれない。つまりそもそも男女の役割が違っているからそうなっているのである。
要するに女性本来の力を発揮する所は家にあり刀自としての役割にあったのである。
むしろ女性の本来の役割が近代化機械化で失われたということもある。

なぜそんなことを思うようになったかという自分がまさにそ家事一切を背負う男刀自になっていたからである。墓参りでも先祖の祭りでも自分がしなければならない、すべて家事一切家のことをまかされることになった。その刀自の役割は家を守ることである。それは家事だけではない家の財を守ることでもある。実際に犯罪に合い家の財も奪われたから家はまた刀自がいないと大きな隙間ができるからそうなる。
そして毎日介護でありこれも刀自の延長の仕事してあった。家の中で介護する負担は大きい。今でも嫁がやらされるというときその時刀自のような役割を担うことになる。
昔は大家族だから手のあいている人がやっていたのだろう。女中が中産階級で二人もいたということは女中も介護などの仕事をしていたのである。
ただ機械化した結果、掃除洗濯料理はもう機械ができる。オカズも買うから料理しなくてもいいから女中の仕事もなくなったのである。
今は女中の仕事をする人はまれである。それでも毎日家事の仕事は本当にあるものだと思った。大きな家になると掃除自体が手間になる。
だから最近買った3000円の掃除機が使える、簡単な掃除に使える。
3000円は安いなとすぐに通販で買った。35000千円で買った。スチームクリーナーは3万以上したがトイレとか床にはいいがあまり使えなかった。掃除機は重いからこれは気軽にできるから良かった。
これも機械をいかに自分にあったものを買うかとかが問題になり買うことから使うこなすことが始まってる。
なかなか道具は使ってみないとわからないから困る。この3000円の嘘かと思うくらい安い。それでも使えるから得だった。
知らないとこうして無駄な出費も多くなるのが現代である。何を買っていいのかも電器店に聞いてもわからない。
印刷機でも使えないものがあったし自分でいろぽす見て選択するほかないのが現代である。
電器店では売れ残りとかを進めたりするからこれも信用できなくなっている。
かえって通販の方がいいとまでなんているのだ。ただそこでは選択する能力が必要になっているのである。

毎日ゴミがでる、ほこりがでる。掃除は毎日欠かせないからまた手間なのである。
家事でも機械化すると便利な機械を知り機械を使いこなすことが肝心になる。
誰か主婦にならうより機械を使いこなす方が現代では大事になる。
そうはいっても家事のノウハウは実際の主婦の女性の方が知っている。
でも現実は機械でこなすほかないのである。
だから無洗米とかを精米できるところがあるとは知らなかった。
それだともう米を洗う必要もないのである。そうなると主婦の役割は喪失して外での仕事でいくら金をかせぐかが男と同じように評価の基準になってしまうのである。
家事をうまくやれるかより外で仕事ができて稼ぐことができるかが女性の価値判断になり男女平等がフェミニズムが興隆することになったのである。


これが3000円!
http://urx.nu/dHy8

吸引力が結構あり便利である。音はかなりうるさい。でも普通の掃除機は重いからめんどうである。これは手軽にチョコチョコ利用できるからいい。
これは偶然に見つけた、通販でしかこういうものは買えない
最近また通販で毎日のうように買っている。
通販だと自分の欲しいものが次々と買えるからいい
今は機械でも何でも多様化しているから通販でないと買えない
もう電器店だってそろえきれないものがあるからだ。
それは本でも何でもそうである。
あらゆるものがそろえきれない、だから店にあるのは大型テレビとか決まりきったものになる。
買い始めたらきりなくなるというのも困るが今まで買えないものが買える。
田舎でも都会にいると同じなのである。



posted by 老鶯 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

冬に入る(白鳥来る)


冬に入る(白鳥来る)

晩菊や畑に種まく老婆かな
散りてありここに二輪の秋薔薇
数滴の時雨や顔に老化かな

白鳥の今わたりきぬ夕暮れやその声ひびく冬に入るかな
白鳥の群れなし飛びぬ夕日さしかなたに去りて消えにけるかも
消えてなお白鳥飛びしその余韻空に残りて夕日没るかな


八沢浦の方で津波の被害のあわないところで種をまく老婆がいた。
何かあういうふうに暮らしがあると違っている。
種をまくとは未来へに種をまくことなのである。
畑をはじめことで未来がはじまっているのである。
それが例え老婆でもそうなのである。
だから小高でも飯館村でも放射能が危険でももし種をまいていたら何かそれが未来につながる感じがする。
ただ荒地としておくとそれは荒廃するばかりになる。
ただ除染したからといってそれができるのかとなると疑問なのである。

今日は明らかに時雨だった。秋時雨とは違う。なんか老化してゆくのが淋しいとなる。
今年の気候は変則的だった。昨日まで暑いとか今日は急に寒くなるとか台風が来たとか異常気象である。こういうの俳句になりにくい。
まだ晩菊であり秋薔薇である。
駅前の薔薇二輪は散っていた。でもあそこに咲いていたものは記憶に残される。

白鳥が連なり飛ぶのが見えたのは相馬市の道の駅だった。
あそこの道の駅は田んぼのなかにあるから安らげるのだ。
あそこにいつも老人が何人かたむろしいても寒くなると外にはいられなくなる。
ひなたぼこしても風が吹くからあそこにも冬はいなくなるのか?
暇な老人が多くなっているだろう。ただ忙しい人は忙しいのだ。
自分などここ七年間本当に毎日家事であり介護に追われてきたのである。

白鳥が群れなして飛んでいるのは本当に美しい。
白鳥のように飛んでかなたに消えてゆきたいとなる。
この世の汚れ人間の醜さを嫌というほど味わったからそうなる
どこにいようと人間の醜さから逃れることはできない
ただ田舎だと白鳥とか美しい自然にいやされるのが違っているのである。
タグ:白鳥

2014年11月04日

パソコンの操作で理解した抽象画論 モネは光の分析、セザンヌは立体性の追求、ピカソに発展


パソコンの操作で理解した抽象画論

モネは光の分析、セザンヌは立体性の追求、ピカソに発展

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雪舟

この絵の抽象化
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ボスポラス海峡

ここまでクリック拡大

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これはモネ的になる


対象の再現性を離脱しようとするタッチを対象の明確な構成要素、「円錐、球、円柱」に向わせました。セザンヌによって、絵画は強固な形態を自ら創り出そうとするあらたな方向性を与えられました

ここのサイトでモネとセザンヌを対称的にとらえているから興味深い。モネはソフトな色合いで特徴づけられる。プリズムのように光をとらえて色とした。
絵画は色と構築する立体性がある。構築する立体性は建築に通じている。
絵画には多様な色と建築性から成り立つ、西洋絵画はレオナルドダビンチから立体性を遠近法で現した。もともと西洋ではローマ時代から建築に優れていた。
だから立体感覚に富んでいた。そもそもそれはエジプトのピラミッドからはじまっていた山を抽象化して立体化するとピラミッドになるからである。
ピラミッドは人工的山なのである。砂漠には山がないからピラミッドを山として精神の安定を計り宗教的礼拝物ともなったのである。

自然を鑑賞すればそれは多様であるが骨格として岩があり岩は土台であり建築的である。岩から土が生まれたというのも地球はもともと岩で造られていて岩が砕けて土となったり砂となったのである。
地球はさらに岩盤の奥に中核は最も固い鉄できているのである。
セザンヌの絵は重厚であり岩的であり建築的なのである。
モネやゴッホの印象派は色に分析したのである。
何か肖像画もセザンヌは岩的顔貌になっている。
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セザンヌ


それから抽象画はピカソによって開花した。自然でも世界でもこれは具象としてあっても抽象画ともなる。具象→抽象ということがあって文明を作りだした。
なぜなら文字はまさに万物の抽象化であるからだ。
漢字は象形文字でありエジプトのヒエログリフもそうである。
つまりそれは万物を抽象化したものなのである。

ピカソにいたって抽象画は一つの時代をきづいた。それは時代を反映していたのである。現代文明は物質文明となり具象的人間の存在感が失われた時代である。
大衆化現象は人間は人間ではなく抽象的数としてしか表現できない世界となっていた。
キュービズム運動もそうした時代が生んだものなのである。
モネの絵からは確かに何が重い存在感が感じられないのは立体的建築性がないからであるセザンヌの肖像画は額が岩のようにも見えるのである。
それぞれの個性がフランスで開花したとなる。

ふりかえって日本の絵画史を見ると何か尾形光琳でも絵画でも一つの形式にのっとって描いている。だから狩野派だとか一つの派が形成される。それは一つの様式美を作り出したから弟子もそれに従ったのでありその様式からなかなかぬけだせなくなる。
そして何か日本の絵画も抽象的な要素が大きいことに気づいた。
それは写生ではなく木を描くにしても時代の様式がありそれにのっとって描いているから何か幾何学的に見えたのである。
写生の絵は円山応挙にはじまって蕪村が絵画的俳句を作りそれを継承したのが正岡子規の写生俳句だったのである。
この雪舟の絵も何か抽象的であり本物の岩を写生しているわけではない、水墨画でもそうである。写生ではなく心が意図して作り出したものである。
円山応挙が虫などを図鑑のように写生したのとは違っていたのである。
だから岩が幾何学的に見えたから抽象画になるなと思いパソコンで加工してみた。

自分には何ら絵の才能がないのだけど抽象画はパソコンのソフトの作用でできるから絵が描けなくても作れる不思議をずっと体験して出してきたのである。
絵画は色と幾何学的なものに分解できる。太陽だったら円ではあり山だったら三角でありとかになる。雪舟の絵を幾何学的に分解したのが自分の抽象画である。
ただこれが岩に見えるのかとなる。抽象画はやはりこれが岩だというとき岩として見ないと何か鑑賞できない、何かわからないのが多いからである。
岩には石には充溢する充実した安定がある。岩石は燃えていると上野上野霄里(しょうり)氏は表現した。それはやはり個性によって岩の見方も違ってくるのである。
絵画をどうみるかはその人の感性によるし自然でもそうである。多様な見方があって自然の見方も教えられるのである。
パソコンは抽象画には一番向いている道具だった。
自分もパソコンで遊びで抽象画を作っていたら美術の理解が絵の理解が深まったのであるまず自分で絵を描けるなど思っても見なかったからである。
パソコンの色は独特でありこれは絵の具では現せないもであり電気の光で映えるものなのである。

これが芸術てのかという疑問もまたでてくる。芸術はアート(技術)のことだから技術の発展によって新しい芸術が生まれたのである。
それは電気と深く関係していたのである。
モネの色は絵の具の色でありハソコンの色は電気の色なのである。
美がわかるのはフランスと日本しかないというときそうなのかもしれない。
日本は建築的には劣るが美術的には優れたものを残していたのかもしれない。
本当は日本は山が多いから建築的でもある。たたそういう建築的文化は劣っていた。
エジプトのように平面と何もない砂漠の方がピラミッドを生み出したように建築が発達した。それはとギリシャに受け継がれたのである。




タグ:抽象画論

2014年11月06日

冬に入る(長くつづくもの介護、復興工事など)


冬に入る(長くつづくもの介護、復興工事など)

冬薊工事のなおも続くかな

近くなれ社にありぬ天明の碑を知らじかも冬に入るかな
秋よりや山茶花長く咲きつづき冬に入るかな介護はつづく
一本の松にこそよれ変わらじも我がよりにつつ冬に入るかな
三カ月後白菜育ち食べられるとともに見守る女そ親しも

この辺の工事は長くつづく、除染などもいつまでしたら終わるのかとなる。毎日百人くらい集まり除染の仕事にでかけている。金沢の坂から原町に行く所もプレハブが建ち新しい家もたったから閑静な所ではなくなった。
あそこにある一本松は目立たないが変わらないものとしてあった。
この辺はあまりにもあらゆるものが変わりすぎたのである。
だから変わらないものがあるとほっとするのである。
老人になると変わりすぎる社会は苦手になる。
それから機械の操作か苦手になる。認知症になるとテレビのリモコンのボタン一つおせなくなった。

今の時代はまず機械が操作できなかったら生きてゆくことすらできない。
だから老人にとっては生きにくいのである。
直接人と人の関係で社会が成り立ってないない、広域社会グローバル社会になると実際は直接関係しなくても物だけは地球の裏側からも入ってくる時代である。
そういう社会がいいのかどうかわからない、ただ社会がそうなればその社会に適応しなければ生きていけないのである。だから機械時代になれば機械を操作できなければ生きていけないのである。車の運転ができないと仕事もできないと同じである。

ただいつも行く道ち一本の松があるというときそれは人間に見ているのである。
松は何か人間に最も近いのである。それが変わらずあるということが安心につながる。
それは信頼する松でもある。でも田舎でもこのように変化が激しいともう近くでも人も変わるし環境も変わると何を信頼していいかわからなくなる。
実際近くの人ても信頼できない時代である。
畑に白菜を植えてそれが育つのに三カ月かかるというとき長いと思った。
それをともに見守っているというのは農民の心情であり共感する心があると思った。
もともと80パーセントが農民だったとき、戦前だって日本はずっと農民社会だったのである。
だから何か共通の心情とかが育まれていた。都会なるとその頃でもやはりそうした共通感覚は消える。江戸時代のいい面はそうした共通感覚の上に社会が築かれていたからであるだから人間でも一体感が自然と養われていたのである。
工業化とかグローバル化になるとそうした一体感は喪失した。
農業社会の一番の関心は天候のことでありそれが景気に作用する
株で景気が左右する現代は何か異常である。
とても紙幣をすってばらまいて景気が良くなるはずがない。
そういう社会はあるとき、急激に崩壊する恐怖がある。
つまり紙幣がただの紙になってしまうのである。
だから資本主義はもう限界にきていて崩壊するということが言われる。
こんな社会はもう維持できない、それはむずかしい学問ではなくて何か人間の感である。そういってもやはり自分も株をもっているから矛盾しているのである。
ただ自分は株は売ったり買ったりするのがめんどうだからそういうことはしてしいない。銀行に頼んでいるだけだとなる。

今年の天候は変である。庭の楓の木がまだ紅葉していない、冬になればすでに冬紅葉である。山茶花も秋から咲いていたし何かそうした温暖化の影響がある。
それにしても介護は長くつづくなと思った。
現代は本当に介護時代である。普通こんなに介護がつづく時代はなかった。
早めに死んでいたろう。介護は最低でも3年とか5年とかさらに長くなる。
これもまた現代の高齢化社会の負担なのである。
金だってかかるし家族の負担が大きくて長いのである。
だから60代は親の介護でも金がかかるからその用意も必要だとなる。
ともかく今日は寒くて冬に本格的に入ったと感じた。



 
タグ:冬に入る

気になる江(え)の地名 (蝦夷(エミシ)もエである)



気になる江(え)の地名


(蝦夷(エミシ)もエである)


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双葉


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えねいは古い言葉に感じる

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原町

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鹿島

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江名(えな)は恵那(えな)と同じである。

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江見(えみ)はエミシなのである。



海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない

アイヌ語地名の痕跡化
'%E3%81%88%28%E6%B1%9F%29%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%
81%8F%E5%9C%B0%E5%90%8D'

北海道にはアイヌ語で地名があったが和人が入ってきて漢字をあてたからややこしくなった。江(え)とつく地名が北海道に多いのである。このエが何なのか、アイヌ語ではエは突き出たという意味である。これは何か統計的にみて地形ともあっているだろう。
地名は地形的なものから名付けられるのが多いからである。
突き出た所ということでありその基は頭をエと言っていた。
そこから派生して突き出たものがエとなった。枝(えだ)などもエがつくからわかる。
ただエに江をあてたときわかりにくくなったのである。
江というときどうしても海などをイメージするからである。
エは江とは限らない、なぜなら山の中にも江があるからだ。
だから突き出た所として解釈するのが無難である。
それは海に面して突き出たところが岬となり高台ともなり平地に突き出ていたところもエになるのである。だから山の中にあっても不思議ではない。
ただその時海のように湖のように平地のような所に突き出た所として名付けられた。


もう一つはエとは蝦夷(エミシ)のエである。蝦夷族、エ族の村になる。
現実に江見とあればエミシのエミだからまさにエミシの村だとなる。
自分が海老村が蝦夷の村だと解釈したときそうである。
海老はエヒとして呼んでいたしエヒと書かれているのである。
だから海老とは関係ない、突き出たところ、高台というのがふさわしい。
地形的なものとして名付けられた。
つまりエミシでも最初の原住民は平らな所には住んでいない、平の所の突き出たところに住んでいた。なぜなら平らな所は日本では湿地帯になっていたからである。
だから奈良盆地に奈良湖があったとか他にも九州にも内陸部に大きな湖があったがなくなったとかインターネットで考察しているサイトがある。
福島市ももともと湖があったとか会津でもそうである。
山の中でも盆地は平らなところは湖や湿地帯になっている所が日本では多かったのであるだから住みやすい地はまさに平らなところではない、平らなところに面した突き出たところだった。


今回の津波ではそういう突き出たところは高台となって津浪被害をまねがれたのである。
だから地図で示したように江(エ)とつく地名はこの辺では津波をねがれ所でありまたは海だった所であった。江とは江と必ずしもならないということを見ていないと誤解しやすいのである。地名は漢字から見るから誤解しやすいのである。
もともとはエという音であった。それもイとまぎらわしくなる。
ただ江戸(エド)でもそうだが地名の起こりは地形に由来していることが多いのである。
江戸も海とか平地の湿地帯に面して突き出たところ高台として名前がつけられたのだろう
ではエがアイヌ語だとする日本全体にエの地名があるとしてアイヌが縄文人でありその言葉が受け継がれたのかとなる。アイヌ語から日本の地名を解明することはこれまでされてきたがこれも今では否定されることが多い。
とてもアイヌ語では日本の地名は解きあかせないことがわかった。
なぜならこのエ一つにしてもアイヌ語だったら重大なことになる。
日本全国にアイヌが住んでいて日本の原住民だったとなるからである。
縄文人とアイヌ人とは一体だったとなってしまうからである。

ともかく地名はいろいろに解釈されるから誤解が多いのである。地名には法則性がないということも致命的なのである。科学は法則性を追求してきたから信頼される。
文系的なものは法則性がないから信頼されない、科学的に解明できないのである。
統計的に割り出すと何か信憑性が出てくるのはそのためである。
世界史で四大文明が生まれたのは大河の辺りだったというのも一つの法則性なのである。ただ地理は複雑だから法則的には解明できない、地図をいくらみても地理はわからないのである。地理から実感できないのである。
ただ地図をたどるとなんかエとつく地名が連続している。それは女場(おなは)というのも実は沖縄の小那覇ー那覇から連続していることがわかった。地名は孤立していない、連続性があることは確かなのである。それは沖縄から連続してある。
北海道にはアイヌ語があったとしてもエとつく地名が密集していて日本列島に連続していることは確かなのである。

恵那(えな)などもありそこに自転車で旅してテントを張って一夜泊まった。

旅路来て一夜泊まりぬ恵那に月

エナという名が心に記憶されていた。それは中山道を出た所だったのである。何か平地に出るような場所だったのである。中山道は山の中だが恵那に出ると平地にでる。
するとそこも平地があって突き出た高台という地形だったのかもしれない。

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった
(神社の位置が歴史を語る)
http://musubu2.sblo.jp/article/101634504.html


 
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2014年11月07日

古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった (一番恐れたのは水難)



古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった

(一番恐れたのは水難)

古代人が一番怖いのは水難なのよ!
洪水の多いこの国において 
よもやのときに水の来そうな場所に絶対に古代人は住まない!
いくら 海 河川が近い場所でもそこは必ず小高い丘
絶対に水の来ない場所にしか古代人は住まないんです!
東北大震災は水難だったが 古い神社が残ったのは
古代の流れを汲んで 小高い場所にあったからなのだ!


このことは他でも言われてきた。エのつく地名で考察したがエは江となっているがこれは当て字である。実際は突き出たところの高台になる。縄文人は水難にあうような場所には住まない、その継続として神社も高台にあった。八龍神社が全国に多いけどこれは水難をさけるためのものだった。そもそも日本の地形は平地は湿地帯であり盆地も湖で住めなかったのである。それで蝦夷(エミシ)の日高見の国というのも高台の国とかなる。
それは中世になっても館という地名は後の城だけどみんな高台にあるのだ。
鹿島区では真野中館も山の上であり屋形の岩松氏の本拠地も高台である。
最後に平地の田中城の攻防で相馬氏が勝利を納めたことでもわかる。
あそこの田中城はぎりぎりで津波の被害からまねがれた地域だったのである。
あのまわりは湿地帯でありすぐ近くに海が広がっていたのである。


上毛野(かみつけの)伊奈良の沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され  万葉集3417

消えた湖の伝説その1
http://nire.main.jp/sb/log/eid27.html

万葉集にはこうした太古の日本の地形とかの継続があり歌われている。

舒明天皇(593?)御聖歌

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見すれば 国原は 煙り立つ立つ 海原は かまめ立つ立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

ここに鴎がでてくるのが謎とされる。海がなければ鴎は飛ばない、でも琵琶湖には鴎が群れていた。淀川をさかのぼり鴎が来る。
奈良も盆地はが湖だった。川をさかのぼればその湖に出るのである。
万葉集の歌は日本の太古の情景と通じていたのである。その継続があり歌われていた。
日本は平地は湿地帯であり沼や湖が多いのである。だから平地にはまず最初は住めなかったのである。海岸地帯でもそうだった。
もちろん今回の津波でわかったように海に接して住むことはありえなかった。
今回の津波で日本の太古の状態が再現されたことに驚いたのである。
神社が一般的に高いところに建てるのはそうした日本の地形に由来していたのである。

日本の地形は海と山と湖と谷の地形である。平地は湿地帯であり湖で住めない所だったのである。福島県でも猪苗代湖が福島県の真ん中にあることでも象徴されている。
福島盆地も広いが湖だったとされている。盆地の平地は湖だったのである。
盆地は四方が山なのだから川の水が流れ込むと当然そこは湖化するのである。
そうした太古の情景を見たら日本は信じられない美しい国だったとなる。
今は盆地は都会化しているからそうしたことを想像すらできなくなっている。
今回の津波でわかったことは自然の恐るべき力であった。津波は徐々にではなく一気に変えてしまったから恐怖だったのである。
中国では国が二つに割れたという漢詩が残っている。


岳陽樓に登る   <杜 甫>
がくようろうにのぼる  <と ほ>
昔聞く 洞庭の水
むかしきく どうていのみず  
今上る 岳陽樓
いまのぼる がくようろう
呉楚 東南にけ
ごそ とうなんにひらけ  
乾坤 日夜浮かぶ
けんこん にちやうかぶ
親朋 一字無く
しんぽう いちじなく  
老病 孤舟有り
ろうびょう こしゅうあり
戎馬 關山の北
じゅうば かんざんのきた  
軒に憑って 涕泗流る
けんによって ていしながる
ーーー
 昔から洞庭湖の壮観は話に聞いていたが、今初めて岳陽楼に上(のぼ)って見わたすことになった。
 呉・楚の地は国土の東南部でこの湖によって二つにひきさかれ、はてしなく広がる水の面には天地が日夜浮動している。
 
 
今回の津波はまさにこれとにた経験をしたのである。
日本列島も実際は東西で分離していたが天変地異で結合したとき倭国大乱が起きたとか東と西の戦争になったとか考察している人もサイトにいる。
九州も内陸部に大きな湖があって二つに分断されていたとか言うのもこの詩とにている。中国はそれだけスケールが違う自然の驚異があった。
自然は固定していない、変容している。大きな変動が起きて社会そのものを変えてしまうことがあった。今回の津波はそういうことがあるのだと実感したのである。
津波がきて問題にささたのがなぜ危険な海岸に接して住居が密集して住むようになったのかという疑問である。それは原釜とか磯部とか海老とか烏崎村とか他でもそうである。
それはやはり海岸に接して住めば便利だからである。
魚とるのにも港との機能としても舟が入るのにも便利だから住むようになった。
車もない時代は遠くから通うことなどできないからそうなる。
農業でも前田とか門田とか中心になるのは遠くに働き場所があったら不便だからである。
すぐじき前が働く場所だったから楽なのである。
人間では危険でも便利な場所に住むし便利なところから離れられないのである。
だから三陸などでは明治時代にも一万人以上死んでいるのにまた海岸に接して住むようになったのである。それは便利だからそうなったのである。
明治時代なら祖父母からさえその被害を聞けるのにそうなっていたのである。
人間は一度豊かな生活でも便利さを覚えるとそれから逃れられない。
今や車なしでは生活できないから車がない社会は考えられないのと同じである。
現実にいくら交通事故が起きようと車を使っているから危険な海岸線に住むなといっても
便利な暮らしから離れられないのである。


 
タグ:日本の地形
posted by 老鶯 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

春の短歌二十首(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ) 春の短歌二十首(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)


春の短歌二十首

(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)

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(浪江)
高瀬川轟く流れ春の日やそそりたつ巌をまた見む鳥鳴き飛びぬ
岩を打ち轟く流れ高瀬川春日まばゆし奥へ入りゆく
流れ来る二つの川や浪江町春の大地の請戸に展けぬ
請戸港船の並びて春日さすその日も消えて荒野となりぬ
大堀を春に訪ねぬ陶工の技を磨くや大き壺買ふ
夏の日の野馬追いに来る大堀の人帰らじと陶器売るかな
白河に窯を持ちしと相馬焼技伝えつつ浪江に帰らじ
恨めしき原発近く人は消え淋しき家や秋の日没りぬ
(津島)
塩浸し春の日来たりて店により津島に向かふ遠き道かな

津島より道は分かれて三つかな店も出しにつ春の日つきぬ
飯館ゆ津島につきぬ山陰の道の長しも春の日暮れぬ
さえづりの津島にひびくここよりや二本松に向かふ道の遠しも
津島にそ古き墓あれ浪江より遠きもここに埋もる人かな
(葛尾村)
上りゆく葛尾までや落合に昔の墓や春の日暮れぬ
葛尾(かつろう)に古き農家や春田のありて営みのあり
栄えあれ葛尾大臣山深く近江八景に妻は偲びぬ
(三春)
山路きて三春につきぬ長々と枝垂桜や家そ古りしも
三春なる城跡に立ち相馬との縁(えにし)の深く春の日暮れぬ
めご姫の伊達に嫁ぎて伏見へと三春思ふや春の日あわれ



今になると何かこの辺はいろいろとありえないことが現実になりなんと言っていいかわからない。
浪江の高瀬川はちょうど水墨画のような岩がそそりたち名勝の地だった。
その高瀬川の平地に流れ出る所に大堀の相馬焼きの里があった。
あそこも場所が良かった。高瀬川が流か急だしダムもないから自然のままであり水墨画のように見えた。
請戸にしても江戸時代は盛岡の宮古から鉄の素材を運んで葛尾大臣がいて栄えた。
そこには近江八景の庭を江州から滋賀県から妻を娶ってすまわせたからである。
あれだけの山の中だと退屈したということもあったろう。
葛尾村から三春のほうが近く昔はバスも小出屋を通って通っていたのである。
つまりあの辺になると三春のほうが近いから葛尾大臣が三春の殿様を招待したというのも津島に行く塩浸しという小さな川があるところに店がありあそこで休んでパンなどを買った。塩浸しとは塩を運んでいた馬が塩を落として塩浸しとなったという伝えがある。
あの辺も何回も行った記憶がある。

下冷田越えて津島や春の日に二本松へバスにのるかな

 「冷田」の場所は、谷津の開口部に当り、台地を流下してきた水が出てくる位置でもあります。谷水が溜るような土地であったかもしれません

 品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます。暖まりにくい水田は冷めたい田であり、水稲の成育には適していない

 http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm
 
 同じ地名が全国にある。やはり冷えるというのは水が冷える温まらないということかあった。あそこは何かそんな山奥の坂でありそういう場所だったからふさわしい感じがした何か地名は心に残り安いのである。何か日当たりが悪い暗い感じの場所にも思えたからだ
葛尾村も落合に明暦の碑があったように古いのである。
相馬藩の山中郷である。小出屋は自分の父親が出た所である。
双葉の新山に酒屋の丁稚になった。そのことも何か謎が深い、戸籍を見れば祖父に当たる人は柏原であった。そこは津島から近い。
三春は相馬藩とは歴史的に相当に縁が深い、争いがあっても殿の姫が嫁いだりして縁戚関係にあった。三春のめご姫は伊達政宗に嫁いだことで有名である。
戦国時代でも江戸時代でも常に政略結婚でそうなっていた。
めご姫はただ大阪の秀吉の伏見城のあった伊達家にあり人質としてそこで一生を終えた。それで不思議だったのは飯館からなぜか京都に移り住んだ若い夫婦をテレビで紹介していた。あんな遠くに行ったのかと不思議だった。
今は結婚は全国が相手だから不思議ではなくなっている。
だから避難した人は全国に広がったのである。

それにしても今になると平和だった日を偲んでいる人がいるだろう。
請戸には一回しか行っていない、春の日であり穏やかに日がさして船が並んでいた。
それは何でもない風景でありとりたてて珍しいものではない、でも津波で壊滅した結果その風景は失われて何も残っていないから不思議である。
一転してあまりにも荒涼とした風景になってしまった。
南相馬市立病院に入院していたときあったのが請戸の人であり農家で手広く畑を作りそれを今のイワキの平に売って財をきずいた。その人は優秀な農家で表彰もされているし若手を指導していたのである。でも重病になり妻が浪江から毎日通っていた。
そして手をにぎるとわずかに反応するのだが何かわかっているのかわからないのかただ手をにぎられ何かを感じていたのかもしれない。
反応といえばそれだけだったのである。だから悲惨だった。
その人は娘三人を大学に出しているからそれだけ優秀だったとなる。
それは畑作をして商品として野菜を平に出していたからなのだ。
請戸というと港のように思うが広い土地が広がっていたのである。
だからそれだけのもうけを出す野菜を作ることができたのである。

大堀でも相馬焼きを作っていたが消失した。野馬追いで店を出していた人は白河で二軒ばかりが窯をもって定着するという。もうあそこて相馬焼きが継がれることはないのだ。
浪江はやはり避難して復興することはむずかしい。
小高でさえ聞いてみると年寄りはめんどうだから帰らないというし若い人ももちろん帰る人は少ないのである。
一億円もらって他で新しく始めたほうがいいとなるのが現代的になるからだ。
人間は今は苦しいことをあえて選ばない、楽な方が用意されていればそこに行くようになる。
飯館村では除染した一軒の家に一億円かかっているという。なぜそんなにかかるのかというと後ろの山林などを木を切って除染したからそうなる。
なぜこんな金をかけて除染しているのかもわからない。
まず小高浪江でももう今は街があのようになると復興はずかしくなる。
小高などは放射線量はこの辺と変わりない所が多いのに帰らないのだから余計にそうなる


春の短歌十首(津島から葛尾、三春、飯館へ)
http://musubu.sblo.jp/article/28874706.html






タグ:春の短歌

2014年11月08日

NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真 (ここを通った桜が咲いている写真があった)


NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真


(ここを通った桜が咲いている写真があった)




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桜の木は枯れた
でも木が結構残っているのは不思議である。
この辺はほとんど海に接している地域だからである。

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熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ



NHKで時系列で20113月の津波と原発事故以後の被災地の状態を放送していた。
原町の萱浜(かいはま)で家族四人もなくした人が出ていたがこれも悲惨だったとなと思う一挙にそれだけ亡くすとなるとその衝撃は大きすぎる。
それでも息子と新しい家をすでに建てていた。
ともかくこういう悲惨な悲劇から立ち直るのは容易ではない
忘れろと言ってもなかなか忘れられないだろう。
ただ近くでも被害にあわない人は家族四人なくなったからといって痛みにならないのである。
ただ自分が苦しめられたことは延々と忘れられないのである。
つくづく自分のみに災いがふりかからないかぎり無関心な利己的なものだと思う
現実自分が苦しい目にあっているとき誰も同情しない
かえってチャンスだと様々なことを苦しめられてきたのである。
だからそのことが自分にとっては忘れられないのである。

六号線から海の方に出やすかったので熊川の方に出た。
あそこがあんなに事故のあった原発に近いと思わなかった。
なかなか原発は意識しにくいこともあった。
あそこからは原発は見えていない
でもなんか川下ると海が見えて沖に船が行くのが見えた。
桜が咲いてのどかな風景だと思った。
あそこにもそれなりに家はあった。
誰かが耕して休み船を見るとかいう俳句を作っていたがあの辺だったのだろう。
畑があり海があればそうである。そういう平和な風景が根こそぎ失われた。

六号線は全線開通している。
だから通販の品物が早く来るようになったのか
六号線を東京から直通だと早くなる。中通り通ると一日は確実に遅れていたのである。
あそこの熊川の隣は小良が浜(おらがはま)だった。
おらの浜だとして岩城氏と相馬藩が争った地域であり境界だったのである。
六号線を行ってみたいが自転車では行けない、車だと行けるようになった。
でも六号線だけでありあそこには行けない
あの辺は相当な放射線量だろう。
いづれにしろあそこなども誰も住まなくなるだろう。
原野化したがそのままであり津波の跡の海岸線はどこも同じである。
タグ:熊川
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冬柳(近辺の俳句十句)


冬柳(近辺の俳句十句)

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天明の碑のあり社落葉かな
荒れ果てし社の墓地や落葉かな
俳翁と戒名にあり落葉かな
鬼風の墓や句を読む冬の夜
路地の奥知られざる家冬柳
なお生きる99歳知るや冬柳
70年嫁ぎて長き冬柳
ここに生き長きものかも冬柳
空家に蕾二つの冬薔薇
秋薔薇三輪ここに照らす月

白き薔薇散りし誰か見るべしや空家の一つ長く住まじも

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近くの神社に鬼風という俳人がいた。江戸時代に全国を旅した裕福な商人だったからできた。
その記録も残っているが俳句自体はいいものがほとんどない。たいしたものでなくてもその頃俳句を作れるのは裕福な商人である。字を書けたりてぼときされないと俳句でも作れない、今なら誰でも作っている。江戸時代はそうはいかなっかたのである。
細い路地裏の道の家に冬柳があった。あれも隠されるようにあったからわからなかった。柳は何か幽霊みたいで冬柳となるとさらにそうである。
自分の母親でも百まで生きるとなると長いとなる。
嫁いでからもすでに70年近くもなる。


人間はともかくそれぞれの人生でも短いのだがまた長い。
近くの知り合いの同級の人の障害者が死んだ。
あの人もずっと世話し続けていたのである。母親がしていたが母親も今や寝ている。
心筋梗塞で69歳で死んだ。障害者をもった人も長生きするから延々と重荷を背負うことになる。
精神病院に入れられたまま60歳になっていたという人がいた。
それも長いし一生が精神病院が生活の場だったというのも驚く。
つまり岩窟王のような生活をしていた人が結構いるのである。刑務所に何十年とかなればそうなる。

 
一つの空家があり人が住んでいない、その期間が長いのである。
十年以上はたっているのに空家のままなのである。
その理由はわからないが空家になっているのが長いのが結構全国的に多いだろう。
800万軒の空家があるというから空家の時代でもあるのだ。
この辺では家が欲しい人が多いのだから売ればいいと思うのだか何かの事情で売らないのである。
薔薇は秋にも咲いていたがそれは白い薔薇であった。それが散って蕾が二つ見えた。
ともかく近辺も冬になっている。
この辺の昔の生活のことは別に書いた。「鬼風」の句のことなども別のページとして書くことにした。


タグ:冬柳

自分の近辺の昔 (天明の碑がありここも古い場所だった)


自分の近辺の昔


(天明の碑がありここも古い場所だった)

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秋葉神社も荒れ果てている。でもこんてふうに墓が倒れていたのは自分が子供のとき遊んだ時と変わりないのである。この墓の上をはねまわって遊んでいたのである。
つまりここの墓は60年前と変わりないのである。
ただ何か変わったのか?そこに生きた人々の生活が変わりすぎたのである。
例えば農家がありそこには馬を飼っていた昔ながらの生活をしていた。
養蚕は町内でも農家がありこの辺でしていた。
町内でも農家があった。

1702 元禄15年
1710 宝永07年
1715 正徳05年 家継 長崎貿易制度令(正徳新令)
1716 享保01年 吉宗 徳川吉宗、将軍となる(享保の改革)
1758 宝暦08年
1767 明和04年
1772 安永01年
1782 天明02年 〃 天明の大飢饉
1787 天明07年 家斉 天明の打ちこわし。 松平定信、老中となる
1808 文化05年

宝永の碑は自分の墓のある鹿島御子神社の脇の墓地にある。
あそこが鹿島町では一番古い場所である。
その前に立った復興団地は地盤が悪く沼地だったろうは言っている。
街中でもそういう場所があった。町と言っても回りが田んぼや畑だったのである。
沼地もあるし淋しい場所でありそれはどこでも同じである。
だから田町とか町田とかの地名が残っている。

人間は自分の住んでいる最も身近な所を知らないという不思議がある。
灯台下暗しなのである。今の時代外国に詳しい人がかなりいても地元の最も身近なことを知らない人が多くなっているのだ。
常に外へ外へ遠くへ遠くへと目が向けられるようになったからである。

子供のときからふりかえると何か失われたかというと近辺の生活そのものが失われてしまったのである。
自分の家でも子供相手の駄菓子屋からはじまった昔で言う三文店屋だった。
その頃菓子でも何でもバラ売りであり計り売りだったのである。
袋は新聞紙で毎日作っていた。

これはインドとか中国でも後進国に行くと同じ生活があるからなつかしいとなる。
昔を知りたかったら後進国にゆくと昔に帰ったような感じになるから不思議である。
インドのベナレスの狭い路地を行ったらあそこは昔と今と太古すら混在している。
野良牛が歩いていている。野良猫がいて野良犬がいるのはわかる。
でも野良牛がいるというのはありえない、インドでは牛は大事にしているし猿など動物を大事にしている。どうもインドで仏教が生まれたのはこの動物と深く関係していたのである。飢えた虎に子供が食べられるというので生身の人間が虎の餌食にあえてなったという法華経の話でもそうである。それだけ動物を大事にして動物とのかかわりで仏教が生まれている。

犬でも猫でも飼ってみればわかる。犬と猫は極めて人間に近いのである。
野良猫の子供かきて困っている。オスの親がいてついてくる。オスは子供に関心がないと思っていた。餌をやっていると子供に優先して食べさせたり頭をなでたりしていたからやはりオスでも子供とみているんだなとわかったのである。
母親はいなくなった。でも雨の日だった細い家の裏を子供つれて餌を探していた。
それは悲痛な表情をしていたのである。餌がなくて困っていたのである。
それは何か人間の母親と同じに見えたのである。
犬猫になると実際は人間化している。だから墓までいたるところに建てられるようになった。
ホームレスがペットより人間を大事にしろというのもわかる。でもペットも人間化しているのである。

そこでは炭が積んであったからまだ燃料として炭を利用している。それでも白黒のテレビで子供がゲームをしていたのである。その辺が現代と同じである。
牛の糞も燃料として干されているのも不思議である。今と昔が混在しているのがインドである。
バラックの小屋で店を出したりしているのもそうである。それは江戸時代のような雰囲気もある。江戸時代の店もそんなものであり棒振りなんかも何も資本もいらないでできるのが多かった。今はあまりにも何でも大がかりだから個人単位ではできなくなったのである巨大資本の系列に入るコンビニやスーパーになってしまった。
その時街でも村でも近隣に密着した生活は喪失した。

近くに豆腐屋があり魚屋が酒屋があり駄菓子屋があり神社には子供が山のように集まって遊んでいたとか何かそうした地域の活気が喪失した。地域が死んでしまったという感じになる。その路地を通っても今はほとんど歩く人はいない。
昔はそれなり歩く人がいた。生活の匂いというのが街からも失われたのである。
店だって近所にあって繁盛していた。だから近くが活気があったのである。
映画館などがあり駅に通じる細い道には店があり繁盛していたのである。
それらが全くなくなってしまったとき地域からも活気がなくなった。
それはこうした一地域のまた一地域だけではない、全国規模でも東京一極集中で地方は衰退した。スーパーでも農協とかが駅前にあったがなくなりイオンのような大きな所に車で集まる。車社会になれば遠くでも行けるからである。

近くにあった水をもらった井戸も枯れている。何かその井戸が今は象徴している。
その井戸水をもらってバケツで運び父が作った離れの風呂桶に入れて自分がバタなどを集めてたきつけて風呂たきしていたのである。
その頃まだ水道がなかったのである。
だからその時井戸があるということはその井戸はその家のものだけではないみんなのものとしてあることがあり近隣のつながりもできていたのである。
そういうふうに何か近隣とのかかわりが生活から失われた結果として活気がないし人と人の綱かりもなくなったといえる。
ではそうした子供時代がありそれは江戸時代からの継続でもあった。炭を使っているということはそうなる。ではここにある天明の碑があり文化の碑もある。
法印とかの墓もある。でも天明時代は飢饉の時でありこの町でどんな状態だったのだろうかとなるとわかりにくいのだ。
近くなのに江戸時代の暮らしなるとなかなかイメージできないのである。
町内でも相当に困窮したから天明の碑が残っている。
ただ町の場合はあとから移り住んだ人たち多いだろう。
自分の家もそうだった。もともと酒屋だった。この辺に農家があったからそういう家は古いのである。

ただ天明の飢饉でも江戸時代のことをこの辺で語り伝えるものはない。
なぜか鬼風という俳人がいて全国を旅した記録がある。
俳句などを作れる人は今ならいくらでもいるが江戸時になるとたいがい裕福な商人であり普通の人は作っていない、第一文字を書ける人はそんなにいなかったからである。
たからそれだけの教養があるとなると裕福な商人でないとできないとなる。
そもそも全国を旅できたということが裕福だからできた。長崎までも行っていたからである。
今なら誰でもしているが江戸時代そんなに旅することはできない、自分が旅もできたのはやはり家に余裕があったからできた。
普通の人でも外国に行かない人はいないのである。
会社で行っているからそうなる。

ともかくこうして近くでも道も死んでいるし生活も失われて活気がない、人のつながりもない。ただ六号線は夜中まで車がひっきりなしに通っている。
夜まで何しているのかと思うくらい車が通っている。
だから車社会だとつくづく思うのである。近くの生活は活気を失い衰退した。
車社会だからこそ道の駅に人が集まる。
今はこの編では全国から人が集まっている。ナンパーみればわかる。
そういう点では活気がある。その他は地方でも地方の一地域でも活気が失われたのである


タグ:天明
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2014年11月09日

冬菜 (土着して代々生き継ぐことに生の意味がある) 冬菜 (土着して代々生き継ぐことに生の意味がある)


冬菜

 
(土着して代々生き継ぐことに生の意味が見いだされる)

 
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日々に見ゆ生き継ぐものや冬菜かな
墓あわれ誰か参るや残り菊
離れじも祈りの像や蔦紅葉
ヒヨドリの朝に飛びきて冬紅葉
故郷に老いて枯れゆく枯芒
冬の雨また石を打ち時過ぎる

姉残す家に住みにつ冬に入りまた思ふかな5年はすぎぬ
我が一人重しのごとく残りけり故郷に生き死ぬるものかも
諭すとて無益なるかな大いなる石はも黙して冬に入るかな

人間はやはり生命の一つだから土着してゆくのが自然なのだろう。
ある土地に長く住んでいると人間もやはり樹や石のようになる。
ただ人間の生が自然のものと違っているのは人間は歴史人間なのである。
必ず誰でも親があり祖父母がいて何かを受け継いでゆき継続している。
一代で終わらないし何代も重ねて継続した時間を生きているのである。
だから家というものも継続された家には重みがでてくる。
例え親が死んでも子が受け継げばやはり家とともに親も生きている。
なぜなら親の残したものを家を通じてふりかえりその土地に密着していれば
その土地からふりかかるのである。
だから人間は樹や石のように自然となってゆくのは人間も自然の一部だからそうなる。

だから故郷が失われたということはその継続も失われる。
そうなると過去も失われ歴史も失われ先祖が亡霊になるとういこともある。
だから廃村はそうした先祖が幽鬼化して彷徨っているような凄まじい荒廃になっている。もともと原生の自然のままだったらそうはならない、一旦人が住んだからそうなっているのである。
人間は一代だけで生きるものではない、それで生は途切れることはない
意味あることは何度も思い返されその意味がさらに深いものとして残される。
庶民の諺でもそれがいかに今でも通用しているかはやはり人間は変わらずに同じこと繰り返している。カルマを繰り返しているからそうなる。
いづれにしろこの辺の混乱はなかなか治まらない、なんとか十年くらいたつとやっと治まったかなとなるだろう。それは神戸の地震でもそうである。
その傷痕はあまりにも深かったのである。
原発事故のことを考えると冬菜というのをいつも今の時期になると見ているけどそれは昔だったらその冬菜があってこの地に生きていけるという実感をもったろう。
今は野菜はスーバーで買えばいい、どこからでも入ってくるという感覚になっている。
そのためには金が必要だとなり金に追われるようになった。
実はそのことが原発事故を起こした要因にもなっていた。
冬菜というとなにか貧しい生活にふさわしい。もし冬菜とかに頼っていれば地元でとれるものに頼っていれば原発事故はなかった。故郷も受け継がれたのである。
つまり貧しい生活はかえって跡を継ぎ安いということがあった。
回りにあるもので生活していればいろいろな復興にかかる労力も費用もいらない
津波でも家が流されたらあきらめてまた掘っ建て小屋でも建てて漁業をすればいいとなるそれでまた海の近くに人は住んだのである
今になるともう便利な生活になれているからそうはいかない
だから住むことあそらめるようになり移動してしまうのである。

人間は年取ってくると自然と死に場所を意識してくる。
どこで死のおうかとなる。それは長く生きた場所がいいとなる。
というより人間も生物だから自然と樹や石のようになってゆくのである。
大地に根をはりやがて老木となり枯れてゆくのが自然だとなる。
百歳まで生きたりしたらそうなる。
故郷に生き死ぬというのも自然であり幸いだったのかもしれない
都会に出て死ぬというのも何か殺伐とした感じになるからだ。

今年の気候は何か変だ、冬になっているのだが庭の楓が紅葉していないのも変である。
ただ冬紅葉している所もある。季節感が狂うのも日本でなくなる。
日本はとにかく四季があってその心持ちも変化してゆくのである。
他の国ではこうした季節感がない国が結構あるからだ。
あの祈る像も何か願いがあってここに建てられた。人の願いがあって建てられたのであるただそれは何かわからなくなって放置された。
でもここの土地に根付いているように祈っているのも不思議である。
何かを形として残ろうとしているのかもしれない。
つまり何らかの心が反映されて形となって残っている。
その心が何であったかわからなくなってしまうのである。
ただなんでも時間のなかで意味が帯びてくるし重みがましてくる。
石でもそうであり短いと重みが出ない、時間の中で何でも重みが生まれ意味が見いだされる。
古典などは何度読んでも何か発見があるのはそのためなのである。

一年中夏の所もあるしそういう所では何か変化がないからつまらないともなる。
日本は何かと島国でも何か変化の大きい国だと津波などでもつくづく思った。
こんな大きな変化を経験するとは思ってもいなかったからだ。





タグ:冬菜

抽象画(熱帯魚生まれる)


抽象画(熱帯魚生まれる)

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熱帯の花



これも全くでたらめな線で遊んでいたらこうなった。全く予想できないのがパソコンの抽象画である。ソフトが違うと必ず別なものができる。
これもペイントというwin7についていたものである。
これも何か色合いが違って出ているのだ。
それはソフトによって違った色がでているのである。
このいろは絵の具では出せないのである。
これは熱帯魚と見えるからわかりやすい、こういうのは見ている人も一目でわかるからいい。
抽象画のどこがいいとかなかなか指摘できないからだ。
その人の見る目に左右される。
芸術は俳句だってその日と見る目に大きく左右される。
かえっていい俳句が見逃されくだらない月並みのがもてはやされるは
それだけ芸術を見極めること自体むずかしいからである。
タグ:熱帯魚

2014年11月10日

時間軸で形成される文化の理解はむずかしい (歴史も時間軸で長い時間で形成されるから理解しにくい)



時間軸で形成される文化の理解はむずかしい


(歴史も時間軸で長い時間で形成されるから理解しにくい)


●空間と距離の制限はなくなった

現代は空間的には地球大に広がっている。飛行機でどこにでも行ける。地球の裏側からも物が食料でも入ってくる時代である。空間の障壁はなくなっている。
江戸時代あたりまでは空間の障壁は大きかった。遠くとの交流はむずかしいから自給自足の村でまかなって外部に頼ることはないし頼れなかったのである。
鉄道ができたとき日本国内で空間をさえぎる障壁がとりはらわれて交流するようになった日本人として意識されたのは明治維新で鉄道ができたからたというのもある。
物流でも人の交流も一気に何百倍となったかもしれない。

現代は交通の便が格段によくなったから空間の障壁、距離の障害はなくなっている。
通販は本当に便利だと思う。
なぜなら何かを買う場合、店で選ぶ方がめんどうだし不便なのである。
例えば今最新のデジカメはなにかとか自分に適した今必要なものを手に入れるとき何でも通販でキーワードで探す方がぴったりなものに出会う。
そししてボタン一つ押せば次の日は届いているのである。
その人によって必要なものは多様化しているから余計にそうなのである。
田舎だと何か目立ったものしかみんなが使うものしか電器店ですら置いていない。
大型のテレビとか何か決まりきったものしか置いていない。
でも通販だった中古品から何でもあるから驚く
自分が今必要なものが手に入るからいいのである。
店でも隣近所に店があったがスーパーになり今度はイオンなどの郊外のショッピンクセンターになりと拡大して今度は通販になっていくというのも時代である。

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情報というのは常に今必要とするものがある。
困ったとき近くに聞く人がいない、相談する人もいない
それはもうこんな複雑な社会では答えられる人もいないのである。
生活保護が何だろうとなるとこれもめんとうだけどそうしたインターネットで情報は深く詳しい、だから何とか対応できた。
現代はもう複雑だから経験ある人年寄りでも相談して無駄であり年寄りの価値はなくなったのである。
それでも会社勤めして専門性のある技術者は自給で7万のところもあるというから驚く。
そういう専門性のあるものはそれだけの価値かあるのが現代でもある。
部長とか課長とかの経験は役に立たない、専門性があれば退職して金を稼げる時代である何かスキルをもつことが現代では要求されているのである。
ただ年取って何の価値もないのである。

●文化は一様化できないから理解するのがむずかしい

ただここで問題なのは距離の壁はなくなっても文化の壁はなくなるない
文化とは何かというといろいろ多様であるが例えば言葉の障壁は簡単に取り払われない、英語を共通語にしようとすることがあるが以前として言葉の壁は大きい。
その国の言葉がなくなば文化も喪失するから簡単に英語に変えることはできない
だからポリネシアとか南洋の島々では多くの言葉が違っていた。
それは方言ともにていた。そうなると意思疎通もむずかしくなる。
その言葉がそんなに違っていたのはやはり土地土地で違った文化が育まれたからだとなる言葉もその土地から生まれるから違っているのである。
日本では四季が豊かであり俳句が生まれたのはまさにそういう風土によって育まれた。
日本語でも各国の言葉でもその土地から生まれるている文化だからその障壁は大きい。
文化はそのように距離を空間を克服しても相違が生まれる。
その相違の故に文化は価値がある。
明治維新後は鉄道などで標準語も普及したのはいいが江戸時代のように地方地方で育んだ文化は衰退したのである。
みんなコカコーラとかハンバーグを食べていてはつまらないのである。

つくづく文化というのはなぜ理解しにくいのか、それはヨーロッパの歴史でもローマ時代にさかのぼれば2000年とかの歴史がある。するとそこまでさかのぼるとなるとちょっと飛行機で行けるから理解できるかとなるとできない。ローマからキリスト教時代の中世とかも長いし城のあった歴史も長いからなかなか理解しにくくなる。
それは日本だってそうである。現代ある物にばかり目を奪われるから過去を歴史を知ることは容易ではない。今も見ればビルかいたるところにあり工場もあり何かどこも同じじゃないかともなる。でも歴史をさかのぼる城でも何かそうした古くからあるものが理解しにくいのである。それが文化の特徴なのである。

どうも文化というのは空間とか距離の制限がなくなると破壊されやすいのである。
その土地土地がどうして成り立ったのかそういう長い間に作られてきたものが無視されやすい。
原発事故などもそういう地域の文化というか歴史が無視されて建てられた。
科学は何か数学と同じであり世界共通になりやすい、一つの世界共通の言葉が科学でありその基本に数学がある。何でも数字に還元すれば共通になるからだ。
ただその土地土地の風土はみんな違っている。
たから放射能汚染されたとき、風が影響して飯館村があんな大きな住めなくなるほどの被害を受けたのである。この辺では春になると東風が吹くからである。
それが運が悪かったとなる。イワキ地方などは本当に低かった。それも風が関係していたのである。それこそ風が違うというとき風土が違うとなって影響したのである。

●一極集中の情報発信は危険だった

現代は空間とか距離の制限がなくなったとき、大きな問題として地域地域の歴史、時間で積み上げられた文化が無視される。
情報でも経済でも教育でも明治以降は東京一極集中になった。
その弊害は今になると大きくなっているのだ。東京に労働力でも何でも集まり東京ばかりから何でも発信されるということが大きな問題になる。
津波でもNHK一局が大きな力を持つことは危険なのである。
津波の放送でも最初に3メートルが来るということを放送したときこれは気象庁でそうしたにしてもそのことが多数の人命まで奪ったと今になると批判される。
テレビとかマスコミが一局集中だからそうなってしまう。六局あってもそうである。
そうした六局ばかりのそしてNHKばかりに全国民が注視していることは危険になる。
NHKでも気象庁でも的確な判断ができなかった。
地震が起きてから3分ではマグニチュードは判定できないと気象庁の人が言っていた。
マグニチュード8ではなく9だったのだから今までにないことだから判定できなかった。
するとかえって個々人の体感の方が正しい判断をできたとなるが
マスコミの判断にNHKの放送に一局に判断をゆだねていたから3メートルからたいしたことがないとか判断して逃げ後れた犠牲者が多かったとなるといかに緊急のとき情報が大事かわかる。

例えば2ちゅんねるだとかなるといいかけぜんにしろ

「3メートルの津波が来るとNHKで放送した」
「3メートルじゃたいしたことがないよ」
「この地震で3メートルだってもっと大きなものが来るよ」
「10メートルくらい来るかもしれんぞ」
「おい、脅かすなよ」
「ともかく早く逃げた方かいいな」

とか必ずなる。何かあればマスコミの言うことを信用しなくなっているのがネットになった。それも全部は正しくないのにしろマスコミの一方的情報を信用すると危険なのであるこういう対話があるだけで危険だと思い逃げる人も出てくるのである
現実に駅があるところに津波が来たのを見てこれが3メートルかと疑問に思った人がいたがその時すでに時遅しになっていたのである。
これも自分の目で見て自分の判断力の方が正しかったとなる。
だからち一局集中のマスコミは影響力が大きすぎて危険なのである。
報道が一方的になっているからだ。
それは何でも東京一極集中化しているのと同じなのである。
その土地土地からの多様な見方ができないことが危険なのである。
結局今回の津波で原発事故でもマスコミと科学への盲信が大きな被害を生んだ原因でもあったのだ。





タグ:空間と時間
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秋葉神社の墓 (ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)


秋葉神社の墓


(ここが墓地として捨てられたのは明治か大正?)

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明治に森忠太郎という人が寄進している。
その森家の子孫はまだ生きている


ここに天明の墓があったことは意外だった。

天明の飢饉があり天明は特に記憶されるべき時代だった。

ただその時この辺がどういう状態にあったのかどんな暮らしをしていたのか想像つかないのである。

ここの墓は明治までは確実にあり大正時代頃無縁化した。

ここに接して森という姓の家があり広い庭があり今住んでいる。

明治時代に二十三夜塔を寄進したのは「森忠太郎」でありこれは森家の先祖である。



ここは天明から文化から明治まで継続して墓としてあった。

この墓はこの回りに住んでいた人たちの墓である。

「法印」とかあり祈祷する山伏とかも住んでいた。

これはどこにでも住んでいた。病気になれば祈るほかないからである。

加持祈祷が商売だったのである。



そのような中で天明7年5月に大坂で発生した打ちこわしはまたたく間に全国各地の都市へと広まり、江戸時代最高の打ちこわし件数を記録するに至る。特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態に陥る激しいものであった。



離農した農民たちの多くは、江戸を始めとする都市に流入した。主に生活苦によって農村から都市へと流入した農民たちは、後述する都市における階層分化によって没落した商工業者などとともに都市での貧民層を形成するようになった。天明7年5月の江戸打ちこわしでも、明和から天明期にかけて江戸近郊の関東農村から離村し、江戸に流入した人たちが打ちこわし勢に参加していたことが確認され、当時の関東地方の農村では地主から小作農までの階層分化が進み、没落した農民層が離村して江戸に流入していったことが想定される


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%98%8E%E3%81%AE%E6%89%93%E3%81%A1%E3%81%93%E3%82%8F%E3%81%97



天明時代は飢饉の時代だから全国的に影響していた。相馬藩では3三分の一に人口が減って

越中などから移民を呼んで立ち直った。ただ全国的に飢饉になり村から離れる人が多かった。

それで都会に集まったとういのもわかる。ここだけではない人口が流動化したのである。

原発事故で町村が消滅する危機になったように時代の変化で人口が流動化するのである。

それが社会変革につながる。

これは外国でも同じらしい、何か天候の異変などで凶作になったりして大移動があった。

それがゲルマン人の大移動とか有名だけど世界的に人口は移動している。

人間は普通は移動したくない、慣れ親しんだ所にいたいのである。

でも移動が強いられる。満州に移動したのは農業社会では土地が得たいからそうなった。

実はそうした大規模なの移動が戦争になっているのだ。



こうした神社とか寺は昔は一つの共同体のシンボルとしてあり実際に機能していた。

だから二十三夜でも講がありおんな集まっていた。

つまりこうした神社とか社が無数にあるのはただあるのではない

生活の中で活きていたとき意味があった。

だから村々でも町でも昔は狭い地域で生活していたからそうなる。

車もないし遠くへ行くことはない生活である。

毎日隣近所とか顔合わせて狭い地域で暮らしていたのである。

身の回りのことでも近くてすましていたのである。

第一今のように原町や相馬市までだって行くことはまれだったろう。

確かに汽車が通じても汽車賃が高くて歩いて行ったとか言う人が多いのである。

汽車は客車というより最初は貨物輸送が主だったのだろう。

それで原町機関区が木材や石材の積み出しのために設置された。

平機関区は石炭を東京に運ぶために設置されたのである。



神社は子供の遊び場にもなっていた。

自分の子供のときは子供が多いから毎日群がって遊んでいたのである。

そのころはまだ近隣中心の生活だったのである。買い物でもそうである。

魚屋があり駄菓子屋があり豆腐屋があり酒屋があり職人の大工や指し物師がいたり

近くにあるもので用をたししていた。

地球の裏側から物が入ってくる時代とはあまりにも違っていたのである。

米だって地元でとれたものであり野菜だってそうである。

他の県から九州とか来るはずがなかった。

バナナさえ戦後十年くらいは売っていない、バナナの叩き売りというのは秋市とか市が立ったとき売っていたのである。店では売っていない。

自分の父親が病気になったときバナナを食べさせるために仙台まで姉が行って買ってきたバナナがそれだけ貴重なものだったのである。



何かわからないが中学辺りから急速に高度成長化したみたいなのだ。

東京オリンピックのときはもう高度成長へうなぎのぼりに経済は発展したのである。

高度成長といっても実際は二十年くらいだったのかもしれない。

あのころはみんな景気が良かったから今のような時代とは違っていた。

企業戦士とか言われたのもそれだけ日本経済か世界へ進出していた時代だったからであるそれで金の卵として中卒で東京に労働力として集められたのである。

その時クラスで大学に行ったの4,5人だった。高校に行ったのも半分にも満たないくらいだったのである。文系の大学を今廃止しろというのもわかる。大学は遊びの場でしかなかったのである。



今国に余裕がなくなったので予算が回せない、そしてグローバルで競争する人材を育成しなければならないから文系はいらないという議論になっている。

文系は自分がしてきたようにほとんど独学でできる。

今ならなおさらそうである。大学に行かなくてもそういう環境はネットでも通販でもそうだし整ってきたからである。

第一専門的な本を買うのにこの辺では売っていないから仙台まで行くほかなかったのである。今はボタンを押せば次の日に本が届いているのである。

ただ自分の行った大学は東京でもすでに大衆化した大学でありマンモス大学だった。

だから3000人とか入れる講堂で講義していたからみんなやる気がなくなっていた。

それが学生運動が起きた原因でもあった。

一方は汚い工場で油まみれになり狭い宿舎で中卒は働いていたのである。

その時はどこも人手不足であり小さな工場でも店でも繁盛していたのである。



いづれにしろ神社は江戸時代は近隣の生活の要の場所としてあった。

今は全く機能しないのは社会が変わりすぎたのである。

隣の人間が何をしているのか田舎でもわからないというときそうである。

まず都会だったらますますわからない、それだけ無数の職業が生まれ分化してしまったのである。

だから農民が八割という時代が戦前でもそうであり長く歴史的にはつづいた。

そういうときは農民的感情で国も一つになれていたのである。

そういうものが高度成長時代からは特に破壊されて感情的にも人間はバラバラにされていたのである。



現実に農業では食えないとか跡継ぎがいないとか漁業ではやっていけない、林業は外材で衰退したとかこれまでの産業が衰退産業となり原発が誘致されたのである。

そうした時代の変化で原発事故が起きたとなる。

現代の繁栄は何か無理した虚飾の繁栄という側面があった。

生活の基本となる第一次産業が衰退して低くみられたことが原発事故の要因にもなっていたのである。

ただ電気がいらないとかではない、危険を犯してまで経済成長が必要なのかどうかが問われたのである。

今の生活は本当に最低の人でも昔から比べた最高の生活なのである。

貧乏でも刺身を食べない人はいない、自分の父親はサシミが食べられるようになったが

食べたくないと言って死んだいった。



だからつくづく人間は昔の事を家族でも近隣でも知る必要がある。

これにはこんな意味があったのかとこんな貧しい生活をしていたのかとか

こんなことで苦労していたのかとか家族でもその家族なりの苦労があた語られる。

そういうことが死んだ後にそういうことだったのかとわかる。

生きているうちはなかなかわからないのである。

やはり祖父母とか親の代になるとまだ生々しいものとして記憶されているかそうなる。

でも死んでから何かさらにその語った事生きた事の意味が深く感じられるのである。

これは大きな国の歴史でもそうである。



歴史というと何かむずかしく考えるけど実際は祖父母とか親のことを知るというこにはじまっている。

そういう身近なものさえ何なのか死んでからかなりの年数たって親のありがたみがわかったとかなる。

ただ今は親孝行したいとは親がいないとはならない。必ず親がいるし親孝行をさせられる時代なのである。必ず介護させられる。

だから今度は子供を粗末にすると介護のとき困るとなる。

戦前までは子供は労働力であり親に使われるものだった。

それが逆になったのだけど今度は逆に必ず親孝行は強いられる。介護問題が必ず起きてくる。それも時代の変化だった。








タグ:天明の神社
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浪江で帰らない人が10パーセント増える (原発避難区域に帰らない人が時間がたつにつれ増えている)


浪江で帰らない人が10パーセント増える


(原発避難区域に帰らない人が時間がたつにつれ増えている)

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小高の人は農家で土地をもっている。その土地は放射能廃棄物の処理場とてし貸しているという。津波の被害にもあっていて帰らないという。
小高でもそうだが南相馬市でも津波の被害にあった人が多い。
そういう人たちは家もなくしたから小高だったら余計に帰らないし他でも津波の被害にあった地域では家が建てられない、その津浪の被害者と原発事故の被害者と混じり合っているから複雑になる。
とにかく小高ですら変える用意ができているのに帰らない、浪江で10パーセントも帰る人が減ったのは時間がたつにつれて帰る意欲がなくなっているのだ。
町自体が崩壊してそれを建て直すというより他で便利な楽な生活をしたいというのが
ある。

老人は帰りたいとしても若い人は帰りたくないというと家族自体が分離するし町を支える人もいないのだから老人も帰らないとなってしまう。
だから意外と便利な社会は何か大きな災害でもあるとかえって崩壊しやすい。
便利な生活を維持するにはその負担か大きくなるからだ。
まず病院であれ医者であれ看護婦であれ確保すること自体できなくなる。
そうした崩壊した町には住みたくないのだから医者も看護師も嫌だとなる。
他で楽をできるのなら楽した方がいいとなってしまうのが現代である。
北海道とかに開墾するような時代ではない
その時は農民は土地がないし職もないし北海道に開墾に苦しいけど入った。
そうして力尽きた人がかなりいる。
今なら一億円もらったら他で生活すれば楽だとなりそんな苦しい道を選ばない
特に年寄りはみんなめんどうだから帰らないと言っている

でも来年に小高などは避難区域が解除されると補償金がもらえなくなる。
その時かなり深刻な状態になる。
自分の前の墓地にできた復興団地に入るのに7万円家賃がとられるというのは高いと思った。都会並だと思った。ただこの辺では普通にアパートだと二部屋あれば4万以上とられている。ただ市営住宅が5000円とかあるから違っている。
三つの部屋があって住んでいる人を知っている。
復興団地に入ると援助されないというのも苦しいとなる。
土地を求めて家を建てた小高の人もいたがみんなは簡単にはできないだろう。
小高の土地は双葉とか大熊と同じく放射性廃棄物の処理場となり土地をもっている人はそこから定期的収入がもらえるのかもしれない。
定期的収入がもらえれば小高に帰らなくても他での生活もやりやすくなるのである。
老後は年金とか定期的収入があると楽なことがわかった。

いづれにしす浪江町でも帰らない人が10パーセント増えたとういからますます時間がたつと帰らない人が増えてくる。そうするともう町は再建できない。
小高の隣は浪江町でありその影響も隣り合っているから大きいとなる。
鹿島だとまだ相馬市もあり原町もあるから暮らしにはそんなに困らないのである。
今の社会は広域社会だから一つの町が崩壊すると隣でも影響が大きくなる。
閉鎖された自給自足社会ではない、だから他にも移り安いのである。
それで何か故郷でも簡単に崩壊して再建できないのかとなる。
江戸時代の天明の飢饉の時はやはり村かの逃散がありその人たち江戸とか都会に流れてスラム化したとか無宿化したことなどがあった。
現代ではかえって一億もらったらそれを資本にして暮らせる。
かえって大内村の人は郡山市に避難していい暮らしになり便利になり大内村に帰りたくなくなったのである。
年寄りはどうしても病気になるから病院とか医者が多い都会がいいともなる。

その人は鹿島は住みにくいとか差別されているとか言っていた。
何もしないでいるのも批判されるし回りの目が違うとかなる。
それは自分も前に小高の人は帰れと言ったとき、鹿島の人はそういう気持ちになっている小高の人は補償金もらっていて遊んでいるとか見られている。
鹿島では少ないから不満が大きい。
それで共産党の市議会候補が小高のように「乗合タクシーを鹿島にも作る」と言ったのは好感がもてる。介護タクシーも鹿島にはな原町から呼ぶと一万かかると言われた。
普通のタクシーでも4000円くらい片道かかるから高くなるのである。
つまり何か小高は鹿島から見ると何でも優遇されていると見られているからだ。
実際そうなっているから鹿島の人は小高の人を良く思っていないのである。

では小高の人たちは避難区域が解除されたときどうするのか?
結構厳しいものとなかもしれない。
復興団地でも家賃が七万では高いなと思ったからだ。
仮設は無料であり援助もあるからだ。
だから今はいいにしても避難区域解除されると原町の避難区域でも解除されると困ると東電に訴えたことでもわかる。
収入がたたれるし何で生活していいかわからなくなるだろう。
回りからも冷たい視線をあびている。それはここだけではない原発避難者は良く見られていないからだ。
だから放射能廃棄物処理場に反対もあるがそこから定期的に土地代が収入としてあれば他に移っても生活できる。
だから避難区域の人でも反対しているが収入を考えると仕方ないとかなる人もでてくる。第一帰らないとなるとそこに住まないのだから放射能廃棄物処理場になっても被害はないとなるからだ。
ただ帰還することは絶たれということはある。

でも放射性廃棄物は隣の町でも飯館村でも南相馬市でも相馬市でも回りに影響する。
なぜなら汚染された水が流れてくるからである。
ともかく避難区域が帰らない人が増えるとさらにみんな帰らないとなる。
そうすると廃村とか町まで廃墟と化してしまう。
そこで自分の近くの神社の誰もお参りもしない墓が捨てられ放置されるようになる。
何かそこには幽鬼がさまようような異様な感じになる。
ただ近くの神社はとにかく人が住んでいれば自分のように墓の年代を見たりして
郷土史として興味をもつことはある。
誰もすまなくなったら誰もふりかえらなくなる。
猫すら住まなくなる。猫も人が住まない限り住めないのである。
猫がいるだけでも何か何もいないよりはいいとなる。

市議会選挙は誰に投票していいかわからない、でも具体的政策で「乗合タクシーを鹿島に作る」ということを言うのはわかりやすいとはなる。
たた共産党ということで抵抗はある。
他の人は何か具体的な政策を出していないのは選択しにくいのである。

タグ:原発避難者
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2014年11月11日

なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか? (中世の城館を見ればわかる)


なぜ深野より大原に相馬氏が最初に入ったのか?

(中世の城館を見ればわかる)

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深野と泉では在地の勢力が大きく相馬氏は進出できないでいた。

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深野の墓地
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これは宝暦なのか?

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これは寛保である。

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これは宝永である

明暦とあるみたいだからここの墓地は相当に古い
深野館があったときからの継続もあるかもしれない
この辺では一番古いのは相馬氏の殿様の墓で慶長とかである。
ここは在地の勢力の深野館があってそのときも墓地だったかもしれない。


1655 明暦 01 江戸 053 − − −
1658 万治 01 江戸 056 − − −
1672 寛文 12 江戸 070 − − −
1680 延宝 08 江戸 078
1683 天和 03 江戸 081 − − −
1684 貞享 01 江戸 082 − − −
1703 元禄 16 江戸 101 − − −
1710 宝永 07 江戸 108 − − −
1715 正徳 05 江戸 113 − − −
1735 享保 20 江戸 133
1740 元文 05 江戸 138 − − −
1743 寛保 03 江戸 141 − − −
1747 延享 04 江戸 145
1748 寛延 01 江戸 146 − − −
1758 宝暦 08 江戸 156

宝永は読めた、 寛保もはっきりしている。
こご天しか読めないのがありこれは天和なのか?
天明はずっとあとである。
暦とあってもそれか明暦なのか宝暦なのかまぎらわしい
寶歴の方が有力である。歴の上の字が旧漢字になっているからだ

一字しか読めないのがありその解読がむずかしい
これは何か科学的な方法で調べられるかもしれない
この墓地がいつからあったのかが問題になる
宝永からはあったみたいだ
ただ墓地は墓が建てられない前からもありえる
歴史はこの時代特定するのが基本にあった
いつの時代なのかわからないと過去を探り得ようがないのである。
伝説は時代特定できないから津浪のことでもわからなくなる。
文書だと時代特定できることが強みなのである。


小池の墓地

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文化文政時代であり江戸時代後期が多い
ここの墓の特徴は立派な墓でそろっていることである
そしてなぜか大姉という女性の個人墓が半分もある
これもなぜなのかとなる



南相馬市の中世の城館

泉館
泉廃寺
泉平館
岩迫館
牛越城
岡田館
小高城
金場館
田中城
田村館
中館
西館
花輪館
東館
深野館
別所館
堀内館
真野古城
明神館
村上城
優婆館


これは相馬氏が太田に一族を引き連れて移住してきたときあった中世の城館である。
ここにはきけ旧来の勢力があった。
ただ村上とか小高とか牛越城とか中世の城館があった所を支配した所もある。
でも最初はそういう在地の勢力が強いところに入れない。
それで
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
で書いたようになぜ大原が多く出ているのに深野はでていないことがわかる。
深野の方が開墾しやすい地であり大原はその奥だからである。
最初に入るのだったら順序としては深野になる。
そこが疑問だったがそこはもともとの在地の勢力があった深野館があった。
館という地名が残るところには中世の城館があって戦国時代になる前から在地を支配していた。最初の草分けでありそこに回りの人々が集まり小さな国を作っていたのである。
聞いた話ではある武家では回りを堀で囲んでいたという。そして殿様を迎える部屋もなっこという。ということは武家ではもともと堀之内というように堀をめぐらして防御していた。鹿島の田中城は平地にあり回りは湿地帯であり自然が堀になっていた。

中世で館と地名にあるのはたいがい山の上であり高い所にありそれば自然の要害となって敵から防御のためにそこに舘か作られたのである。
城でも古いのは山城であり次に平城になっていった。
小高城から村上城から牛越城と山城である。今の相馬市の中村は平城である。
そこに相馬市が城を築いたのは相馬氏が太田から小高城へ牛越城へと移り中世の在地の勢力を支配下に治めるためだった。
中村地域は今の相馬市は黒木氏が治めていた。それで黒木氏は伊達についたり相馬氏についたりと苦しんだのである。
つまり相馬氏が中村に移ったのは在地の中世の勢力を治めるためであるというのがわかりやすい理由である。
相馬氏が力をもったのはやはり野馬追いに象徴されるように馬を使う軍事力があったからだろう。

相馬氏の進出経路の図でわかるように最初に牛越城から入るとしたら深野になる。
そこをさけてさらに奥の山側に入ったというのは不自然だったのである。
そこは在地の勢力があり中世の城館まであったからそうなる。
つまり大原は相馬氏は移ってきたとき開墾に入ったとき何もまさしく大原だった。
在地の勢力は深野館にあって大原にはなかった。
だから深野は中世からある生活があり古い地域だった。
そこで深野の小池に行く方の台地にある墓は古い。
明暦からありもともと古い所だったのだろう。

そしてなぜ小池にも古い立派な墓があるのか?
それは士族のものであり相馬氏の一族が開墾に入った。
深野→小池と相馬氏が移って開墾した地域だったのである。
鹿島区でも中世の城館があった真野中館とか館など田中城があった所は在地の勢力があり入っていない。寺内なども総士録古支配帳にはでていない。
原町では牛越城に相馬氏が小高から城を移したのは泉氏を牽制するためだったという学者の考察は記録からみればそうなる。
泉館や泉平館や泉廃寺などがあった所であり港の機能も有していた勢力がある場所だった寺は中世でも城でもあった。
萱浜からしふさ(渋佐)の記録が総士録古支配帳にあるのもまさに泉氏が大きな勢力だからこそ相馬氏はそこをさけていたのである。
牛越城に移ったのは泉氏や深野館などがあった中世の城館の支配地域を牽制して勢力を伸ばすためたったのである。

小池の墓地は江戸時代後期のものだから新しいとしてもやはり古いものの継続がありあそこに立派な墓を残した。第一あそこにあることが解せなのである。
回りにほとんど家もないから不思議なのである。
ただ資料を見れば納得するのである。

小池の墓地の謎は大姉とついた個人墓が半分もしめていることである。
普通女性の地位は低いとされたが個人墓として女性の立派な墓がある。
武士だとすると女性の地位も高かった。または僧侶の墓かもしれない。
江戸時代は庶民では墓はなかなかもてなかった。
ただ個人墓も江戸後期から残っている。
一家とか家族の墓は明治以降なのである。
それは国の政策でそうなった。江戸時代までは個人墓かか夫婦墓である。
明治になっても継続されていて夫婦墓が多いのである。

まずこの墓は本当に謎である。これは墓しか探る手だてだないのかもしれない
墓は最後まで残ることに意義がある。この墓が無縁墓としてかたづけられると
ここに生きた人を探ることはむずかしくなる。
墓はそこに人が確かに生きていたということを感じさせるものなのである。
書類と文書みてもそういう人が生きていたという実感をもつことができない
だから郷土史には墓の研究が欠かせないのである。

相馬氏進出の経路
(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)
http://musubu2.sblo.jp/article/104996155.html


タグ:相馬氏
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晩菊から冬の俳句十句 (自然は飾らない、ありのままだから美がある)


晩菊から冬の俳句十句


(自然は飾らない、ありのままだから美がある)

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またデジカメ買った、ソニーの20倍のズームのWX350である。
これは前に買ったのだか新しくなって良くなっている。
軽いからサブカメラとしていい、常にカメラはもって歩く必要がある。
重いともってあるけないことがある。
これは軽いし気軽にとれていいカメラである。
こういうものでも何かとると違っている。
同じようでもとるものが機械によって左右されるのである。
これは拡大しないと全体が映えない、芒のところがもっと鮮明になれば良かった
でも全体を枯野とするには広くとる必要があった。
この辺ではここは刈田になっているだけど田を作っていないから本当に枯野になっているのだ。古墳ができたときは田んぼはなかった。枯野だったからあっているともなるのが不思議である。



晩菊や今日も買い物に裏の道
晩菊や石に添い咲き年古りぬ
晩菊や99の母介護かな
99生きるを知るや残る虫
我が墓の前を今日も行く冬椿
冬あざみ十輪ほどや屋形村
飾らざる雀の来るや冬紅葉
ひよどりの朝に飛びきて冬紅葉
みちのくに円墳いくつか枯野かな
冬日さす津波の跡に石一つ
貨物船沖に見えつつ冬の海


俳句とは季語があって俳句である。日本の季節は四季がはっきりしているから天候があいさになりやすい。特に農民は絶えず天候を心配している。
雨がふっても降らなくてもこまるのである。適当にふって適当にふらないといいのだけとそうもいかない、農業は天候に左右されることが多すぎるのである。

だから俳句というのは日本では毎日変化しているからあいさつかわりになり季語かできてそこから思考を深めてゆくのが日本なのである。だから季語を知らないと俳句は作れない。季語がすでに日本語のように日本文化になっているからだ。
菊にしても今の季節になると以前として晩菊という感じがあり残菊にもなりやがて冬菊から寒菊となってゆく。そういう時間とともに細分化されたのが季語なのである。

今年は何か変である。自分の家の楓は紅葉にまだなっていないのである。何の影響かわからない。他の庭は紅葉になっている。でもすでに冬紅葉になる。
自然がなぜ心うつのかというとそれは自然は何も飾らない、ありのままだということである。
雀を見ても樹を見ても何かそこに人間によってつけ加えられないからかえって心を打つものがある。雀はなにか貧しいものの象徴になる。でも自然のものは何も飾らないからいろいろなものを着たりもしないからかえって素朴な美が生まれる。
要するにシンプルだからひかれるのである。人間はあまえたにも複雑であり何重にも覆い隠されていて何が本心かもわからないのである。
カルト宗教でも宗教などと何の関係もない、ただ欲心があるのみである。
政治家がきれいごといってもそれは票をえるためであり何か犠牲になってやるなどないのである。むしろ民衆を犠牲にして自分は甘い汁を吸う方なのである。
だからこの世自体が嘘偽りだとなってしまう。


ただ人間は今がそうかというと昔も江戸時代でも変わりなかったところがある。
聖徳太子がこの世は虚仮(コケ)だと言っていたことでもわかる。その時代から人間がいかなるものかこの世がいかなるものかは変わっていない。
一見科学とか技術の機械で飛躍的に変わっていても人間の心とか欲は変わらないのであるこれだけ贅沢しているのにますます欲は深くなりとどめることができないことでもわかる。
原発事故も人間の限りない欲を追求することで事故になったのである。
ここだけではない、すでにサラ金から8人一人は借りているということでもわかる。
それだけみんな無理して贅沢している飾っているのが現代文明社会である。

一人の人間がくる、すでにそこに様々な欲望人間であり雀のような人は貧しい人でもいない。貧しい人は今やこういう何でも金が必要な時代になると清貧などというのは成り立たない。まず金を貸してくれとか延々と金を要求される。
格差社会になると貧乏な人とつきあうの本当に怖い、身ぐるみはがれる恐怖を味わった。金で必ず現代は問題が起きてくる。大金持ちは実際危険である。
ニュースで見逃されていたが家政婦二人を雇っている大金持ちが東京で強盗に入られて殺された。ただ家政婦は何の被害もなかったのである。
こういう事件はこの世で絶え間なく起きている。
金がないのも困るがこのうよに家政婦ふたり雇うような金持ちはまた危険なのである。
殺されるという危険をかかえているのである。
この世はまさにどんなことしたって災いの地だった。
津浪であれ原発事故であれ自分が犯罪にあったことであり様々な災いを受けのがこの世だったのである。
これは死ぬまでまねがれない、だから死がいちがいに悪いとは言えない
生きている限り災いを受けざるを得ない、老人になれば必ず老化して体が弱り体自体がすでに災いの元なのである。
もう死ねばやっと災いがなくなったとなるのか人間だったのである。


シェークスピアのソネット
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この詩はやはりうまい,
陸の王国を大洋が襲うとは津波のことであり現代も変わらないことを詩的に表現している
人間社会は聖徳太子の時代から変わっていないのである。



2014年11月12日

パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた (機械は使ってみないとわからない)



パナソニックとヤマハの電動自転車は乗り心地が全く違っていた


(機械は使ってみないとわからない)


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パナソニックビビ

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PAS Brace XL



最初買ったのはパナソニックだった。なぜ買ったかというと長距離用に買った。
それが最新式で17アンペアのパッテリーであったから長持ちすると思った。
写真は26型ではなく27型だからさらに車輪が大きい。
これはスポーツタイプではないから実際は買い物には向いていた。
ただ買い物でも荷物には弱い、馬力がないから坂も強いとは言えない
平地では走りやすいしスピードも出るし軽い感じになる。

これはヤマハのスボーツタイプを買って乗ってわかったことは長距離用ではない
近くに買い物するには便利である。
これは自転車屋の進めで買った。最新式だから進められた。
そこでは会社に関係なくどこのメーカーのでも売っている。
実際に自分で試し乗りして買ってきているというから詳しい
今の時代何を買っていいかわからないのが多くなった。
自転車だって種類が多すぎるからだ。
電器店で買い物して失敗したのは店員に聞いてもわからない
よく説明もしてくれない、結局使えないもの買った
印刷機だったがこれもわかりにくいものだった
むしろネット下調べして電器店に行ったほうがいい
電器店ではその人にあったものなどすすめないからだ
だから最近は二三万のものは通販で買っている。

ヤマハの電動自転車は前も使っていた。
最新式かなり改善されていた。
これの乗り心地はパナソニックのとはずいぶん違うなと思った。
これは何か見た感じも重厚な感じになる。
実際はこれはマウテンバイクだから悪路に強い
もともと坂も強かったし馬力があるから荷物にも強い
乗った感じがまるで違うのである。
これはスボーツタイプだからち長距離向きだった。
12Aと17Aと差があるようだが実際はほとんど同じでありヤマハのバッテリーの方が長持ちする。坂で電池が消耗していないのである。
パナソニックでもスボーツタイプだったからたいして変わらなかっただろう。
スポーツタイプと普通の自転車でも作るコンセプトがそもそも違っていたのである。
それは電動自転車でも同じであった。
ただ乗った感じではヤマハのは何か高級感と重厚感がある。
悪路に強いから近くでも乗りやすい
パナソニックのくはサスペンションがないから買い物でも道が悪いとのりにくいのである自転車や歩道は段差があるから困るのである。
ただスポーツタイプは買い物用ではない
だから買い物ではパナソニックを利用している。

ともかく機械でも道具でも使ってみないとわからない
こんなに種類によって違うものかと思う
自転車は種類は本当に増えている
その一台一台が乗り心地が違うのである。
自転車の不思議はなぜこんな乗りここちか違ってくるのかということである。
だからその乗り心地が違うから車種が違うと違った楽しみがでてくる。
これはバイクでも自動車でも同じである。
カメラだってそうである。
みんな違った感覚で使うようになるのである。

例えば一つの景色がある、これは角度が違ってとると別なように見えるし
またカメラによっても違ったように写る、さらに加工すると別なものになる。
道具とか機械によって変化させられるのである。
こういうことは昔からあったが現代は何でも種類が膨大に増えてそうなった。

歩いて見える感覚、馬に乗って見える感覚、自転車に乗って見える感覚、
バイクで見える感覚、車で見える感覚、電車で見える感覚、これはみんな違って見えるのである。
今は徒歩で見える感覚か消失している。たいがい乗り物に乗っているから歩いて見える感覚がわからなくなっているのだ。
自分は自転車でものりはじめたのは40代と遅いからスポーツタイプは乗っていない
一台買ったけお乗らなかった。
つまり乗る時間すらなくなっていたのである。

人間は遊ぶだけでもすぐに時間も尽きるものだと思った。
なぜ中高年ライダーが増えたかがわかる。
金もある時間もある、一旦若いとき知った快感が忘れられないのである。
この際最高級品でも乗りたいとなる、その快感を味わって死んでゆきたとまでなるのだ。この快感にはいろろいある。
週刊誌でとりあげている男女の本能的快感もそうである。
人間はつくづく快感をあくなく追求するものだと思った。
苦しいことなどしたくないである。
だから原発事故で避難した人たちが楽な方を選ぶのである。
たいがい苦しいことを選んでいるのはそういう環境であり強いられたからである。

タグ:電動自転車

2014年11月13日

鬼風の俳句集を読む (当時の生活を偲ぶ言葉がでてくる)


鬼風の俳句集を読む


(江戸時代の生活を偲ぶ言葉がでてくる)

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鹿島区秋葉神社

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雨の日や客の炊きたるぬかこ飯


ぬかこ飯とはむかごのこととある。この実をだはんにまぜて炊いた。
それはまさに自然のものでありそういうものを食べていたことがわかる。
ただなぜ客なのか?客がぬかご(むかご)をもってきたのか?

梅が香に水まで白し萱の箸

茅(カヤ)の箸で食物を食べる7月(旧暦では6月)下旬の行事。新箸の祝ともいう

 軒葺(のきぶき)も芒(すすき)御はしもすすき哉   一茶

 ススキの箸は一般的にはそれぞれ自前で用意するわけですが、武井神社ではそれを神萱箸として御射山祭の日に頒布しています
 http://blog.livedoor.jp/ichironagano/archives/4621112.html
 
 箸はいいろいろあった。もともと箸は何でも箸になる。箸がなくて枝を折って箸にした箸は簡単に作れる、材料になるものはいたるところにあるのだ。
ここに萱の箸と出てくのは一つの行事として萱の箸があったためである。
普通は箸としては使っていない。

石なこの唄もほとけて梅の花

いし‐なご【石▽子】

女児の遊戯の一。石をまき、その中の一つを投げ上げておいて、下の石を拾い、落ちてくる石をつかみ取って、順に拾い尽くす遊び。お手玉などの原型。石な取り。石投げ。

筆者はこの語の語源は石投げ、であろうと推察します。 勿論、根拠はすかさず開いた古語辞典ですが、 いしなご(名詞、石投げ、女子の遊戯の一種、お手玉)によります。 この言葉が更に変化して石な取り(名詞、いしなごに同じ、石なごを取る遊び) ともいうようになったのです(宇治拾遺、雑賀、詞)。 賢明な筆者はおわかりですね、古くは宇治拾遺に名詞・いしな、が記載されており、 その意味も飛騨方言・いしな、にピタリと一致します。
http://www.geocities.jp/sashichi2004/dic/a/i/ishina.html

これはどこでも子供が石で遊んでいた。石蹴りとかもあるから神社は特に昔から子供の遊び場になっていた。秋葉神社でも子供が毎日集まっていた。
そういう風景もなくなった。

山吹の宿も芝居の留守居かな

梅遅し笠嶋あたり草履道


それまで野も山も、田も畑も、泥んこであったのが、砂埃のたつ、乾いた道に変わると、待ちに待った本格的な春が訪れた証拠である。一茶はそれを草履道と呼んで詠っている。
蝶とぶや信濃の奥の草履道\小林一茶

春樵はるごりの柴つみ車牛弱み


牛車で柴を積んで運んだ。柴は燃料であり山にとりにいった。芝居を見に行って宿が留守だったというのもそれだけ芝居を見る人がいたということになる。



歸田園居其六

陶淵明

種苗存東皋 苗を種(う)うるは東皋(とうこう)に在り
苗生滿阡陌 苗は生じて阡陌(せんはく)に満つ
雖有荷鋤倦 鋤を荷(にな)うに倦むと雖も
濁酒聊自適 濁酒聊か自ずから適う
日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車
路暗光已夕 路暗くして光已に夕べなり
帰人望煙火 帰人 煙火を望み
稚子候簷隙 稚子 簷(ひさし)の隙(すき)をうかがう
問君亦何爲 君に問う また何を為すやと
百年會有役 百年 役有るに会す
但願桑麻成 但願わくは 桑麻(そうま)成り
蠶月得紡績 蚕月(さんげつ) 紡績を得るを
素心正如此 素心まさにかくのごとし
開徑望三益 径を開きて三益(さんえき)を望む

苗を東の沢に植え
苗はあぜ道に満ちている
鋤を担うのにあきてきたが
濁り酒は丁度よい具合に熟成した
日暮に柴を覆う車があり
路は暗くなり、まさに夕べとなった
家に帰る人は夕餉の支度の煙を見、
幼子はひさしの隙から外をうかがっている
「あなたはなぜそのような事をしているのか」とおっしゃるか?
これ(農耕)が一生涯かけての仕事なのだ
ただ願うことは桑と麻がなって
養蚕をする月(陰暦四月)に生糸ができることだ
私の願いはただそれだけだ
路を開いて三益の友(正しい人、誠実な人、見聞のひろい人)をまつとしよう

日暮巾柴車 日暮 巾柴(きんし)の車とあるから見慣れた風景でもあった。



二本松にて

氷売る声はきれたり夏の月

気の長い老いの句俳や麻地酒

麻地酒」の伝統を受け継ぎむぎ100%の焼酎が生まれたのは現六代目当主の時代である。若き当主は天然醸造ゆえに腐敗しやすい「麻地酒」を改良するために醸造酒から蒸留酒へ切り替え焼酎の製造を開始する。さらに昭和26年、麦の統制がとれてからは今迄の麹(こうじ)は米で作るものとの常識を破り米も穀物、麦も穀物、米で出来る麹が麦で出来ないはずはないと、麦麹の製法に没頭した。麦が健康食品として注目されてからは麦だけの焼酎の開発に専念。そして昭和48年、むぎ100%の本格焼酎第一号が発売されたのである。
http://www.nikaido-shuzo.co.jp/nikaido/history2.html

麻地酒〔豊後〕あさじざけ
江戸時代初期、豊後日出(ひじ)城主木下家の創醸になる諸国名酒の一つ。うるち米ともち米を半半に用い、寒仕込みしてから草や茅などで覆って土中に埋める。この特異な熟成法から《土かぶり》の異名がある。夏、熟成した酒を汲み出して飲む。肥後産のものもあるが亜流にすぎない。●麻地酒の方豊後 (*中略)人の歩き申さぬ屋根の下の風の吹ぬき候所よく寒の中に仕込来年六月の土用のうちに口を明る、色はひわ色の濁酒なり──料理&『合類日用料理抄』巻一
http://hanasakejijii.seesaa.net/article/401648043.html

...と遊び過ごして落とし味噌(秋の部)

おとしみそ【落とし味噌・落し味噌】
粒味噌をすったりこしたりせず,そのまま入れて汁を作ること。


・・・や草履をはかぬ何所の人

名月やありて苦になる水時計

水時計な度か使われていた。ただこれが苦蜷というとき時計がわずらわしいと同じである時間を気にせず名月を観賞したい、月見をしたいとなる。

松川浦眺望

こっそりと月をもてなす葦家かな

葦の家とは藁葺きの家なのか?葦と萱は違っているけど別な家のことか?
松川浦はひなびた漁村でありそんな風景があった
津島という山里にて

八朔や風呂の煙のたつ山家

八朔(はっさく)とは八月朔日の略で、旧暦の8月1日のことである

見ぬ人に酢茎もら月見かな

酢茎【すぐき】
スグキナの漬物。京都上賀茂地方の特産。11〜12月,塩をふって十分のおもしで漬け,のち特殊な室(むろ)に入れ1週間ほど発酵させる。自然発酵による独特な酸味と香味が好まれる

たまさかに月見の宿や蕨餅

萩なとは催馬楽諷へ虫の中

雨の夜を崩して拾ふ柚子味噌かな

松川浦眺望

時雨るや夜喰の箸の杉くさき

夜食した箸が杉くさい、杉の箸だから、箸にもいろいろ種類があった

朝凪や死なぬ薬の雪の里

鬼風の俳句集や旅の記録が残っている。長崎まで行っているとなると全国を旅しているから江戸時代にしてはこの辺でそんな旅をした人かがいたのかとなる。
この人は相当裕福な家の人だった。吉田とあると今でもあるから吉田屋というのは呉服屋であり古いからその家の系統なのだろうか?
ただいつの時代なのか記していない。
この人の俳句で面白いと思ったのはすでに死語になった言葉がでてくる。
江戸時代だと当然そういう今では使われない廃れたものがありいくらでもある。
それは当時は生活の中で活きていた言葉なのである。
死語となったのは別に江戸時代だけではない、戦前でも戦後十年でも死語になった言葉が結構あるのだ。
だから江戸時代を探るとき、そうした死語となった言葉を探らねばならない
幸いインターネットでそうした言葉には詳しいから引用した。


この人の俳句集は旅の俳句が主でばらばらになっている。
地元のことは俳句に少ない、旅の俳句集なのである。
旅だから土地の食べ物をいろいろ書いているのかもしれない、その土地だけで食べられるものがあった。酒でも麻地酒とは九州の豊後の酒だった。これも二本松で飲んだのか?
二本松だったら九州からもそうした酒が入ってきたのか、ただ作り方が伝播されて二本松で作ったのか何かわかりにく。
ただ今ではない食べ物のことなどが良く記されているのは江戸時代はやはり土地が代われば今と違って食べ物も相当違っていたから記した。


この人は恵まれていたから長生きしたのだろう。

朝凪の死なぬ薬の雪の里

薬を飲んで死なないとは何か今の時代に通じている。病気になっても病院に行き手当てして介護するからなかなか死なないという現代に通じているのも不思議である。
ただ飢饉があったことは二カ所書いてある。旅で見聞したのだろう。
草履を履いていないとかあり草履すら買えない人がいたためだろう。
この人のことからこの辺の江戸時代のことを知りたいと思ったが旅の俳句が主だからわかりにくい。
石なことは秋葉神社などでも子供が遊んでいて俳句にしたのかもしれない
ただこの遊びはどこでもしていた。この俳句集からは地元のことがどうだったのかほとんどわからない。
それでもまだこれは地元では貴重なので考察する価値がある。










posted by 老鶯 at 17:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)