2014年11月02日

天高し (自転車もバイクも車も老いるとのりこなせなくなる)



天高し

(自転車もバイクも車も老いるとのりこなせなくなる)



天高く高峰望む山の上

天高く登頂なりて歓喜の声

天高く頂上究めむ意気揚がる


山の魅力は大きい、いつも高い山を見ていれば心に反映される。
この辺ではその高い山がないからせのたりないのである。
ただ海があるから朝は気持ちかいい、
海は心を広くして山を心を高くする
福島県は広いから会津になると山国であり2000メートル級の山がいくらでもある。
でも浜通りからすると何か遠いのである。
交通的には電車だと二回乗り換えがあり遠いと思った。
盛岡は今は新幹線で50分だから本当に近い
距離的には遠くても交通としては近いのである
距離は今や交通の便に左右されているのである。
だから東京だったら外国の方が飛行機で何時間だとか外国が近いと思っている人もいる。この辺は電車が仙台まで通らなくなったので仙台が遠くなってしまった。
何かバスだと億劫になるのである。
ても車がある人は車で仙台に結構行っている。

吾妻連峰をきれいに見えるのは霊山の高い所に登った時見える。
山はやはり高い所に登って見るときれいに見える。
山は別に苦しい登山をしなくてもきれいに見える場所があればそこまで行けばいいのだ。ただそれか意外と地元の人でないとわかりにくいのである。
富士山は見る場所によって相当違っている。
プログの写真で雲が沸き上がって真っ正面に見える冨士が良かった。
バイクで旅しているのとあっていた。

3ab31708-s[1].jpg

湧き揚がる雲やバイクに夏の冨士

写真でもなにかうまく迫力あるものがとれる。
冨士を見ながらバイクを飛ばしている感じがでていた。
ここのプログがどこかわからなくなった
写真一枚拝借したがわかればリンクする

電動自転車でひさしぶりで今回霊山に行ったけど体中が痛くなって寝ていた。
もともと自分は若いときでも自転車旅行すくる体力もなかった。
登山でも体力がないから消耗する度合いが大きいのである。
今回はすでに老化であり筋肉が異常に疲れるということがある。
結局苦しい登山でも何でも若い内にやらないとやれなくなる。
海外旅行の一人旅でもそうである。
辛うじて50歳からしたがこれもさんざんなめにあった。
人間はどうしても若い内しかやれないことがある。

全身全霊をもって事にあたれ
若き日に全力を尽くして悔いなかれ
汝もまた老いの早かれ
全身全霊をもって果敢に挑戦せよ1
力あるうちに力を尽くせ
老いの早きを知るべし
成しえることを成さずして終えるべからじ
老いればもう成しえざりき
夏の雲が沸き上がるように
青春の日の再び蘇らむ

人間は老いるのか早い、自転車でも何台か買っても使っていない、使えなかった。
バイクに老人が再び乗っているのもわかる、青春時代に乗った快感が忘れられないのである。だから金があると一番いいバイクに乗ってみようとなる
若いときは金がなかったから乗れなかったバイクに乗ってみようとなる
でもその乗る時間がすでに限られているのである。
だから高価なバイクを買っても意外と乗る度合いが少なくなる
車でも75過ぎの人が運転してる人を知っているがだんだん運転がてきなくなるとき恐怖である。
田舎では車が運転できないと相当に不便になる。

自分も自転車で買い物できなくなることが恐怖だった。原町とかにここから行く必要があるからだ。それで原付バイクの免許をとる勉強をした。
でも原付は何か普通のバイクより危険なのである。
同じスピードで走れないからかえって危険である。
路側帯も走れないのも危険だと思った。
それでもだんだん電動自転車でも疲れが激しくなると乗れなくなる
老人になると金があっても物を買っても使いこなせないということになる
若いなら別に苦しい旅でも自転車はいいものでなくてもバイクでもできる。
つまり体力あれば金がなくてもできるということがあったのだ。
金があっても体力がなくなればできなくなることか多いのである。


タグ:天高し

2014年11月03日

機械化が社会を根本的に変えた (刀自には一家の主的役割があったー機械化で失った主婦の役割)


 
機械化が社会を根本的に変えた


(刀自には一家の主的役割があったー機械化で失った主婦の役割)

●機械化工業化で明治以降は社会が激変した

現代の社会を根本的に変えてしまったのは機械化の影響が大きい。信長の時代だと鉄砲が入ってきてそれが時代を変えた。戦争でも常に武器が社会を変えていった。中世の城壁が無用になったのは大砲がでてきたためである。会津の戦争でも大砲で旧式の鉄砲で戦いなかった。現代社会を大きく変革したのは機械だった。江戸時代まで大量生産ができなかったから工場もないから時間にルーズですんだ。大量生産で効率的にするには時計で時間を絶えず計り規格製品を大量に作り出さねばならない。
その大量生産のために学校が作られたのである。学校もまた機械化される社会に適応させるために世界中で作られたことでもわかる。
それは国と関係なく機械化社会に人間を適応させるためにそうなった。
江戸時代の寺子屋は意外と自由であり机を並べて一人の先生の指示に従うものではない。学校は規格化された大量生産のために必要だから作られたのである。
time is moneyになった資本主義もそうして時間を機械化して計ることにより人間を機械化することだった。
現代文明とは機械文明でありそれは機械を使いこなせなければ生きていけなくなった。
それは非人間的なものであっても機械化された社会になるとその中で生きる他なくなるのである。
戦争すら機械化戦争であり高度な機械は殺人兵器となり大量殺戮になった。
原子爆弾がその象徴でありナチスのガス室送りでの大量殺戮もそういう文明の結果だともされる。ともかく人間がこれほど大量に殺されたのは機械が発達して機械が大量殺戮を可能にしたからである。空爆だったら大量に殺戮できることでもわかる。
人間は機械に使われ機械によってその人間性も容赦なく奪われる。
ただ機械化しなければ他国との競争に勝てないから共産党主導の強引な政策の強制は失敗した。

全農民を動員して鉄鋼大生産に全力を挙げるよう命じた。だがそもそもが農民を総動員して鉄鋼生産をさせるという手法に根本的な無理があった。金属工学の専門家もそれに適した設備もなく、原材料も満足に確保できない中で、素人に良質な鋼鉄が作れるはずもなく、生産された鉄の大半は全く使い物にならない粗悪品であり、膨大な資源を浪費する結果となった
http://dadao.kt.fc2.com/fanzui08.htm

要するに機械化できないから鉄鋼の大量生産ができないから農業から工業化ができずに遅れをとったのである。
戦後は農業でも機械化であり農機具なしでは農業もできなくなった。そのことは中国でも同じである。コンバインだと麦刈りするとき人力の百倍とか千倍の収穫ができる。
それで麦刈りの出稼ぎ者は極端に減ってしまった。ただコンバインの入れない地形の所で出稼ぎ者がまだ使われていた。それは日本でも田植機で田植えしてもその縁(へり)が機械でできないので手植えしているのとにている。
巨大な機械によって人間が隅に追いやれ人間の力は機械に比べていかに小さいものか認識される。中国は人口が多いから人力作戦で行う。その中国ですら機械の力にすれば小さいものになったのである。

●日本人意識は鉄道によってもたらされた

これは大局的に見た現代文明である。明治維新以後は鉄道化した結果江戸時代の社会が大きく変わったのである。江戸時代は簡単に藩を出ることはできなかった。範囲意外の人間と交わることはまれだった。それより隣の村との行き来すらしていない自給自足の閉鎖された社会だった。例えば伊達政宗が相馬藩の街道を通るとき相馬の殿様の許可を得なければ通れない、でも伊達藩にも恩義があるということで特別通された。
そういうことは全国であり簡単に道は関所もあり通れないのである。
鉄道の歴史で面白いのは切符が江戸時代の手形やパスポートのようになっていたという指摘がある。切符一枚あれば日本全国どこにても行けるからである。そんなこと当たり前だろうとなるが鉄道ができた当時はそれはありえないことだったのである。
そして鉄道に見知らぬ人が乗り合わせることもありえないことだった。江戸時代は見知らぬ人が出会うということは少なかった。だから全然知らない人が同じ車内にのっているということが何か普通の経験ではなかったのである。
そういうことを小説の描写で残しているのがあるし鉄道ができたことにより社会そのものが人間関係も変わってしまったのである。見知らぬ人が同じ車内で出会い切符一枚で全国どこでも行けることは日本の社会を変えてしまった。
だから鉄道が日本を統一国家にした日本人として意識させるようになったというのもあながち否定はできない、天皇ではなくそうした鉄道化した社会は日本人としての意識をもたらした。なぜなら天皇とはその頃まで庶民にはそんなになじみがあるものではなかったからである。
江戸時代までは日本人は他の藩のことなどしりえようがなかったのである。
現代の人間関係は常に見知らぬ人と遠くの人と交わるのが普通になっている。
狭い村の自給自足的な閉鎖された社会とは違い人の出入りが激しい社会である。
そういう中で犯罪も増えてくる。
機械化というとき通信の世界でも匿名の人が集まり文字で話し合うというのも現代的である。これも相手の顔も素性もからず文字だけで話しているのである。こういう世界もありえなかったのである。現代は膨大な人々が匿名で交わる社会である。
それもパソコンとか通信機械化社会に寄ってそうなったのである。
コンピュターライズド社会になった。その前にモータライズド社会が車社会ができあがっていた。車社会となったのも大きな変化である。
それは鉄道にまさる変化をもたらしたのである。

●昔の家事の重みは万葉集など刀自の言葉に伝えられる

機械化というとき家事も機械化であり機械なしでは今やありえない、機械化で効率化しているから仕事も外でできる。今は一人暮らしでも機械によって家事が簡便化した。
米たくにもスイッチ一つ押せばいいとか誰でもできる。
ただ家事のノウハウは多岐にわたっているからそれが家事を全くしていな男にとってはそのノウハウを知らないことで苦労する。
自分もここ七年間はそうした家事に追われていた。家事は簡単にそのノウハウが会得できないのである。まず料理からしてめんどうであり自分はほとんど買ったものでまにあわせている。それからいろいろな管理方法でもわからないのである。
その点女性は知っていて教えられることがあった。
全然家事したことがない男性が妻に突然死なれたりすると苦しむのはそのためである。
家事というのは昔でも大きな仕事であり

トヌシ(戸主)の転。戸口を支配する者の意。「家長(いへきみ)」の対。
「刀自」は女、つまり、「一家の主婦」なのですが、奈良時代には「一族の女主人的な立場の人」でもありました。年寄りでも若くても関係なく「刀自」です。
さらに転じて、「女性に対する尊称」として用いられるようになり、
 平安時代には、「内侍所・御厨子所・台盤所などに勤めて、事務・雑役に従う女房」に使われるようになったと書いてあります
 
 
 神道では故人は神(祖霊)になって、一族を見守るようになる。
刀自命(とじのみこと)、姫命(ひめのみこと)、大人命(うしのみこと)、命(みこと)は祖霊になった際につける敬称の1つ。

 意味合いは違うが、仏教における「戒名」と近いものとなっている。
※刀自命の刀自とは、戸口を守るという意味があるそうです。転じて女性を指す言葉となっています。

母刀自(その2)……駿河国の坂田部首麻呂の歌。

「真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)
目豆児の刀自/身女児の刀自……『万葉集』巻十六、能登国の歌。
「鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)


刀自は家事を背負った大きな役割を果たした女性である。その家事の内容が今とは戦前でも役割の中身が違っていた。今のように機械もないし買うこともないのだから自給自足となると一軒の家ですべてをまかなうということになる。
戦後でもまもなく農家では納豆まで作っていた。もちろんその前は味噌も自前で作っていたりと何でも自前で作っていた。今はただ買う生活なのである。
だからそこで刀自とかいう家の重みを背負っている女性は喪失した。

真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず」(4342)

ここには家の重みのある時代を彷彿とさせる。家自体も真木柱とありその木が特別な木である。その柱のごとく殿はあった。そういう家に母刀自は重い存在だった。
お袋の味とか言われるがそれすら今もなくなったがそういうものを作り出していたのが母刀自である。その日々の仕事は家事に費やされていたのである。
時代をさかのぼればのぼるほど家の重みがあった。

鹿島嶺の 机の島の しただみを い拾ひ持ち来て
石もち つつき破り 早川に 洗ひ濯ぎ
辛塩に こごと揉み 高坏に盛り 机に立てて
母にあへつや 目豆児の刀自
父にあへつや 身女児の刀自」(3880)

一種の自家生産なのである。塩をもんでいるとなると塩を加工するのも仕事である。
売っているものを買うのではない、回りにあるものを利用して自給自足でありだから生産と消費は直結していたのである。ここに刀自が四つもでてくることでもわかる。
刀自の役割は大きかったのである。つまり今でいうなら言うなら主婦の座の役割は大きかったのである。
今は主婦はそうした刀自の重みはない、むしろ外でいくら稼ぐかとかで計られる。
家事はやはり料理でも自前でするというよりオカズでも買っている人が多いのである。
家の重みでも主婦の座の重みでも消失したのである。
刀自の重みは単に家だけではない自家生産して消費していたことにあったのである。

●刀自の役割が喪失して女性のフェミニズムが主張されるようになった。

昔の家事は機械など極力使わないから人力であるからその費やす労力も大きい。戦前でも中産階級ですら二人の女中を雇っていたというからそれだけ家事は機械化していなければ手間がかかるものだったのである。家事の労働に女性の労力は費やされていたとなる。
それが機械化されたとき女性の労苦も解放されたのだがまた新たな苦労が待っていた。
外で稼ぐには男性並みの能力がないと稼げない、でもそれだけの能力ある人は少ないから今度は外で働くのに女性は苦労するようになった。
つまり人間の社会は一見何かで楽になった機械で楽になったとか思うと別な苦労が待っている。機械化でもたらしたものは大変革だったがそれによる弊害も大きかった。
昔の女性はフェミニズヒムなどでは差別差別とか騒いでいるけど実際はそうした家事全般を受け持つことで大きな役割を果たしていたのだ。
刀自というのは今でも原町の大原の知って人の墓に刀自と記されている。
何か刀自というのには女性の高い大きな地位を示していたのである。
だから墓まで刀自と記しているのである。女性の地位をいろいろ言うが機械化でかえってその大きな役割を失ったということもあったのである。
男女平等を言うがそもそも男女平等というとき外で働くようになった女性が男並に能力を発揮することを強いられた結果としてそうなった。どうしても仕事では女性は男性並にはなれない。つまりそもそも男女の役割が違っているからそうなっているのである。
要するに女性本来の力を発揮する所は家にあり刀自としての役割にあったのである。
むしろ女性の本来の役割が近代化機械化で失われたということもある。

なぜそんなことを思うようになったかという自分がまさにそ家事一切を背負う男刀自になっていたからである。墓参りでも先祖の祭りでも自分がしなければならない、すべて家事一切家のことをまかされることになった。その刀自の役割は家を守ることである。それは家事だけではない家の財を守ることでもある。実際に犯罪に合い家の財も奪われたから家はまた刀自がいないと大きな隙間ができるからそうなる。
そして毎日介護でありこれも刀自の延長の仕事してあった。家の中で介護する負担は大きい。今でも嫁がやらされるというときその時刀自のような役割を担うことになる。
昔は大家族だから手のあいている人がやっていたのだろう。女中が中産階級で二人もいたということは女中も介護などの仕事をしていたのである。
ただ機械化した結果、掃除洗濯料理はもう機械ができる。オカズも買うから料理しなくてもいいから女中の仕事もなくなったのである。
今は女中の仕事をする人はまれである。それでも毎日家事の仕事は本当にあるものだと思った。大きな家になると掃除自体が手間になる。
だから最近買った3000円の掃除機が使える、簡単な掃除に使える。
3000円は安いなとすぐに通販で買った。35000千円で買った。スチームクリーナーは3万以上したがトイレとか床にはいいがあまり使えなかった。掃除機は重いからこれは気軽にできるから良かった。
これも機械をいかに自分にあったものを買うかとかが問題になり買うことから使うこなすことが始まってる。
なかなか道具は使ってみないとわからないから困る。この3000円の嘘かと思うくらい安い。それでも使えるから得だった。
知らないとこうして無駄な出費も多くなるのが現代である。何を買っていいのかも電器店に聞いてもわからない。
印刷機でも使えないものがあったし自分でいろぽす見て選択するほかないのが現代である。
電器店では売れ残りとかを進めたりするからこれも信用できなくなっている。
かえって通販の方がいいとまでなんているのだ。ただそこでは選択する能力が必要になっているのである。

毎日ゴミがでる、ほこりがでる。掃除は毎日欠かせないからまた手間なのである。
家事でも機械化すると便利な機械を知り機械を使いこなすことが肝心になる。
誰か主婦にならうより機械を使いこなす方が現代では大事になる。
そうはいっても家事のノウハウは実際の主婦の女性の方が知っている。
でも現実は機械でこなすほかないのである。
だから無洗米とかを精米できるところがあるとは知らなかった。
それだともう米を洗う必要もないのである。そうなると主婦の役割は喪失して外での仕事でいくら金をかせぐかが男と同じように評価の基準になってしまうのである。
家事をうまくやれるかより外で仕事ができて稼ぐことができるかが女性の価値判断になり男女平等がフェミニズムが興隆することになったのである。


これが3000円!
http://urx.nu/dHy8

吸引力が結構あり便利である。音はかなりうるさい。でも普通の掃除機は重いからめんどうである。これは手軽にチョコチョコ利用できるからいい。
これは偶然に見つけた、通販でしかこういうものは買えない
最近また通販で毎日のうように買っている。
通販だと自分の欲しいものが次々と買えるからいい
今は機械でも何でも多様化しているから通販でないと買えない
もう電器店だってそろえきれないものがあるからだ。
それは本でも何でもそうである。
あらゆるものがそろえきれない、だから店にあるのは大型テレビとか決まりきったものになる。
買い始めたらきりなくなるというのも困るが今まで買えないものが買える。
田舎でも都会にいると同じなのである。



posted by 老鶯 at 20:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

冬に入る(白鳥来る)


冬に入る(白鳥来る)

晩菊や畑に種まく老婆かな
散りてありここに二輪の秋薔薇
数滴の時雨や顔に老化かな

白鳥の今わたりきぬ夕暮れやその声ひびく冬に入るかな
白鳥の群れなし飛びぬ夕日さしかなたに去りて消えにけるかも
消えてなお白鳥飛びしその余韻空に残りて夕日没るかな


八沢浦の方で津波の被害のあわないところで種をまく老婆がいた。
何かあういうふうに暮らしがあると違っている。
種をまくとは未来へに種をまくことなのである。
畑をはじめことで未来がはじまっているのである。
それが例え老婆でもそうなのである。
だから小高でも飯館村でも放射能が危険でももし種をまいていたら何かそれが未来につながる感じがする。
ただ荒地としておくとそれは荒廃するばかりになる。
ただ除染したからといってそれができるのかとなると疑問なのである。

今日は明らかに時雨だった。秋時雨とは違う。なんか老化してゆくのが淋しいとなる。
今年の気候は変則的だった。昨日まで暑いとか今日は急に寒くなるとか台風が来たとか異常気象である。こういうの俳句になりにくい。
まだ晩菊であり秋薔薇である。
駅前の薔薇二輪は散っていた。でもあそこに咲いていたものは記憶に残される。

白鳥が連なり飛ぶのが見えたのは相馬市の道の駅だった。
あそこの道の駅は田んぼのなかにあるから安らげるのだ。
あそこにいつも老人が何人かたむろしいても寒くなると外にはいられなくなる。
ひなたぼこしても風が吹くからあそこにも冬はいなくなるのか?
暇な老人が多くなっているだろう。ただ忙しい人は忙しいのだ。
自分などここ七年間本当に毎日家事であり介護に追われてきたのである。

白鳥が群れなして飛んでいるのは本当に美しい。
白鳥のように飛んでかなたに消えてゆきたいとなる。
この世の汚れ人間の醜さを嫌というほど味わったからそうなる
どこにいようと人間の醜さから逃れることはできない
ただ田舎だと白鳥とか美しい自然にいやされるのが違っているのである。
タグ:白鳥

2014年11月04日

パソコンの操作で理解した抽象画論 モネは光の分析、セザンヌは立体性の追求、ピカソに発展


パソコンの操作で理解した抽象画論

モネは光の分析、セザンヌは立体性の追求、ピカソに発展

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雪舟

この絵の抽象化
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ボスポラス海峡

ここまでクリック拡大

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これはモネ的になる


対象の再現性を離脱しようとするタッチを対象の明確な構成要素、「円錐、球、円柱」に向わせました。セザンヌによって、絵画は強固な形態を自ら創り出そうとするあらたな方向性を与えられました

ここのサイトでモネとセザンヌを対称的にとらえているから興味深い。モネはソフトな色合いで特徴づけられる。プリズムのように光をとらえて色とした。
絵画は色と構築する立体性がある。構築する立体性は建築に通じている。
絵画には多様な色と建築性から成り立つ、西洋絵画はレオナルドダビンチから立体性を遠近法で現した。もともと西洋ではローマ時代から建築に優れていた。
だから立体感覚に富んでいた。そもそもそれはエジプトのピラミッドからはじまっていた山を抽象化して立体化するとピラミッドになるからである。
ピラミッドは人工的山なのである。砂漠には山がないからピラミッドを山として精神の安定を計り宗教的礼拝物ともなったのである。

自然を鑑賞すればそれは多様であるが骨格として岩があり岩は土台であり建築的である。岩から土が生まれたというのも地球はもともと岩で造られていて岩が砕けて土となったり砂となったのである。
地球はさらに岩盤の奥に中核は最も固い鉄できているのである。
セザンヌの絵は重厚であり岩的であり建築的なのである。
モネやゴッホの印象派は色に分析したのである。
何か肖像画もセザンヌは岩的顔貌になっている。
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セザンヌ


それから抽象画はピカソによって開花した。自然でも世界でもこれは具象としてあっても抽象画ともなる。具象→抽象ということがあって文明を作りだした。
なぜなら文字はまさに万物の抽象化であるからだ。
漢字は象形文字でありエジプトのヒエログリフもそうである。
つまりそれは万物を抽象化したものなのである。

ピカソにいたって抽象画は一つの時代をきづいた。それは時代を反映していたのである。現代文明は物質文明となり具象的人間の存在感が失われた時代である。
大衆化現象は人間は人間ではなく抽象的数としてしか表現できない世界となっていた。
キュービズム運動もそうした時代が生んだものなのである。
モネの絵からは確かに何が重い存在感が感じられないのは立体的建築性がないからであるセザンヌの肖像画は額が岩のようにも見えるのである。
それぞれの個性がフランスで開花したとなる。

ふりかえって日本の絵画史を見ると何か尾形光琳でも絵画でも一つの形式にのっとって描いている。だから狩野派だとか一つの派が形成される。それは一つの様式美を作り出したから弟子もそれに従ったのでありその様式からなかなかぬけだせなくなる。
そして何か日本の絵画も抽象的な要素が大きいことに気づいた。
それは写生ではなく木を描くにしても時代の様式がありそれにのっとって描いているから何か幾何学的に見えたのである。
写生の絵は円山応挙にはじまって蕪村が絵画的俳句を作りそれを継承したのが正岡子規の写生俳句だったのである。
この雪舟の絵も何か抽象的であり本物の岩を写生しているわけではない、水墨画でもそうである。写生ではなく心が意図して作り出したものである。
円山応挙が虫などを図鑑のように写生したのとは違っていたのである。
だから岩が幾何学的に見えたから抽象画になるなと思いパソコンで加工してみた。

自分には何ら絵の才能がないのだけど抽象画はパソコンのソフトの作用でできるから絵が描けなくても作れる不思議をずっと体験して出してきたのである。
絵画は色と幾何学的なものに分解できる。太陽だったら円ではあり山だったら三角でありとかになる。雪舟の絵を幾何学的に分解したのが自分の抽象画である。
ただこれが岩に見えるのかとなる。抽象画はやはりこれが岩だというとき岩として見ないと何か鑑賞できない、何かわからないのが多いからである。
岩には石には充溢する充実した安定がある。岩石は燃えていると上野上野霄里(しょうり)氏は表現した。それはやはり個性によって岩の見方も違ってくるのである。
絵画をどうみるかはその人の感性によるし自然でもそうである。多様な見方があって自然の見方も教えられるのである。
パソコンは抽象画には一番向いている道具だった。
自分もパソコンで遊びで抽象画を作っていたら美術の理解が絵の理解が深まったのであるまず自分で絵を描けるなど思っても見なかったからである。
パソコンの色は独特でありこれは絵の具では現せないもであり電気の光で映えるものなのである。

これが芸術てのかという疑問もまたでてくる。芸術はアート(技術)のことだから技術の発展によって新しい芸術が生まれたのである。
それは電気と深く関係していたのである。
モネの色は絵の具の色でありハソコンの色は電気の色なのである。
美がわかるのはフランスと日本しかないというときそうなのかもしれない。
日本は建築的には劣るが美術的には優れたものを残していたのかもしれない。
本当は日本は山が多いから建築的でもある。たたそういう建築的文化は劣っていた。
エジプトのように平面と何もない砂漠の方がピラミッドを生み出したように建築が発達した。それはとギリシャに受け継がれたのである。




タグ:抽象画論

2014年11月06日

冬に入る(長くつづくもの介護、復興工事など)


冬に入る(長くつづくもの介護、復興工事など)

冬薊工事のなおも続くかな

近くなれ社にありぬ天明の碑を知らじかも冬に入るかな
秋よりや山茶花長く咲きつづき冬に入るかな介護はつづく
一本の松にこそよれ変わらじも我がよりにつつ冬に入るかな
三カ月後白菜育ち食べられるとともに見守る女そ親しも

この辺の工事は長くつづく、除染などもいつまでしたら終わるのかとなる。毎日百人くらい集まり除染の仕事にでかけている。金沢の坂から原町に行く所もプレハブが建ち新しい家もたったから閑静な所ではなくなった。
あそこにある一本松は目立たないが変わらないものとしてあった。
この辺はあまりにもあらゆるものが変わりすぎたのである。
だから変わらないものがあるとほっとするのである。
老人になると変わりすぎる社会は苦手になる。
それから機械の操作か苦手になる。認知症になるとテレビのリモコンのボタン一つおせなくなった。

今の時代はまず機械が操作できなかったら生きてゆくことすらできない。
だから老人にとっては生きにくいのである。
直接人と人の関係で社会が成り立ってないない、広域社会グローバル社会になると実際は直接関係しなくても物だけは地球の裏側からも入ってくる時代である。
そういう社会がいいのかどうかわからない、ただ社会がそうなればその社会に適応しなければ生きていけないのである。だから機械時代になれば機械を操作できなければ生きていけないのである。車の運転ができないと仕事もできないと同じである。

ただいつも行く道ち一本の松があるというときそれは人間に見ているのである。
松は何か人間に最も近いのである。それが変わらずあるということが安心につながる。
それは信頼する松でもある。でも田舎でもこのように変化が激しいともう近くでも人も変わるし環境も変わると何を信頼していいかわからなくなる。
実際近くの人ても信頼できない時代である。
畑に白菜を植えてそれが育つのに三カ月かかるというとき長いと思った。
それをともに見守っているというのは農民の心情であり共感する心があると思った。
もともと80パーセントが農民だったとき、戦前だって日本はずっと農民社会だったのである。
だから何か共通の心情とかが育まれていた。都会なるとその頃でもやはりそうした共通感覚は消える。江戸時代のいい面はそうした共通感覚の上に社会が築かれていたからであるだから人間でも一体感が自然と養われていたのである。
工業化とかグローバル化になるとそうした一体感は喪失した。
農業社会の一番の関心は天候のことでありそれが景気に作用する
株で景気が左右する現代は何か異常である。
とても紙幣をすってばらまいて景気が良くなるはずがない。
そういう社会はあるとき、急激に崩壊する恐怖がある。
つまり紙幣がただの紙になってしまうのである。
だから資本主義はもう限界にきていて崩壊するということが言われる。
こんな社会はもう維持できない、それはむずかしい学問ではなくて何か人間の感である。そういってもやはり自分も株をもっているから矛盾しているのである。
ただ自分は株は売ったり買ったりするのがめんどうだからそういうことはしてしいない。銀行に頼んでいるだけだとなる。

今年の天候は変である。庭の楓の木がまだ紅葉していない、冬になればすでに冬紅葉である。山茶花も秋から咲いていたし何かそうした温暖化の影響がある。
それにしても介護は長くつづくなと思った。
現代は本当に介護時代である。普通こんなに介護がつづく時代はなかった。
早めに死んでいたろう。介護は最低でも3年とか5年とかさらに長くなる。
これもまた現代の高齢化社会の負担なのである。
金だってかかるし家族の負担が大きくて長いのである。
だから60代は親の介護でも金がかかるからその用意も必要だとなる。
ともかく今日は寒くて冬に本格的に入ったと感じた。



 
タグ:冬に入る

気になる江(え)の地名 (蝦夷(エミシ)もエである)



気になる江(え)の地名


(蝦夷(エミシ)もエである)


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双葉


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えねいは古い言葉に感じる

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原町

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鹿島

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江名(えな)は恵那(えな)と同じである。

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江見(えみ)はエミシなのである。



海道では「江別」「江差」「江刺」「枝幸」「恵庭」「襟裳」「遠軽」「遠別」などをあげることができるし、関東では「江戸」「恵比寿」「江ノ島」「荏原」「海老野」、中部地方では「恵那」、滋賀県では「愛知川」、大阪では「江口」「江坂」「餌差」「海老江」「恵我の里」、中国地方では「江田島」、九州では「海老野」をあげることができる。
「えびす」の語源は、「エミシ(蝦夷)」が「エミス」になり、「エビス」になったとされている。また、「えびす」は蛭子の神さまでもあり、水に関わりがあるから、兵庫県の西宮戎神社や大阪の今宮戎神社のように海に近いところにあるのが多いのである。

エ・エトコ(頭,水源,山頂)
エサシ(山の頭を浜につけているもの,岬)
十三湖の小湾入のある「前潟」のことで,ie (尖った)rum (矢の根)ma (澗)J (尖った矢の根のような澗)
津軽にはほかに恵神崎(えがみざき)と
いう岬もあり,これは西津軽郡の岩崎村の岬である(図3)。この岬角名の語頭の「恵」
の部分にエンルムの「エ」が残存しているかもしれず,あるいは北海道の恵山(えさ
ん)のようにエサン(頭が浜に出ている岬)かも知れない

アイヌ語地名の痕跡化
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81%8F%E5%9C%B0%E5%90%8D'

北海道にはアイヌ語で地名があったが和人が入ってきて漢字をあてたからややこしくなった。江(え)とつく地名が北海道に多いのである。このエが何なのか、アイヌ語ではエは突き出たという意味である。これは何か統計的にみて地形ともあっているだろう。
地名は地形的なものから名付けられるのが多いからである。
突き出た所ということでありその基は頭をエと言っていた。
そこから派生して突き出たものがエとなった。枝(えだ)などもエがつくからわかる。
ただエに江をあてたときわかりにくくなったのである。
江というときどうしても海などをイメージするからである。
エは江とは限らない、なぜなら山の中にも江があるからだ。
だから突き出た所として解釈するのが無難である。
それは海に面して突き出たところが岬となり高台ともなり平地に突き出ていたところもエになるのである。だから山の中にあっても不思議ではない。
ただその時海のように湖のように平地のような所に突き出た所として名付けられた。


もう一つはエとは蝦夷(エミシ)のエである。蝦夷族、エ族の村になる。
現実に江見とあればエミシのエミだからまさにエミシの村だとなる。
自分が海老村が蝦夷の村だと解釈したときそうである。
海老はエヒとして呼んでいたしエヒと書かれているのである。
だから海老とは関係ない、突き出たところ、高台というのがふさわしい。
地形的なものとして名付けられた。
つまりエミシでも最初の原住民は平らな所には住んでいない、平の所の突き出たところに住んでいた。なぜなら平らな所は日本では湿地帯になっていたからである。
だから奈良盆地に奈良湖があったとか他にも九州にも内陸部に大きな湖があったがなくなったとかインターネットで考察しているサイトがある。
福島市ももともと湖があったとか会津でもそうである。
山の中でも盆地は平らなところは湖や湿地帯になっている所が日本では多かったのであるだから住みやすい地はまさに平らなところではない、平らなところに面した突き出たところだった。


今回の津波ではそういう突き出たところは高台となって津浪被害をまねがれたのである。
だから地図で示したように江(エ)とつく地名はこの辺では津波をねがれ所でありまたは海だった所であった。江とは江と必ずしもならないということを見ていないと誤解しやすいのである。地名は漢字から見るから誤解しやすいのである。
もともとはエという音であった。それもイとまぎらわしくなる。
ただ江戸(エド)でもそうだが地名の起こりは地形に由来していることが多いのである。
江戸も海とか平地の湿地帯に面して突き出たところ高台として名前がつけられたのだろう
ではエがアイヌ語だとする日本全体にエの地名があるとしてアイヌが縄文人でありその言葉が受け継がれたのかとなる。アイヌ語から日本の地名を解明することはこれまでされてきたがこれも今では否定されることが多い。
とてもアイヌ語では日本の地名は解きあかせないことがわかった。
なぜならこのエ一つにしてもアイヌ語だったら重大なことになる。
日本全国にアイヌが住んでいて日本の原住民だったとなるからである。
縄文人とアイヌ人とは一体だったとなってしまうからである。

ともかく地名はいろいろに解釈されるから誤解が多いのである。地名には法則性がないということも致命的なのである。科学は法則性を追求してきたから信頼される。
文系的なものは法則性がないから信頼されない、科学的に解明できないのである。
統計的に割り出すと何か信憑性が出てくるのはそのためである。
世界史で四大文明が生まれたのは大河の辺りだったというのも一つの法則性なのである。ただ地理は複雑だから法則的には解明できない、地図をいくらみても地理はわからないのである。地理から実感できないのである。
ただ地図をたどるとなんかエとつく地名が連続している。それは女場(おなは)というのも実は沖縄の小那覇ー那覇から連続していることがわかった。地名は孤立していない、連続性があることは確かなのである。それは沖縄から連続してある。
北海道にはアイヌ語があったとしてもエとつく地名が密集していて日本列島に連続していることは確かなのである。

恵那(えな)などもありそこに自転車で旅してテントを張って一夜泊まった。

旅路来て一夜泊まりぬ恵那に月

エナという名が心に記憶されていた。それは中山道を出た所だったのである。何か平地に出るような場所だったのである。中山道は山の中だが恵那に出ると平地にでる。
するとそこも平地があって突き出た高台という地形だったのかもしれない。

南相馬市鹿島区の海老村は蝦夷ーエミシが住んだ地域だった
(神社の位置が歴史を語る)
http://musubu2.sblo.jp/article/101634504.html


 
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2014年11月07日

古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった (一番恐れたのは水難)



古代の日本の地形は海と湖と山の風景だった

(一番恐れたのは水難)

古代人が一番怖いのは水難なのよ!
洪水の多いこの国において 
よもやのときに水の来そうな場所に絶対に古代人は住まない!
いくら 海 河川が近い場所でもそこは必ず小高い丘
絶対に水の来ない場所にしか古代人は住まないんです!
東北大震災は水難だったが 古い神社が残ったのは
古代の流れを汲んで 小高い場所にあったからなのだ!


このことは他でも言われてきた。エのつく地名で考察したがエは江となっているがこれは当て字である。実際は突き出たところの高台になる。縄文人は水難にあうような場所には住まない、その継続として神社も高台にあった。八龍神社が全国に多いけどこれは水難をさけるためのものだった。そもそも日本の地形は平地は湿地帯であり盆地も湖で住めなかったのである。それで蝦夷(エミシ)の日高見の国というのも高台の国とかなる。
それは中世になっても館という地名は後の城だけどみんな高台にあるのだ。
鹿島区では真野中館も山の上であり屋形の岩松氏の本拠地も高台である。
最後に平地の田中城の攻防で相馬氏が勝利を納めたことでもわかる。
あそこの田中城はぎりぎりで津波の被害からまねがれた地域だったのである。
あのまわりは湿地帯でありすぐ近くに海が広がっていたのである。


上毛野(かみつけの)伊奈良の沼の大ゐ草、よそに見しよは、今こそ益され  万葉集3417

消えた湖の伝説その1
http://nire.main.jp/sb/log/eid27.html

万葉集にはこうした太古の日本の地形とかの継続があり歌われている。

舒明天皇(593?)御聖歌

大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見すれば 国原は 煙り立つ立つ 海原は かまめ立つ立つ うまし国そ あきづ島 大和の国は

ここに鴎がでてくるのが謎とされる。海がなければ鴎は飛ばない、でも琵琶湖には鴎が群れていた。淀川をさかのぼり鴎が来る。
奈良も盆地はが湖だった。川をさかのぼればその湖に出るのである。
万葉集の歌は日本の太古の情景と通じていたのである。その継続があり歌われていた。
日本は平地は湿地帯であり沼や湖が多いのである。だから平地にはまず最初は住めなかったのである。海岸地帯でもそうだった。
もちろん今回の津波でわかったように海に接して住むことはありえなかった。
今回の津波で日本の太古の状態が再現されたことに驚いたのである。
神社が一般的に高いところに建てるのはそうした日本の地形に由来していたのである。

日本の地形は海と山と湖と谷の地形である。平地は湿地帯であり湖で住めない所だったのである。福島県でも猪苗代湖が福島県の真ん中にあることでも象徴されている。
福島盆地も広いが湖だったとされている。盆地の平地は湖だったのである。
盆地は四方が山なのだから川の水が流れ込むと当然そこは湖化するのである。
そうした太古の情景を見たら日本は信じられない美しい国だったとなる。
今は盆地は都会化しているからそうしたことを想像すらできなくなっている。
今回の津波でわかったことは自然の恐るべき力であった。津波は徐々にではなく一気に変えてしまったから恐怖だったのである。
中国では国が二つに割れたという漢詩が残っている。


岳陽樓に登る   <杜 甫>
がくようろうにのぼる  <と ほ>
昔聞く 洞庭の水
むかしきく どうていのみず  
今上る 岳陽樓
いまのぼる がくようろう
呉楚 東南にけ
ごそ とうなんにひらけ  
乾坤 日夜浮かぶ
けんこん にちやうかぶ
親朋 一字無く
しんぽう いちじなく  
老病 孤舟有り
ろうびょう こしゅうあり
戎馬 關山の北
じゅうば かんざんのきた  
軒に憑って 涕泗流る
けんによって ていしながる
ーーー
 昔から洞庭湖の壮観は話に聞いていたが、今初めて岳陽楼に上(のぼ)って見わたすことになった。
 呉・楚の地は国土の東南部でこの湖によって二つにひきさかれ、はてしなく広がる水の面には天地が日夜浮動している。
 
 
今回の津波はまさにこれとにた経験をしたのである。
日本列島も実際は東西で分離していたが天変地異で結合したとき倭国大乱が起きたとか東と西の戦争になったとか考察している人もサイトにいる。
九州も内陸部に大きな湖があって二つに分断されていたとか言うのもこの詩とにている。中国はそれだけスケールが違う自然の驚異があった。
自然は固定していない、変容している。大きな変動が起きて社会そのものを変えてしまうことがあった。今回の津波はそういうことがあるのだと実感したのである。
津波がきて問題にささたのがなぜ危険な海岸に接して住居が密集して住むようになったのかという疑問である。それは原釜とか磯部とか海老とか烏崎村とか他でもそうである。
それはやはり海岸に接して住めば便利だからである。
魚とるのにも港との機能としても舟が入るのにも便利だから住むようになった。
車もない時代は遠くから通うことなどできないからそうなる。
農業でも前田とか門田とか中心になるのは遠くに働き場所があったら不便だからである。
すぐじき前が働く場所だったから楽なのである。
人間では危険でも便利な場所に住むし便利なところから離れられないのである。
だから三陸などでは明治時代にも一万人以上死んでいるのにまた海岸に接して住むようになったのである。それは便利だからそうなったのである。
明治時代なら祖父母からさえその被害を聞けるのにそうなっていたのである。
人間は一度豊かな生活でも便利さを覚えるとそれから逃れられない。
今や車なしでは生活できないから車がない社会は考えられないのと同じである。
現実にいくら交通事故が起きようと車を使っているから危険な海岸線に住むなといっても
便利な暮らしから離れられないのである。


 
タグ:日本の地形
posted by 老鶯 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

春の短歌二十首(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ) 春の短歌二十首(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)


春の短歌二十首

(平和な日の浪江ー葛尾村→三春を偲ぶ)

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(浪江)
高瀬川轟く流れ春の日やそそりたつ巌をまた見む鳥鳴き飛びぬ
岩を打ち轟く流れ高瀬川春日まばゆし奥へ入りゆく
流れ来る二つの川や浪江町春の大地の請戸に展けぬ
請戸港船の並びて春日さすその日も消えて荒野となりぬ
大堀を春に訪ねぬ陶工の技を磨くや大き壺買ふ
夏の日の野馬追いに来る大堀の人帰らじと陶器売るかな
白河に窯を持ちしと相馬焼技伝えつつ浪江に帰らじ
恨めしき原発近く人は消え淋しき家や秋の日没りぬ
(津島)
塩浸し春の日来たりて店により津島に向かふ遠き道かな

津島より道は分かれて三つかな店も出しにつ春の日つきぬ
飯館ゆ津島につきぬ山陰の道の長しも春の日暮れぬ
さえづりの津島にひびくここよりや二本松に向かふ道の遠しも
津島にそ古き墓あれ浪江より遠きもここに埋もる人かな
(葛尾村)
上りゆく葛尾までや落合に昔の墓や春の日暮れぬ
葛尾(かつろう)に古き農家や春田のありて営みのあり
栄えあれ葛尾大臣山深く近江八景に妻は偲びぬ
(三春)
山路きて三春につきぬ長々と枝垂桜や家そ古りしも
三春なる城跡に立ち相馬との縁(えにし)の深く春の日暮れぬ
めご姫の伊達に嫁ぎて伏見へと三春思ふや春の日あわれ



今になると何かこの辺はいろいろとありえないことが現実になりなんと言っていいかわからない。
浪江の高瀬川はちょうど水墨画のような岩がそそりたち名勝の地だった。
その高瀬川の平地に流れ出る所に大堀の相馬焼きの里があった。
あそこも場所が良かった。高瀬川が流か急だしダムもないから自然のままであり水墨画のように見えた。
請戸にしても江戸時代は盛岡の宮古から鉄の素材を運んで葛尾大臣がいて栄えた。
そこには近江八景の庭を江州から滋賀県から妻を娶ってすまわせたからである。
あれだけの山の中だと退屈したということもあったろう。
葛尾村から三春のほうが近く昔はバスも小出屋を通って通っていたのである。
つまりあの辺になると三春のほうが近いから葛尾大臣が三春の殿様を招待したというのも津島に行く塩浸しという小さな川があるところに店がありあそこで休んでパンなどを買った。塩浸しとは塩を運んでいた馬が塩を落として塩浸しとなったという伝えがある。
あの辺も何回も行った記憶がある。

下冷田越えて津島や春の日に二本松へバスにのるかな

 「冷田」の場所は、谷津の開口部に当り、台地を流下してきた水が出てくる位置でもあります。谷水が溜るような土地であったかもしれません

 品種に関連しますが、ヒエダは「稗田」とも呼ばれます。稗は、米に比べれば雑穀とされますが、環境条件の悪い場所でも収穫できます。暖まりにくい水田は冷めたい田であり、水稲の成育には適していない

 http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/dokusyo/timei/hieda.htm
 
 同じ地名が全国にある。やはり冷えるというのは水が冷える温まらないということかあった。あそこは何かそんな山奥の坂でありそういう場所だったからふさわしい感じがした何か地名は心に残り安いのである。何か日当たりが悪い暗い感じの場所にも思えたからだ
葛尾村も落合に明暦の碑があったように古いのである。
相馬藩の山中郷である。小出屋は自分の父親が出た所である。
双葉の新山に酒屋の丁稚になった。そのことも何か謎が深い、戸籍を見れば祖父に当たる人は柏原であった。そこは津島から近い。
三春は相馬藩とは歴史的に相当に縁が深い、争いがあっても殿の姫が嫁いだりして縁戚関係にあった。三春のめご姫は伊達政宗に嫁いだことで有名である。
戦国時代でも江戸時代でも常に政略結婚でそうなっていた。
めご姫はただ大阪の秀吉の伏見城のあった伊達家にあり人質としてそこで一生を終えた。それで不思議だったのは飯館からなぜか京都に移り住んだ若い夫婦をテレビで紹介していた。あんな遠くに行ったのかと不思議だった。
今は結婚は全国が相手だから不思議ではなくなっている。
だから避難した人は全国に広がったのである。

それにしても今になると平和だった日を偲んでいる人がいるだろう。
請戸には一回しか行っていない、春の日であり穏やかに日がさして船が並んでいた。
それは何でもない風景でありとりたてて珍しいものではない、でも津波で壊滅した結果その風景は失われて何も残っていないから不思議である。
一転してあまりにも荒涼とした風景になってしまった。
南相馬市立病院に入院していたときあったのが請戸の人であり農家で手広く畑を作りそれを今のイワキの平に売って財をきずいた。その人は優秀な農家で表彰もされているし若手を指導していたのである。でも重病になり妻が浪江から毎日通っていた。
そして手をにぎるとわずかに反応するのだが何かわかっているのかわからないのかただ手をにぎられ何かを感じていたのかもしれない。
反応といえばそれだけだったのである。だから悲惨だった。
その人は娘三人を大学に出しているからそれだけ優秀だったとなる。
それは畑作をして商品として野菜を平に出していたからなのだ。
請戸というと港のように思うが広い土地が広がっていたのである。
だからそれだけのもうけを出す野菜を作ることができたのである。

大堀でも相馬焼きを作っていたが消失した。野馬追いで店を出していた人は白河で二軒ばかりが窯をもって定着するという。もうあそこて相馬焼きが継がれることはないのだ。
浪江はやはり避難して復興することはむずかしい。
小高でさえ聞いてみると年寄りはめんどうだから帰らないというし若い人ももちろん帰る人は少ないのである。
一億円もらって他で新しく始めたほうがいいとなるのが現代的になるからだ。
人間は今は苦しいことをあえて選ばない、楽な方が用意されていればそこに行くようになる。
飯館村では除染した一軒の家に一億円かかっているという。なぜそんなにかかるのかというと後ろの山林などを木を切って除染したからそうなる。
なぜこんな金をかけて除染しているのかもわからない。
まず小高浪江でももう今は街があのようになると復興はずかしくなる。
小高などは放射線量はこの辺と変わりない所が多いのに帰らないのだから余計にそうなる


春の短歌十首(津島から葛尾、三春、飯館へ)
http://musubu.sblo.jp/article/28874706.html






タグ:春の短歌

2014年11月08日

NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真 (ここを通った桜が咲いている写真があった)


NHKの放送の原発近くの熊川の津波の被害の写真


(ここを通った桜が咲いている写真があった)




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桜の木は枯れた
でも木が結構残っているのは不思議である。
この辺はほとんど海に接している地域だからである。

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熊川を下り開ける桜咲き沖に船見ゆ鴎も飛びぬ



NHKで時系列で20113月の津波と原発事故以後の被災地の状態を放送していた。
原町の萱浜(かいはま)で家族四人もなくした人が出ていたがこれも悲惨だったとなと思う一挙にそれだけ亡くすとなるとその衝撃は大きすぎる。
それでも息子と新しい家をすでに建てていた。
ともかくこういう悲惨な悲劇から立ち直るのは容易ではない
忘れろと言ってもなかなか忘れられないだろう。
ただ近くでも被害にあわない人は家族四人なくなったからといって痛みにならないのである。
ただ自分が苦しめられたことは延々と忘れられないのである。
つくづく自分のみに災いがふりかからないかぎり無関心な利己的なものだと思う
現実自分が苦しい目にあっているとき誰も同情しない
かえってチャンスだと様々なことを苦しめられてきたのである。
だからそのことが自分にとっては忘れられないのである。

六号線から海の方に出やすかったので熊川の方に出た。
あそこがあんなに事故のあった原発に近いと思わなかった。
なかなか原発は意識しにくいこともあった。
あそこからは原発は見えていない
でもなんか川下ると海が見えて沖に船が行くのが見えた。
桜が咲いてのどかな風景だと思った。
あそこにもそれなりに家はあった。
誰かが耕して休み船を見るとかいう俳句を作っていたがあの辺だったのだろう。
畑があり海があればそうである。そういう平和な風景が根こそぎ失われた。

六号線は全線開通している。
だから通販の品物が早く来るようになったのか
六号線を東京から直通だと早くなる。中通り通ると一日は確実に遅れていたのである。
あそこの熊川の隣は小良が浜(おらがはま)だった。
おらの浜だとして岩城氏と相馬藩が争った地域であり境界だったのである。
六号線を行ってみたいが自転車では行けない、車だと行けるようになった。
でも六号線だけでありあそこには行けない
あの辺は相当な放射線量だろう。
いづれにしろあそこなども誰も住まなくなるだろう。
原野化したがそのままであり津波の跡の海岸線はどこも同じである。
タグ:熊川
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冬柳(近辺の俳句十句)


冬柳(近辺の俳句十句)

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天明の碑のあり社落葉かな
荒れ果てし社の墓地や落葉かな
俳翁と戒名にあり落葉かな
鬼風の墓や句を読む冬の夜
路地の奥知られざる家冬柳
なお生きる99歳知るや冬柳
70年嫁ぎて長き冬柳
ここに生き長きものかも冬柳
空家に蕾二つの冬薔薇
秋薔薇三輪ここに照らす月

白き薔薇散りし誰か見るべしや空家の一つ長く住まじも

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近くの神社に鬼風という俳人がいた。江戸時代に全国を旅した裕福な商人だったからできた。
その記録も残っているが俳句自体はいいものがほとんどない。たいしたものでなくてもその頃俳句を作れるのは裕福な商人である。字を書けたりてぼときされないと俳句でも作れない、今なら誰でも作っている。江戸時代はそうはいかなっかたのである。
細い路地裏の道の家に冬柳があった。あれも隠されるようにあったからわからなかった。柳は何か幽霊みたいで冬柳となるとさらにそうである。
自分の母親でも百まで生きるとなると長いとなる。
嫁いでからもすでに70年近くもなる。


人間はともかくそれぞれの人生でも短いのだがまた長い。
近くの知り合いの同級の人の障害者が死んだ。
あの人もずっと世話し続けていたのである。母親がしていたが母親も今や寝ている。
心筋梗塞で69歳で死んだ。障害者をもった人も長生きするから延々と重荷を背負うことになる。
精神病院に入れられたまま60歳になっていたという人がいた。
それも長いし一生が精神病院が生活の場だったというのも驚く。
つまり岩窟王のような生活をしていた人が結構いるのである。刑務所に何十年とかなればそうなる。

 
一つの空家があり人が住んでいない、その期間が長いのである。
十年以上はたっているのに空家のままなのである。
その理由はわからないが空家になっているのが長いのが結構全国的に多いだろう。
800万軒の空家があるというから空家の時代でもあるのだ。
この辺では家が欲しい人が多いのだから売ればいいと思うのだか何かの事情で売らないのである。
薔薇は秋にも咲いていたがそれは白い薔薇であった。それが散って蕾が二つ見えた。
ともかく近辺も冬になっている。
この辺の昔の生活のことは別に書いた。「鬼風」の句のことなども別のページとして書くことにした。


タグ:冬柳