2014年10月29日

江戸時代の回帰、国風文化の時代へ (円山応挙の松と鶴ー写生俳句の基はここから始まっていた)


江戸時代の回帰、国風文化の時代へ

(円山応挙の松と鶴ー写生俳句の基はここから始まっていた)

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松と鶴の絵

大地に深く根付く
古き松によりにつつ
鷺の優雅に歩み来ぬ
その姿の神のごとしや
悠長なる時の中に
松は大地に深く根ずき
一所動かざるかも
そが姿は映えて生きぬ
その絵を見れば遠き日の
のどかなる平穏の世の
心に写りてなごみけるかな


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幽遠に遠つ世の絵や藤の花
細々と枝しなやかに藤の花
絵の古りて魂宿る藤の花
納められ金泥古りぬ藤の花

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こき藤の花もど円山応挙の独特なものとして描かれた。これはすでに二百年以上すぎても残っていたそれが幽遠の趣をさらにました。絵には今や画家の魂が宿っているという感じになる。そこに絵の不思議がある。
芸術の価値はその時代でしか作れないものがあるからである。
江戸時代という雰囲気でしか作れないものがあり今になるといくら技法が発達しても作れないことに価値がある。
藤の花でもこういうふうには今の人は描けないのである。


円山応挙の時代は平和な時代だった。鶴もいたし自然と調和した生活だったからこのような絵も生れたのである。鶴はいたるところにいたのだ。鶴の歩みは優雅である。鷺もそうであるが鶴はやはり鳥では白鳥とならんで最高の吉兆の鳥なのである。
それは日本の松と調和していたのだ。円山応挙の松は南相馬市の原町区の泉の一葉松をイメージさせる。やはり江戸時代も国風文化が充実した時であり現代も欧米文化から国風文化へシフトする時代になっているのだ。
正月という言葉にしても正道とか正のつくのはもともと仏教に由来していた。
正月というのもそういう言葉の由来がある。身を正す月なのである

円山応挙の松と鶴の絵(賀春にふさわしい絵)
http://musubu2.sblo.jp/article/84122909.html

 人によっては成功ののち苦難時代をことさらに表現したり、苦境時の欠乏感を補うかのように豪華絢爛な趣味にはしる例があるが、応挙にはそういうところがまったくなく、ひがみや屈折した感情がまるでないかのようである

 、「写生の祖」といわれる応挙は多くの写生を残している。写生は応挙にとっては本作品のための取材であり、覚え書きである

 呉春の名に蕪村高弟と付けていることから、応挙が蕪村を尊敬していたことや、呉春が他の門人と違って、あくまで蕪村の弟子であり応挙門下では客人的な扱いの門人であったことを物語っている。大乗寺には呉春の描いた部屋が二間ある。最初に描いた襖絵は蕪村ふうの文人画であり、
 http://museum.daijyoji.or.jp/06story/06_01.html
 
円山応挙は蕪村とも関係していたことは興味深い、蕪村も画家であり写生を基にしていたそれで正岡子規が手本にしたのは芭蕉ではなく蕪村であり写生俳句の祖となった。
芭蕉は耳の詩人と言われるように内面的なものを俳句にしたから蕪村とは違っていた。
芭蕉の句は内面的な深さがあるからなかなかまねできない、蕪村の俳句は写生俳句だとするとまねしやすいとなる。
絵画史からふりかえるとすでに江戸時代後期からその基となるものが生まれていた。
だからそれを参考にして西洋的絵画の写生か生まれ写生俳句が生まれた。
日本の江戸時代は何か否定的な面だけがとりあげられる。それも確かなのだが国風文化として興隆していたという面とその時代独自の社会と自然があってその感覚は今になれば別世界のようになっているのだ。同じ日本なのだけどそうである。おそらく人間すらそうなっているかもしれない。江戸時代の人間と今の人間は別人だとさえ思えるようになっている。ただ歴史になるといろいな見方があるからそうなる。
写真と絵の相違はやはり絵には画家の心が反映されているから違っている。
たからそこから俳句とか詩にもなりやすいのである。
写真からなぜ俳句でも詩でも作りにくいかというとそこには作者の心が個性が反映しにくいからである。
そうはいっても秋薔薇と芒が写っていたきは明らかに写生でありここから写生俳句が生まれた。
でもその秋薔薇がどういう環境で咲いていたかとなると写真からだけではわかたにくい、都会か田舎すらわからない、一万の田舎になる。どうしてもそういう背景が写真からは読め込めないのである。全体の一部をきりとったものであるからそうなる。

美濃国は、奈良時代から製紙が盛んで、良質の紙を生産していた。古くは702年(大宝2年)の正倉院文書に美濃の紙が記録されている
平安時代には、朝廷から製紙用の役人が派遣されて、宣命紙等の色紙や公用紙を生産した
養女奴隷とは、製紙のために少女を幼少時に養子にして、製紙作業をさせる制度である。戦前の製紙は朝の4時から夜の10時まで作業する厳しいものであり、しかも製紙業は家族だけの零細経営が多く、働き手が足りないためにこの制度が生まれたのである


世界遺産に美濃の和紙が登録されたという。これが702年に正倉院文書に使われていたのだから古いしそれが残っているのも驚きである。
その反面この和紙を作るために女工哀史とにたことがあったというのもマイナス面である和紙は実際は日本全国どこでも作られていたのである。
それは普通の産業でありめずらしいものではなかった。
日本の和紙がいいのは水がきれいな所で作られていたからでもある。
日本という風土とマッチして作られていた。
その和紙は冬に主に作られるから水が冷たいから苦労したのである。
ただこういう歴史を知ると紙一枚にも何かそうした苦労がしみこんでいて見方が違ってくる。当時は紙は相当な貴重品でありあらゆるものが手作りだから貴重だったのである。
今なら大量生産だから膨大な紙が捨てられている。
日本の和紙が支倉常長がヨーロッパで鼻紙として捨てたら拾ったものがいた。
ヨーロッパでは紙はあまり作られていないので貴重だからそうなった。
和紙というのは何か手触りもいいしやはり日本の文化なのである。
いづれにしろ和紙は日本の文化なのである。

前にも自分は国風文化の時代になるとホームページで書いてきた。
西欧文化アメリカ文化は奈良時代の唐風文化でありその後にかななどの国風文化時代、平安時代になった時代とにているのである。
高度成長時代までは唐風文化であったがこれから国風文化の時代である。
だから江戸時代とかのものが見直される。
郷土史研究なども盛んになる。インターネットでそうした知識も普及しているからである日本では経済的に工業的には明治維新から高度成長時代と取り入れたが文化的には融合されていないのである。

江戸時代は 身分や地域や職業などで
全く違う文化世界に暮らしていた
例えば音楽にしても
公家は雅楽、武士は能楽、農民は民謡、町人は端唄小唄

こういうのもやはりそれぞれの立場があり独自な文化が日本社会の中で形成される。
結局大衆社会は平等でも文化は生まないし育まないのである。
みんな同じであり同じものを食べて着て同じ娯楽しかしないからである。
だから平等がなんでもいいわけではないのである。
江戸時代は武士は武士の文化が育ちモラルも育てたから武士道が生まれた。
社会に変化がないから文化も受け継がれてきたのである。
農民の民謡が多いのも農民にも文化はあったのである。
社会はみんな一様化して今のように大衆化するとつまらないのである。
地域性とか社会の多様性とか異文化でも入ってきて文化が作られる。
明治維新後がそうした日本の文化が失われた時代だったのである。

日本の文化的な面はかえって見逃され排除されてきたのが現代である。
明治維新から150年もたつと成熟して国風文化の時代に移るのである。
政治的にも保守化するというのもそれに呼応しているのである。
西欧やアメリカのまねだけではないものを作り出すことに迫られているのである。
ただ写生俳句にしてもすでにその基となるものは蕪村や円山応挙の絵にあったということがあり日本の歴史や文化の厚みがあって生まれたものとだとわかったのである。
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