2014年10月27日

文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名 (深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)


文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名


(深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)

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(小高)

御なはニ御百姓くみの
つのほう(角部)
・・・・・・
(原町)
かや浜
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
つち内
下沢
(双葉)
新山
けちう
立野ニなこ地備後守
こうかや
さいの内
宮田
こまはの
大森
むないり
せきはの
こいし
清水の
いしはし
いりの
中島
たたき田
(原町)
大原
谷河原
鳩原
はの倉
やいこめさい
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉
しふさ
鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
かなわ
大井
こやき
かん崎
(浪江)
たかの
なんとう内
やかはら
(小高)
川ふさ
おなはの
村上
かやしき
えひさわ
(鹿島)
とちくほ
山下
やす倉
小池
(浪江)
おみの
大加り
かうの草
末の森
たかつか
さかいの
かりやとの
宮田
いての
小野田
高瀬
岩井沢
こわなし
ふるみち
根本の
はんかい
夫沢
(小高)
おなは
もと城のうち
北目
なてかつか
山田
おおかい
ゆノ木
中山
椎葉
つさ原



郷土史は何を手がかりとするかというと野馬追いから探る人もいるしいろいろな方面からアプローチできる。自分の場合は地名だった。
何か深野がふこうのとなっているのがなぜだろうと必ず疑問になる。
深野をどうしてもふこうのとは読めないからである。
こういうときインターネットで大阪に深野という地名がありそれをふこのと呼んでいる。

大阪府大東市深野(ふこの)

深日(ふけ)に続いて「深」という字をどう読ませるかが難点です。
  「ふかの」でも「ふけの」でもありません。「ふこの」が正解。って読めませんよ、やっぱり。
 元々このあたりは水郷地帯だったようで、「深野」は「ふこうの」と読んだのが約まったのではないかと


ふこのはふこうのになる。深野をここではふこのと呼んでいる
これはここが深野をふこのと呼びふこうのとなったと推測しても不思議ではない。
ではなぜそうなのか?フケルから深野になったことは確かである。
ただおそらく大阪ではフケル→フケをフコと言っていたのかもしれない、一種の方言だったかもしれない、ではなぜふこのがふこうのとなりここに残っているのか
これは伝播地名なのかもしれない。
移住してきた人がその方言をもちこんできてここで名付けた。
ふこのがいつしかふこうのと呼ぶようになった。そいうことは地名によく我ことだからである。


もともと相馬氏一族でも元は千葉氏であり千葉氏は西の方から関東に移ってきたものである。
だから和泉守という大阪に由来するものもいるし全国の・・・・守がいる。小浜備後守、木幡駿河守、木幡出雲守、大友美濃守、俵口肥後守、赤沢伊豆守、渡辺豊後守、・・・・などがいた。
深野に深野の姓を名乗るとき深野という地名がもともとあってその土地を地名を姓にした。
もともとは別な姓だった。
日立木の立谷はもともと熊野信仰をたずさえて移住してきた和歌山県であり鈴木といか姓だったかその土地の名をとって立谷として土着したのである。
ただこの総士録古支配帳には深野というふこうのという地名はでていない。
大原はでているから大原の方が深野より古いのかとなる。
ただここに記された地名は一番古いことは確かである。

なぜならおなは御なはであり小名浜(おなはま)とあるがもともと御なはでありマはあとからつけられた。
だから沖縄の那覇(なは)が古い地名の元なのである。

「“那覇(なは)”の語源は、漁場を表す“なふぁ”からきている」


沖縄とは沖の漁場ともなる。小那覇(おなは)という地名もある。
沖縄はやはり古い日本を残しているから地名でも共通性がある。
小名浜がまぎらしいのは小名浜がおなはーまであり浜ではないのである。
当て字の感じでまぎらわしくなったのである。
小高には湊があり舟もたくさん入っていたし舟持ちも多数いた。
それはこの記録に記されている。漁場でもあった。
小高はその頃は入り江であり湊と漁場にふさわしい場所だった。
今回の津波でわかったように駅を越えて津波がきていたのである。
だから小高の城が浮舟城と呼んだのは何かそういうことと関係しているかもしれない。

ともかくここにでている地名は相馬藩の基になっているから重要である。
ただここに記されていない地名はどうなっていたのかわからない。
なぜ記されなかったのかそのあとに名付けられたのかわかりにくい。
なぜなら古代の和名抄にのっている地名は一番古いからである。
真野という万葉集に出ていた地名かそうである。
それがこの記録にはでていないし他にもかなりでていないのがある。
不思議なのは大原という地名は一番でている。
原町で最初に開かれた地が大原だったのかとなる。

総士録古支配帳となるとやはり相馬氏一族の武士が郷士として最初に土着した所の地名が記されているのかもしれない、そこにはすでに大熊や双葉や浪江もあった。
その辺のも相馬氏の支配下に入った時記されたものだろう。
だからこの地名と今の地名をあわせると当時の様子がわかるかもしれない。
かや浜などは文禄時代でもすでに村落があったのである。
それは高台であった。かや浜の湊は後に人が住んでのであり慶長津波の前には人が住んでいてかったかもしれない、でもかや浜の高台には人はが住んでいたのである。






posted by 老鶯 at 15:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)