2014年10月25日

海と陸の抽象画



海と陸の抽象画

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海から生まれた陸


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海と陸の紋章


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海のドーム

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二つの太陽系




抽象画でも2,000円のペイントグラフィックでも使いこなせていない
これ使っていなかったなということが未だにある。
まるで脳機能と同じである。
脳の機能でも2割しか使われていないというのはそのことなのである。
つまり脳にはまだ無限のかのうせいか秘められているのだ。
ただそれぞれが使われいないだけである。
例えばブルーカラーになると肉体的に酷使されて脳が使われないことがある。
もちろんそれでも何かを体で学ぶのだが脳は使われていない
脳というのは使い方によって活かされるのである。これは才能の問題ではない。
開発力が能力になるのだ。そういう時間をもてない人は開発されないだけかもしれないのだ。


自分は文学でも何でも何ら才能があったとは思えないのだ。
体力も非力だし人間的にもあらゆる点で劣っていた。
だけど自由な時間が与えられたということがそれなりの才能が開発されたとなる。
何かにどれだけ時間を費やすかで人生が決まるというとき生まれつきの才能より
あることにどれだけ時間をかけるかが問題になっているのだ。


旅にこれだけ時間をかければやはり何か教科書だけで本だけでは学べないもの実地で学んだ。実地の訓練が時間をかけることが何物かにしているのである。
あらゆることに時間をかけられる人はいないからである。
一つのことに時間をかければ他のものには時間をかけられないからである。


とにかくパソコンは人間の頭脳ににている。一つの脳の代理機能のようになっている。
だからソフトがその脳の機能を拡大しているのである。
パソコンの抽象画はまさにパソコンのソフトによって拡大化された引き出された開発されたものから生まれたのである。そんなもの芸術ではないともなるがやはり何らかの創造なのである。
タグ:海と陸

秋深む(故郷の墓地を尋ねるー郷土史研究には墓地を尋ねるべし)



秋深む

(ふるさとの墓地を尋ねるー郷土史研究には墓地を尋ねるべし)

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小池の墓地


古き碑に木の葉の散るや身近にも

墓のみそ残りて誰や虫の声

故郷の墓地を訪ねて秋深む

故郷に残れる墓地や秋薊

故郷に名もなき墓や草の花


 小池の墓地奥の墓地は不思議である。二十数基あり 半分は戒名もあり主に個人墓である。
墓は最初は個人墓であり次に明治になり夫婦墓になり家族墓になった。
ただあそこの十数基は戒名が記されているし墓も立派である。あとの半分くらいは石塊であり名前も記されていない。おそちく使用人とかなのだろうか。ただ卒塔婆に名前だけ記されたものがある。
それはやはり墓を作れない人だった。小池とかじさ原にはそういう名を記されていない墓地がある。
立派な墓ではない、だからあそこの墓が戒名があり立派な墓なことが不思議なのである。
辺りを見ても家もまれであるから江戸時代になるともっと何もない原野だったろう。
そこになぜあれだけの墓があり江戸時代後記から明治までつづいていた。
その後はあの墓地は使用されなくなった。

小池村の中心はあんな奥ではない、戦後も引揚者が開墾に入った人を知っている。
その人は自分の父親が勤めていた新山の酒屋で働いていた人だった。
それはタマゴ屋の漬け物倉庫のある所だからあんな所でも開墾する場所があったのかと思う。
それだけ開墾の歴史は長いし農業が仕事となっていた時代が長かったということである。
いづれにしろ墓は江戸時代になれば文化財となるから捨てるのはまずい。
最近墓を守るものがなく大量に捨てられている。その墓には元禄というのもあった。
西の方だからめずらしくないのかもしれない。この辺では元禄と記された墓は滅多にない。
墓は家がなくなっても残るものだから歴史の証になりやすいのである。
郷土史でも謎になっているのが多いのである。
墓は書類と違って無味乾燥なものではない、そこに確かに生きた人が埋まっている。
そこの土地と一体化してあるから身近に感じる。
その土地に根を張るようにあるのが墓なのである。
だから他のものと違い簡単に捨てられない、今でも地元の人が花をささげているということは
やはり供養する人がいるということで捨てられた墓とも違うのもしれない、ただあそこは継続して墓地としなっていないことが問題なのである。
やはり継続してないとやがては何でも捨てられるから歴史には継続が大事だとなる。

今年はなんか日ざしが暑い、温暖化なのだろう。それで秋が深まっているのだけどそういう感じがしない
四季がなくなると俳句には困る。四季があって季語あって成り立つからである。

      


                                                                      
タグ:墓地

分断された南相馬市の溝は深い (市議選でなぜ小高の人が鹿島の議員を応援するのか?)


補償金で分断された南相馬市の溝は深い


(市議選でなぜ小高の人が鹿島の議員を応援するのか?)


鹿島にいる仮設の小高の人が鹿島区の議員の応援している。世話になっているからだという。南相馬市だから小高の人が一票をもっているから鹿島でも小高でも応援してもらうようになる。その人も老人だから小高に帰らないという。
小高に積極的に帰り復興しようとする気持の人は少ない。
老人になると何かめんどうなことがいやになるからである。
それで金ある人はすでに原町や鹿島に家を建てている。
ただそれだけの資金がない人はどうするのだろうか?
その人は資金のある人ではない、だからかえって補償金で得した方だろう。
補償金もらって得した人たちもかなりいるのである。
働いていたときもそれほど金をもらっていた人ではないからである。

南相馬市は補償金問題でもめて分断されて合併したのはいいけど前の小高、原町、鹿島に分裂したのである。利害関係で分裂した。小高は一番補償金もらっていると反発が多いし原町もそれなりもらっているし原町中心になっているからそこに予算を使うからそれほど問題になっていない、でも鹿島区は割りを食ったのである。
そもそもこうして分断されたのは東電や政府の策略ではなかったかということが言われるそんなに放射線量で区別すること自体おかしいのである。なぜならみんな土地はつながっているし大気だって森だってそうである。
細かく地域的に放射線量で分けること自体が理に適っていなかったのである。
飯館村が原町とか相馬市とか鹿島とか相馬市と関係ないとはならない。
核の廃棄物処理場になったらやはり影響する。
何らかでもれると土にしみこみ水となって流れるからである。
今でも真野ダムの水を鹿島区と相馬市で飲んでいるのだからその影響もある。
だから放射線量だけにこだわって区分けしたのは政府と東電の策略という一面があった。なぜなら南相馬市では互いにいがみあうようになったし他でもそうである。
それは政府と東電にとって都合がいいいものだったのである。
政府や東電へ一致して抗議するより互いに小地域でいがみあってもらうほうがいいとなるそういう策略にうまくのせられたともなる。
そもそも小高は放射線量が低いのだから避難区域にするべきではなかったのである。

だから鹿島区の議員がなぜ小高の人を応援しているのか?それも疑問だけど南相馬市であり選挙権をもっているからそうなる。南相馬市となれば小高の人にも尽くさねばならないではなぜ鹿島区の人が不公平な処置がされているのにそのことはどう考えているのかともなる。小高の人は今では優遇された人たちとされている。
その溝は深くしこりとなっているから南相馬市は一体感はなくなっているのである。
そのことは政府や東電によっては都合いいものとなっている。
南相馬市はそうしたことに対策しなかった。政府と東電のいいなりになったというかそうせざるをえなかったのか?議員は何をしたかとなると何もしていないとなる。
どこでも議員は何もしていないと言われるようになった。
ただその女性が応援しているのは鹿島で何か世話になったというから応援している。
何を世話したのかはわからない。鹿島では小高の人を良く思っていないからである。

小高の人が小高に帰らないという人が多いというとき小高はどうなるのか?
ある人は補償金もらってそのままもらえるような感覚になっている人もいるだろう。
あとは生活保護だという人もいる。それもまた困ったものなのである。
小高は南相馬市で負担になっているのだ。
それはいわきに避難した人たちとにている。ただイワキのようにならないのは南相馬市民であるから違っている。だから選挙権あるから鹿島の議員が小高の人を世話するとういことがある。いわきではいわき市民ではないからそうはならないのは違っている。
でもいったん生じた溝はしこりは消えない、感情的にも消えない、互いに反目するようでは市政だってスムーズには進まないだろう。
相馬市などはそんなことはないだろう。南相馬市は一体感をもちえないのである。
相馬市は相馬市は避難民を受け入れているから反発がある。
避難民はそういうことを考慮しなければならないのだかそれがあまりないのである。
ただこの辺では表立っては言わないしイワキのようになっていない
ただ相当に内に不満が鬱屈しているのである。
そういうことは口に出なくても必ず影響してくるから怖いのである。

避難民でもいろいろな人がいる。例えばその土地に役立つような人は尽くすことができる人は批判されないだろう。ただ金があるからと消費しして金を使うのだからいいとはなっていない。そういう側面はあっても毎日パチンコだとかなると地元の人たちが働いているのに避難民は遊んで暮らしているのだろうとなる。もし大工とかだったらそこで働けば人手不足だから助かるとかなる。介護関係などでもそうである。
金があるだけでは威張っていならないのである。
だから避難民はどこでも反発されていて良く思われていないのである。
小高の大工さんは働いているということであまり批判はされないだろう。
でも多数は働かないで遊んでいるとなると批判されるだろう。
それで介護関係でも避難民は働くようにした方がいいと助言して具体化しようとするのもわかるのである。
別に老人になれば働かないのだから年金暮らしとかなるのだからそんなに責めない
でも避難民は年金暮らしでもない多額の補償金をもらっているから責められるのである。なぜ避難民ばかりあんなに補償金をもらえるのだと反発される。
避難民にも言い分があることがわかっていても現実問題として今の世の中必ず遺産問題でもそうだが金でもめて金が原因で必ず揉め事が起きてくるのである。




posted by 老鶯 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連