2014年10月23日

小渕優子の失敗 (二代目は苦労がないから失敗する)


小渕優子の失敗


(二代目は苦労がないから失敗する)


 
 カリスマ経営を引き継ぐ二代目の不幸 
そんな組織を突然に引き継ぐことになった二代目は不幸です。
「創業という地獄」を経験したことがない。今日食べる飯の心配をしたこともない。
社員のボーナスを出せずに社員に頭を下げた経験もない…。
生まれたときには、既にぜいたくなお金持ちの暮らしを与えられ、
周囲からボンボンと呼ばれてしまう二代目が、カリスマ経営の組織を引き継ぐのは
難しいと言わざるを得ません。
先代社長の大番頭、小番頭がにらみを利かせる組織を操らなければならないからです。
「ボンが小学生の時には、まだおねしょをしてましたなぁ」
などとからかわれながら番頭たちを束ねていくのは大変な苦労です。
http://dir01.keiei.ne.jp/dir/faith/column/10033467.html

小渕優子の失敗は二代目だったことだろう。それも父親が死んで実力も備わらないのに跡継ぎに簡単になってしまったことである。政治経験などあの若さではなかったけど簡単に当選した。それが今日の失敗の基になっているのだ。
要するに簡単に成功することは失敗の基になる。
創業者は簡単に成功しない、血のにじみでる努力もしているし賭もしている、難局をのりこえてきた。
まず人を使うことほどむずしいことはないのだ。この女性大臣は全くのお姫様だったのである。何にも知らないというかとても人を使いこなせるような人ではなかった。
だからなぜ悪いのかという認識すらないかもしれない、政治資金のことがわからないのである。公金という意識ももてないのである。
つくづく金の扱いほどむずかしいものはない、自分もちょっと遺産が入っただけで犯罪にあうは借金を入院しているときまで要求されたり金の怖さを知った。
金ないにしろあるにしろ人間を狂わせるものなのである。
政治が利権だというときまさにその利権に群がる人が寄ってくる。
あまりにも誘惑が多い職業であり利権とか金とかにふりまわされる職業なのである。

そして二代目は創業者の苦労などわからない、だから人だって使いこなせない、秘書が名にしていたかもわからない、チェックすることもできない。
つまり本当に小渕優子はただ親が死んだことで何にも苦労せずなったのであり何も政治のことを知らないでなったのである。
だから自分の贅沢のために私用のために公金を使っていたのである。
そこになにか違反しているという感覚もなかったのだろう。
そういうことを番頭である秘書が教えるべきだったがその秘書がネコババしたんだろうかとも言われる。

小渕優子は「国民の選良」としての責任感がすこぶる希薄で、取り巻きがフォローしないとカネの管理も、事務所の運営も、地元からの陳情の処理も自分では何一つできない。神輿に乗っているだけの「田舎のお姫様」だったのだ。それをよいことに、小渕の周辺では、父の代からの「政治ズレ」した擦れっ枯らしの秘書どもが幅を利かせている
http://dmm-news.com/article/894243/


こういうことなんだろうな、本人はわからなかった。ただ操り人形にすぎなかったとなる
二代目というとき自分も家の二代目だった。創業者はやはり苦労していた。
店をはじめる資金をかりるとき罵倒されて苦労したからである。店でも昔の店はこまかい、ばら売りであり新聞紙の袋に入れて売っていた。
そういうことを見ているからどうして財産が作られたかわかる。株とかギャンブルとは違っている。
ともかく自分はただ何も努力しないで引き継いだだけなのである。
だから自分が最後は財産をひきついだとき狙われた。
他人がこれほど信用できないものなのか思い知らされた。
二代目は能力がないのに引き継ぐから失敗が多いし創業者の功績もなきものにしてしまう恐れが多い。


戦国時代でも二代目は失敗して従う家臣も武田家のように没落する。
それは個々の小さな家でも起きているのだ。
自分が二代目になったのは遅すぎたのである。今は遺産を相続するのが高齢化で60代になっているからそうなる。
これは個々の家だけではない、社会全体でも国レベルでも跡継ぐのだ遅くなる。
重要な役職でも若いときでも経験を積んでいれば継承しやすいのである。
ただ小渕優子の場合は早すぎたの失敗でありもっと政治家としての下積みがあればあのようにはならなかった。
金の重みにしても借金した人は一番知っているというとき借金もしないで金がいつも豊富になるとなると金の重みわからないのである。
自分は金の重みは知っている、自由に百万の金を使っていない、ただ衣食住に困らないというだけたった。旅もいかに安くするとか何か自由に金を使ったことがなかったのであるだから何か大金が入っても使えないしせこいのである。
今ふりかえるとこういうせこいのも人間的には人間を小さくする。
もう最低限の生活している人を知ったがその人はやはりせこすぎて失敗したのである。
千円とかごまかそうとするのもそうした最低限の生活が習慣化していたからである。
自分もそういうことで失敗している。


阿部首相も二代目であり何ら自ら努力したりなし遂げた人でもない、ただ政治家の家に生まれたから政治家になったにすぎないのである。田中首相のような人とはまるで違ってるそして自民党は今は世襲であり二代目が多いのである。
日本全体が高度成長を終わったとき二代目が会社を継ぐ人が多くなる。
新しく創業する場がなくなっている。それがまた活力のなさを生んでいる。
日本は少子高齢化で新陳代謝が行われない社会になり活力が失われたのである。
若い人抜擢してもそれが二世だったから失敗したともなる。
社会は常に新陳代謝が必要でありそれがないと活力ある社会にはならない。
革命はそのために必要なのである。
それはあらゆる分野でそうでありまず師のコピーになるようでは終わりである。
結局人間は時代によっても前のこととはまるで違ったものを経験するのである。
まず津波など経験しようがないからそれで自然や社会やあらゆる見方まで変わってしまったのである。こんな変化がこの世でありえるということが実感したから世の中の見方も変わりそれにどう対応していいのかもわからなくなっているのである。


ともかく二代目は自分もそうだが変なことやる人が多い。王子製紙の二代目がギャンブルで百億円使ったとか金があってもその使い方もわからない。だからその金の重みもわからないから浪費をしてしまう。二代目はどうしてそれだけの財産を築けたか苦労していていからわからないからそうなる。タイでit会社の社長の息子が跡を継がせるために多数の子作りしていたとか常識では考えれないことをしている。それもやはり二代目はおかしな方向に脱線しやすいのである。
だからともかく創業者がどういう苦労したかふりかえるべきである。
どうしてそれだけの財産が築けたのか?ギャンブルで築いたわけではない。
そこにはやはり創業者や社員の努力があって築かれた。それをギャンブルで使い果たすことはその努力を無為にすることなのである。


農家でも二代目はやはり開墾した創業者がいるときそうである。こうして北海道辺りでも苦労して開墾したのだと聞けばそういう苦労を知らないと知っているのでは違ってくる。それはまた歴史を知るということでもある。どういう経過で今日があるのかを知ることが歴史だからである。そういうことがわからなくなるとまた失敗するのである。
だから奇妙だけど家の掃除すると家に愛着をもつ,自分が掃除して家がきれいになり維持しているんだという感覚を持つようになる。
でも金持ちの家では家政婦に何でもやらせていたらそうはならないのである。
何か掃除することによってもその家でも愛着をもつから会社の建物でも掃除することは愛着を持つことになる。だから掃除に意義を見いだしているのもわかる。
要するに人間はただ何でも与えられるだけだと価値がわからないのである。


戦争の悲惨さも忘れまた戦争したりする。まず戦争で死んだ人たちは悲惨だった。
みんな若いし才能ある人も多く死んだからである。
今は一人の老人を生かすために長生きするためにいたりつくせりで介護したりしているけど戦争で死んだ人は無残だった。
どんなにふうにして死んでいったのか?それは地獄絵図だったのである。
そういうふうにあまたの犠牲の上に今日もある。
タグ:小渕優子
posted by 老鶯 at 21:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

山帽子の実(不幸だった大正生まれの母の一生)


山帽子の実(不幸だった大正生まれの母の一生)


烏いて二両の電車や芒かな

鶏頭や夕べ人あり前畑に


山帽子赤き実なれり幸薄き母にしあれや我がいたわりぬ


人間の一生も家族でも多様であり他から知り得ないものがあるのだ。
まず自分の母親は不幸の連続だった。幼少期だけが金持ちであり幸福だった。
あとは事業の失敗とかで一家離散であり継母に育てられたから不幸だった。
その後も不幸がつづいたのである。大正生まれとなると何かそうした不幸な人が多い。
つまり時代が過酷でありみんな貧乏だったからそうなる。
だから母だけではない、その一生を聞いてみれば同じように苦労した人が多いのである。
何か今は自分が介護しているからそのことを喜んでいる。自分の家に来てもいたわられることもない人だったのである。女中のように使われていたともなる。
ただそこにはそれぞれの家族の複雑な事情があり他からは理解し得ないものが必ずある。ともかく最後になるとみんなその一生をふりかえる。

一般的に介護というとき他人だとなかなかその人がどういう人生を送ってきたかわからないから同情心がわかないのである。
ただ金をもらえるからしかたがないからやるとなる。
だから介護は本来は家族でやるものであり家族には何かしらやる動機があるからそうなる他人になるとそういうモチベーションがもちえないのである。
ただ一日中見守り介護となると苦しくなる。認知症の介護は一番苦しかった。
でも自分は特別世話なっているから耐えるほかなかったのである。
家族には何らか介護する動機があるが他の人には金しかないとなると何をするにもただそこに心がこもらないということになる。


誰かが言っていたが嫁が来た家で嫁がその家に満足しない家は栄えないというのは本当かもしれない。「ああ、この家に嫁いできて良かった」とならないとその家は栄えないというのは本当かもしれない。嫁は女と家だからその家の人となるのがまさに嫁だからそうなる。
ともかくそれぞれの一生がある。それぞれの家族には家族の物語があり個々人にもある。それはもう語り尽くせないほどある。
この家がどうしてこうなったのだろうかというのも本当に不思議である。
それはカルマも深く関係しているのである。
母と子が同じ運命をたどることは普通にあることなのだ。
親の因果か子に報いなど普通にあり珍しくないのである。
人間は結局は最後はストリー物語になってしまう。
そして人間の一生は本当に最後まで死ぬまでわからないものだと思った。
まさか認知症になって馬鹿になり死ぬとは思いもよらなかったからである。


最近75歳の病院経営者で敏腕の医者が30歳の嫁をもらったがこの嫁を殺して自殺した。
これほど優秀な人でも最後はわからない、どれほど優秀な人でも最後の結末はわからないということである。この人は体力も知力も人間力も備わった人だったのである。
なぜそうなったのかわからないにしろやはり優秀な人でも最後はどういう結末を迎えるかはわからない、結果的にはこれだけ優秀な人でももう誰も評価しないとなる。
人間にはこういうことが結構普通にある。その最後がどうなるか見てみればそうなる。


自分の生活は二両の電車が相馬市と原町を行き来しているように本当に狭い範囲で生活するようになった。まず遠くに出れないのである。
今日も母が昨夜も朝も水も飲まなかったからいよいよ老衰状態に入ったのかと見えた。
でもまた昼は食べたからそんなに急には死なないみたいなのである。
ただこの年になると急激に弱って死んでいる人もいるからわからない。
人間の寿命は神が定めているというときそれも本当なのかもしれない。
99歳になってもいつ死ぬかわからないのである。
ましてや60代ではいつ死ぬかわからないとなる。

前畑に人がいて畑の手入れをしているということは生活があることである。
田んぼにはなくなっているが畑をやる人は増えてきた。
前畑ということが何か家と一体となり生活があることになる。
今はみんな働くといっても通勤であり遠くになる。
田舎では確かに近くだがそれでも会社となる家から離れるのである。
だから農家では前畑とか前田と門田とかが重要になる。
働くにしても家の延長であり庭で働く感じだからその感覚はそこに住んでみないとわかりにくいとなる。

 
家のもっている(家霊)の力
(NHK-家で死ぬということ-を見て)
http://musubu.sblo.jp/article/54156891.html


タグ:山帽子