2014年10月21日

インターネットで発表の場を得た素人芸術 (絵と俳句のプログの紹介)



インターネットで発表の場を得た素人芸術


(絵と俳句のプログの紹介)

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これは加工したものでまずいけどこれとにたものがあるから出した


ここのプログは絵を出している、これはもしかしたら素人的な絵なのかもしれない。
日曜画家とかの絵なのかもしれない、でもともかく素人でも絵を出せるし作品は一応だせるのがインターネットである。
だから膨大な作品が俳句でもでている。大正生まれの母親の俳句を出している。
やはり貧乏な時代の俳句であることがわかる。
インターネットではまず他人のプログでも評価はほとんどないのが多いだろう。
まず芸術の評価はむずかしいのである。
ある人がいいと思ってもある人はそうではないとか個々人によって違ってくるからである
俳句だって絵画だってなんでも評価がむずかしいのが芸術なのである。
ものすこく難解なのがありもう読むことすらできないようなものがあとで名作になっている。宮沢賢治の作品はそういうものだった。他にもカフカだとか芸術にはいくらでもそういうものがある。
百年たって評価されたものなどもあるのが普通である。

なぜ今ここを紹介したかというと一瞬「枯木」の絵を見たとき、これはいいなと思った。まるでそれが人間のようにも見えたので一句作った。

老いにしや枝幾重にも枯木かな

これは自分の心境と絵がマッチしたから作れた。これを単なる枯木ではなく何か人間に見えたのである。こういう枯木の写真もあるが写真とも違うこの絵に何か息づいているものがある。それは老境を迎えると自分もそうだがこれだけのものを毎日書いているように
何か自在にいろいろなものを書けるようになる。世のことが老人になると普通の人でも経験を積むから見えてくる。
この枯木の絵はまた多岐に別れて自在に伸びている。それはまさに自分の心の状態でもあった。今まで経験したこと旅のことでも自在に書けるし詩も今大量に書いている。
この枯木のように縦横に自在に枝を伸ばしているのだ。


ただここで風景画が多いがそれは何か個性がもう一つどぎつくでていないから素人的なのかもしれない。ただ見る人によって絵の評価も違ってくる。
絵とか写真から俳句を作ることができるが一般的にはどうしても本物の写生ではないから作れない。ただこの枯木は内面的に見たから自分の心境と一致したから作れたのである。
ともかくインターネットには膨大な表現の場ともなっているが注目されないのが多い。
やはりプロの評価がないからだろう。
自分は俳句などは相当評価できる。ただ俳句はもう一つ芸術としては抽象画と同じで評価されにくい。俳句をいくら作る人がいてもそれで芸術家とはならないだろう。
それなりの記念としてインターネットに残すのもいいことである。
今までなら全く埋没して知られずに終わっていた。


インターネットで何でも紹介するとわずかでも知られるという手段は開かれたのである。
出版とかなるとまず敷居が高すぎるか、無名の人は全く相手にしない、有名なもので金になるものしか相手にしない、それも金がかかりすぎるからそうなるのである。1
出版社とかそうしたものはなくなるのかもしれない、まず写真とか絵は金がかかりすぎて出せない、今は無料で出せるから素人芸術の花盛りだとなる。
写真は膨大でありプロ級のものがいくらでもある。絵となるとやはりなかなか一流となると出ないだろう。でも心にひびくものはある。
タグ:絵のプログ

生活保護って何なの? (権利ばかり主張するようになった現代)


  生活保護って何なの?
 
 
(権利ばかり主張するようになった現代)
 
 
  生活保護がいろいろ問題になるけどこれまたわかりにくいのだ。第一生活保護者自体が生活保護のこと自体知らなかった。すでに十年以上生活保護だったのに知らなかったのである。生活保護が権利だと法律に規定されているから権利として主張することもできる。現代は特に戦後は民主主義になり権利を主張することになった。団塊の世代は権利意識が非常に強いのである。それが学生運動辺りからそういう傾向が強くなった。
  だから生活保護をもらっている人は権利だと思っている。いろいろ役所に要求するのが普通だと思っている。つまり民主主義はあらゆることが権利になるのである。
戦前はそういう権利意識は希薄だった。お上のいいなりになるということがありそれが一転して権利社会になったのである。権利だったら誰にも感謝しない、国にも感謝しない、権利だから当然であり感謝する必要もないのである。

奇妙だけど江戸時代あたりは貧しいけど自然に神から与えられる糧に感謝していて祭りもあった。農民でも漁師でも山に暮らす人でも自然から糧を得ていたから感謝していた。
それが今ではそれも権利だともなる。神から与えらるのではない、人間の権利として得るものだとまでなる。そんなところまで権利意識が過剰になったのである。
そういうことで津波が天罰だったとも解説した。人権意識でもそれが過剰になると異常になってしまう。障害者でも権利意識が強くなり特権階級にすらなる。
「俺は障害者なんだよ、だから俺には権利がある、俺をあわれみ援助しないやつは民主主義社会では責めていいんだよ、もっと金を出せよ、権利があるんだから」とかまでなっている。あらゆるところで権利意識が過剰になっているのだ。

ところが生活保護にはいろいろな規定があって複雑なのである。年金の足りない分が生活保護になっている人もいるしなかなか理解しにくいのである。だから生活保護を受けている人自体も知らなかった。その人は遺産を要求してきたけどそれはたかが百万くらいにしかならない、ところがその百万でも受け取ると生活保護が停止されるということを知らなかったのである。その人は普通の人でないからとても生活保護が停止されたら生活できなくなる。金の管理もまともにできない人だからである。遺産相続でも一億円くらいだったらいい、別に生活保護者が遺産相続の権利を失ってはいない、ただ百万でも相続すると生活保護が停止されるのである。東京だから月20万くらいもらっているかもしれない、子供も一人いるから東京だと多い場合かある。つまり生活保護はその人にとって大きな権利だったのである。もし生活保護なければ路頭に迷い生活できない、その人はそれを自覚していないし法律も知らなかったのである。

生活保護は一種の公的保険だというとき、何か事故とか病気とか不意の不幸が起きたとき援助するものである。たからアメリカでは5年とかが限度になっている。日本ではいったん生活保護を受けると既得権化して生涯受ける人も多い。生涯になると億の金になってしまうだろう。人権とか生活保護でも主張できるのは豊かな国であり豊かな国に生まれたからこ受けられるからそこに感謝しなければならない、中国辺りでは人権も生活保護もないだろう。それをしていたら国が持たないということがあるからだ。
権利ばかり主張する社会はどうなるのか?モラル的には荒廃する。要するに戦前と戦後のモラルが極端に変化しすぎたのである。戦前は滅私奉公でありそれが天皇に忠誠を誓い戦争の犠牲になったという反省があった。そして民主主義が入り権利意識だけが強くなる極端化したのである。
生活保護は老人になるとまた違っている。老後は生活保護がいいとなり老人が増えているのである。年金より生活保護がいいというときそうなる。特に医療費が保証されるから助かるのである。

生活保護は確かに権利なんだけど何か逆に権利を失っている面もある。遺産をもらうことは額が大きければいいがそうでないと受けるのは損だとなる。生活保護の権利の方が大きいということが自覚させられるのである。生涯でも最低限でも保証されることは大きいとなる。少なくても飢え死にはしないとなる。でも一面権利を得たようでも権利を失っていたのである。
ともかく女性でもフェミニズムが女性の権利を主張して男女平等だとなった。でも女性が実際は仕事もできないのに女性を差別しているとかなる。女性の大臣が辞任したけどやはり政治家として基本的なことすら知らないということがあったのだ。
つまり現代の社会は複雑だから法律を学んだ人も資格ある人も知らない、政治家の家に生まれても政治資金について知らないとか起きてくるのである。
知っていてやっていれば別だが知らないということがありそれが致命的になるのである。現代はあらゆることなど知り得ようがないのである。あまりにも多岐にわたることなどしりえようがないのである。
本当に自分なども社会とかかわっていないから知らないことが多すぎたのである。
今の社会は知らないで失敗することがまた多すぎるのである。
確かに権利があったとしてももし弁護士に頼んだりすることもなかなかできないとういこともある。法律も理解するのが容易ではないからである。
 
 
タグ:生活保護