2014年10月20日

富者と貧者(詩)より (富者と貧者の問題の根は深い)



富者と貧者(詩)より


(富者と貧者の問題の根は深い)

富める人と貧しき人


富める人は知らじ
貧しき人のありしを
日々工面して生きる人を
わずかの金を貸し借りする人を
狭き市営住宅に住む人を
富める人は知らじ
貧の悲しみを
今は貧者のあるすら見えじ
富める人はみな富めると思ふ世なり


幸福なる人は悲しみの人を知らじ
障害者を持ちて苦しみ悲しみ老いし女
その女の悲しみ苦しみ尽きじ
かくなる女のありしも知らじ
重なる苦しみと悲しみの女
人はそれぞれ苦しみ悲しみもてり
近くに妻を亡くせし女の苦労を語りぬ
家事に苦しむ一人暮らし
我もまた同じなれば知る
ただ夫婦健やかなる人は知らじ
老いの悲しみ苦しみを若きは知らじ
その美貌も力を失いゆくを知らじ
その時老いのあるを知らじ
病める人の心をを健やかなる人は知らじ

津波にあまた亡くせし人のありしも
近くにあれどその悲しみも知らじ
家をも土地も家族を亡くせし人の
その悲しみ苦しみを知らじ
災いの我が身に及ばざれば知らじ

幸いなる人よ、汝は知らじ
世に苦しむ悲しむ人を
富める人は知らじ
世に貧に苦しみ悲しむ人を
ただ自らの幸いを求むのみにてよしや
苦しき悲しき人もしばし還り見よ
汝の幸いは汝のみにてかなわざるを知るべし

人は知らし、知らじ苦しみ悲しむ人を
ゆえに必ず巨万の富を積む人は呪わるべし
富を分かたざれば富は失うべし
また貧者は富める人の同情を知らじ
情けをかけてもただ富を奪う心のみなり
まことに富を強奪して富者に報いぬ
これまた貧者の追い詰められし悲しさ
それは良しや富者と貧者はいかにあるべし
その調和はいかにあるべしかな


富者と貧者の問題は有史以来ありつづけたのだろう。原始人だったらなかったろう。それだって獲物をとる人が上手な人と下手な人がいるし必ず何か差が生まれてくる。
そういう差が貧富の差となる場合もあるから人間には避けられないものとして富むものと貧するものがある。
ただ本当に貧者というとき、その貧者にも問題がある。たいがい離婚した人は貧乏になりやすい。生活の当てもないのに若いときすぐに離婚して生活保護になった人もいる。
こういう女性が今は本当に多いのだ。すぐに離婚してあとで困っている。昔だったら子供が成長するまで我慢するとかなっていた。今はすぐに不満があったら離婚する。
すると二人分でやることが一人でやるから苦しくなるのは当然なのである。
だから貧者にも必ず貧者になるべきものがあってなっているということもあり批判される特に現代では自己責任論になってしまうのである。確かにそういう人か多いからである。ただ障害児とかもったら苦しみ悲しむ、それも一生だから悲惨てのである。
そういうのは同情するけど貧乏には貧乏になる所以がその人にありすべてが社会のせいでもないのである。


資本主義は何か根本的にシステムとしても壊れている。資本主義は修道院の禁欲から生まれたというとき今の欲望資本主義とはあまりにも違ってしまったからである。
それでは共産主義がいいかというと今の時代また共産主義が復活しつつあるのあまりの格差社会になったからだろう。共産主義は貧者は富者を殺してでも革命でもして富を奪っていいのだということに極論すればなるしソ連と中国などでは実行されたのである。
でもそれもうまくいかなかった。やはりさらなる格差が生まれている皮肉がある。
人間から格差がなくならないというのはそれは宿命のようにある。
どんな社会になっても富者と貧者や貧富の差はなくならない。


現代は貧者がいても見えないのである。ボロを着ているわけでもないし見えないのである現実に食べるものは富者とさほど変わりないのである。もちろん外食では差があっても刺身を食べていない人はいない、いくら貧しくて最低一カ月一回は食べるだろう。
自分の父親は病気になり刺身を食えるようになったけど食いたくないと言って死んでいった。モノがない時代は貧乏とはそういうものだった。
今の貧乏は昔の貧乏とは性質が違ったものとなっている。だから貧乏が見えにくいのである。どこに貧乏人かいるのとなってしまう。
自分は直接貧乏人と接したから現代の貧乏人がいることを知った。一人はただ貧乏といっても贅沢したい貧乏でありだからこそ自分は強奪されたのである。
その人は確かに貧乏でも同情されない犯罪人であった。

もう一人はこの人はいろいろ苦しみを背負わされた女性だから同情している。
でもやはり富者に対して要求するものが大きすぎるしいくらでも金とれるとかなると怖いと思う。
その女性は今どきなんでももったないもったないとしていて本当に貧乏だったのである。だからといって人をだましたりして富者から奪うというのは少額でもいいのだろうかという疑問があった。前のは大金だったので許すことはできないでいる。
でもやはり富者からも犯罪でもなんでもいい奪えばいいというのがこうしこた格差社会になるとなってきている。それを富者は気づいていない、ただ現代の富者も知られていない、ビルゲイツなんか何百億の資産があってもジーパンはいて街を歩いていれば普通の人と変わりないのである。金持ちすら見えない、豪邸に住んでいるとわかるくいである。

でも今でも別にいい家に住んでいる人は多いし車もみんな持っているから誰が本当に金持ちなのかなどわからないのである。
要するに現代の貧乏はアメリカでも日本でも中産階級が没落した結果、上と下の中間がなくなって格差が露になった結果なのである。労働者でも派遣とかフリーターとか時給いくらで働く人が増えた。正社員でない人が増えた結果、差が開きすぎて貧乏が問題になったのである。そして物が溢れているの買えないということもある。

高度成長時代は物があふれてきて買うことができた。今はトヨタで派遣で働いても車も買えないとなっているのが不満になっている。
そういう格差社会になった結果貧乏がクローズアップされるようになった。
貧乏な人が目立つようになったのでありそのためにかえって富者も比較されて責められるようになったのである。つまり共産主義革命の時代に戻ってしまうということである。
みんなが高度成長のように裕福になればこうはならなかったのである。
ただ貧乏の原因が富者だけにあるのではないしそこかまた問題なのである。
でも目先のことを見れば富者にその憤りが向いてきているのである。


別に自分はこれまで富者という気分になったことはない、ただ前にも書いたように自由な時間を与えられただけなのである。やはり千円レベルで苦労していたのである。
百万など現金をもったこともないのである。車もないし本代には使っていても旅行しても最低限しか使っていない、自分が金持ちだと思ったことは一度もないのである。
金持ちはやはり少なくても一千万でも自由に使っていいという身分だろう。
それでも一億円とか資産でもある家なのである。ただ上見ればきりがないし下を見ればきりがないということがある。こんなに貧乏しているのかというのが現代ではある。
そういう格差社会になったことが問題なのである。
ただ富者と貧者の問題は簡単に解決するものではない、なぜなら富者と貧者がない時代はなかったからである。そこには何か深い理由があり共産主義のような理論では解決しない人間の根本的問題があった。
だからこそ「悲しむものは幸いなり」というキリストの教えかあった。
悲しみ苦しみを知らないものは人間的に浅薄だとなり人間を知らないとなる。
そして人間の幸福とはそうした苦しみ悲しむ人の上にあり一人では富者になることができないということもある。その自覚が富者にも必要である。
だからといって貧者が富者を殺してでも奪えばいいとなるのか?
それを理論化したのがマルクスだったのである。それも失敗したのである。
だからそういう歴史もふりかえる必要があるのだ。

 
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posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題