2014年10月11日

刈田(道の駅に集まる老人)


刈田(道の駅に集まる老人)


道の駅老人集まり刈田かな

落ち着いて三色の菊の畑かなこの道親し行き帰りかな


相馬市の道の駅にはいつも老人が集まっている。顔ぶれは同じである。
あそこにはいろいろな人が来て話しているから暇つぶしにいいのだろう。
あういう暇な老人もこれからは増えてくる。
あそこは見晴らしもいいしちょうどいい場所にある。
原町の道の駅にあういう場所が無い。
ちょうどすでに5時ころ陽が山脈に沈んでゆくから早いなと思った。
釣瓶落としの陽なのだろう。でも何か今年は日差しがまだ暑いから夏の延長のようにも感じる。
菊畑があるのは原町に行く方である。


この辺は変化しすぎてその変化に追いつけないということがあり落ち着かない状態はまだ続いている。
困るのは老人になると落ち着きたいということがある。
こういう混乱状態は苦手になる。若いときは何かかえって動乱を好む。
むしろ自ら動乱の中に入って行く、イスラム国だとかに志願して戦争までしてみたいとなる。
社会が動乱していた方が若者に生きがいがあるともなる。
血気の多いやつだとあえて喧嘩をしたりそのエネルギーを爆発させる。
それは無駄なエネルギーの浪費になる。
そういう無駄な時間の浪費ができないのが老人である。

菊が三色落ち着いて咲いているなというときそれは人間にも反映する。落ち着いて暮らしたいとなる。
家族でも何でもそうであるが自分の場合は人間関係でも周りの状況でもそうはいかない。
老人になったからといってやはり社会の動乱に災害にもまきこまれる。それはここだけではない、世界中でそうである。
だから避難した老人は辛いしすでに死んでいる人たちもかなりいる。
自分の動乱は一身上でもこの七年間は変わらなくつづいている。
毎日暇なく家事に追われ介護に追われている。家事は料理から掃除から結構時間をくう、買い物も時間がかかる。
昨日は夜まで掃除していた。いくら掃除してもすでに震災から三年半すぎてもかたづかない。
最後の人生のかたづけまでになってるからそうなる。
三食がいつでも用意され何もしなくても良いときはあまりにも変わりすぎたのである。
そこに様々な災難の連続だった。
別に災難は誰にでもありたまたま自分はまねがれていたが最後に災難がまとめてやってきたとなる。


パソコンとか今仕事をしやすくするために中古のパソコン買ったりいろいろい整えるのも時間がかかる。
結局人間は時間が一番貴重なのである。知的生活などと言うがそれは金よりも時間をあたえられるとやりやすい。
結婚するとなぜ知的生活ができないかというと仕事に結婚生活だとかさまざまな雑事に時間を奪われることにあった。
これだけのことをやっていると実際にゆっくりものさえ考えられなくなる。
辛うじてできているのはプログだって簡単に書いて発信できるからである。
肉体労働などすると知的な仕事はできなくなるだろう。
俳句とか短歌は短いから負担にならないからできるのである。
何か家事でも追われると花さえゆっくり見ていられないとなる。
これも自業自得だったともなる。生涯恵まれる人などいない、どこで苦しくなるのが人生である。
だから苦労した人は今は楽だとなっているはずだがそうもなっていない、延々と苦労の連続の人も多いのである。
タグ:老人