2014年10月10日

相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来 (小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)

相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来

(小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)

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阿部の名前がここに記されている

郷土史研究の基本はその土地の村でも町でも新旧を知ることである。
古いと思っていたところが新しく新しいと思っていた所が古かったりすることはよくあることである。
例えば原町市の中心部は市街になっているから古いと思っている人がいるだろう。
ところがあそこは江戸時代は野馬を放牧していた原っぱだっのである。
最初は本当に野馬を放牧していた放し飼いにされていた。
あとから野馬土手が作られた。その前はだから畑に馬が入ってきて困ったとかあり記録にも残されている。
戦国時代には馬は戦闘用としてどこでも飼われていた。広大な牧がどこにでもあった。
今のような稲田が広がる風景ではない、馬を飼っている広い牧がある風景なのである。
だから今になると原町が市街化しているからそこが広大な野馬の放牧場だったということが想像すらできない状態になっているのだ。
原町というとき原っぱの意味でありこれは各地にありそこは原っぱだったのである。その名残として野馬追いの神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある。原町はのちにまた宿場町になった。
だから地元の人でも意外とこの新旧を知らないから必ず昔を間違ってイメージするようになる。
ヨーロッパ辺りだと旧市街と新しい街は明確に分かれているからわかり安い。
観光するときは旧市街を回ればいいのである。
日本は街が雑然となっていてわかりにくいのである。ただ城があれば城下町でありそこが古いとなる。
原町で古いのは深野とか大原だった。あそこは原町ではかえって一番古い場所なのである。
そこは野馬土手の外にありそこは米を作るために田が作られていった場所だったのである。
今はかえって原町の中心が街内のようになっていて深野(ふこうの)とか大原は辺鄙なさびれた場所のように錯覚するのである。
このことは他でもありその街の新旧はわかりにくいのである。
今回相馬市で新しくできた郷土資料館とか郷土館とか訪ねてみた。そこで案内した人が「阿部氏」でありその人の由来は1300年ころまでさかのぼれると言うので驚いた。
そんな人に実際会っていないから余計にそうだった。その阿部氏の由来は明確なのである。
その末裔の人が言うには奥相史と残っている資料は北相史のことだという。
それは相馬氏の基になった千葉市流山市とかがあそこから北に位置する茨城の行方に移ったので北相史になったという。
相馬地方はもともと古代には行方郡になっていた。茨城県からの移住地だったのである。
その後相馬氏が移住してきた。相馬氏が移住した最初の地が小高だった。つまり相馬藩誕生の地は小高だった。
相馬藩を歴史を知るには小高からはじめねばならないのである。鹿島は北郷であり小高から北だから北郷となっていたのである。方角地名は中心地から見た方向なのである。
そのことが良く相馬藩内でも知っていてもどうしても今の城のある中村であり
相馬市を中心に考える。つまり小高が相馬藩の歴史では一番古く歴史をたどると小高から始めねばならないのである。
そのことを具体的に阿部氏の末裔が語ってくれたので生きた歴史を感じたのである。
小高には野馬掛けとかあり野馬追いの起源になる祭りが残っているのもそのためなのである。
塚原とか村上に大きな船も入る湊があった。蔵院とかあるから大きな湊だった。中世は意外と船運が盛んであり村上に一時城を移すことを計画したのはそのためだった。
そこにはおん舟という文禄高調に記されているのを書いた。その数も多いから相当な舟がそこにあった。それは八沢浦にも湊があり七荷を運んでいたとありそれは大きな舟だったのである。
相馬市の吉田屋の記録では松川浦で会津まで運んでいたということが記されている。それはニシンとか塩とか他にもあった。
相馬市の今の中村に城を移したのは松川浦が湊となっていたからである。今でも松川浦は漁港だけではない、貿易の港ととして機能している。
ただ小さいので飯館村の木材などは石巻から出していたのである。中古車販売の島商会はロシアに輸出しているが松川浦の原釜から出しているから継続がある。

その人の話で面白かったのは阿部家には長櫃に50ふりもの刀が入っていたという、在郷給人でありその土地を束ねる地位にあった。槍持として相馬氏に仕えていたという。
その槍の一部も残っていたが売ってしまったという。50ふりの刀を用意していたのはやはり戦国時代はそうだったのだろう。まず武器が無いと戦いないのだから武器は重要になる。
その50ふりの刀がありそれを家来に配って戦うことになるからだ。戦国時代の様子がその話から具体性を帯びているのだ。
阿部氏は小高から今の相馬市の松川浦近くの飯豊に土地を賜りその一帯を開墾して草分けになった。
その碑が飯豊に立っているから由来が明確なのである。
そして程田の隣に新田とあるがそこはすでに元禄時代に開拓されていたのである。原町の津波で開拓した金沢も元禄に開拓されたから古いのである。
日本全国でも元禄時代は開拓地が広がり豊かになった時代である。
だから葛尾村(かつろう)の落合に元禄の碑があったからあんな山奥でもすでに元禄時代になるとかなり住む人も増えてきたのである。
元禄時代という芭蕉の時代でもあった。俳句もそれなりに盛んになったから文化的にも華やかなものか生まれた時代である。
つまり新田という地名が各地にあるがその時代を見ると新田でも意外と古いものになる。
小高から今の相馬市の中村に移ったのは慶長津波のあったあとの1611年の11月とかであった。そのあとに開拓された程田とか新田は古い地域になっているのだ。

秋の日に阿部氏の由来語るかな小高にはじまる相馬の歴史

小高にきて城跡にひびく蝉の声ここち立ちにつ復興願ふ

小高は相馬藩の歴史では大事な場所、起源の地だったのである。そういう歴史があるとき、小高が欠けては相馬藩の歴史の消失になる。
歴史的観点からみると復興するということは歴史を継承するということにもある。
先祖がどうのこうのというとき実は日本の歴史でも歴史が何かわからなくなっている。身近に考えれば歴史とは家の歴史になる。
最も身近なのは知っている家族のことである。ただ最近は墓参りでも知っている人に参るのであり先祖ではないというのわかる。
なぜなら先祖でもあったことも無い人は他人と同じになってしまうからである。
ただ歴史というとき別に直接にあった人のことではない、でも何かしら伝えるものがあって歴史がある。
人間は道具を作るものたとか言葉を話すものだがとか定義するが人間の人間たる所以は歴史として人間が生まれてきているのである。
だから先祖を誇りにてらないと子孫もだめになるということがあるたろう。
先祖を見習い今を正すということがある。そうすると人間形成しやすいのである。
国の教育だったそうである。先祖の悪いことばかり言っていたら現実的に日本なんか戦争で他国を殺すばかりの悪い国でしかない、なくなってもかまわないとかなる。
そういうことが戦後影響して今日モラルの頽廃が生まれたのである。つまり家でもその先祖であれ親であれ何かしら誇りに思えないと子孫も良くはせ育たないのである。
先祖の影響で病気になったとか何になったのかとは別である。そもそも精神的そういう悪いことばかり言っていたら今を生きている人たちに影響か大きいのである。
歴史だってどうしていい面と悪い面が必ずありその悪い面だけをとりあげるときりがない、良い面も歴史でも人間個人でもとりあげる必要がある。

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった
http://musubu.sblo.jp/article/65966172.html
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posted by 老鶯 at 11:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)