2014年10月09日

鶏頭の句 (写生の句はイメージをふくらませないと鑑賞できないー美と善は一致)


鶏頭の句


(写生の句はイメージをふくらませないと鑑賞できないー美と善は一致)


鶏頭や今日一日の赤さかな

鶏頭の赤さの映えてそのあとに満月明るく今日は輝く


写生の句で今でも話題になっているのが子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」である。
十四五本の鶏頭がありぬべし、あるだろう、またあってほしいとかの意味である。
ありぬべしには単にあるのとは違う意味なのだろう。

この句は鶏頭を句にしたからこそ写生の俳句として手本になっている。
鶏頭意外の花だと何か訴えないかもしれない、ただどうしても何本とか何輪咲いているとかなりやすいのが写生の俳句なのである。
つまり鶏頭が十四五本咲いているのは赤いからその赤さが映える、まるで燃えるようにも見える。
鶏頭が十四五本咲いていることはそれだけ赤さが映える、それをイメージしないとこの句は鑑賞できない

とにかく鶏頭の赤さは特別であり赤は赤でもみんな違ってる。
自分の句は今日一日の赤さとは赤は神道で言えば赤き心なのである。誠の赤なのである。
それは嘘偽りなき赤なのである。今日一日をその赤い鶏頭のように嘘偽りなく生きる
一見これが簡単なようで現実社会では簡単ではない、いろんな場面で人間は嘘をつかないで生きることがむずかしい、第一嘘つかないで生きた人などいないだろう。
その女性は確かに素朴に見えたから嘘つかないと思っていたが嘘ついていたのである。
犯罪というのは別に逮捕されるとか刑罰を受けるだけが犯罪ではない
そんなことで人は判断できない、一億円盗んでも罰せられない人はいるし百円盗んで罰せられる人もいるから
そんなことで人は判断できないのである。
罪を犯さないとは日常の人間関係とは社会で生活するときに嘘をつかないとかでありもし嘘をついているとしたらやはり罪を犯しているということなのだ。だから人間は日々罪を犯して暮らしているのが普通だとさえなる。人間は自分でもそうだが悪いことはしないしたことがない、嘘はつかないとか言ってもそうではないのが普通である。悪いことをしないというときたいがいしているからあえてそういうのである。

だから今日一日特別なことをしなくても嘘をつかないで生きたら鶏頭の赤さがあなたの心の中に赤く映えるのである。人間は日々善行をなすことではない、嘘をつかないとか単純なモラルを守り生きることなのである。
なぜなら善行よりもその方が何十倍も蒸すかしいからである。
会社に勤めていても利益優先すると単純なこと嘘をつかないということなどが守れないことも多いだろう。
会社ぐるみになる従わねばならないから嘘を全体でついていることになる。
東電などもあれだけの巨大会社であり科学技術の粋を集めたものだったが実は安全神話とか単純なことで嘘ついていたのである。それはプルサーマルの問題でも危険なことを嘘ついて隠していたのである。
そういうことから単純な嘘をつかないということを守れなくて大事故に発展することがあるのだ。
「安全神話」は国自体が嘘ついていたのである。戦争のとき大本営発表で負けていたのに勝っていたと報道していた。国自体が嘘ついていたのである。
日本は実際は戦地で負けたということを報道していたらその人は殺されるということがある。
会社だって会社が嘘をついていてもそのことを公表すれば首になるから言わないのである。

だから嘘をつかないで生きること自体簡単なようでも至難だとなる。美と善とか愛とか実は一体のものであり
美を感じるのはそこには必ず善もある。美の追求にもなっているし善の追求は美の追求にもなる。
自然には美が満ちている、その美はまた善なのである。それは人間の善なる心があればそれに応じて映えるものなのである。だから嘘をつかないということが自然の美を感じることにもなるのである。
美を見る心は何か才能とも違う、人間はもともと美を見る心、善なる心をが備わっているのだかそれがいろいろな事情や境遇や悪条件で失われやすい、今回も単純な軽い嘘で信頼関係は全く失われてしまった。
それは強盗とかではない、ささいなことであり数千円とかのことである。そんなことで信頼関係が壊れてしまったのはその人はあまりにも簡単に嘘をついたことだったのである。
それで信頼できなくなったのである。

公務員が身分であり特権階級だというとき公務員は民間人より競争などないのだからそれだけ嘘をつかないですむ。民間だと競争が熾烈でありもうけのためには何でもやる、嘘も平気でつくなるが公務員はそういうプレッシャーがないから嘘をつかないとなるのかもしれない、嘘をつく必要がないということもある。
だから侍は公務員ともにていたわけである。商人がいやしい言うとき平気で嘘をつく、そういう職業だからいやしいとされた。
そもそも嘘をつかないような生活をすくには僧院にこもるとか社会と離れて別に暮らすような別な世界を作らないとむずかしいからそういうものが作られてそこで修行した。
出家でもそうだし何か根本的に世俗から脱するような状態を人為的に作らないと人間は俗世間の中で堕落してゆくからそうなった。それは今でも同じであるがかえってもう社会の中で俗世間でだれも生きなければならないのだからそういう単純な嘘をつかないというモラルさえ守るのは厳しいとなるのだ。

 
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