2014年10月08日

月食の不気味(自分の一身上のことが天体の異変とも関係する)


月食の不気味(自分の一身上のことが天体の異変とも関係する)


一度疑惑の雲のかかれればなかなか晴れぬ元の月には


皆既月食は快晴だからはっきり見えた。何か見ていると月食は不気味である。今は赤い月になっている。
天体と地震が関係あるというとき明らかに地球が天体の一部としてあるのだからないわけがない。
地球は天体の宇宙の一部だから宇宙の影響を受ける。それは解明されていない。

ただなぜ自分には不吉なことが裏切り的なことが次々に起きてくるのか?
嘘を平気でつくということがわからない、だから疑惑が一旦起きるとなかなか払えなくなる。
一旦信用を落とすとそれを回復するには膨大なエネルギーが必要になってくる。
そもそも信用は一年とか二年とかで築けないものだった。
一〇年くらいなら信用は築ける、その間にいろいろあり不信や疑惑がありのりこえてきたとなる。
雇うものも雇われるものも信用関係を築くには時間がかかるのである。

それが何か今回の月食と関係あるのかとなるとき、何か一身上のことと自然が自分の場合リンクしている。
3・11の地震や津波の前には犯罪にあいその人を呪いつづけていた。そして地震津波が起きた。
次にはまた裏切り行為があった。
だから今回最初満月が皓々と輝いていたのでこれは縁起がいいなと思っていた。
それが一転して月食になり赤い月になったのも不気味である。
そういうことでまた大きな災いの前兆かとも思う。

個々の人事と大きな自然に連関はないというが何かある。
天体が人間界に影響するし人間界が天体にも影響する
それは相互に一体なのである。分離してはありえないのである。
月が欠ける太陽が欠けるということは何か縁起が悪い不気味である。
だか悪いことが起きると思うのは当然である。
何かの異変の前兆として天体は見られていたのはやはり地球も天体の一部だからである。
自分の一身上に起きることと天体も連動している。
それは地震とか津波でもそうであり自分が最悪の状態の時地震津波が襲ったのである。

ただ人間の奇妙なのは株とか不動産に投資していると東京でもアメリカでも悪いことが起きないと願うのも不思議である。別に自分と関係ないなら東京がどうなろうがアメリカがとをなろうが関係ないとなる。
江戸時代あたりなら鎖国なのだから外国と関係していないのだから無関心なだけだった。
外国に何が起きようと関係ないとなっていた。
でもグローバル化した世界のいい面と悪い面は世界で何か悪いことが紛争でも自然災害でも起きるとそれが日本と関係ないとは言えなくなっているしそれは世界中である。

とくに株と不動産と投資というのはまず世界情勢が関係してくる。
どこかで紛争が起きるとたちまち株などが下落して大損失になったりする。
だから平和になり株の上昇するのを願う、これは全く利己的なものだけど世界に無関心ではなく利益から
世界の平和、地球の平和を願うようになっている。
これはこれで自己の利益を通して世界を見ている関与しているとなる。
何か世界で悪いことが起きると株価にすぐに影響して大損になるから自然災害でも紛争でも起きないで欲しいとなる。
ただ一方で世界でそうした災害が起きると関係なければ面白がってみるということがある。
ともかく人間は現金なものだと思った。自分の利益にかかわれば世界にも関心が向くということである。


タグ:皆既月食

秋の蝶(俳句は写生だから平凡でも価値が生れる)


秋の蝶(俳句は写生だから平凡でも価値が生れる)


秋の蝶飛び来る一羽朝に見ゆ

静けさや秋の日さして石二つ

なお一羽帰らざるかな秋燕

畦道を歩みて農家秋薊


秋の蝶が一羽飛んでくるのを朝に窓から見ていた。これは全く写生の俳句なのだ。
蝶が一羽が飛んでくるではこれは外国では理解できない、まず秋の蝶という季語ゆえに俳句文学生れたのである外国だったら蝶といえば春であり夏であるが秋は意識しないし区別しないだろう。

そしてこれが何を意味しているかというと田舎では誰か歩いていても見てないようで見ているのである。
あの人どこにゆくのだろうかと見ている。だから地元の女性はこの道をゆくのが嫌だなとというとき誰かに見られることを意識するからである。
その女性はどこでも見られていることを意識して何かを言われるのを嫌がっていた。
田舎は人間が監視カメラのことには変わりなかったのである。

田舎は人間関係ではこのように狭隘なものになるのだが自然を見ていれば一羽飛んでくる蝶はきれいだしそれを見ているのは心和むのである。自然を観察するには空間的にもリズム的にもいいのである。
でもこれはあまりにも平凡だから俳句とはなりえないと思うだろう。
それが写生俳句でありその写生に価値と意味を見いだすのである。
秋の蝶がひらひら一羽は飛んでくる。それをゆっくりと見ている。
その余裕がないと俳句もできないのである。

石二つとなるとこれは想像の句である。ただそういう場面を田舎ではどこでも見ているだろう。
人間つくづく年になれば落ち着きたいということがある。
だから仲のいい老夫婦などはいいなと思う。
老人はそうして長年一緒に暮らしてきた人や土地と一体化するからはなれがたくなる。
だから原発事故で避難した人たちは老人は辛いし帰りたいとなるのである。

燕が一羽飛んでいるのみた。まだ帰らないと思った。夜は寒かったにしろ昼になると何か日ざしが暑い、やはり何か今年も暑くなっているのだろう。これも温暖化の影響なのだろう。
暑く感じるからまだ燕も帰らないということがある。

薊は畦道に咲いているのがふさわしい花である。ところがこの辺では田んぼが草ぼうぼうになっている。
だから田んぼがないということは荒れ果てた感じになるのだ。
小山田の辺りで除染していた。あの辺もしていたのかと思う。山側からしている。でも草を刈り取っているだけであり土はとっていないからまた草は生えたら同じじゃないかと思った。
庭の土はとっている。除染というのはまず大変な労力であり人手がかかる。一兆円もかかるというのもわかる。でもその成果は少ないだろう。草を刈っても土をとらない限り同じである。
その土をとることは膨大なものとなり不可能になる。捨てる場所だって確保できない、だから放射線量が低ければあきらめて暮らすほかないという感じもする。
それよりそこで生活する方が大事に思える、いつまでも荒地になっていたら心まで荒地になってしまうからだ。
タグ:秋の蝶

金とは何なのか(2) 人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない


金とは何なのか(2)
人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない

人間の思いというものが意外と作用して影響が大きいことを意識しない。
ある人が殺したいとか強く思ったとき関係ない人にも影響して殺人起こるというのはそれだけ念が影響しているからそうなる。もしそういう悪い念が満ちてくると何か自然災害でも今回の津波でも起きてくるというのはそれが人間界だけではなく自然界にも影響してくるということもありうるのだ。
清浄な自然界で耐えられなくなりその悪い念を打ち消そうとして巨大災害が起きる。
どうしても今は田舎も都会もないのだが都会に悪い念が集まりやすい。
だから都会で大災害が起こると被害も甚大になる。
東北の大震災は津波はなぜ起きたかとなるとおそらく今後来る東京などの大都会の災害が起きる前兆かもしれないのだ。
思いは念は距離を越えて働く、だから外国からでもその念が影響することはありうる。一種の強烈な電波のようにもなる。ある人のことを常に思っていたらその人と会うということがよくあるだろう。
それも思いが通じているからそうなる。ある人を思ったとき電波が発信され相手に届き会うということもある。念は距離とか空間を越えて働いている。
そして金というのは一見人間の念とは関係ないように見える。
日々使っている金にどんな念が思いがこめられているか意識する人はいないだろう。
金にもそうした思いが働いているのだがその思いが普通は感じられない。
ところがよく箱に寄付金などに金を入れるとき一〇〇円でも何かすごくその金を意識しないか?
「俺は百円入れた、寄付したぞ」となるがその金は全く個人として記録されないし匿名なのである。
でも寄付金にその金には特別な思い入れがこもる。それは普通の生活で使う金と違っているからだ。
そこには何も代価を得られないから無償だからこそかえって思いと願いがこめられているのである。
だからそういう金を取り扱うことになると相当な注意が必要である。
寄付金というのは実際はどういうふうに流れてゆくかわからないのである。
そこで寄付金を管理する団体がその寄付金を私用するということもかなりある。
なぜならそこには普通の経済生活で行われている監査などされないからである。
つまりどこにどう金が流れて使われたのかわからないのである。
ただその集められた金には人々の思いが強くこめられているから百円でも普通に使うのとは違うのである。

だからそれを管理する団体は相当な信用がないとできないのである。
本当は収支をはっきりするのがいいのだが集めれた金がどれくらいあるかなども明確にされなくてもいい。
営利事業でないのだからかえってずさんになり金の行方がわからなくなる。
この辺の東北の震災の義援金を五万くらいもらった。それもこの辺では感謝すべきものだったのだろう。
原発補償金はまた別でありこれは義援金でなく補償金だから権利だから違っている。
だから義援金なぎ寄付金を集める団体が赤十字ですら何か疑われるのは収支がはっきりしないからである。
不正に使われてもわからないし私腹こやされてもわからない、そういうのは相当な罪になるだろうけどかえって善人にされる。でもそういう強く人間の思いがこめられた金を悪用するとそれは犯罪にもなり社会自体がゆがめられる。その影響も大きいのである。

大きな金を集めるとなると税金があるけどそこにも人間の思いがためられている。だからこそ税金を無駄使いしているのではないか、官僚や公務員だけがいい思いしているとか常に批判がある。税金にもなんらかの人間の思いがのりうつっているからである。だからそういう金を正当に利用しないと国すら腐敗し頽廃してゆく。
現代は金の世界だと常に言うとき金のあること自体がすでに責任を課せられている。金をもっている人が現代では一番偉いとされているからである。江戸時代は別に武士は貧乏でありそれでも偉いとされたのは庶民とは違い高いモラルを追求するものとしてあったからである。今は金をない人を誰も相手にしないし偉いともしない。
金があらゆる価値の基準になった時代だからである。だからどんな人であれ金をもっている人が偉いのでありまた責任も課せられている。億の金を持っている人は億の責任を課せられている。百億もっている人は百億の責任が課せられている。それだけの責任を負えるかとなるとかえって重荷になるから拒否する人さえでてくるだろうすでに金のあるところには人がよってきて金を有効にもっていな人のために使うことを要求さているからだ。
その金をためこんでいたりすると盗まれたり強盗にあったり殺されることまでされるのが現代である。
それは金中心の社会だからそうなっているのである。江戸時代でもそういうことがあっても別な価値基準もあったのである。今は全くその価値基準がないのである。だからみんな金だけを追求しているのである。

思いがこもる金として例えは年金は保険金だという人もいるが普通の保険金なら何かあったとき災害であれ事故であれ病気であれ払ってもらえるから払っている。保険は相互に協力するものとしてあった。災害のときなどは被害者が保険金を受けるとるが何もない人は受け取らない、みんなで助け合いとして資金を出し合ってリスクに備えている。
それがわかたっのは近くで同じ農協の保険に入って人が津波の被害で五〇〇万もらっていたのでわかった。自分は三〇万くらいしかもらっていない、でも被害が大きい人は高いのしょうがない、それでもその差が大きいと思った。それは互いの助け合いだからそうなっていたのである。ただそれを意識しないのが意識できないのが現代なのである。保険に入っている人は膨大でありそんな人同士がつながっているなど思わない、ところが江戸時代の講などは顔の見えるものであり協力していることが具体的に見える
現代のような広域社会は保険でもグローバルになると巨大であり数も膨大なにるから顔が全く見えなくなってしまうのである。

ともかく人間は思いが念が常に影響している。個々人でもそうであり社会でもそうである。誰か思っているとき念が働いている。そして意外と人は思うことは簡単であり目に見えないから注意しないのである。
それでも思うということはそれぞれの個人でも思うことは結構なエネルギーを使うものだということを知る。
なぜならたいがい思うというときその思いの働く対象が限られている。
ある人を思うとなってもその思いを働かせる人が極めて少ない、だからある人を思ったり思われることは得難いことだともなる。奇妙なことは憎しみも相手を思っていることなのである。何も関心がなければ憎しみもない、憎むことは相手を強烈に思うことなのである。だかち愛の反面は憎しみであり憎しみが愛に変わることもありうる。
無関心から愛も何も生れないのである。

「あなたは今誰のことを思っていますか」こう問う時、愛であれ憎しみであれ思いで通じ合っているというのも不思議である。なぜならこの世に数十億の人間がいても思っている人は数人にととまるだろう。
とくに老人になると交わる人が減ってくるから余計にそうなる。たださよならだけが人生だとなりやすいのである。もう思う人が死者だったりするわけである。だから墓が一番親しいものとなっているのが老人なのである。思っているのは墓に入っている死者だとなってしまうのである。
ただ死者を思い続けることも反応がないのだからやがて忘れやすい、いつまでも思いつづけることはそれだけ愛していたからだとなるだろう。
祈るとか願うとか宗教と関係してきたけどそれも思いが現実に働くから実際に効能があるからこそ今でも祈るのである。

ともかく金は単なる金属でもないし紙でもない人間の思いがこめられたものでありそれが金属となり紙となっているものである。ただその思いが感じられないのが問題なのである。
毎日買っている無数の商品にも作る人の思いがこめられているだろう。単に売れればいいというだけではない、自分の苦労して作ったものが使われて喜ばれたとなるとうれしいとなる。そういう思いが商品にあってもただ金で媒介されるとき市場原理だけが働くだけになりその思いが消失してものの物神化になり疎外されるというのがマルクスの理論であった。

だから金というのは何か極端な不公平をみんな感じている。金持ちが例えば百万円使ってもなくしても何にも感じない、一方で貧乏人はそれで自殺もするし相手も殺すことも平気でする。金の重みが貧乏人と金持ちでは全く違うのである。ものの値段であり労働の値段でありあらゆる値段はそれがその価値に相当するかというとそうではない、ただ便宜上便利だから金に換算しているにすぎない。物の価値であれ人の価値であれ人間の価値観は刻々変わっているからだ。今価値あってもすぐに一年も一カ月もたたないうちにもう一日でも価値が変わるのが現代である。江戸時代は土地とか山の木材とか価値の変わらないもので生活していたから価値観がさほど変わらないが現代はめまぐるしく何でも変わる。
もともと商売だったら中国人や外国では物の値段は決まっていない、値切って決めるのが普通だというとき物の値段はその時その人その場によって一定していないからである。
だからポランニーの言う人間の経済というのが現代から見るとそんなことありうるのかというけどあういうのが本当の経済だったのである。

この世にはものがあってもそのものは常に人間の思いがこめられている。だからものは心と同じ意味になっていたのが日本語だった。ものが憑くとかになるからだ。
自然の石でも古い伝説となっている石などは何か本当に違っている。何かまさに心が憑くような感じになっている。全くの自然の石とは違って見えるのである。
実際にすでに何からの人間の心がついてものなのである。津波の跡の不思議を常に書いてきたけど庭の石とか樹が残っていたけど家がなくなったときそれが主人がなくなったがその忠実な家来が残っている感じになっていたのである。それはまるで人間だったのである。普通の自然の樹とは違っていたから何度見ても不思議だなと思ったのである。それは何か言いようがないものだったのである。


金とは何なのか(2)


人間の思いがこめられたものは価値は金では公平に決められない

人間の思いというものが意外と作用して影響が大きいことを意識しない。
ある人が殺したいとか強く思ったとき関係ない人にも影響して殺人起こるというのはそれだけ念が影響しているからそうなる。もしそういう悪い念が満ちてくると何か自然災害でも今回の津波でも起きてくるというのはそれが人間界だけではなく自然界にも影響してくるということもありうるのだ。
清浄な自然界で耐えられなくなりその悪い念を打ち消そうとして巨大災害が起きる。
どうしても今は田舎も都会もないのだが都会に悪い念が集まりやすい。
だから都会で大災害が起こると被害も甚大になる。
東北の大震災は津波はなぜ起きたかとなるとおそらく今後来る東京などの大都会の災害が起きる前兆かもしれないのだ。
思いは念は距離を越えて働く、だから外国からでもその念が影響することはありうる。一種の強烈な電波のようにもなる。ある人のことを常に思っていたらその人と会うということがよくあるだろう。
それも思いが通じているからそうなる。ある人を思ったとき電波が発信され相手に届き会うということもある。念は距離とか空間を越えて働いている。


そして金というのは一見人間の念とは関係ないように見える。
日々使っている金にどんな念が思いがこめられているか意識する人はいないだろう。
金にもそうした思いが働いているのだがその思いが普通は感じられない。
ところがよく箱に寄付金などに金を入れるとき一〇〇円でも何かすごくその金を意識しないか?
「俺は百円入れた、寄付したぞ」となるがその金は全く個人として記録されないし匿名なのである。
でも寄付金にその金には特別な思い入れがこもる。それは普通の生活で使う金と違っているからだ。
そこには何も代価を得られないから無償だからこそかえって思いと願いがこめられているのである。
だからそういう金を取り扱うことになると相当な注意が必要である。
寄付金というのは実際はどういうふうに流れてゆくかわからないのである。
そこで寄付金を管理する団体がその寄付金を私用するということもかなりある。
なぜならそこには普通の経済生活で行われている監査などされないからである。
つまりどこにどう金が流れて使われたのかわからないのである。
ただその集められた金には人々の思いが強くこめられているから百円でも普通に使うのとは違うのである。

だからそれを管理する団体は相当な信用がないとできないのである。
本当は収支をはっきりするのがいいのだが集めれた金がどれくらいあるかなども明確にされなくてもいい。
営利事業でないのだからかえってずさんになり金の行方がわからなくなる。
この辺の東北の震災の義援金を五万くらいもらった。それもこの辺では感謝すべきものだったのだろう。
原発補償金はまた別でありこれは義援金でなく補償金だから権利だから違っている。
だから義援金なぎ寄付金を集める団体が赤十字ですら何か疑われるのは収支がはっきりしないからである。
不正に使われてもわからないし私腹こやされてもわからない、そういうのは相当な罪になるだろうけどかえって善人にされる。でもそういう強く人間の思いがこめられた金を悪用するとそれは犯罪にもなり社会自体がゆがめられる。その影響も大きいのである。

大きな金を集めるとなると税金があるけどそこにも人間の思いがためられている。だからこそ税金を無駄使いしているのではないか、官僚や公務員だけがいい思いしているとか常に批判がある。税金にもなんらかの人間の思いがのりうつっているからである。だからそういう金を正当に利用しないと国すら腐敗し頽廃してゆく。
現代は金の世界だと常に言うとき金のあること自体がすでに責任を課せられている。金をもっている人が現代では一番偉いとされているからである。江戸時代は別に武士は貧乏でありそれでも偉いとされたのは庶民とは違い高いモラルを追求するものとしてあったからである。今は金をない人を誰も相手にしないし偉いともしない。
金があらゆる価値の基準になった時代だからである。だからどんな人であれ金をもっている人が偉いのでありまた責任も課せられている。億の金を持っている人は億の責任を課せられている。百億もっている人は百億の責任が課せられている。それだけの責任を負えるかとなるとかえって重荷になるから拒否する人さえでてくるだろうすでに金のあるところには人がよってきて金を有効にもっていな人のために使うことを要求さているからだ。
その金をためこんでいたりすると盗まれたり強盗にあったり殺されることまでされるのが現代である。
それは金中心の社会だからそうなっているのである。江戸時代でもそういうことがあっても別な価値基準もあったのである。今は全くその価値基準がないのである。だからみんな金だけを追求しているのである。

思いがこもる金として例えは年金は保険金だという人もいるが普通の保険金なら何かあったとき災害であれ事故であれ病気であれ払ってもらえるから払っている。保険は相互に協力するものとしてあった。災害のときなどは被害者が保険金を受けるとるが何もない人は受け取らない、みんなで助け合いとして資金を出し合ってリスクに備えている。
それがわかたっのは近くで同じ農協の保険に入って人が津波の被害で五〇〇万もらっていたのでわかった。自分は三〇万くらいしかもらっていない、でも被害が大きい人は高いのしょうがない、それでもその差が大きいと思った。それは互いの助け合いだからそうなっていたのである。ただそれを意識しないのが意識できないのが現代なのである。保険に入っている人は膨大でありそんな人同士がつながっているなど思わない、ところが江戸時代の講などは顔の見えるものであり協力していることが具体的に見える
現代のような広域社会は保険でもグローバルになると巨大であり数も膨大なにるから顔が全く見えなくなってしまうのである。

ともかく人間は思いが念が常に影響している。個々人でもそうであり社会でもそうである。誰か思っているとき念が働いている。そして意外と人は思うことは簡単であり目に見えないから注意しないのである。
それでも思うということはそれぞれの個人でも思うことは結構なエネルギーを使うものだということを知る。
なぜならたいがい思うというときその思いの働く対象が限られている。
ある人を思うとなってもその思いを働かせる人が極めて少ない、だからある人を思ったり思われることは得難いことだともなる。奇妙なことは憎しみも相手を思っていることなのである。何も関心がなければ憎しみもない、憎むことは相手を強烈に思うことなのである。だかち愛の反面は憎しみであり憎しみが愛に変わることもありうる。
無関心から愛も何も生れないのである。

「あなたは今誰のことを思っていますか」こう問う時、愛であれ憎しみであれ思いで通じ合っているというのも不思議である。なぜならこの世に数十億の人間がいても思っている人は数人にととまるだろう。
とくに老人になると交わる人が減ってくるから余計にそうなる。たださよならだけが人生だとなりやすいのである。もう思う人が死者だったりするわけである。だから墓が一番親しいものとなっているのが老人なのである。思っているのは墓に入っている死者だとなってしまうのである。
ただ死者を思い続けることも反応がないのだからやがて忘れやすい、いつまでも思いつづけることはそれだけ愛していたからだとなるだろう。
祈るとか願うとか宗教と関係してきたけどそれも思いが現実に働くから実際に効能があるからこそ今でも祈るのである。

ともかく金は単なる金属でもないし紙でもない人間の思いがこめられたものでありそれが金属となり紙となっているものである。ただその思いが感じられないのが問題なのである。
毎日買っている無数の商品にも作る人の思いがこめられているだろう。単に売れればいいというだけではない、自分の苦労して作ったものが使われて喜ばれたとなるとうれしいとなる。そういう思いが商品にあってもただ金で媒介されるとき市場原理だけが働くだけになりその思いが消失してものの物神化になり疎外されるというのがマルクスの理論であった。

だから金というのは何か極端な不公平をみんな感じている。金持ちが例えば百万円使ってもなくしても何にも感じない、一方で貧乏人はそれで自殺もするし相手も殺すことも平気でする。金の重みが貧乏人と金持ちでは全く違うのである。ものの値段であり労働の値段でありあらゆる値段はそれがその価値に相当するかというとそうではない、ただ便宜上便利だから金に換算しているにすぎない。物の価値であれ人の価値であれ人間の価値観は刻々変わっているからだ。今価値あってもすぐに一年も一カ月もたたないうちにもう一日でも価値が変わるのが現代である。江戸時代は土地とか山の木材とか価値の変わらないもので生活していたから価値観がさほど変わらないが現代はめまぐるしく何でも変わる。
もともと商売だったら中国人や外国では物の値段は決まっていない、値切って決めるのが普通だというとき物の値段はその時その人その場によって一定していないからである。
だからポランニーの言う人間の経済というのが現代から見るとそんなことありうるのかというけどあういうのが本当の経済だったのである。

この世にはものがあってもそのものは常に人間の思いがこめられている。だからものは心と同じ意味になっていたのが日本語だった。ものが憑くとかになるからだ。
自然の石でも古い伝説となっている石などは何か本当に違っている。何かまさに心が憑くような感じになっている。全くの自然の石とは違って見えるのである。
実際にすでに何からの人間の心がついてものなのである。津波の跡の不思議を常に書いてきたけど庭の石とか樹が残っていたけど家がなくなったときそれが主人がなくなったがその忠実な家来が残っている感じになっていたのである。それはまるで人間だったのである。普通の自然の樹とは違っていたから何度見ても不思議だなと思ったのである。それは何か言いようがないものだったのである。


タグ:人間の思い
posted by 老鶯 at 10:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題