2014年10月01日

復興とは何を復興させることなのか? (問い直された農業や漁業の価値)


復興とは何を復興させることなのか?


(問い直された農業や漁業の価値)

川内村では避難区域の解除になったけどあそこは実は原発で働いていた人が多かった。
なぜそんな辺鄙なところに住んでいるのだろうという疑問があった。
考えて見れば原発周辺の大熊と富岡に通う人が多い生活圏になっていた。
原発周辺には仕事があり豊かだったのである。
一方飯館村は辺鄙でも原発とは関係していないし働いている人はまれだったろう。
現代の生活の矛盾は農業だけではもう豊かな暮らしができない、みなんやめたい、跡継ぎがないと嘆くだけだだ嘆くだけだった。それは漁業でも同じだった。
福島県の漁業は宮城県の十分の一だからもともと農業中心だった。
大内村がそれなりに成り立っていたのは原発があったからだったともなる。゛

つまり川内村で生活していた人たちは昔のように農業している人たちではなかった。
原発で働いている人は三分の一くらいいたのかもしれない。
とするとあんな辺鄙な村でも意外と豊かな暮らししていたのかともなる。
それは三陸と宮城県の牡鹿半島などでも同じだった。零細な漁民だけの暮らしではない、近くに女川原発があり働いている人が多かったのである。
もしこの辺でも双葉でも大熊でも川内村でも原発がなかったら相当な貧しい生活に甘んじる他ないし強いられたのである。
だから漁業権だって売り物になり簡単に売り渡したのである。
それで破格の補償金を原発事故前からも事故後ももらっているのである。
そういうことが今回の事故でわかったのは東電があんなに巨大な会社だとは知らなかった。
つまり国並みの会社だったのである。

「米や野菜を作っても金にはならないよ、もうやりたくないんだ、息子も跡を継がないしな」
「漁業もとてもやっていけない、燃料費はかかるし、魚を獲るだけでは生活できないよ」
「農業も農機具にかかるから同じだよ」
「東電の補償金はありがたいよ、漁業権もっていても漁業では生活でとないんだから」

こういうことは常に言われてきたのである。まず農業であり漁業であれ山の林業であれ山もっていても木材が利用されないなので荒れていた。つまり津波原発事故の前からそういう不満だげが延々と言われてきたのである。
本当はこいうことが津波とか原発事故をもたらしたものかもしれない、それは文明の問題でもあり現代の文明中で生きていればそうなってしまうのである。

「米の実りを野菜の実りを魚の恵み海の幸を山の幸をわしは与えたが人間にはこれだけ与えているのに不平しかない、感謝することなど毛頭ない、ただたりない、たりない、金にならないしかない
それなら米も野菜も魚も貝も木材すら使いないものにしてやるぞ」

そんなふうに見ていたということもありうる。自然の法則で起きたというだけではない、海の恵みでも大地の恵みでも感謝していたらこういうことにはならなかったかもしれない。
だから農家の人は米の実りを手にしたとき新たな感動が生れた。船をだして海で魚をとった人もそうだった。
満面の顔で魚をとった喜びを現していた。
つまりそうした本来の神からの自然からの恵みをないがしろにしていた。
そんなことを金に追われている生活では普通は考えないだろう
実際小さい畑で野菜を作っている人は虫に食われたネズミやモグラに食われた、盗まれたとか、苗を買っても高かった。肥料に金がかかったとか草取りは毎日だし農業はそれだけ手間暇もかかるし肥料だとか農薬でも現代で金がかかる。そして年取って腰が痛いとかどこそこが悪いとかなりもらったのはキュウリ一本とかネギ数本だった。そもそもハウス栽培では燃料代や電気代がかかるから昔の農業とは違っているのである。
現実問題として農業をやりたくなるのもわかるのである。

だからこそ大内村でも牡鹿半島でも零細な漁民は女川の原発で働いていて今の生活が成り立っていたのである。原発の再稼働とか新しく作る場所はそううい農業や漁業で生活が成り立たない地域になっているから金の魅力に負けて原発が作られたのである。
だから大きく考えれば現代の豊かな文明自体の問題でもあったのだ。
石油でも原発でもそのほか過剰なエネルギーを消費して必要とする文明自体の疑問が生まれたのである。
では電気のない江戸時代に帰れとかではない、電気を否定することはできない
何か限度を越えた過剰なエネルギーの消費とかゴミを出す文明とかの問題がある。
そもそも原発に手を出すこと自体今回の事故でわかったように空恐ろしいものだったのである。
なぜそんな危険なものに手を出さねばならなかったのか?
それは核兵器がなければ国を守れないという理屈と同じである。
もう原発なしでは経済は成り立たないとか石油がなければ生きていけないとか、だからこそ戦争してまで石油がを確保しなければならないと言うのと同じである。
それは脅迫までになっている。
だからそもそも復興というとき何を復興なのかわからないともなる。
今確かに米でも野菜でも魚をとることが林業ですらそういうものが壊滅したときそれを復興させることなのか?
さんざん農業や漁業や林業に見切りをつけてきたのが現代である。
だから復興となったら原発再稼働すらいいとなる。実際に富岡とか大熊ではそんなことを主張していた。
なぜなら原発を復興させないと金も入らないからである
特に農業などはもう放射能で売れないともなると余計にそうなるのである。
だから復興復興というけど何を復興させるのかとなる。
原発の復興も必要だという議論になるのもそのためである。
何にも収入もなくなればますます東電や政府に頼る他なくなってくる。
それで補償金のあとは生活保護だという人がこの辺では老人が多いから言っている。
ただ米の実りがない風景は荒涼としている。それは単に景色ではない、その実りは生活の糧としての実りである。それが新鮮に見えたのも不思議である。
当たり前の風景が当たり前の風景でなくなったのである。
大地に実りがあってこそその土地土地の生活もありうる。

古代の詩と神話は農耕がかつて神聖な技であったことを示している。
われわれの目的はただ大きな農場と大きな収穫をもつことにあるからだ。
われわれは農夫が自分の職業の神聖さをの自覚を表現し、その神聖な起源を思いおこすための祭典も行列も儀式ももたない、彼を魅惑するのはそれによってあがる利益と祝宴のこちそうである。
彼は穀物の神シアリーズと大地の神ジュピターに犠牲を捧げるのではなく、地獄の富の神プルータスに犠牲をささげているのである
われわれはのだれもがもっている貪欲と利己心、そして土地、財産、あるいは主に財産を獲得する手段とみなしていす卑屈な習慣によって景観はゆがめられ、農耕はわれわれの手で堕落し農夫は最もいやしい生活を送っている。(ソロー森の生活)

この言葉がこの辺ではぴったりなのである。これは文明全体にあてはまる。

彼を魅惑するのはそれによってあがる利益と祝宴のこちそうである。

農業とか漁業とかではない林業でもそうである。要するに金になればいいんだということになる。

われわれはのだれもがもっている貪欲と利己心、そして土地、財産、あるいは主に財産を獲得する手段とみなしていす卑屈な習慣によって景観はゆがめられ

まさに原発は金になるからいいじゃないかと積極的に誘致したのがこの辺であった。それは他でも同じである。その金の魅惑に負けてしまったのである。
彼は穀物の神シアリーズと大地の神ジュピターに犠牲を捧げるのではなく、地獄の富の神プルータスに犠牲をささげているのである。
まさに地獄の富の神とは原発だったのである。人間の限りない欲望が原発を作り出したのである。
欲望は抑えることができないから危険でも誘致するようになる。
その結果としてこの辺の悲惨な状態がなある。それは天罰だったというときあながち否定できない、
人間のあまりの身勝手、その欲望をあくなく求めることが原発を作りだして災いを作り出したことは確かなのである。
タグ:復興
posted by 老鶯 at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連