2014年10月22日

南相馬市など介護が足かせになり衰退 (うば捨て山が現実化する)


南相馬市など介護が足かせになり衰退

(うば捨て山が現実化する)




南相馬市の高齢化問題は深刻である。そしてこれが放置された場合には、状況はさらに深刻化し、介護負担が大きい郷里に戻ることを躊躇する若年世代が増えることが予想される。




福島第1原発事故で約1200人が避難する山木屋地区を抱える
福島県川俣町。17日午前7時、町中心部に近い養護老人ホーム
「済生会川俣光風園」は喧騒(けんそう)に包まれていた。

事務室に通された。職員のスケジュール表が目に入る。
「午前5時48分−Aさんの排せつ介助」「同59分−Bさんの起床介助」。
スケジュールは分単位で埋まっていた。
「職員が足りなくて、これでもサービスを減らしているの」。

人手不足に拍車を掛けたのが原発事故だ。職員が避難したり、
定年退職者の補充ができなかったりして、52人いた職員は46人に減った。
そのうち半数はパートだ。逆に仕事量は増えた。
全町避難が続く浪江町などから避難した高齢者を受け入れ、
入所者は現在80人。定員を5人上回る。平均年齢は80.2歳。

福島労働局によると、介護職の有効求人倍率は2.84倍。
全体平均1.41倍の2倍近くになる。子育て世代の母親は避難し、
力仕事で頼りにしていた男性介護士たちは高給の除染作業に流れた。



この二つの記事は何を訴えているのか?

力仕事で頼りにしていた男性介護士たちは高給の除染作業に流れた。

介護する人が不足して介護できないということ起きている。川俣では浪江の人を施設で受け入れたことも大きな影響を及ばししている。それだけの老人を介護する余裕はもうない人手不足でありいない、除染作業が高給で介護の人手もいないというのも原発の複雑な影響が起きている。川俣町は山木屋をのぞいて東電から補償金などもらっていない、飯館などはもらっていても隣の川俣町は全然もらっんていない、すると当然金が欲しいから除染の仕事を選ぶ。川俣町は原発事故の影響を相当に受けた。飯館村が隣だということの影響が大きかった。でも補償金が入ってこないから除染の方に人が流れるのも必然だった。


介護負担が大きい郷里に戻ることを躊躇する若年世代が増えることが予想される。


南相馬市で起きているのは特に避難区域になった小高などは若い世代が帰らない人が多いという。女性から見ると姑とかと一緒に暮らさなくてもいいからかえって補償金をもらって他で若い人たちだげ暮らした方がいいとう選択になるという。
これも確かに女性から見たら今の時代は現実に姑とかとは離れて暮らしている人が多いから当然だとなる。かえってこの際チャンスだとなり帰らないとなる。
故郷への執着心もあまりないのが若い世代である。
ここでも補償金がもらえるかもらえないかがかなり影響している。
他で移り住むにもそれだけ資金が必要だからである。小高の場合はそれだけもらえるということもあるかもしれない、浪江とかなると一億もらえるとなる若い世代は余計に帰らない、そのことがすでに南相馬市でも65歳以上の割合が増えた要因である。

つまり原発事故周辺でも津波の被害地区でも高齢化ということが深刻なのである。
復興するにもその担い手の若い世代が流出しているからである。
姑と暮らさなくていい補償金もたんまりもらえるとなると余計に若い世代は流出してゆく若い世代が年寄りを介護したくないというのもわかる。だから帰らないというときまさにこの辺はうば捨て山になるのである。放射能廃棄物とうば捨て山になってしまう。
小高にしても復興がむずかしいというとき老人だけが残り若い世代が流出したら復興はできないだろう。80歳の老人が何かをしようとしてもこれから介護になるかもしれない、その若い世代がいなくなるとなるきそっちの方が心配になるのである。
そんなのでは復興などあり得ないだろう。
介護は自分もここ七年しているけど楽じゃないのだ。そして介護はつくづく長くつづくものだなと思った。だらだら何か生産性がなくつづくのである。
その介護の長さも負担になるのである。だから介護の負担したくないから若い世代が帰らないとなると一体誰が介護するのかとなる。
もう人も集まらないし介護する人なく捨てられるとなる。


それは別にここだけの問題ではない、全国的な問題でありだから東京ではもう施設に入れる余地がないから地方でめんどうみさせろとか言うのも納得できないのである。
そもそも介護の人手がないのにそんなに老人ばかりおしつけられたらどうなるのか?
いくら金が使うからいいといっても金だけでは解決しない問題が生まれているのだ。
「俺は億の金があるんだから田舎のものはめんどうみろよ」とか言ってもそもそもそのめんどうみる労働力がないのだから迷惑だとなる。
老人ばかり押しつけられてもどこでも歓迎はしないだろう。金を持っていても経済的効果を生むとは限らない、老人ばかりで仕事は介護ばかりだという街に住みたくないだろう。東京はだから高度成長の時は若い人を労働力と吸収して使えなくなったらまた地方にもどして若い労働力を吸収し続けるのも大きな弊害になっている。
そして何でも一極集中というとき今高齢化で60代の人が遺産相続している。
その金もまた東京とか大都会に集まっているというのも弊害である。
息子や娘が東京に集まり田舎には帰ってこないからである。
何かこれまでの日本の社会の矛盾が高齢化で極端化して現れてきたのである。



大相続時代で地方の金が大都市圏に流れる

今後20ー25年間に想像される金融資産は650兆円でこのうち120兆円が地域を越えて移転する
埼玉、千葉、神奈川に約50兆円がながれこむ
地方30県の家計の流出額は家計金融資産の二割に達する。
(福島民友ー2014-10月2日)

タグ:介護
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2014年10月23日

山帽子の実(不幸だった大正生まれの母の一生)


山帽子の実(不幸だった大正生まれの母の一生)


烏いて二両の電車や芒かな

鶏頭や夕べ人あり前畑に


山帽子赤き実なれり幸薄き母にしあれや我がいたわりぬ


人間の一生も家族でも多様であり他から知り得ないものがあるのだ。
まず自分の母親は不幸の連続だった。幼少期だけが金持ちであり幸福だった。
あとは事業の失敗とかで一家離散であり継母に育てられたから不幸だった。
その後も不幸がつづいたのである。大正生まれとなると何かそうした不幸な人が多い。
つまり時代が過酷でありみんな貧乏だったからそうなる。
だから母だけではない、その一生を聞いてみれば同じように苦労した人が多いのである。
何か今は自分が介護しているからそのことを喜んでいる。自分の家に来てもいたわられることもない人だったのである。女中のように使われていたともなる。
ただそこにはそれぞれの家族の複雑な事情があり他からは理解し得ないものが必ずある。ともかく最後になるとみんなその一生をふりかえる。

一般的に介護というとき他人だとなかなかその人がどういう人生を送ってきたかわからないから同情心がわかないのである。
ただ金をもらえるからしかたがないからやるとなる。
だから介護は本来は家族でやるものであり家族には何かしらやる動機があるからそうなる他人になるとそういうモチベーションがもちえないのである。
ただ一日中見守り介護となると苦しくなる。認知症の介護は一番苦しかった。
でも自分は特別世話なっているから耐えるほかなかったのである。
家族には何らか介護する動機があるが他の人には金しかないとなると何をするにもただそこに心がこもらないということになる。


誰かが言っていたが嫁が来た家で嫁がその家に満足しない家は栄えないというのは本当かもしれない。「ああ、この家に嫁いできて良かった」とならないとその家は栄えないというのは本当かもしれない。嫁は女と家だからその家の人となるのがまさに嫁だからそうなる。
ともかくそれぞれの一生がある。それぞれの家族には家族の物語があり個々人にもある。それはもう語り尽くせないほどある。
この家がどうしてこうなったのだろうかというのも本当に不思議である。
それはカルマも深く関係しているのである。
母と子が同じ運命をたどることは普通にあることなのだ。
親の因果か子に報いなど普通にあり珍しくないのである。
人間は結局は最後はストリー物語になってしまう。
そして人間の一生は本当に最後まで死ぬまでわからないものだと思った。
まさか認知症になって馬鹿になり死ぬとは思いもよらなかったからである。


最近75歳の病院経営者で敏腕の医者が30歳の嫁をもらったがこの嫁を殺して自殺した。
これほど優秀な人でも最後はわからない、どれほど優秀な人でも最後の結末はわからないということである。この人は体力も知力も人間力も備わった人だったのである。
なぜそうなったのかわからないにしろやはり優秀な人でも最後はどういう結末を迎えるかはわからない、結果的にはこれだけ優秀な人でももう誰も評価しないとなる。
人間にはこういうことが結構普通にある。その最後がどうなるか見てみればそうなる。


自分の生活は二両の電車が相馬市と原町を行き来しているように本当に狭い範囲で生活するようになった。まず遠くに出れないのである。
今日も母が昨夜も朝も水も飲まなかったからいよいよ老衰状態に入ったのかと見えた。
でもまた昼は食べたからそんなに急には死なないみたいなのである。
ただこの年になると急激に弱って死んでいる人もいるからわからない。
人間の寿命は神が定めているというときそれも本当なのかもしれない。
99歳になってもいつ死ぬかわからないのである。
ましてや60代ではいつ死ぬかわからないとなる。

前畑に人がいて畑の手入れをしているということは生活があることである。
田んぼにはなくなっているが畑をやる人は増えてきた。
前畑ということが何か家と一体となり生活があることになる。
今はみんな働くといっても通勤であり遠くになる。
田舎では確かに近くだがそれでも会社となる家から離れるのである。
だから農家では前畑とか前田と門田とかが重要になる。
働くにしても家の延長であり庭で働く感じだからその感覚はそこに住んでみないとわかりにくいとなる。

 
家のもっている(家霊)の力
(NHK-家で死ぬということ-を見て)
http://musubu.sblo.jp/article/54156891.html


タグ:山帽子

小渕優子の失敗 (二代目は苦労がないから失敗する)


小渕優子の失敗


(二代目は苦労がないから失敗する)


 
 カリスマ経営を引き継ぐ二代目の不幸 
そんな組織を突然に引き継ぐことになった二代目は不幸です。
「創業という地獄」を経験したことがない。今日食べる飯の心配をしたこともない。
社員のボーナスを出せずに社員に頭を下げた経験もない…。
生まれたときには、既にぜいたくなお金持ちの暮らしを与えられ、
周囲からボンボンと呼ばれてしまう二代目が、カリスマ経営の組織を引き継ぐのは
難しいと言わざるを得ません。
先代社長の大番頭、小番頭がにらみを利かせる組織を操らなければならないからです。
「ボンが小学生の時には、まだおねしょをしてましたなぁ」
などとからかわれながら番頭たちを束ねていくのは大変な苦労です。
http://dir01.keiei.ne.jp/dir/faith/column/10033467.html

小渕優子の失敗は二代目だったことだろう。それも父親が死んで実力も備わらないのに跡継ぎに簡単になってしまったことである。政治経験などあの若さではなかったけど簡単に当選した。それが今日の失敗の基になっているのだ。
要するに簡単に成功することは失敗の基になる。
創業者は簡単に成功しない、血のにじみでる努力もしているし賭もしている、難局をのりこえてきた。
まず人を使うことほどむずしいことはないのだ。この女性大臣は全くのお姫様だったのである。何にも知らないというかとても人を使いこなせるような人ではなかった。
だからなぜ悪いのかという認識すらないかもしれない、政治資金のことがわからないのである。公金という意識ももてないのである。
つくづく金の扱いほどむずかしいものはない、自分もちょっと遺産が入っただけで犯罪にあうは借金を入院しているときまで要求されたり金の怖さを知った。
金ないにしろあるにしろ人間を狂わせるものなのである。
政治が利権だというときまさにその利権に群がる人が寄ってくる。
あまりにも誘惑が多い職業であり利権とか金とかにふりまわされる職業なのである。

そして二代目は創業者の苦労などわからない、だから人だって使いこなせない、秘書が名にしていたかもわからない、チェックすることもできない。
つまり本当に小渕優子はただ親が死んだことで何にも苦労せずなったのであり何も政治のことを知らないでなったのである。
だから自分の贅沢のために私用のために公金を使っていたのである。
そこになにか違反しているという感覚もなかったのだろう。
そういうことを番頭である秘書が教えるべきだったがその秘書がネコババしたんだろうかとも言われる。

小渕優子は「国民の選良」としての責任感がすこぶる希薄で、取り巻きがフォローしないとカネの管理も、事務所の運営も、地元からの陳情の処理も自分では何一つできない。神輿に乗っているだけの「田舎のお姫様」だったのだ。それをよいことに、小渕の周辺では、父の代からの「政治ズレ」した擦れっ枯らしの秘書どもが幅を利かせている
http://dmm-news.com/article/894243/


こういうことなんだろうな、本人はわからなかった。ただ操り人形にすぎなかったとなる
二代目というとき自分も家の二代目だった。創業者はやはり苦労していた。
店をはじめる資金をかりるとき罵倒されて苦労したからである。店でも昔の店はこまかい、ばら売りであり新聞紙の袋に入れて売っていた。
そういうことを見ているからどうして財産が作られたかわかる。株とかギャンブルとは違っている。
ともかく自分はただ何も努力しないで引き継いだだけなのである。
だから自分が最後は財産をひきついだとき狙われた。
他人がこれほど信用できないものなのか思い知らされた。
二代目は能力がないのに引き継ぐから失敗が多いし創業者の功績もなきものにしてしまう恐れが多い。


戦国時代でも二代目は失敗して従う家臣も武田家のように没落する。
それは個々の小さな家でも起きているのだ。
自分が二代目になったのは遅すぎたのである。今は遺産を相続するのが高齢化で60代になっているからそうなる。
これは個々の家だけではない、社会全体でも国レベルでも跡継ぐのだ遅くなる。
重要な役職でも若いときでも経験を積んでいれば継承しやすいのである。
ただ小渕優子の場合は早すぎたの失敗でありもっと政治家としての下積みがあればあのようにはならなかった。
金の重みにしても借金した人は一番知っているというとき借金もしないで金がいつも豊富になるとなると金の重みわからないのである。
自分は金の重みは知っている、自由に百万の金を使っていない、ただ衣食住に困らないというだけたった。旅もいかに安くするとか何か自由に金を使ったことがなかったのであるだから何か大金が入っても使えないしせこいのである。
今ふりかえるとこういうせこいのも人間的には人間を小さくする。
もう最低限の生活している人を知ったがその人はやはりせこすぎて失敗したのである。
千円とかごまかそうとするのもそうした最低限の生活が習慣化していたからである。
自分もそういうことで失敗している。


阿部首相も二代目であり何ら自ら努力したりなし遂げた人でもない、ただ政治家の家に生まれたから政治家になったにすぎないのである。田中首相のような人とはまるで違ってるそして自民党は今は世襲であり二代目が多いのである。
日本全体が高度成長を終わったとき二代目が会社を継ぐ人が多くなる。
新しく創業する場がなくなっている。それがまた活力のなさを生んでいる。
日本は少子高齢化で新陳代謝が行われない社会になり活力が失われたのである。
若い人抜擢してもそれが二世だったから失敗したともなる。
社会は常に新陳代謝が必要でありそれがないと活力ある社会にはならない。
革命はそのために必要なのである。
それはあらゆる分野でそうでありまず師のコピーになるようでは終わりである。
結局人間は時代によっても前のこととはまるで違ったものを経験するのである。
まず津波など経験しようがないからそれで自然や社会やあらゆる見方まで変わってしまったのである。こんな変化がこの世でありえるということが実感したから世の中の見方も変わりそれにどう対応していいのかもわからなくなっているのである。


ともかく二代目は自分もそうだが変なことやる人が多い。王子製紙の二代目がギャンブルで百億円使ったとか金があってもその使い方もわからない。だからその金の重みもわからないから浪費をしてしまう。二代目はどうしてそれだけの財産を築けたか苦労していていからわからないからそうなる。タイでit会社の社長の息子が跡を継がせるために多数の子作りしていたとか常識では考えれないことをしている。それもやはり二代目はおかしな方向に脱線しやすいのである。
だからともかく創業者がどういう苦労したかふりかえるべきである。
どうしてそれだけの財産が築けたのか?ギャンブルで築いたわけではない。
そこにはやはり創業者や社員の努力があって築かれた。それをギャンブルで使い果たすことはその努力を無為にすることなのである。


農家でも二代目はやはり開墾した創業者がいるときそうである。こうして北海道辺りでも苦労して開墾したのだと聞けばそういう苦労を知らないと知っているのでは違ってくる。それはまた歴史を知るということでもある。どういう経過で今日があるのかを知ることが歴史だからである。そういうことがわからなくなるとまた失敗するのである。
だから奇妙だけど家の掃除すると家に愛着をもつ,自分が掃除して家がきれいになり維持しているんだという感覚を持つようになる。
でも金持ちの家では家政婦に何でもやらせていたらそうはならないのである。
何か掃除することによってもその家でも愛着をもつから会社の建物でも掃除することは愛着を持つことになる。だから掃除に意義を見いだしているのもわかる。
要するに人間はただ何でも与えられるだけだと価値がわからないのである。


戦争の悲惨さも忘れまた戦争したりする。まず戦争で死んだ人たちは悲惨だった。
みんな若いし才能ある人も多く死んだからである。
今は一人の老人を生かすために長生きするためにいたりつくせりで介護したりしているけど戦争で死んだ人は無残だった。
どんなにふうにして死んでいったのか?それは地獄絵図だったのである。
そういうふうにあまたの犠牲の上に今日もある。
タグ:小渕優子
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2014年10月25日

分断された南相馬市の溝は深い (市議選でなぜ小高の人が鹿島の議員を応援するのか?)


補償金で分断された南相馬市の溝は深い


(市議選でなぜ小高の人が鹿島の議員を応援するのか?)


鹿島にいる仮設の小高の人が鹿島区の議員の応援している。世話になっているからだという。南相馬市だから小高の人が一票をもっているから鹿島でも小高でも応援してもらうようになる。その人も老人だから小高に帰らないという。
小高に積極的に帰り復興しようとする気持の人は少ない。
老人になると何かめんどうなことがいやになるからである。
それで金ある人はすでに原町や鹿島に家を建てている。
ただそれだけの資金がない人はどうするのだろうか?
その人は資金のある人ではない、だからかえって補償金で得した方だろう。
補償金もらって得した人たちもかなりいるのである。
働いていたときもそれほど金をもらっていた人ではないからである。

南相馬市は補償金問題でもめて分断されて合併したのはいいけど前の小高、原町、鹿島に分裂したのである。利害関係で分裂した。小高は一番補償金もらっていると反発が多いし原町もそれなりもらっているし原町中心になっているからそこに予算を使うからそれほど問題になっていない、でも鹿島区は割りを食ったのである。
そもそもこうして分断されたのは東電や政府の策略ではなかったかということが言われるそんなに放射線量で区別すること自体おかしいのである。なぜならみんな土地はつながっているし大気だって森だってそうである。
細かく地域的に放射線量で分けること自体が理に適っていなかったのである。
飯館村が原町とか相馬市とか鹿島とか相馬市と関係ないとはならない。
核の廃棄物処理場になったらやはり影響する。
何らかでもれると土にしみこみ水となって流れるからである。
今でも真野ダムの水を鹿島区と相馬市で飲んでいるのだからその影響もある。
だから放射線量だけにこだわって区分けしたのは政府と東電の策略という一面があった。なぜなら南相馬市では互いにいがみあうようになったし他でもそうである。
それは政府と東電にとって都合がいいいものだったのである。
政府や東電へ一致して抗議するより互いに小地域でいがみあってもらうほうがいいとなるそういう策略にうまくのせられたともなる。
そもそも小高は放射線量が低いのだから避難区域にするべきではなかったのである。

だから鹿島区の議員がなぜ小高の人を応援しているのか?それも疑問だけど南相馬市であり選挙権をもっているからそうなる。南相馬市となれば小高の人にも尽くさねばならないではなぜ鹿島区の人が不公平な処置がされているのにそのことはどう考えているのかともなる。小高の人は今では優遇された人たちとされている。
その溝は深くしこりとなっているから南相馬市は一体感はなくなっているのである。
そのことは政府や東電によっては都合いいものとなっている。
南相馬市はそうしたことに対策しなかった。政府と東電のいいなりになったというかそうせざるをえなかったのか?議員は何をしたかとなると何もしていないとなる。
どこでも議員は何もしていないと言われるようになった。
ただその女性が応援しているのは鹿島で何か世話になったというから応援している。
何を世話したのかはわからない。鹿島では小高の人を良く思っていないからである。

小高の人が小高に帰らないという人が多いというとき小高はどうなるのか?
ある人は補償金もらってそのままもらえるような感覚になっている人もいるだろう。
あとは生活保護だという人もいる。それもまた困ったものなのである。
小高は南相馬市で負担になっているのだ。
それはいわきに避難した人たちとにている。ただイワキのようにならないのは南相馬市民であるから違っている。だから選挙権あるから鹿島の議員が小高の人を世話するとういことがある。いわきではいわき市民ではないからそうはならないのは違っている。
でもいったん生じた溝はしこりは消えない、感情的にも消えない、互いに反目するようでは市政だってスムーズには進まないだろう。
相馬市などはそんなことはないだろう。南相馬市は一体感をもちえないのである。
相馬市は相馬市は避難民を受け入れているから反発がある。
避難民はそういうことを考慮しなければならないのだかそれがあまりないのである。
ただこの辺では表立っては言わないしイワキのようになっていない
ただ相当に内に不満が鬱屈しているのである。
そういうことは口に出なくても必ず影響してくるから怖いのである。

避難民でもいろいろな人がいる。例えばその土地に役立つような人は尽くすことができる人は批判されないだろう。ただ金があるからと消費しして金を使うのだからいいとはなっていない。そういう側面はあっても毎日パチンコだとかなると地元の人たちが働いているのに避難民は遊んで暮らしているのだろうとなる。もし大工とかだったらそこで働けば人手不足だから助かるとかなる。介護関係などでもそうである。
金があるだけでは威張っていならないのである。
だから避難民はどこでも反発されていて良く思われていないのである。
小高の大工さんは働いているということであまり批判はされないだろう。
でも多数は働かないで遊んでいるとなると批判されるだろう。
それで介護関係でも避難民は働くようにした方がいいと助言して具体化しようとするのもわかるのである。
別に老人になれば働かないのだから年金暮らしとかなるのだからそんなに責めない
でも避難民は年金暮らしでもない多額の補償金をもらっているから責められるのである。なぜ避難民ばかりあんなに補償金をもらえるのだと反発される。
避難民にも言い分があることがわかっていても現実問題として今の世の中必ず遺産問題でもそうだが金でもめて金が原因で必ず揉め事が起きてくるのである。




posted by 老鶯 at 10:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

秋深む(故郷の墓地を尋ねるー郷土史研究には墓地を尋ねるべし)



秋深む

(ふるさとの墓地を尋ねるー郷土史研究には墓地を尋ねるべし)

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小池の墓地


古き碑に木の葉の散るや身近にも

墓のみそ残りて誰や虫の声

故郷の墓地を訪ねて秋深む

故郷に残れる墓地や秋薊

故郷に名もなき墓や草の花


 小池の墓地奥の墓地は不思議である。二十数基あり 半分は戒名もあり主に個人墓である。
墓は最初は個人墓であり次に明治になり夫婦墓になり家族墓になった。
ただあそこの十数基は戒名が記されているし墓も立派である。あとの半分くらいは石塊であり名前も記されていない。おそちく使用人とかなのだろうか。ただ卒塔婆に名前だけ記されたものがある。
それはやはり墓を作れない人だった。小池とかじさ原にはそういう名を記されていない墓地がある。
立派な墓ではない、だからあそこの墓が戒名があり立派な墓なことが不思議なのである。
辺りを見ても家もまれであるから江戸時代になるともっと何もない原野だったろう。
そこになぜあれだけの墓があり江戸時代後記から明治までつづいていた。
その後はあの墓地は使用されなくなった。

小池村の中心はあんな奥ではない、戦後も引揚者が開墾に入った人を知っている。
その人は自分の父親が勤めていた新山の酒屋で働いていた人だった。
それはタマゴ屋の漬け物倉庫のある所だからあんな所でも開墾する場所があったのかと思う。
それだけ開墾の歴史は長いし農業が仕事となっていた時代が長かったということである。
いづれにしろ墓は江戸時代になれば文化財となるから捨てるのはまずい。
最近墓を守るものがなく大量に捨てられている。その墓には元禄というのもあった。
西の方だからめずらしくないのかもしれない。この辺では元禄と記された墓は滅多にない。
墓は家がなくなっても残るものだから歴史の証になりやすいのである。
郷土史でも謎になっているのが多いのである。
墓は書類と違って無味乾燥なものではない、そこに確かに生きた人が埋まっている。
そこの土地と一体化してあるから身近に感じる。
その土地に根を張るようにあるのが墓なのである。
だから他のものと違い簡単に捨てられない、今でも地元の人が花をささげているということは
やはり供養する人がいるということで捨てられた墓とも違うのもしれない、ただあそこは継続して墓地としなっていないことが問題なのである。
やはり継続してないとやがては何でも捨てられるから歴史には継続が大事だとなる。

今年はなんか日ざしが暑い、温暖化なのだろう。それで秋が深まっているのだけどそういう感じがしない
四季がなくなると俳句には困る。四季があって季語あって成り立つからである。

      


                                                                      
タグ:墓地

海と陸の抽象画



海と陸の抽象画

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海から生まれた陸


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海と陸の紋章


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海のドーム

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二つの太陽系




抽象画でも2,000円のペイントグラフィックでも使いこなせていない
これ使っていなかったなということが未だにある。
まるで脳機能と同じである。
脳の機能でも2割しか使われていないというのはそのことなのである。
つまり脳にはまだ無限のかのうせいか秘められているのだ。
ただそれぞれが使われいないだけである。
例えばブルーカラーになると肉体的に酷使されて脳が使われないことがある。
もちろんそれでも何かを体で学ぶのだが脳は使われていない
脳というのは使い方によって活かされるのである。これは才能の問題ではない。
開発力が能力になるのだ。そういう時間をもてない人は開発されないだけかもしれないのだ。


自分は文学でも何でも何ら才能があったとは思えないのだ。
体力も非力だし人間的にもあらゆる点で劣っていた。
だけど自由な時間が与えられたということがそれなりの才能が開発されたとなる。
何かにどれだけ時間を費やすかで人生が決まるというとき生まれつきの才能より
あることにどれだけ時間をかけるかが問題になっているのだ。


旅にこれだけ時間をかければやはり何か教科書だけで本だけでは学べないもの実地で学んだ。実地の訓練が時間をかけることが何物かにしているのである。
あらゆることに時間をかけられる人はいないからである。
一つのことに時間をかければ他のものには時間をかけられないからである。


とにかくパソコンは人間の頭脳ににている。一つの脳の代理機能のようになっている。
だからソフトがその脳の機能を拡大しているのである。
パソコンの抽象画はまさにパソコンのソフトによって拡大化された引き出された開発されたものから生まれたのである。そんなもの芸術ではないともなるがやはり何らかの創造なのである。
タグ:海と陸

2014年10月26日

秋に深野(ふこうの)の墓地を尋ねて


秋に深野(ふこうの)の墓地を尋ねて

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深野に墓の古りにつ秋の山
深野の墓地や数十輪秋薊
深野の墓地や二羽ほど秋の蝶
石くれの名もなき墓や草の花
深野の墓の古さや秋の暮

深野に育ちし女の石神に嫁ぎてあわれ秋のくれかな

深野の墓地は古い、明暦とか字が見えた。そんなに古いのはなぜなのかとなる。
小池からゆくところはいかにも墓地にふさわしい場所である。
小池は江戸時代後期でありここはそれよりずっと前のなのである。
ここはまたあとで考察しよう。
故郷は何かというときこれもいろいろ言うのだけど一つは墓地にあると思う。
そこに身近では祖父母が眠り父母か眠っているということで墓地が墓があることで
故郷になる。
だから最後に老人が墓守になるというのが故郷である。
自分の場合は本当に家で残っているのは自分一人なのである。
最後に墓を守るのは自分だけだとなる。
墓を意識するのもやはり老人でり若い内は墓参りもしなかった。
今になると供養するのは自分だけだから墓参りしている。
墓を見て思うのは花がいつまでも枯れたあるのは良くない
そこはやはり離れているからたまに墓参りだけにくるからそうなる。
掃除する人がいないのである。
それから造花なのも嫌なのである。
いつまでも造花をさしていると墓も活きていないなのとなる。
時々来て墓参りして生きた花をささげると墓も活きているとなる。

ともかく深野の墓は広いし辺りに家も見えないし墓地にふさわしい所だと思った。
深野で知っている女性は深野で生まれたのかどうかわからない、深野で育ったことは確かである。
そこからおそらく見合いかもしれない、石神の旧家に嫁いだのである。
近くに嫁に行くのは今では普通だった。
今はとんでもない遠い所にでも嫁に行くし嫁にくる。
今回の原発など避難先でも全国にわたっているので驚く。
でも嫁に来た実家がある所に避難した人もいるからそうなっている。
それだけ全国から嫁に来ていたともなる。

何か深野と大原が意外と古く原町では一番関心をもった。
原町の市街は関心がもてない、それでも橋本町に母の実家の墓があるのでやはり墓参りするから違っている。
避難区域でも墓をどうするかが意外と老人では問題になっているのである。


2014年10月27日

文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名 (深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)


文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名


(深野がなぜふこうのとなるのか地名の謎)

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(小高)

御なはニ御百姓くみの
つのほう(角部)
・・・・・・
(原町)
かや浜
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
つち内
下沢
(双葉)
新山
けちう
立野ニなこ地備後守
こうかや
さいの内
宮田
こまはの
大森
むないり
せきはの
こいし
清水の
いしはし
いりの
中島
たたき田
(原町)
大原
谷河原
鳩原
はの倉
やいこめさい
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉
しふさ
鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
かなわ
大井
こやき
かん崎
(浪江)
たかの
なんとう内
やかはら
(小高)
川ふさ
おなはの
村上
かやしき
えひさわ
(鹿島)
とちくほ
山下
やす倉
小池
(浪江)
おみの
大加り
かうの草
末の森
たかつか
さかいの
かりやとの
宮田
いての
小野田
高瀬
岩井沢
こわなし
ふるみち
根本の
はんかい
夫沢
(小高)
おなは
もと城のうち
北目
なてかつか
山田
おおかい
ゆノ木
中山
椎葉
つさ原



郷土史は何を手がかりとするかというと野馬追いから探る人もいるしいろいろな方面からアプローチできる。自分の場合は地名だった。
何か深野がふこうのとなっているのがなぜだろうと必ず疑問になる。
深野をどうしてもふこうのとは読めないからである。
こういうときインターネットで大阪に深野という地名がありそれをふこのと呼んでいる。

大阪府大東市深野(ふこの)

深日(ふけ)に続いて「深」という字をどう読ませるかが難点です。
  「ふかの」でも「ふけの」でもありません。「ふこの」が正解。って読めませんよ、やっぱり。
 元々このあたりは水郷地帯だったようで、「深野」は「ふこうの」と読んだのが約まったのではないかと


ふこのはふこうのになる。深野をここではふこのと呼んでいる
これはここが深野をふこのと呼びふこうのとなったと推測しても不思議ではない。
ではなぜそうなのか?フケルから深野になったことは確かである。
ただおそらく大阪ではフケル→フケをフコと言っていたのかもしれない、一種の方言だったかもしれない、ではなぜふこのがふこうのとなりここに残っているのか
これは伝播地名なのかもしれない。
移住してきた人がその方言をもちこんできてここで名付けた。
ふこのがいつしかふこうのと呼ぶようになった。そいうことは地名によく我ことだからである。


もともと相馬氏一族でも元は千葉氏であり千葉氏は西の方から関東に移ってきたものである。
だから和泉守という大阪に由来するものもいるし全国の・・・・守がいる。小浜備後守、木幡駿河守、木幡出雲守、大友美濃守、俵口肥後守、赤沢伊豆守、渡辺豊後守、・・・・などがいた。
深野に深野の姓を名乗るとき深野という地名がもともとあってその土地を地名を姓にした。
もともとは別な姓だった。
日立木の立谷はもともと熊野信仰をたずさえて移住してきた和歌山県であり鈴木といか姓だったかその土地の名をとって立谷として土着したのである。
ただこの総士録古支配帳には深野というふこうのという地名はでていない。
大原はでているから大原の方が深野より古いのかとなる。
ただここに記された地名は一番古いことは確かである。

なぜならおなは御なはであり小名浜(おなはま)とあるがもともと御なはでありマはあとからつけられた。
だから沖縄の那覇(なは)が古い地名の元なのである。

「“那覇(なは)”の語源は、漁場を表す“なふぁ”からきている」


沖縄とは沖の漁場ともなる。小那覇(おなは)という地名もある。
沖縄はやはり古い日本を残しているから地名でも共通性がある。
小名浜がまぎらしいのは小名浜がおなはーまであり浜ではないのである。
当て字の感じでまぎらわしくなったのである。
小高には湊があり舟もたくさん入っていたし舟持ちも多数いた。
それはこの記録に記されている。漁場でもあった。
小高はその頃は入り江であり湊と漁場にふさわしい場所だった。
今回の津波でわかったように駅を越えて津波がきていたのである。
だから小高の城が浮舟城と呼んだのは何かそういうことと関係しているかもしれない。

ともかくここにでている地名は相馬藩の基になっているから重要である。
ただここに記されていない地名はどうなっていたのかわからない。
なぜ記されなかったのかそのあとに名付けられたのかわかりにくい。
なぜなら古代の和名抄にのっている地名は一番古いからである。
真野という万葉集に出ていた地名かそうである。
それがこの記録にはでていないし他にもかなりでていないのがある。
不思議なのは大原という地名は一番でている。
原町で最初に開かれた地が大原だったのかとなる。

総士録古支配帳となるとやはり相馬氏一族の武士が郷士として最初に土着した所の地名が記されているのかもしれない、そこにはすでに大熊や双葉や浪江もあった。
その辺のも相馬氏の支配下に入った時記されたものだろう。
だからこの地名と今の地名をあわせると当時の様子がわかるかもしれない。
かや浜などは文禄時代でもすでに村落があったのである。
それは高台であった。かや浜の湊は後に人が住んでのであり慶長津波の前には人が住んでいてかったかもしれない、でもかや浜の高台には人はが住んでいたのである。






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2014年10月28日

相馬氏進出の経路 (文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)


相馬氏進出の経路


(文禄二年・寛永十八年総士録古支配帳に出てくる地名から探る)


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やえこめ(八重米)からまず相馬氏が進出した。

だからそこに初発神社を建てた

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しふさ(渋佐)にも相馬氏は慶長津波の前に進出していた?

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女場(おなは)という地名のある位置に注目

津波がここまで来ていた。

角部はつのほうとして記されている

塚原はつさはらとして記されている

村上も記されているからこの辺は相馬氏では重要な地帯だった

それは舟運の港があり女場(おなは)は最初の港かもしれない。

深い入江になっているし港に適していた。

そこまで津波が来ていたことはもともと海が深く入りこんでいたと思われるからである


クリック拡大するとはっきりします

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(小高)
おなは(女場)
つのほう(角部)
村上
つさはら(塚原)
鳩原(山側)

(原町)
かや浜
しふさ
高倉
羽鳥(はとり)
江井
太田
牛越
かや崎
大原
谷河原
はの倉(羽倉)
やいこめさい(八重米)
谷加平
牛来
太田中島
目々沢
高平
谷が原
高の倉

鶴が谷
大和田
新田
高平
おおわた
つるかや
やかはら
(鹿島ー北郷)
とちくほ
山下
やす倉
小池
ゆノ木



相馬氏の進出した経路はまずやえこめ(八重米)から坂を下って今の片倉村に入った。そこに初発神社を祭ったのはここに始まるとして祈願して建てたことがわかる。
片倉という地名はなく羽倉(はのくら)はてている。
大田神社が最初に相馬氏の移住先の根拠地になった。
この地名からは相馬氏の進出経路が見えてくるのである。
地名の中で牛来玄番という人が相馬氏に従ったものとして記されている。すると牛来というのは姓か地名化したのだろうか?巣江(須江)という姓もあり末であり末の森とか浪江にありその名が地名化したのか?姓が地名化することはまれである。
相馬地方に中世の館(たち)が38もあった。そこに相馬氏が進出してきて動乱になった。
在地の勢力となっていた豪族がいた。それは中世の館を中心にして治めていた。
つまり小高城とか牛越城ができるまえにそうした館が38もあったのである。
それはいわば草分け百姓が成長して館を構えその回りに人が集まったのである。
相馬氏は新来者でありそうしたもともとの地元の勢力を治めねばならなかった。
この辺一帯は鹿島区の鎌倉から来た岩松氏が最初に治めていたのである。

中の郷(原町)、小高郷ばかりは御手に入りそのほかは服従しないために人夫でしばらく太田の別所の館を普請して在城された。


なぜ北郷と鹿島区か名付けられたかというとそれは単に太田や小高から北にあるからではない、相馬氏の支配領域に入らない地としての北郷なのである。だから文禄士録帳にはわざわざ北郷の・・・と記してある。岩松氏などの旧勢力が力をもっていたからそうなる。
そしてこの地図に示したように山側から海側に進出している。中心部は欠けている。
原町でも高倉とか大原に進出して鹿島区でも小池とか山下とかとちくほ(栃窪)に進出してゆノ木(柚木)の名が記されている。
柚木は今でも相馬市であり鹿島(北郷)の境になっている。それは相馬氏が進出していたからかとなる。
深野(ふこうの)から小池に出る所に古い墓地がありそこに武家の立派な墓がいくつも残っていることを紹介したがそれもこの相馬氏の進出経路と関係しているのかもしれない。
大原の名は一番多くでているから小池は隣り合って相馬氏が早くから進出していたのかもしれない、ただ小池の墓は江戸時代後期のものである。

原町では不思議なのはかや浜としふさ(渋佐)にすでに進出していた。かや浜はもともとはかい浜と呼ばれていたがかや浜と記されている。
つまり相馬氏が進出してきた時、かや浜と変えたのだろうか?
発音を聞き違えてそうなることが地名には良くあることだからである。
ただしふさ(渋佐)にすでに相馬氏が進出したとなると慶長津波の前なのである。
するとすでに渋佐に人が住んでいた。そこは湊の機能があったのだろう。
慶長津波の前に人が住んでいてかや浜にも人が住んでいても慶長津波の記録は残されていない。そこは相馬氏が進出して住んだ地域だともなるとまた解せないのである。
どうしても慶長津波のことが記録にないから探りえようがないとなる。
ただ700人溺死と一行記されたのは溺死となると溺れた人となる。
700人の死者を確認できたのかという疑問である。今回の津波でもそもそも行方不明者が多いだろう。当時はそれ以上に行方不明者が多くなる。探しようがないからだ。
だから700人溺死とは死者として死体があがり確認された人数である。
当時ではその何倍もの行方不明者がいたかもしれない、するとこの数からすればどれだけの被害があったのか、今回の津波と同じように大きな被害があったとなる。
そういうことが全く記されていないし謎なのである。

ただ慶長津波のすぐあとに中村城に移ったということがその時期があまりにも慶長津波があってからだから何かあったのかと詮索するのは当然なのである。
津波の影響があってその時期に移転を決められたということもある。
津波が大きな契機となり中村に移転したともとれるのである。
ともかくこの文禄士録帳は相当に貴重な記録である。
相馬氏関係では一番古い資料だから貴重だとなる。
何か郷土史でも貴重な資料がありまずそこから郷土史研究の手がかりとなる。
これはその一つである。
タグ:相馬氏
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インターネットで成り立つ中古市場 (パソコンを中古で二台買った)


インターネットで成り立つ中古市場


(パソコンを中古で二台買った)


14万で買った富士通のパソコンが一年たってウィルスで使えなくなった。これも急になったのでショックだった。パソコンの突然のクラッシュほど怖いものはない、一瞬にして
記録したものが消えるからだ。長年の努力も一瞬で水の泡となる。
ウィルスは本当にパソコンでは一番怖いものである。
その対策も完全なものはない、今はフリーソフトをダウンロードすることが怖くてできない。ウィルススキャンすればいいようだがそれもよくわからない。
ウィルスソフトはどこまで有効なのかわかりにくいし操作できない。
失敗したのはビィスタは長く使っていた。でもウィルスに感染したわけでもなかったようだ。それからwin7になったとき買い換えるべきだった。
まずパソコン二年が使うのに限度である。
とにかくwin8を初期化してすぐにまた最も悪質なウィルスに感染したのはショックだったパソコンはそんなに初期化して同時に感染するとは思っていなかった。
だからパソコン自体ウィルスが怖くて使えないとまで思った。

それで今度中古のパソコンを通販で二台買った。どちらもwin7であり3万であり安いなと思った。パソコンはもう中古品でもかなりいいものである。だから中古市場が成り立つ
これはインターネットが生まれ通販が日常になったとき中古市場も成り立つようになった中古のパソコンを東京ならいくらでも集まるからである。
そして中古でも今は最新式のよりかえって安定しているようにすら思う。
前のソフトも使えるし前のソフトでないと使えなくなったファイルもあるから古いパソコンも必要なのである。
パソコンの使い方でも買い方でも知らないと損するしパソコンを駆使できない。
パソコンは新しい知能を得る開発するための道具なのである。
だからこれをどう使いこなすかが問題になる。
買うこともそうである。何を買いどういうふうに使いこなすかが問題になる。
自分の場合はオワシスキーボードを使っていたことがパソコンに親しむものとなった。
これでないとまず文章がスムーズに打てないのである。
文章か考える速度で打てないとはパソコンは使えこなせない
やはりパソコンでも文章が中心になるからである。
ここでパソコンはつまづく人か多いと思う
ブライドタッチができれば別だがこれもできない
つまりこういうのってできる人とできない人が必ずいるのだ
自分はいつまでもできない方である。
パソコンの普及はここが一番ネックになる。

中古市場というとき今までは車はそうなっていた。それでこの辺の島紹介がロシアに松川浦の原釜の港から中古車を輸出しているのである。
あそこの近くまで津波がきていた。あそこは相当に高いのにギリギリにきていたから驚きである。
それから英語を駆使できる人を雇ったというときやはり貿易だと必要になるからである。ただビジネスでそこまで英語を使うとなると大学で相当に勉強しないとやれない。
いづれにしろ日本車の中古品は世界中で売れるしかえって憧れになっている。
日本製品はなかなか壊れ憎いということで人気がある。
パソコンは今までは中古市場は成り立ちにくかった。
今は普及したし今でも使い安いから成り立つ、一日で送られてきたのには驚いた。
六号線か通れるようになったからなんかわからない、こんなに早くつくのかと驚いた。
まず品物が豊富だから通販がいい、中古を買うとしたらこの辺では仙台までいかねばならないしそれも品ぞろいが極めてすくないのである。
仙台まで今年は一回しか行っていない、何か家事やら介護で追われているので本当に近辺しかそれも街中心にしか行っていないのである。
だから自分にとっては通販は便利だなとつくづく思う。
消費の面では田舎でも何か差がそれほど感じないのが現代なのである。

中古市場では古本でもそうだし本でも今や全国が市場化しているからないものがない。
今までは買えないものも見つからないものもある。
これも何か欲しいというときすぐに買えるからいい。
自分は忙しいから図書館にすら5年間くらい行っていない
何か調べる時間すらないのだ。図書館はいちいち調べるのがめんどうで時間がかかるからである。
ただ郷土史関係の資料はある。ただ調べるの時間かかかりすぎるのである。
何か書いて出すとなると家の中に資料でも本でもないとできない。
図書館で調べている余裕がなくなった。
家事から介護は相当に時間が食われるのである。
ともかくウィルスが恐怖だから一台がだめになったら二台目で補いさらに安全のために三台にした。費用は安いものである。
パソコンほどいかに使いこなすかが問題になるものはない。
だからこれは相当な労力がかかるものなのである。
ただ知的作業としてはこんなに書いて即座に発表できるのものはない。
それが記録となってあとでふりかえることもできるから便利なのである。

すでに書店はなくなっても困らないだろう。電器店だって通販に押されている。
品数が少なすぎるのである。配達料までとられるのも損である。
ただ通販で失敗するものがある。
大きさとか形とか実際のところわからない場合があり怖いのである。
だから10万とかなると買うのが失敗したら終わりだから買いたくない
5万くらいまでが限度だろう。
すでに何万かは通販で失敗している。
重さが違っていたとかありこれはどうにもならない
ただパソコンの中古はほぼ今は買い損がないみたいだ
それだけパソコンは前よりずっといいものがでているから中古でも車と同じくいいものにてっているのだ。ただパソコンはハードディスクが古くなると壊れやすいからこれも問題ではある。
ただ予備にするなら安いし使いやすさでは同じであり得だと思った。