2014年10月15日

福島県の観光の魅力 (旅する経路が問題ー浜通り→中通り→会津の横断でわかる)


 
福島県の観光の魅力

 
(旅する経路が問題ー浜通り→中通り→会津の横断でわかる)

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●福島県を横断してわかる地形

福島県は今振り返ると広大であり地形の風土の魅力が大きい。海があり山があり川がありと変化に富んでいる。旅をするときよく自転車でも六号線を東京から青森とか旅する人はいる。つまり日本列島縦断が多い。どうしても日本列島を旅するとなると縦断が多くなるそれが最短距離だから遠くに旅する場合はそうなる。
そこに旅の盲点があり旅をつまらないものにしていることがある。
福島県を理解するにはこれは相当な時間と労力が必要である。
これは福島県に住んでいてもそうである。福島県全域を旅しても福島県は広いなとつくづく思う。特に会津は山国でありここはわかりにくい、山の領域が広いからわかりにくい。どれだけの山があるのかと思う。阿武隈山脈は山ではない、高原であり山の醍醐味がないのが残念なのである。
福島県ははま、ハマ、ナカ、アイヅに分かれている。ここでは気候も相当違っている。
浜通りは海に面しているから風土も違う、会津は全く山に囲まれている。
この相違も相当に大きい。
もともと福島県ができるとき磐城県と二本松県と会津県とに分かれていたのは歴史的にもそうだし風土地理的にもそうだったのである。
前にも書いたけど二本松の城にたつとあそこが福島県の中心のように感じる。
天守閣が高く一望できるからである。
中通りはもともと江戸時代から大動脈でありそれは平泉に通じていたのは鎌倉時代からだった。だから頼朝が国見町の圧樫山で藤原氏の軍勢と戦ったのがわかる。
芭蕉が来たのもこの道である。江戸からだとどうしても最短距離になるからである。

今は旅が便利すぎて旅にならない、旅はもともと不便であり不便だからこそ旅になっていた。新幹線で三時間で平泉に着いたとなると何の感懐もなくなる。だから名所がつまらないとみんな言っている。そもそも旅は過程にあるからだ。その過程がぬけおちたら旅にならないわけである。芭蕉の奥の細道がまさに徒歩のリズムで過程にあったから書けたのである。ただ芭蕉でもみちのくは一回しか旅していない、旅は実際はその過程にあるのだから旅の経路か違えば旅はまた違ってくる。
自分の人生がほとんど旅に費やしたというときそれでも福島県を知るのは容易ではないことがわかった。それだけ福島県は変化に富んで広いからである。
旅は福島県を中通りだけを通過したらつまらない、浜通りから中通り会津からさらに日本海へ横断すると日本がいかに変化に富んだ地形であるかわかくだろう。
そして会津から浜通りへ出て太平洋を望んだときの感激も大きいのである。
日本海から会津から浜通りへ太平洋へ出るとそれも同じ横断でも方向が違っていても全く違った感懐を抱くのである。
結局旅の経路はきりがないから一人の人間の旅する時間が限られているから知ることも限られているとなる。

旅をするときどうしても東京からとか大阪からでも縦断が多くなる、福島県を横断するとなるとまた時間がかかりすぎるからそうなる。今は車だからそれがしやすいか車だとまた早すぎて印象に残らない場合が多い。例えば車だと風を感じないのも致命的になる。
夏の盛りに阿武隈高原を越えて太平洋の方に向かうと涼しい風が吹いてきて救われた感じになった。福島市は暑く蒸し風呂のようになるからだ。
その風を感じるのは自転車だといい。自転車はまたきつい坂を上ることを記憶している。あそこを息咳って苦労して登ったと体に記憶されるのである。
まず風土とか地形を知るにはいくら立体地図をみてもわからないのである。
峠があったとしてもそこを登る体験をしないと実感しないのである。
バイクだって早すぎる楽なのである。自転車とは全然違っている。
だから40すぎてから自転車旅行しているとき若い者がバイクで飛ばしているのも変だった何だ若いのに楽だなと見ていたのである。

●猪苗代湖の湖西は隠された地域

福島県を旅するとき会津に入るのにも郡山市から入るが旧街道の白河街道を昔の福良とかを回り旅すると興味深いし情緒がある。あそこはあまり車も通らないからいい。昔の街道の感じが残っていたのである。

雨しとと田植えの人や湖西かな

奥羽山脈の中にあり、北に磐梯山、南に猪苗代湖、東に郡山盆地(安積原野)、西に会津盆地がある。
湖南は郡山市の領域であり会津の方に向かう所は湖西だったのか?琵琶湖でも方角でそれぞれ違った趣をだしている。方角地名は地名の基本である。

湖南出身の民俗学者・橋本武氏が、安積から湖西に嫁にきた<おたかばあさん>(当時75歳)に聞き取りをしたときの記録です。
<おたかばあさん>、<大正のはじめごろはこの地の田んぼは1反歩3俵ぐらいしかとれず、1町3反歩耕作していたがくらしは貧しく、炭焼きをするしかなかった・・・>
http://eigaku.blog.ocn.ne.jp/test/2011/08/post_72af.html

経沢(へざわ)――福島県会津若松市――の物部守屋一族落人伝説
http://blogs.yahoo.co.jp/mas_k2513/30535860.html

これらのインターネットの説明は興味深い、なぜかというとここが黄金とか鉄の生産と関係していたとなるとそこになぜかここに

荒脛巾 (アラハバキ)神社と扁額に書いてある神社がある。
http://blog.goo.ne.jp/hi-sann_001/e/ca6443348a2c24f9128edd076cdfe454

これは知られてはいるが東北でもあまり見かけない神社なのである。大和王権に滅ぼされた蝦夷だという説がある。阿部氏と関係しているのも東北では多い。
この辺は何かまだ知られていない秘密的な場所である。白河街道の方を来る人は少ないからである。
この辺は前にも書いたけどまたそれからいくらでも発展して書けるのかインターネットである。インターネットだと本のように固定しないのである。常に簡単に書き換えられて新たなものとして展開してゆく、それが本との相違である。本は固定しているからである。今はある地域に詳しい情報がインターネットででている。
本で探していたら容易ではないしできない、本はまず一冊は厚くて読めないから触りだけでも読むのがいいのである。それだけでも全国となると広いから助かるのである。

足とめて清水を飲むや野菊かな

夕日さし白河街道芒かな我がたどりゆき会津に入りぬ

次回はまた旅のご案内を御期待!

タグ:福島県

2014年10月16日

抽象画(朝焼け)


抽象画(朝焼け)


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活力ある命の流れ


これも原画がある。世界的なfacebookで絵を見せ合い評価するアプリがあった。
その原画を変化させることもできる。
そこにはプロ級の絵もあった。抽象画が多いのはやはりパソコンだからである。
あういうのはインターネット的なものだろう
世界中で競うことができるし絵だから理解できるからである。


抽象画は見分けるのがむずかしいけどともかくこのように変化加工するのが容易なのである。
これは別に絵の才能がなくても楽しめるのだ。
たた化学実験のように何十回もソフトで加工するから結構疲れる。
メカニカルプロセスを経てできあがるからである。
それは何か絵を筆で描くのとは違う。メカニカルな要素が大きいのである。
いづれにしろインターネットには無数の抽象画があえ絵があり写真がある
それがグローバルになっているから計り知れないものとなっているのだ。
インターネットが世界的展覧会になっているのである。
タグ:朝焼け

百寿者100万人時代 (nhkー長寿者の心は幸福感に満たされている?)


百寿者100万人時代


(nhkー長寿者の心は幸福感に満たされている?)

百歳を生きている人がどんな気持ちでいるのか不思議である。
身近に確かに百歳になる人を介護している。
自分の母親が幸福かというと今まで家庭では不幸だったから自分が世話しているので喜んでいる。これは自分の家族とその生い立ちでそうなっている。
人間は百歳生きてもみんな違っている。
百歳で幸福だというときそれなりの条件が備えているからかもしれない。
家庭で世話する人がいるとか施設でも親切に見てくれる人がいるとかである。
nhkの放送ではそうだった。やはり家族が受け入れる体制がないと幸福感はいだけない。
そういう家庭環境がみんなこれから得られるかどうかわからないだろう。

精神的な面から老人がどういう心境にあるのか?
それは還暦をすぎると誰でもわかるのだ。
共通していることは時間が特別貴重に思えてくるのである。
今日一日が貴重に思えてくる。
なぜなら百歳まで生きるにしてもやはり死を身近に感じる年代だからである。
明日がないかもしれないということから時間が特別貴重に思えるのである。
見るものでもこれが最後とか思うし会うのもこれが最後とかなる。
実際に老人になると別れることが多くなり永遠に合わなくなることが親なども死別するからそうなる。
人間が会うということは誰であれ不思議な縁があって会っていたとなる。
なぜなら死んだら永遠に会わなくなるからだ。
そういうことを理屈ではなく実際のこととして起きてくるからである。


若いとき一番浪費しているのは時間である。時間は何か具体的に見えないとらえられないからそうなる。金だといくらいくらとか計算できるが時間は計算できないから必ず浪費しているのである。そして老人になるとその時間の貴重さにみんな気づくのである。
過ぎ去った時間が帰ってこないということである。
時間とは体験し出会い学びと何かを費やすことである。
そして前にも書いたけど本当に人間は何に時間を費やしたかが人生なのである。
あらゆることに時間を費やすことはできないのである。
だから江戸時代などをふりかえるとたいがいは親の跡を継いでやっている人が多かった。でも農業でも大工でも職人でも侍でもみんなが向いているとは限らないのだ。
それでもそうして向かいない人も親の跡をついで時間をかけて学んで跡を継いでいたのである。要するにそれだけの時間をかければ人間は与えられた仕事でも適応して覚えてゆくということである。どれだけ時間をかけたかが人間を作るのである。
ただどうしても仕事は若いとき覚えやすいから若いときを逃すと仕事ができないということはある。

奇妙だけど自分は旅ばかりしていたけどそれも今になると貴重な体験であり時間だったなとつくづく思う。なぜなら今やこの7年間近くすら行けなくなっていたからである。
ふらりと自由に行けたのが行けないショックは大きかった。
ただすでに会社人間とは違い自由な旅をしてきたのだから後悔はない。
会社人間はそういう面で会社ばえりに尽くして働いていたのも今になると何だったとかなるだろう。そうはいってもそういう時間は帰ってこないのがショックなのである。
老人になると金があってもその金すら使いこなせなくなる。
いい自転車買ったけど体力がないから長い旅もできないとかパソコン買っても使い方がめんどうでできないとか何か買ってもできないとういことが多くなるのだ。
何でも買えるけど使いこなせないということになるのだ。
だから老人は金を持っていても使わないのである。
ただ病気のために使うのが一番多くなっているのだ。


旅などは別に金はさほどいらないのである。自転車でもバイクでも野宿していたりしたら飲み食いの会だけである。それだって贅沢しなければ金はかからないのである。
電車だと交通費がかかるけど青春18切符だとさほどかからないが時間が必要なのである。つまり金より時間が貴重だったということがわかるのである。
そして人間はみんな不平等だと思っているけど時間だけは平等に与えられているのだ。
だから人生とはそれぞれの時間を何に費やしたかで決まるのである。
若いとき金持ちだから一億円あったとしても結局費やす時間は同じだから金によってすべてが左右されないのである。
老人が幸福感にひたされるのは百歳くらいになるとただ今生きているということが幸福なのである。なぜなら死んでいるのが生きているとなればそうなる。
そういうふうに若いときは絶対に思わない、生きているだけ存在しているだけが幸福などと絶対に思わない。なぜならそんなこと当たり前だかからそうなる。


幸福だというとき金があることとか恋人がいるとか何か得ることでありただ生きているあることが幸福だなどとならないのである。
その感覚がわからないのである。明日はこの世にいないかもしれないというとき今こうしてある時間が貴重になってしまうのである。
「今日も生きていたな、存在していたな」というだけで幸福だとなってしまう。
百歳の幸福感は外見は悲惨なのだが心の中は余計にそうなってしまうのである。
何か見るにしても末期の目でみているからもうこれっきり見れなくなると思ったらあらゆるものが貴重になるだろう。自分は富士山を見たいというときそうだった。
富士山すら見れないのかと思ったときもう一度富士山を見て死んでゆきたいと思った。
ガンになっても冨士登山した人の気持もわかる。自分はただ遠くからその姿をもう一度みたいということである。
いつでもあるとかいつでもできるとかいつでも会えるとかになると貴重に思わない。
この辺では故郷すら住めなくなったから故郷は何だろうとか考えるようになった。
故郷なんか当たり前にあったからである。
当たり前にいつでもあるものは貴重に思わないのである。
そういうものはなくなってみてはじめて貴重さがわかるのである。

百歳まで生きても日本人の健康寿命が男で71とか女で74とかなっているのは本当に長生きとは言えないだろう。虚弱化するとそれも長生きできないし生きた感じもしなくなる。
自分だったら自転車である程度遠くまで乗れるというとき幸福である。
それができなくなると生きている幸福感が減退してしまうだろう。
現実に筋肉痛になってきたのはそういう兆候が現れてきたのである。
そうなると長生きしたくなくなるのである。
だから長寿社会でもその中身が大事である。寝たきりで長生きしてもつまらないとなるし本当に長生きなのかとなる。
人間は確かに生きたように死ぬというのは本当なのだろう。
自分は旅ばかりしていたから旅しながら風に吹かれてどこかへ消えるのがふさわしいとなる。病院のようなところで死ぬのはふさわしくないとなる。
なんか今でも峠を越えようととして歩いている自分がいる。
認知症の農家の認知症の女性が布団じ田植えしていたというのもわかる。
人間は過去にどう生きたかが大きな影響を残しているのである。

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

まさにこうなるのである。最後死ぬときどう生きてきたかが死にざまとなる。
どう死ぬかはどう生きるかにあるのだからどう死ぬかなどと老人になって考えても無駄だとなる。人間はどう生きたかでありそれを今更決められないとなるのだ。
ただ延命治療してくれるなとかそういうことは決められる。
でもどう死ぬかはどう生きたかでありもうその生きた時間ば取り戻せないのだから
自分の思い通りにはもう死ねないということになるから恐怖なのである。
そういうふうに若いときに思わないのである。
ただ老人になるとそうした残酷な現実から逃れなくなるのである。


タグ:百歳

2014年10月17日

秋薊(介護も家事も七年間になると長いーみんな重荷を負わされている)


秋薊


(介護も家事も七年間になると長いーみんな重荷を負わされている)



故郷や今日も買い物秋薊

秋薔薇見る暇なきに散りにりけり

秋の灯や復興団地人入る

何人も重荷負わされる生きるかなあざみ根を張り秋風の吹く



人間は誰でも重荷を負わされている。ある人は確かに生涯貧乏で障害者の世話とかで苦しんできたことを語るけどその人だけではない、何らか重荷を負わされて生きている。
仕事すること自体重荷である。もう7年間も介護や家事に追われてきた。
七年間となるとやはり長いから苦労したなと我ながら思う。
人間も仕事でも十年くらいしていると苦労して仕事したなとかなるだろう。
そこに生活の実感が生まれることは確かである。
やはり長くなればなるほど苦労してやったなとかなる。
自分はこれまでそうした苦労からまねがれていたのは幸運だったのである。
だから旅も自由にできた。他の人はみんな苦労を背負って生きてきたのである。
自分の母親90年間苦労の連続だったとなる。それが人生であり何の楽しみもない
ただ食べるものだけは贅沢したのである。
だから庭はいらないとか花も興味ないとかそんなもの無駄だとか狂気のように騒いだのである。それもまた異常だった。

ただ何も苦労もない人もまた人間としてまともでないことは言える。このバランスがうまくとれていればいいのである。一方に偏るからおかしくなるのである。
駅前の秋薔薇は散っていた。前は見ていたけど見ない内に今年は散った。
それもそれだけの余裕がないから見る暇がないからそうなる。
今日は北風が吹いていた。急に寒くなった。
いづれにしろこの七年間本当に苦労の連続だった。
まず人を雇うのは本当に苦労である。家の中で働いてもらうほどめんどうなことなはい。家事などしてくれる女性は何か問題を金銭的なもので必ずかかえているのである。
今では昔の人のようなモラルが正直な人とかいないからあまりにも金だけに目をつけられている。それが露骨になっている。


俺に金くれ、俺は金とりにきたんだとばかりに入ってきてその通りにした女性がいたことには驚いた。こんな女性がいるのかと信じられなかったし他にも「おばちゃんは金があるから金でめんどうみろ」とか血相変えて遠い親戚の女性は去った。
その女性は金持ちだったのである。あとは金がなかった。一人は裁判にすると切れた。
これほど金に困窮して異常になっているのが現代である。
もう一人は借金でおいつめられて自分に入院しているときも要求してきた。
それは脅迫だったのである。これらの人は犯罪の一歩手前であり実際は犯罪者でもあったのだ。
こんな女性が近くに田舎でも普通にいると考えられなかった。
そういう考えられないことが自分にはこの七年間起きてきたのである。
津波も原発もこれも考えられないことだった。
こんなに次々に異常なことが起こることが信じられないとなる。
つくづくこの世も末だというのを感じた七年間だったのである。

街中の墓地の前の復興団地には人が入りはじめた。ほとんど部屋は埋まっているから待っていた人が多かったのだろう。子供のいる家族もかなりいる。
小高の人も入っていた。津波の被害を受けた人が優先なのだろう。
復興住宅でも団地でもまさに復興したという感じを受ける。
仮説とは違いここで生活してゆく基盤できたとなるから違っている。

タグ:秋薊

南相馬市鹿島区の状況(写真三枚ー2014-10-17)


南相馬市鹿島区の状況(写真三枚ー2014-10-17)


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ローソンの前でトラック横転

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海老への道で花栽培

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街内の復興団地に人が入る




この三枚の写真は今を南相馬市の今を象徴している。
ローソンの前でトラックが横転したのも今でもトラックがひっきりなしに通っているからこういう事故があっても不思議ではないし十分にありうると思っていた。
とにかくトラックで毎日まだ復興のために運ぶものがあるからだ。

次に海老に行く道に新しく花を栽培する場所ができた。ここでは生産者がじかに売っている。これはいいなと思った。前から書いていたけど花は放射能の影響を受けないからである。だから寺内でも花を栽培している所は前と同じように作っていたのである。
川内村でも花を栽培しようとしたのもわかる。
だからこの際こういう新たなことに転換するのはいいことである。
ただソーラーパネルはいろいろ問題が起きてきた。何かあまりにも過剰になり無理があったのだ。
景観も破壊するのでは嫌な面もあった。だから花栽培はいいなと見た。

街内の復興団地はほとんど部屋がうまった。すぐに予定した人が入ったのだろう。
子供のいる家族もいるし小高の人もいた。
何かあういうのを見ていると復興していると感じる。
まず仮設は早く出るべきなのである。仮設は何か中途半端だし小高に帰るでもないまた別に住むでもない中途半端でありこれからはそれでは困るのである。
かえっていい加減な人には仮設というのは住み心地がいいみたいだ。

いつまでも補償金暮らしとかはもう終わらないといつまでも復興などないだろう。
花栽培と復興団地に人が入ったことはまた復興を感じた。

タグ:震災復興
posted by 老鶯 at 19:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年10月19日

習慣が人を作る(悪い習慣は悪い人を作る)


習慣が人を作る


(悪い習慣は悪い人を作る)



―― 一流の人は習慣を重視する ――

 一流の人は、習慣とは成功への道だと考えている。
だから絶えず習慣を強化する。
たとえば運動や摂生、早い出社がそうだ。
 一流の人は習慣に秘められた大きな力に畏敬の念を抱いている。
だから1日でも気をゆるめると、自分が墜落すると考えている。
彼らは習慣の力を人生のすべての領域で活用する。
 二流の人は成功の土台となる習慣の力に気づいていない。

まず人間が習慣をつくり、次に習慣が人間をつくる。
ジョン・ドライデン(17世紀のイギリスの詩人)

優れた道徳心は習慣からしか生まれない。私たちは、自分でつくった習慣のようにしかならないのだ。節制している人は節度のある人となる
アリストテレス (古代ギリシアの哲学者)

結局のところ、人間というのが習慣に基づいて、毎日どんな行動をしているか?という事の積み上がったものが、人生になっていくものですから、もちろんですが悪い習慣を毎日積み上げて入れば、その結果として芽生える人生というのも、良いものにはなりません
http://www.108-fineart.com/entry7.html




まず人間が習慣をつくり、次に習慣が人間をつくる。


習慣は人間の資質を越えてその人の意志で作られてゆく。習慣はまずその人の意志があり習慣になり習慣が人間を作ることになる。飲酒や喫煙をやめようとする意志がなければまず習慣化しない。やがてつづけているうちに習慣が人間を作ることになる。
自分は30頃酒ばタバコもやめた。タバコは早い内にやめた。それが体に良かったことは確かであり頭にも良かった。会社勤めをしないし付き合いゼロの生活だったから宴会などにも出ていない。酒はからだだけではない脳を麻痺させるものでありそれが一番良くないことが今になるとわかる。

習慣が人間を作るというとき酔うと思考が停止するし理性も失う。酔うことにいいことはなかったのである。酒は麻薬と同じである。麻薬も酒も習慣化しやすいのである。
やめることができなくなる。そして人間の快楽をあくことなく求める。それは性でも何でも終わることがないのである。それも習慣化するから怖いのである。
一方で禁欲も全面的にではなく習慣化する。だから修道院では労働勤勉によって習慣化したのである。それが資本主義の基になったというのも逆説だったのである。

人間にとって習慣の力ほど強いもの影響あるものはない。認知症になっても習慣の力は活きていたのである。布団の上で農家の女性が田植えしていたというのはそのためである。人力で田植えし続けていたからそれをしていたのである。自分の家族も認知症になったけど魚をさばいたりしていたからそういうことができた、洗濯が機械を使えなくても洗濯板でしていたから奇妙だった。今までしていたこと習慣化していたことは認知症になってもできる。それがいい効果を生んだのである。習慣化したことはもう体が自然と動くようになっていることなのだ。

だから習慣はいい方向に作用すればそれだけの力を発揮するが悪い方に作用するとその影響も大きいのである。例えば盗みでもちょっとした盗みでも癖になるから習慣化するから本当に怖い。時代劇でスリの人がどうしても手が出るんだよといって手を切ったがそれほどにしないと習慣をとめられないのである。だから本当に悪い習慣は怖いものなのであるだからそもそも仕事が習慣化する。毎日仕事にたずさわること自体習慣化しているのである。仕事をしないと怠けることが習慣化することが怖いのである。
仮設に三年もいたらもう体がなまって仕事はできないと農家の人が言っていたけど習慣化することは悪い方に作用するとその影響が大きすぎるのである。

自分が東京の大学に入って学んだことは遊ぶことだったというのも奇妙だった。
もともと勉強が嫌いだったし興味を覚えなかった。特に理系が苦手であり数学がだめだったから余計にそうだった。大学に入ったら授業に出る必要もないとういのも不思議だっただからこれ幸いと授業にもほとんど出なかった。実際一日昼間からマージャンしていた人もいたのであり学んだのはマージャンだったという人も多いのである。
だから文系大学は廃止しろというのもわかるのである。なにしにきたんだということになり学んだのは遊ぶことだった。そのこと自分には大きな影響があった。その遊び癖がついてしまったことである。だからなぜ大学で遊び癖がついた人が企業戦士とかになっていったことが今でも理解できないのである。

その後まともに職についていない。流れ作業ばかりのアルバイトでやる気がなくなったこともある。
ただ幸運で仕事しなくても生活ができていてその後は旅に時間を費やしたのである。
かなり読書は好きだったのでした。でも読書すら基本的なものすら読んでいないことに気づいた。読書は本は厚いから読むのに負担なのである。若いときはまず理解できないから余計に苦労なのである。でも読書百編自ずから意の通じるというのは本当である。
理解しなくても本を読んでいる必要があるのだ。それは後年理解できるようになるからだあの本にあんなこと書いてあったなと思い出してあとで読書が有効になるのである。

人間が習慣化するというときあらゆることが習慣化するから怖いのである。体もその資質の差は大きくても習慣によって作られる。不摂生な生活をすれば必ず体が丈夫な人でも習慣化して60代になると必ず体に影響する。病気は必ず生活習慣病だというのはそのためである。もちろん全部ではないにしろそうなりやすいのである。
これも奇妙だけど旅も習慣化するといつも旅している気分になるのである。
自転車にのって風を受けて走っているのである。それはデスクワークとは違い自然の風を感じるから健康的なのである。車では風を感じないからそうとはならない。だから自分の場合は何か工場とか会社で事務ばかりしていより健康的だったともなる。

ただマイナスの点として仕事を覚えない仕事を習慣化しないことで社会人として大きく欠けたものとなった。今は家事とか介護しているけどこれもつくづく仕事であり習慣だと思った。一つの奉仕の仕事としてあったのである。家事は金にならないから仕事にならないというがこれも明らかに仕事なのである。家事をこなすには相当な熟練が必要なのである
いづれにしろ何でも習慣化するのが人間である。貧乏もあまり長くつづくと習慣化しているのだ。大金入ってきても使えないのである。チビチビ生活してきた人の生活感覚は習慣化しているから大金は使えない、だから秀吉が貧乏な百姓からあれだけ豪華な生活に転換したことことが理解できないのである。
貧乏も習慣化する千円でもちょろまかすということなど習慣化していたりするから怖いのである。いかに底辺が千円借りたとか貸したとか千円レベルでこだわり生活しているかわかるだろう。自分もそうだったのであり千円レベルで常に苦労していたのである。
そういうのはもう習慣化しているからぬけだせないのである。
一方で金持ちも習慣化するから浪費から逃れられないとなる。また借金でも習慣化するとから借金癖がつくと何でも人間は習慣化するから怖いのである。
タグ:習慣

2014年10月20日

富者と貧者(詩)より (富者と貧者の問題の根は深い)



富者と貧者(詩)より


(富者と貧者の問題の根は深い)

富める人と貧しき人


富める人は知らじ
貧しき人のありしを
日々工面して生きる人を
わずかの金を貸し借りする人を
狭き市営住宅に住む人を
富める人は知らじ
貧の悲しみを
今は貧者のあるすら見えじ
富める人はみな富めると思ふ世なり


幸福なる人は悲しみの人を知らじ
障害者を持ちて苦しみ悲しみ老いし女
その女の悲しみ苦しみ尽きじ
かくなる女のありしも知らじ
重なる苦しみと悲しみの女
人はそれぞれ苦しみ悲しみもてり
近くに妻を亡くせし女の苦労を語りぬ
家事に苦しむ一人暮らし
我もまた同じなれば知る
ただ夫婦健やかなる人は知らじ
老いの悲しみ苦しみを若きは知らじ
その美貌も力を失いゆくを知らじ
その時老いのあるを知らじ
病める人の心をを健やかなる人は知らじ

津波にあまた亡くせし人のありしも
近くにあれどその悲しみも知らじ
家をも土地も家族を亡くせし人の
その悲しみ苦しみを知らじ
災いの我が身に及ばざれば知らじ

幸いなる人よ、汝は知らじ
世に苦しむ悲しむ人を
富める人は知らじ
世に貧に苦しみ悲しむ人を
ただ自らの幸いを求むのみにてよしや
苦しき悲しき人もしばし還り見よ
汝の幸いは汝のみにてかなわざるを知るべし

人は知らし、知らじ苦しみ悲しむ人を
ゆえに必ず巨万の富を積む人は呪わるべし
富を分かたざれば富は失うべし
また貧者は富める人の同情を知らじ
情けをかけてもただ富を奪う心のみなり
まことに富を強奪して富者に報いぬ
これまた貧者の追い詰められし悲しさ
それは良しや富者と貧者はいかにあるべし
その調和はいかにあるべしかな


富者と貧者の問題は有史以来ありつづけたのだろう。原始人だったらなかったろう。それだって獲物をとる人が上手な人と下手な人がいるし必ず何か差が生まれてくる。
そういう差が貧富の差となる場合もあるから人間には避けられないものとして富むものと貧するものがある。
ただ本当に貧者というとき、その貧者にも問題がある。たいがい離婚した人は貧乏になりやすい。生活の当てもないのに若いときすぐに離婚して生活保護になった人もいる。
こういう女性が今は本当に多いのだ。すぐに離婚してあとで困っている。昔だったら子供が成長するまで我慢するとかなっていた。今はすぐに不満があったら離婚する。
すると二人分でやることが一人でやるから苦しくなるのは当然なのである。
だから貧者にも必ず貧者になるべきものがあってなっているということもあり批判される特に現代では自己責任論になってしまうのである。確かにそういう人か多いからである。ただ障害児とかもったら苦しみ悲しむ、それも一生だから悲惨てのである。
そういうのは同情するけど貧乏には貧乏になる所以がその人にありすべてが社会のせいでもないのである。


資本主義は何か根本的にシステムとしても壊れている。資本主義は修道院の禁欲から生まれたというとき今の欲望資本主義とはあまりにも違ってしまったからである。
それでは共産主義がいいかというと今の時代また共産主義が復活しつつあるのあまりの格差社会になったからだろう。共産主義は貧者は富者を殺してでも革命でもして富を奪っていいのだということに極論すればなるしソ連と中国などでは実行されたのである。
でもそれもうまくいかなかった。やはりさらなる格差が生まれている皮肉がある。
人間から格差がなくならないというのはそれは宿命のようにある。
どんな社会になっても富者と貧者や貧富の差はなくならない。


現代は貧者がいても見えないのである。ボロを着ているわけでもないし見えないのである現実に食べるものは富者とさほど変わりないのである。もちろん外食では差があっても刺身を食べていない人はいない、いくら貧しくて最低一カ月一回は食べるだろう。
自分の父親は病気になり刺身を食えるようになったけど食いたくないと言って死んでいった。モノがない時代は貧乏とはそういうものだった。
今の貧乏は昔の貧乏とは性質が違ったものとなっている。だから貧乏が見えにくいのである。どこに貧乏人かいるのとなってしまう。
自分は直接貧乏人と接したから現代の貧乏人がいることを知った。一人はただ貧乏といっても贅沢したい貧乏でありだからこそ自分は強奪されたのである。
その人は確かに貧乏でも同情されない犯罪人であった。

もう一人はこの人はいろいろ苦しみを背負わされた女性だから同情している。
でもやはり富者に対して要求するものが大きすぎるしいくらでも金とれるとかなると怖いと思う。
その女性は今どきなんでももったないもったないとしていて本当に貧乏だったのである。だからといって人をだましたりして富者から奪うというのは少額でもいいのだろうかという疑問があった。前のは大金だったので許すことはできないでいる。
でもやはり富者からも犯罪でもなんでもいい奪えばいいというのがこうしこた格差社会になるとなってきている。それを富者は気づいていない、ただ現代の富者も知られていない、ビルゲイツなんか何百億の資産があってもジーパンはいて街を歩いていれば普通の人と変わりないのである。金持ちすら見えない、豪邸に住んでいるとわかるくいである。

でも今でも別にいい家に住んでいる人は多いし車もみんな持っているから誰が本当に金持ちなのかなどわからないのである。
要するに現代の貧乏はアメリカでも日本でも中産階級が没落した結果、上と下の中間がなくなって格差が露になった結果なのである。労働者でも派遣とかフリーターとか時給いくらで働く人が増えた。正社員でない人が増えた結果、差が開きすぎて貧乏が問題になったのである。そして物が溢れているの買えないということもある。

高度成長時代は物があふれてきて買うことができた。今はトヨタで派遣で働いても車も買えないとなっているのが不満になっている。
そういう格差社会になった結果貧乏がクローズアップされるようになった。
貧乏な人が目立つようになったのでありそのためにかえって富者も比較されて責められるようになったのである。つまり共産主義革命の時代に戻ってしまうということである。
みんなが高度成長のように裕福になればこうはならなかったのである。
ただ貧乏の原因が富者だけにあるのではないしそこかまた問題なのである。
でも目先のことを見れば富者にその憤りが向いてきているのである。


別に自分はこれまで富者という気分になったことはない、ただ前にも書いたように自由な時間を与えられただけなのである。やはり千円レベルで苦労していたのである。
百万など現金をもったこともないのである。車もないし本代には使っていても旅行しても最低限しか使っていない、自分が金持ちだと思ったことは一度もないのである。
金持ちはやはり少なくても一千万でも自由に使っていいという身分だろう。
それでも一億円とか資産でもある家なのである。ただ上見ればきりがないし下を見ればきりがないということがある。こんなに貧乏しているのかというのが現代ではある。
そういう格差社会になったことが問題なのである。
ただ富者と貧者の問題は簡単に解決するものではない、なぜなら富者と貧者がない時代はなかったからである。そこには何か深い理由があり共産主義のような理論では解決しない人間の根本的問題があった。
だからこそ「悲しむものは幸いなり」というキリストの教えかあった。
悲しみ苦しみを知らないものは人間的に浅薄だとなり人間を知らないとなる。
そして人間の幸福とはそうした苦しみ悲しむ人の上にあり一人では富者になることができないということもある。その自覚が富者にも必要である。
だからといって貧者が富者を殺してでも奪えばいいとなるのか?
それを理論化したのがマルクスだったのである。それも失敗したのである。
だからそういう歴史もふりかえる必要があるのだ。

 
タグ:格差社会
posted by 老鶯 at 15:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2014年10月21日

生活保護って何なの? (権利ばかり主張するようになった現代)


  生活保護って何なの?
 
 
(権利ばかり主張するようになった現代)
 
 
  生活保護がいろいろ問題になるけどこれまたわかりにくいのだ。第一生活保護者自体が生活保護のこと自体知らなかった。すでに十年以上生活保護だったのに知らなかったのである。生活保護が権利だと法律に規定されているから権利として主張することもできる。現代は特に戦後は民主主義になり権利を主張することになった。団塊の世代は権利意識が非常に強いのである。それが学生運動辺りからそういう傾向が強くなった。
  だから生活保護をもらっている人は権利だと思っている。いろいろ役所に要求するのが普通だと思っている。つまり民主主義はあらゆることが権利になるのである。
戦前はそういう権利意識は希薄だった。お上のいいなりになるということがありそれが一転して権利社会になったのである。権利だったら誰にも感謝しない、国にも感謝しない、権利だから当然であり感謝する必要もないのである。

奇妙だけど江戸時代あたりは貧しいけど自然に神から与えられる糧に感謝していて祭りもあった。農民でも漁師でも山に暮らす人でも自然から糧を得ていたから感謝していた。
それが今ではそれも権利だともなる。神から与えらるのではない、人間の権利として得るものだとまでなる。そんなところまで権利意識が過剰になったのである。
そういうことで津波が天罰だったとも解説した。人権意識でもそれが過剰になると異常になってしまう。障害者でも権利意識が強くなり特権階級にすらなる。
「俺は障害者なんだよ、だから俺には権利がある、俺をあわれみ援助しないやつは民主主義社会では責めていいんだよ、もっと金を出せよ、権利があるんだから」とかまでなっている。あらゆるところで権利意識が過剰になっているのだ。

ところが生活保護にはいろいろな規定があって複雑なのである。年金の足りない分が生活保護になっている人もいるしなかなか理解しにくいのである。だから生活保護を受けている人自体も知らなかった。その人は遺産を要求してきたけどそれはたかが百万くらいにしかならない、ところがその百万でも受け取ると生活保護が停止されるということを知らなかったのである。その人は普通の人でないからとても生活保護が停止されたら生活できなくなる。金の管理もまともにできない人だからである。遺産相続でも一億円くらいだったらいい、別に生活保護者が遺産相続の権利を失ってはいない、ただ百万でも相続すると生活保護が停止されるのである。東京だから月20万くらいもらっているかもしれない、子供も一人いるから東京だと多い場合かある。つまり生活保護はその人にとって大きな権利だったのである。もし生活保護なければ路頭に迷い生活できない、その人はそれを自覚していないし法律も知らなかったのである。

生活保護は一種の公的保険だというとき、何か事故とか病気とか不意の不幸が起きたとき援助するものである。たからアメリカでは5年とかが限度になっている。日本ではいったん生活保護を受けると既得権化して生涯受ける人も多い。生涯になると億の金になってしまうだろう。人権とか生活保護でも主張できるのは豊かな国であり豊かな国に生まれたからこ受けられるからそこに感謝しなければならない、中国辺りでは人権も生活保護もないだろう。それをしていたら国が持たないということがあるからだ。
権利ばかり主張する社会はどうなるのか?モラル的には荒廃する。要するに戦前と戦後のモラルが極端に変化しすぎたのである。戦前は滅私奉公でありそれが天皇に忠誠を誓い戦争の犠牲になったという反省があった。そして民主主義が入り権利意識だけが強くなる極端化したのである。
生活保護は老人になるとまた違っている。老後は生活保護がいいとなり老人が増えているのである。年金より生活保護がいいというときそうなる。特に医療費が保証されるから助かるのである。

生活保護は確かに権利なんだけど何か逆に権利を失っている面もある。遺産をもらうことは額が大きければいいがそうでないと受けるのは損だとなる。生活保護の権利の方が大きいということが自覚させられるのである。生涯でも最低限でも保証されることは大きいとなる。少なくても飢え死にはしないとなる。でも一面権利を得たようでも権利を失っていたのである。
ともかく女性でもフェミニズムが女性の権利を主張して男女平等だとなった。でも女性が実際は仕事もできないのに女性を差別しているとかなる。女性の大臣が辞任したけどやはり政治家として基本的なことすら知らないということがあったのだ。
つまり現代の社会は複雑だから法律を学んだ人も資格ある人も知らない、政治家の家に生まれても政治資金について知らないとか起きてくるのである。
知っていてやっていれば別だが知らないということがありそれが致命的になるのである。現代はあらゆることなど知り得ようがないのである。あまりにも多岐にわたることなどしりえようがないのである。
本当に自分なども社会とかかわっていないから知らないことが多すぎたのである。
今の社会は知らないで失敗することがまた多すぎるのである。
確かに権利があったとしてももし弁護士に頼んだりすることもなかなかできないとういこともある。法律も理解するのが容易ではないからである。
 
 
タグ:生活保護

インターネットで発表の場を得た素人芸術 (絵と俳句のプログの紹介)



インターネットで発表の場を得た素人芸術


(絵と俳句のプログの紹介)

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これは加工したものでまずいけどこれとにたものがあるから出した


ここのプログは絵を出している、これはもしかしたら素人的な絵なのかもしれない。
日曜画家とかの絵なのかもしれない、でもともかく素人でも絵を出せるし作品は一応だせるのがインターネットである。
だから膨大な作品が俳句でもでている。大正生まれの母親の俳句を出している。
やはり貧乏な時代の俳句であることがわかる。
インターネットではまず他人のプログでも評価はほとんどないのが多いだろう。
まず芸術の評価はむずかしいのである。
ある人がいいと思ってもある人はそうではないとか個々人によって違ってくるからである
俳句だって絵画だってなんでも評価がむずかしいのが芸術なのである。
ものすこく難解なのがありもう読むことすらできないようなものがあとで名作になっている。宮沢賢治の作品はそういうものだった。他にもカフカだとか芸術にはいくらでもそういうものがある。
百年たって評価されたものなどもあるのが普通である。

なぜ今ここを紹介したかというと一瞬「枯木」の絵を見たとき、これはいいなと思った。まるでそれが人間のようにも見えたので一句作った。

老いにしや枝幾重にも枯木かな

これは自分の心境と絵がマッチしたから作れた。これを単なる枯木ではなく何か人間に見えたのである。こういう枯木の写真もあるが写真とも違うこの絵に何か息づいているものがある。それは老境を迎えると自分もそうだがこれだけのものを毎日書いているように
何か自在にいろいろなものを書けるようになる。世のことが老人になると普通の人でも経験を積むから見えてくる。
この枯木の絵はまた多岐に別れて自在に伸びている。それはまさに自分の心の状態でもあった。今まで経験したこと旅のことでも自在に書けるし詩も今大量に書いている。
この枯木のように縦横に自在に枝を伸ばしているのだ。


ただここで風景画が多いがそれは何か個性がもう一つどぎつくでていないから素人的なのかもしれない。ただ見る人によって絵の評価も違ってくる。
絵とか写真から俳句を作ることができるが一般的にはどうしても本物の写生ではないから作れない。ただこの枯木は内面的に見たから自分の心境と一致したから作れたのである。
ともかくインターネットには膨大な表現の場ともなっているが注目されないのが多い。
やはりプロの評価がないからだろう。
自分は俳句などは相当評価できる。ただ俳句はもう一つ芸術としては抽象画と同じで評価されにくい。俳句をいくら作る人がいてもそれで芸術家とはならないだろう。
それなりの記念としてインターネットに残すのもいいことである。
今までなら全く埋没して知られずに終わっていた。


インターネットで何でも紹介するとわずかでも知られるという手段は開かれたのである。
出版とかなるとまず敷居が高すぎるか、無名の人は全く相手にしない、有名なもので金になるものしか相手にしない、それも金がかかりすぎるからそうなるのである。1
出版社とかそうしたものはなくなるのかもしれない、まず写真とか絵は金がかかりすぎて出せない、今は無料で出せるから素人芸術の花盛りだとなる。
写真は膨大でありプロ級のものがいくらでもある。絵となるとやはりなかなか一流となると出ないだろう。でも心にひびくものはある。
タグ:絵のプログ

2014年10月22日

心に青雲のユダヤ、キリスト教批判の疑問 (宗教団体自体がユダヤと同じではないか?)



心に青雲のユダヤ、キリスト教批判の疑問


(宗教団体自体がユダヤと同じではないか?)


バウハウストの創設した秘密結社イルミナティは、18世紀のことではあるが、それ以前にもユダヤは黒い貴族だとか悪魔主義だとかの秘密結社活動を行なってきた。それらがユダヤ教やキリスト教をつくりだしたものと思う。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/(黒死病の闇)

プログの主催者の言っていることは共感することが多い。ただそれがすべてユダヤやキリスト教批判になり悪の根源はユダヤとなっている。
確かにアメリカを動かしているのはユダヤだとかなり今の資本主義はユダヤ人が作り出したのだという説もいろいろ調べればそういうことはありうる。
ユダヤ人とは何かとなれば純粋の旧約聖書のユダヤ人ではないだろう。
ローマ帝国に敗れて離散してからはその末裔だとかではない、ユダヤ教を信仰する一団だとなる。
最近読んだ本で「一万年の進化爆発」で今の金融を担うユダヤ人はアシュケナージユダヤ人だという。これはドイツのユダヤ人という意味である。ドイツから東欧やロシアに移り住んだ人たちである。
その人たちはホワイトカラーになった。


ボーランド人のユダヤ人も金貸し業であり通行料取り立て人請負人、不動産管理人、工場や居酒屋の経営者になるものがでてきた。
14世紀の中頃、賃金や給料や報酬によって生計をたてたのは約15パーセントであり残りは独立した事業者であり彼らはポーランド、リトアニア共和国の管理階級だった。
読み書き能力に加え専門職であるにはビジネスマンと同じく複雑な取引の技能を必要とした。


つまりブルカラーではなくビジネスマン、ホワイトカラーであり頭脳労働者になっていたのである。それは官僚と同じように国の中枢を占めるようになるから移民でもその国に重きをなすようになる。ところがイスラム系のユダヤ人はそういう頭脳労働者ではなくブルカラーの肉体労働の下層民になっていたという。だからユダヤ人がどうのこうのというとこのアシュケナージユダヤ人のことなのである。
アメリカに移住した人たちもそうである。その人たちはそういう頭脳労働集団を形成していった結果、ノーベル賞をとる科学者を輩出してきたという、その原因が歴史的にたずさわった頭脳労働集団として形成された結果そうなったという分析も興味深い。
農業とか職人集団だったらそうはならなかったのかとなる。


天才がなぜ生まれるのか?とか問われるけど一人の天才が生まれるにはその背景にその天才を生み出す文化的パックグランドがあって生まれる。ヨーロッパに音楽の天才が生まれるのはそれだけの生まれる素地があったからである。そういう天才を生み出す集団が形成されているかだという。だからアシュケナージユダヤ人はそういう頭脳集団を形成しやすかったのかとなる。知能指数が他と比べて明確に高いとかそれは歴史的後天的に獲得されたものであったとなる。イスラム系ユダヤ人は全くそうなっていない、下層階級にしかならなかったのである。つまりユダヤ人だから頭脳的に優秀になるということではなかったのである。
これを日本で考えるとノーベル賞をとっているのは西がほとんどだというとき、大阪京都とかはもともと日本の文化の中心でありそういう頭脳集団を形成しやすかったからそうなっているともなる。大阪は商人の街であり京都は文化の中心だからである。
アシューケナーユダヤ人のように一つの歴史的文化的集団が形成されてそれが受け継がれてノーヘル賞級の科学者も生まれたのかともなる。なぜなら同じユダヤ人でもイスラム系は全くそうはならなかったからである。


イスラム教も一神教だからアブラハムから別れて生まれた宗教だからユダヤ教の基の旧約聖書から生まれたのである。だから同系統の宗教である。結局イスラム系でも分派したように宗教は分派してまた争うことになった。カトリックとプロテスタントでもそうである。仏教でもそうである。ともかく宗教は集団化したとき負として作用したことが大きくなりすぎたのである。それはキリスト教だけではない、仏教だってそうであり結局政治化して世俗化して権力とかかわることで問題が起きてきた。だから政教分離の法律がヨーロッパから生まれたのは必然だったのである。
日本の神道だって神社本庁が戦前の天皇制の復帰を唱えている。それも天皇教は宗教でありカルトでありそのために300万人も死んだともなる。そうした恐るべき災いが宗教から生まれたとなるから政教分離が生まれたのである。
宗教の悪しき利用は国を滅ぼすと日蓮が言っていたけどまさに今も創価をはじめカルト宗教は国を滅ぼすものであることは変わりないのである。


内村鑑三は明治にキリスト教が解禁されたとき日本はヨーロッパのキリスト教文明を根幹にすえないと日本は崩壊すると言っていた。つまり西欧文明を明治にどう解釈したのか?
日本では便利なものとして科学技術として取り入れた。キリスト教は取り入れなかった。西欧文明の基がキリスト教であるということを否定したのである。西欧文明を取り入れるにしてキリスト教を取り入れなかったら成り立たないと言っていた。
それはなせイスラムであれだけ宗教にこだわっているのかともにている。イスラム教がなければ国も成り立たないからあれだけ主張している。
ただキリスト教でもカトリックやプロテスタントがあるように一つではないのである。
内村鑑三は武士道的キリスト教を唱えたり手島郁朗氏は神道的キリスト教を唱えたのもわかりにくいのである。


ユダヤ人が世界を支配している、金融で支配しているというのは資本主義を牛耳っているというのはやはり金融業に従事する人が多いからだろう。マスコミ関係もそうである。
何か現代の中枢にかかわるからそういわれるのだろう。
それは創価でも裏で金で支配しているというのとにている。実際ほとんどの地方新聞が聖教新聞をすっているからユダヤの支配とされるのとにているのである。
でも創価だって結局自民党に使われているということもありとても世界を支配てきるような力をもつことはありえないのである。
宗教が一つの政治的集団と化したとき世俗化したのでありそれは何の宗教でも間違いの元ととなる。イスラム教でもそうである。政治は権力を行使できる。宗教がカトリックのように政治化したとき堕落した。宗教が権力をもてば権力として工作して日本も支配するようになる。それはカルト宗教団体はそこに莫大な金を集まることでその金を利用して国を支配できるとなるからである。
そういうことが目に見えているから宗教が嫌悪され危険視されるのは当然なのである。
だから内村鑑三が無教会を唱えたのはそううい集団宗教を拒否したからである。


どんな宗教にしてももともと人を殺すことは否定している。そしたら戦争などできないはずである。でも宗教の名のもとに神の名のもとに戦争でも人を殺してきたのだからそれは宗教のせいではない、人間のせいなのである。神もそんなことを命じてはいない、だから宗教が悪いのではなく人間が争いの元を作り出している。その原因はあくなきこの世に対する欲望だったり不満だったりであり宗教そのものがそうしているのではない、悪人が宗教に触れると最悪になるともいわれる。
なぜなら自分の欲望を達成するためであり怨念であり不満であり神や仏の名によって断罪して殺すこともできるからである。
正義の名のもとに膨大な人間が戦争で死んだのと同じである。
だから人間の悪意から発したものでも神の名のもとにカトリックでも死刑にしてきた歴史がある。カルト宗教はほとんどそうなのである。
「あいつは地獄に落ちる」とか絶えず言っているけどその本人がどんな人間が見ればわかる。それは普通の俗人となんらかわりない、どろどろした欲望の持ち主でありその本人が地獄に落ちるような人柄なのである。ただ宗教はそうして恐怖を与えるだけだとなるから拒絶反応だけがでるようになる。悪人が宗教をもつとき最悪になるというのはそのことである。サタンが宗教を巧みに利用するというのもそのことである。
カルト宗教団体もこの世からなくならないのは必ず不満分子がいてそれに頼る人がいるからである。それを利用して政治化して権力を左右しようとする野心家が常にいるからそうなる。またそこには大衆の大きな無知も作用しているからなくならないのである。


 
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