2014年10月08日

月食の不気味(自分の一身上のことが天体の異変とも関係する)


月食の不気味(自分の一身上のことが天体の異変とも関係する)


一度疑惑の雲のかかれればなかなか晴れぬ元の月には


皆既月食は快晴だからはっきり見えた。何か見ていると月食は不気味である。今は赤い月になっている。
天体と地震が関係あるというとき明らかに地球が天体の一部としてあるのだからないわけがない。
地球は天体の宇宙の一部だから宇宙の影響を受ける。それは解明されていない。

ただなぜ自分には不吉なことが裏切り的なことが次々に起きてくるのか?
嘘を平気でつくということがわからない、だから疑惑が一旦起きるとなかなか払えなくなる。
一旦信用を落とすとそれを回復するには膨大なエネルギーが必要になってくる。
そもそも信用は一年とか二年とかで築けないものだった。
一〇年くらいなら信用は築ける、その間にいろいろあり不信や疑惑がありのりこえてきたとなる。
雇うものも雇われるものも信用関係を築くには時間がかかるのである。

それが何か今回の月食と関係あるのかとなるとき、何か一身上のことと自然が自分の場合リンクしている。
3・11の地震や津波の前には犯罪にあいその人を呪いつづけていた。そして地震津波が起きた。
次にはまた裏切り行為があった。
だから今回最初満月が皓々と輝いていたのでこれは縁起がいいなと思っていた。
それが一転して月食になり赤い月になったのも不気味である。
そういうことでまた大きな災いの前兆かとも思う。

個々の人事と大きな自然に連関はないというが何かある。
天体が人間界に影響するし人間界が天体にも影響する
それは相互に一体なのである。分離してはありえないのである。
月が欠ける太陽が欠けるということは何か縁起が悪い不気味である。
だか悪いことが起きると思うのは当然である。
何かの異変の前兆として天体は見られていたのはやはり地球も天体の一部だからである。
自分の一身上に起きることと天体も連動している。
それは地震とか津波でもそうであり自分が最悪の状態の時地震津波が襲ったのである。

ただ人間の奇妙なのは株とか不動産に投資していると東京でもアメリカでも悪いことが起きないと願うのも不思議である。別に自分と関係ないなら東京がどうなろうがアメリカがとをなろうが関係ないとなる。
江戸時代あたりなら鎖国なのだから外国と関係していないのだから無関心なだけだった。
外国に何が起きようと関係ないとなっていた。
でもグローバル化した世界のいい面と悪い面は世界で何か悪いことが紛争でも自然災害でも起きるとそれが日本と関係ないとは言えなくなっているしそれは世界中である。

とくに株と不動産と投資というのはまず世界情勢が関係してくる。
どこかで紛争が起きるとたちまち株などが下落して大損失になったりする。
だから平和になり株の上昇するのを願う、これは全く利己的なものだけど世界に無関心ではなく利益から
世界の平和、地球の平和を願うようになっている。
これはこれで自己の利益を通して世界を見ている関与しているとなる。
何か世界で悪いことが起きると株価にすぐに影響して大損になるから自然災害でも紛争でも起きないで欲しいとなる。
ただ一方で世界でそうした災害が起きると関係なければ面白がってみるということがある。
ともかく人間は現金なものだと思った。自分の利益にかかわれば世界にも関心が向くということである。


タグ:皆既月食

2014年10月09日

鶏頭の句 (写生の句はイメージをふくらませないと鑑賞できないー美と善は一致)


鶏頭の句


(写生の句はイメージをふくらませないと鑑賞できないー美と善は一致)


鶏頭や今日一日の赤さかな

鶏頭の赤さの映えてそのあとに満月明るく今日は輝く


写生の句で今でも話題になっているのが子規の「鶏頭の十四五本もありぬべし」である。
十四五本の鶏頭がありぬべし、あるだろう、またあってほしいとかの意味である。
ありぬべしには単にあるのとは違う意味なのだろう。

この句は鶏頭を句にしたからこそ写生の俳句として手本になっている。
鶏頭意外の花だと何か訴えないかもしれない、ただどうしても何本とか何輪咲いているとかなりやすいのが写生の俳句なのである。
つまり鶏頭が十四五本咲いているのは赤いからその赤さが映える、まるで燃えるようにも見える。
鶏頭が十四五本咲いていることはそれだけ赤さが映える、それをイメージしないとこの句は鑑賞できない

とにかく鶏頭の赤さは特別であり赤は赤でもみんな違ってる。
自分の句は今日一日の赤さとは赤は神道で言えば赤き心なのである。誠の赤なのである。
それは嘘偽りなき赤なのである。今日一日をその赤い鶏頭のように嘘偽りなく生きる
一見これが簡単なようで現実社会では簡単ではない、いろんな場面で人間は嘘をつかないで生きることがむずかしい、第一嘘つかないで生きた人などいないだろう。
その女性は確かに素朴に見えたから嘘つかないと思っていたが嘘ついていたのである。
犯罪というのは別に逮捕されるとか刑罰を受けるだけが犯罪ではない
そんなことで人は判断できない、一億円盗んでも罰せられない人はいるし百円盗んで罰せられる人もいるから
そんなことで人は判断できないのである。
罪を犯さないとは日常の人間関係とは社会で生活するときに嘘をつかないとかでありもし嘘をついているとしたらやはり罪を犯しているということなのだ。だから人間は日々罪を犯して暮らしているのが普通だとさえなる。人間は自分でもそうだが悪いことはしないしたことがない、嘘はつかないとか言ってもそうではないのが普通である。悪いことをしないというときたいがいしているからあえてそういうのである。

だから今日一日特別なことをしなくても嘘をつかないで生きたら鶏頭の赤さがあなたの心の中に赤く映えるのである。人間は日々善行をなすことではない、嘘をつかないとか単純なモラルを守り生きることなのである。
なぜなら善行よりもその方が何十倍も蒸すかしいからである。
会社に勤めていても利益優先すると単純なこと嘘をつかないということなどが守れないことも多いだろう。
会社ぐるみになる従わねばならないから嘘を全体でついていることになる。
東電などもあれだけの巨大会社であり科学技術の粋を集めたものだったが実は安全神話とか単純なことで嘘ついていたのである。それはプルサーマルの問題でも危険なことを嘘ついて隠していたのである。
そういうことから単純な嘘をつかないということを守れなくて大事故に発展することがあるのだ。
「安全神話」は国自体が嘘ついていたのである。戦争のとき大本営発表で負けていたのに勝っていたと報道していた。国自体が嘘ついていたのである。
日本は実際は戦地で負けたということを報道していたらその人は殺されるということがある。
会社だって会社が嘘をついていてもそのことを公表すれば首になるから言わないのである。

だから嘘をつかないで生きること自体簡単なようでも至難だとなる。美と善とか愛とか実は一体のものであり
美を感じるのはそこには必ず善もある。美の追求にもなっているし善の追求は美の追求にもなる。
自然には美が満ちている、その美はまた善なのである。それは人間の善なる心があればそれに応じて映えるものなのである。だから嘘をつかないということが自然の美を感じることにもなるのである。
美を見る心は何か才能とも違う、人間はもともと美を見る心、善なる心をが備わっているのだかそれがいろいろな事情や境遇や悪条件で失われやすい、今回も単純な軽い嘘で信頼関係は全く失われてしまった。
それは強盗とかではない、ささいなことであり数千円とかのことである。そんなことで信頼関係が壊れてしまったのはその人はあまりにも簡単に嘘をついたことだったのである。
それで信頼できなくなったのである。

公務員が身分であり特権階級だというとき公務員は民間人より競争などないのだからそれだけ嘘をつかないですむ。民間だと競争が熾烈でありもうけのためには何でもやる、嘘も平気でつくなるが公務員はそういうプレッシャーがないから嘘をつかないとなるのかもしれない、嘘をつく必要がないということもある。
だから侍は公務員ともにていたわけである。商人がいやしい言うとき平気で嘘をつく、そういう職業だからいやしいとされた。
そもそも嘘をつかないような生活をすくには僧院にこもるとか社会と離れて別に暮らすような別な世界を作らないとむずかしいからそういうものが作られてそこで修行した。
出家でもそうだし何か根本的に世俗から脱するような状態を人為的に作らないと人間は俗世間の中で堕落してゆくからそうなった。それは今でも同じであるがかえってもう社会の中で俗世間でだれも生きなければならないのだからそういう単純な嘘をつかないというモラルさえ守るのは厳しいとなるのだ。

 
タグ:鶏頭

2014年10月10日

相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来 (小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)

相馬藩の生きた歴史を語る相馬市飯豊の阿部氏の由来

(小高から始まっている相馬藩の歴史をふりかえり復興へ)

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阿部の名前がここに記されている

郷土史研究の基本はその土地の村でも町でも新旧を知ることである。
古いと思っていたところが新しく新しいと思っていた所が古かったりすることはよくあることである。
例えば原町市の中心部は市街になっているから古いと思っている人がいるだろう。
ところがあそこは江戸時代は野馬を放牧していた原っぱだっのである。
最初は本当に野馬を放牧していた放し飼いにされていた。
あとから野馬土手が作られた。その前はだから畑に馬が入ってきて困ったとかあり記録にも残されている。
戦国時代には馬は戦闘用としてどこでも飼われていた。広大な牧がどこにでもあった。
今のような稲田が広がる風景ではない、馬を飼っている広い牧がある風景なのである。
だから今になると原町が市街化しているからそこが広大な野馬の放牧場だったということが想像すらできない状態になっているのだ。
原町というとき原っぱの意味でありこれは各地にありそこは原っぱだったのである。その名残として野馬追いの神旗争奪戦が行われる雲雀が原がある。原町はのちにまた宿場町になった。
だから地元の人でも意外とこの新旧を知らないから必ず昔を間違ってイメージするようになる。
ヨーロッパ辺りだと旧市街と新しい街は明確に分かれているからわかり安い。
観光するときは旧市街を回ればいいのである。
日本は街が雑然となっていてわかりにくいのである。ただ城があれば城下町でありそこが古いとなる。
原町で古いのは深野とか大原だった。あそこは原町ではかえって一番古い場所なのである。
そこは野馬土手の外にありそこは米を作るために田が作られていった場所だったのである。
今はかえって原町の中心が街内のようになっていて深野(ふこうの)とか大原は辺鄙なさびれた場所のように錯覚するのである。
このことは他でもありその街の新旧はわかりにくいのである。
今回相馬市で新しくできた郷土資料館とか郷土館とか訪ねてみた。そこで案内した人が「阿部氏」でありその人の由来は1300年ころまでさかのぼれると言うので驚いた。
そんな人に実際会っていないから余計にそうだった。その阿部氏の由来は明確なのである。
その末裔の人が言うには奥相史と残っている資料は北相史のことだという。
それは相馬氏の基になった千葉市流山市とかがあそこから北に位置する茨城の行方に移ったので北相史になったという。
相馬地方はもともと古代には行方郡になっていた。茨城県からの移住地だったのである。
その後相馬氏が移住してきた。相馬氏が移住した最初の地が小高だった。つまり相馬藩誕生の地は小高だった。
相馬藩を歴史を知るには小高からはじめねばならないのである。鹿島は北郷であり小高から北だから北郷となっていたのである。方角地名は中心地から見た方向なのである。
そのことが良く相馬藩内でも知っていてもどうしても今の城のある中村であり
相馬市を中心に考える。つまり小高が相馬藩の歴史では一番古く歴史をたどると小高から始めねばならないのである。
そのことを具体的に阿部氏の末裔が語ってくれたので生きた歴史を感じたのである。
小高には野馬掛けとかあり野馬追いの起源になる祭りが残っているのもそのためなのである。
塚原とか村上に大きな船も入る湊があった。蔵院とかあるから大きな湊だった。中世は意外と船運が盛んであり村上に一時城を移すことを計画したのはそのためだった。
そこにはおん舟という文禄高調に記されているのを書いた。その数も多いから相当な舟がそこにあった。それは八沢浦にも湊があり七荷を運んでいたとありそれは大きな舟だったのである。
相馬市の吉田屋の記録では松川浦で会津まで運んでいたということが記されている。それはニシンとか塩とか他にもあった。
相馬市の今の中村に城を移したのは松川浦が湊となっていたからである。今でも松川浦は漁港だけではない、貿易の港ととして機能している。
ただ小さいので飯館村の木材などは石巻から出していたのである。中古車販売の島商会はロシアに輸出しているが松川浦の原釜から出しているから継続がある。

その人の話で面白かったのは阿部家には長櫃に50ふりもの刀が入っていたという、在郷給人でありその土地を束ねる地位にあった。槍持として相馬氏に仕えていたという。
その槍の一部も残っていたが売ってしまったという。50ふりの刀を用意していたのはやはり戦国時代はそうだったのだろう。まず武器が無いと戦いないのだから武器は重要になる。
その50ふりの刀がありそれを家来に配って戦うことになるからだ。戦国時代の様子がその話から具体性を帯びているのだ。
阿部氏は小高から今の相馬市の松川浦近くの飯豊に土地を賜りその一帯を開墾して草分けになった。
その碑が飯豊に立っているから由来が明確なのである。
そして程田の隣に新田とあるがそこはすでに元禄時代に開拓されていたのである。原町の津波で開拓した金沢も元禄に開拓されたから古いのである。
日本全国でも元禄時代は開拓地が広がり豊かになった時代である。
だから葛尾村(かつろう)の落合に元禄の碑があったからあんな山奥でもすでに元禄時代になるとかなり住む人も増えてきたのである。
元禄時代という芭蕉の時代でもあった。俳句もそれなりに盛んになったから文化的にも華やかなものか生まれた時代である。
つまり新田という地名が各地にあるがその時代を見ると新田でも意外と古いものになる。
小高から今の相馬市の中村に移ったのは慶長津波のあったあとの1611年の11月とかであった。そのあとに開拓された程田とか新田は古い地域になっているのだ。

秋の日に阿部氏の由来語るかな小高にはじまる相馬の歴史

小高にきて城跡にひびく蝉の声ここち立ちにつ復興願ふ

小高は相馬藩の歴史では大事な場所、起源の地だったのである。そういう歴史があるとき、小高が欠けては相馬藩の歴史の消失になる。
歴史的観点からみると復興するということは歴史を継承するということにもある。
先祖がどうのこうのというとき実は日本の歴史でも歴史が何かわからなくなっている。身近に考えれば歴史とは家の歴史になる。
最も身近なのは知っている家族のことである。ただ最近は墓参りでも知っている人に参るのであり先祖ではないというのわかる。
なぜなら先祖でもあったことも無い人は他人と同じになってしまうからである。
ただ歴史というとき別に直接にあった人のことではない、でも何かしら伝えるものがあって歴史がある。
人間は道具を作るものたとか言葉を話すものだがとか定義するが人間の人間たる所以は歴史として人間が生まれてきているのである。
だから先祖を誇りにてらないと子孫もだめになるということがあるたろう。
先祖を見習い今を正すということがある。そうすると人間形成しやすいのである。
国の教育だったそうである。先祖の悪いことばかり言っていたら現実的に日本なんか戦争で他国を殺すばかりの悪い国でしかない、なくなってもかまわないとかなる。
そういうことが戦後影響して今日モラルの頽廃が生まれたのである。つまり家でもその先祖であれ親であれ何かしら誇りに思えないと子孫も良くはせ育たないのである。
先祖の影響で病気になったとか何になったのかとは別である。そもそも精神的そういう悪いことばかり言っていたら今を生きている人たちに影響か大きいのである。
歴史だってどうしていい面と悪い面が必ずありその悪い面だけをとりあげるときりがない、良い面も歴史でも人間個人でもとりあげる必要がある。

元禄の碑のあったのは程田ではなく新田だった
http://musubu.sblo.jp/article/65966172.html
タグ:小高
posted by 老鶯 at 11:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2014年10月11日

刈田(道の駅に集まる老人)


刈田(道の駅に集まる老人)


道の駅老人集まり刈田かな

落ち着いて三色の菊の畑かなこの道親し行き帰りかな


相馬市の道の駅にはいつも老人が集まっている。顔ぶれは同じである。
あそこにはいろいろな人が来て話しているから暇つぶしにいいのだろう。
あういう暇な老人もこれからは増えてくる。
あそこは見晴らしもいいしちょうどいい場所にある。
原町の道の駅にあういう場所が無い。
ちょうどすでに5時ころ陽が山脈に沈んでゆくから早いなと思った。
釣瓶落としの陽なのだろう。でも何か今年は日差しがまだ暑いから夏の延長のようにも感じる。
菊畑があるのは原町に行く方である。


この辺は変化しすぎてその変化に追いつけないということがあり落ち着かない状態はまだ続いている。
困るのは老人になると落ち着きたいということがある。
こういう混乱状態は苦手になる。若いときは何かかえって動乱を好む。
むしろ自ら動乱の中に入って行く、イスラム国だとかに志願して戦争までしてみたいとなる。
社会が動乱していた方が若者に生きがいがあるともなる。
血気の多いやつだとあえて喧嘩をしたりそのエネルギーを爆発させる。
それは無駄なエネルギーの浪費になる。
そういう無駄な時間の浪費ができないのが老人である。

菊が三色落ち着いて咲いているなというときそれは人間にも反映する。落ち着いて暮らしたいとなる。
家族でも何でもそうであるが自分の場合は人間関係でも周りの状況でもそうはいかない。
老人になったからといってやはり社会の動乱に災害にもまきこまれる。それはここだけではない、世界中でそうである。
だから避難した老人は辛いしすでに死んでいる人たちもかなりいる。
自分の動乱は一身上でもこの七年間は変わらなくつづいている。
毎日暇なく家事に追われ介護に追われている。家事は料理から掃除から結構時間をくう、買い物も時間がかかる。
昨日は夜まで掃除していた。いくら掃除してもすでに震災から三年半すぎてもかたづかない。
最後の人生のかたづけまでになってるからそうなる。
三食がいつでも用意され何もしなくても良いときはあまりにも変わりすぎたのである。
そこに様々な災難の連続だった。
別に災難は誰にでもありたまたま自分はまねがれていたが最後に災難がまとめてやってきたとなる。


パソコンとか今仕事をしやすくするために中古のパソコン買ったりいろいろい整えるのも時間がかかる。
結局人間は時間が一番貴重なのである。知的生活などと言うがそれは金よりも時間をあたえられるとやりやすい。
結婚するとなぜ知的生活ができないかというと仕事に結婚生活だとかさまざまな雑事に時間を奪われることにあった。
これだけのことをやっていると実際にゆっくりものさえ考えられなくなる。
辛うじてできているのはプログだって簡単に書いて発信できるからである。
肉体労働などすると知的な仕事はできなくなるだろう。
俳句とか短歌は短いから負担にならないからできるのである。
何か家事でも追われると花さえゆっくり見ていられないとなる。
これも自業自得だったともなる。生涯恵まれる人などいない、どこで苦しくなるのが人生である。
だから苦労した人は今は楽だとなっているはずだがそうもなっていない、延々と苦労の連続の人も多いのである。
タグ:老人

2014年10月12日

現代の格差社会、貧民の増加は危険な状態に (昔の貧乏より現代の貧乏も苦しい面がある)




現代の格差社会、貧民の増加は危険な状態に


(昔の貧乏より現代の貧乏も苦しい面がある)

スーパーで万引きしたり、親戚や友人知人の家に盗みに入ったり、
 息子や娘名義のJA口座を無断で作成して借金したり、
おかしなボッタクリ物品のセールスに励んだりと、ムチャするのが多数。
んで、こんなことがあっても警察は何もしてくれない、と。

最近話題になるのは老後破綻とか老人の犯罪増加とか生活保護の増加とか生活が困窮している人のことである。
株が上がっても恩恵があるのは金持ちだけであり底辺層はかえって円高で生活が苦しくなっている。
資本主義は資本があると得する社会である。資本というとき金もそうだが土地でもそうであり無産階級は損することばかりになる。
金が金を生む、資本が資本を生むのが資本主義なのである。
だからアメリカが景気かいいとかで投資したら得していた。
つまり金はグローバルに移動しているからそうなる。
でも元手がないものは資本がないものは大きな金は入ってこない仕組みになってる。
株だって元手が一億円くらいないともうからないだろう。
きャンブルでも元手大きければ必ず最後に勝つ仕組みと同じなのである。
いつまでも負け続けることは無いからである。株でも長期間でみれば上がったり下がったりするから長い目でみればもうかることにはなっている

現代の貧乏は昔の貧乏とはかなり違っている。戦後十年くらいは戦前と江戸時代の生活のつづきだったのである。自給自足であるから農家の方が豊かな生活をていた。
第一卵を食べていることが贅沢だったのである。玉子焼きが食べれるようになったとき高度成長期に入ったのである。
貧乏というとき醤油が使いなかった貧乏のことを書いたけど今の貧乏のレベルとは全然違っている。要するにご飯と味噌汁と梅干しとタクワンとかの食生活が普通でありそれはほんの一部をのぞいたて変わりなかったのである。
三食食べれれば良い方たったのである。だから自分の家の貸していた家では着るものもなく布団もセンベイ布団で餓死して老人が死んだ。そういう時代だったのである。
もちろん生活保護も無いし医者にかかれるわけもない、貧窮のどん底だった。
その老人は風呂にも入らないし汚い手で家賃をわずかばかりもってきたのである。
それは戦後間もないときでありそのときはそうしたどん底の生活をしていた人がいたのである。
だから農家では食べ物はあったのだから餓死すようなことはなかった。
ただその老人が餓死したのは別に子供がいたのに助けなかったのだからまた事情は違っていた。あういう人は今だったら福祉の方で世話するからあんなふうにはならなかったのである。
昔の貧乏も苦しいけど今の貧乏もまた事情が変わって苦しい。
とうしても消費社会になったから買う生活になっているから金がかかる。
まず戦後十年くらいは水道もないから街では水をもらっていた。
その水は無料だったのである。水代は無料であり電気代なども裸電球一つだとほとんどかからない、買うものというと米とか味噌とか豆腐とか極限られたものである。
燃料は炭だからこれは金がかかっていたかもしれない。
ともかく家にあるのは飯台一つであり何もない生活である。また何もモノがない時代だから買いようがない時代だったのである。

今はあらゆるモノがあふれた時代であり金さえあればなんでも買えるモノがある時代なのが違っている。基本的なところで水道代とか電気代とか通信費とかでも二万以上になるからこの出費も大きいのである。
そして毎日買い物しているけどなぜこんなに買い物があるのかと思う。
別にそれほど贅沢していないのにともかく買う物が多すぎるのである。
金さえあれば何でも買えるということで無駄も多くなる。
だから底辺層が増えると老後でも国民年金をもらっても8万でもやっていけない、辛うじて夫婦で15万くらいもらえばギリギリでやっていける状態であり妻か夫が死ぬとやっていけなくなる。ともかく消費社会は金が使うようにできている。金を使わないといたるところで支障がでる。節約すればいいだろうとなるが基本的なところで水道や電気や通信代を節約できない、みんな携帯を老人でももっている。
今の貧乏はモノがいくらでもあるのに金がなければ買えないという貧乏なのである。
もともと何もない戦後十年くらいの貧乏とは違っている。
欲しいものかいくらでもあるのに金がないから得られないというのはかえって苦しいともなる。要するに渇望感が増してくる、あふれるほど物があるのに買えないとなるとますます欲しくなるというのが人間の心理だからである。なければないですますというわけにもいかないのでてある。
今は清貧などありえない、清貧がありえたのは何も物がないときにありえたのである。
清貧だからといって水道代や電気代通信代を払わないわけにはいかないからである。
だから八人に一人がサラ金から借りているとかみんな無理をしてなんとか現在の生活水準に合わせようとしているのだ。

結果的にこうした困窮者が増えてくるとどうなるのか?
社会の秩序が乱れ犯罪も増えるから金持ちだってもう塀を囲み防衛しているというとき安心がない社会になる。
金持ちはまたそうした貧民が増えるとどうしてもねらわれやすくなる。
それは強盗にもなり殺人までなってゆくから怖いのである。
現代はすでにそうなっている特に老人で犯罪が十倍になっているのは国民年金などでそもそも生活できないからである。
つまり現代は相当に社会の治安が乱れ秩序も乱れすでに貧民の動乱が起きるような危険な状況になっているのだ。
犯罪は表に現れるのは罰せられたりするのはほんの一部であり一割くらいかもしれない。だから老人の犯罪が統計上10倍に増えたというとき実は百倍にも増えているのである。

人間は善人も悪人もない、こうして生活に困窮してくると誰でも犯罪を犯すしモラルがどうのこうのもなくなる。明日食べるものがないとなる平気で殺すのも人間である。動物と同じように食うためには相手を殺すほかないとなる。
現在はそういう危険な状態になっている。
金持ちから奪うのに抵抗さえなくなってくる。あいつらは俺達が苦労して働いている金で贅沢している。だから奪ってもいい、殺しても奪ってもいいのだ。
金もっているだけでそうみられるし危険になっているのが現代なのである。
反乱か起きないというが暴動が起きないというがそういう前夜にさえなっている。
個々人ではそういう危険なものになっているから何らかのきっかけで暴動さえ起きかねないのである。

posted by 老鶯 at 14:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題

2014年10月13日

人間の苦しみ不幸はみんな違っている (南相馬市立病院の同室の四人の苦しみ)


 
人間の苦しみ不幸はみんな違っている

(南相馬市立病院の同室の四人の苦しみ)

すべての幸福な家庭は、よく似ているものだ。
しかし、不幸な家庭は、それぞれに不幸である。
-   トルストイ

なぜこの世に人間に様々な苦しみと不幸があるのか?一生苦しみを受けないものはいない、だから人間が生まれたら苦しみを誰でも課せられているとなる。それはカルマだとなる
南相馬市立病院で同室の四人はそれぞれの苦しみを背負っていた。悲惨だったのは手をあげることしかできない人だった。しかしその人は農業で優秀であり賞までもらっている人だった。だから4人の娘を大学にあげた。妻はだから毎日浪江からきて懸命に介護していた。妻がきたとき手をにぎりやっと手をあげるだけであとはなにもできない、ただ妻が手をにぎるとき妻が来たことを辛うじて意識してたのかもしれない。
それを見てると悲惨だった。ただそれだげ介護されてるのだからいい面もあった。


隣の人は90すぎていて隣の福寿苑から来た人でありこの人は痰がつまり苦しんでいた。
大声を出して痰がつまるので苦しんでいた。それで自分は眠れなかった。
その痰をとりだすのに看護師がするのだがそれも笑ってしていた。
その苦しみを見て笑っていた。その人は福祉の人だから身寄りが無いからそうなった。
身寄りがない人は病院とか最大の恐怖であることを知った。
身寄りのない人は手術でも実験台にされるし知っている人では献体したがその人も施設に世話になったというのでそうしたのである。
その女性がそうなったのはそうなる事情を自分で作り出したためたともいえる。
何らか人間は最後は自業自得なのである。
身寄りかりていというとき自分もそうだった。だから留守の間に火事場泥棒されて大金を失った。身寄りが無いということは本当に怖いことなのである。
それがわかるのは病気になったときであり入院したりするときわかるのだ。
健康であればい意外とそうしたことに気づかないのである。


もう一人の人は声がでなくてなっていた。喉を切開していたためである。これも悲惨なことだったが突然しゃべりだしたときは驚いた。ただその後なまもなく死んでしまった。
大原の人でありしゃべれるようになってから大原のことをいろいろ聞いた。
ちょうど南相馬市立病院から大原の方が見えたのである。
南相馬市立病院は高いから見晴らしがよかったからである。
その同室の四人にはそれぞれの苦しみ不幸があった。
人間の苦しみはみんな違っていることがこれでもわかる。
人間は誰しもいろんなことで苦労している。それはみんな違っている。みんな違った苦しみをになわされている。自分の母親は父親が事業に失敗して辛酸をなめた。継母にもなりひどいめにあった。その後最初に嫁いだ夫が事故死したとか不幸がつづいた。
他でも信じられてない苦労をしている人がいろいろいる。障害者をかかえて苦労している人は普通にいる。たから延々とそのことを他者に訴える。

もちろん貧乏で苦しんでいる人はいくらでもいる。
自分の姉も健康優良児のような女性だったが従軍看護婦じシンガポールで四年間辛酸をなめたから死ぬ直前までそのことを語りつづけていた。苦しい時のことが忘れられなかったのである。そして認知症となり最悪になって死んだ。
認知症の苦しみは最悪である。本人も馬鹿になったからわほからないかというとそうでもない、自らも苦しむことがあるのだ。苦しみを意識していることもあるのだ。
記憶できないということで苦しんでいることがあるのだ。
認知症は最悪であり人間はなぜこんなに悲惨なのかと自らも介護していても苦しかった。老人になったら女性も悲惨である。皮膚が象皮病のように皺が寄っている女性がいて気持ち悪かった。たいがい女性も皮膚が老化すると見ていられないようになる。
女性にとっては老化することは悲惨である。でも最後にはみんなそうなってしまうのが人間である。


人間は結局楽しい思い出より苦しい思い出の方が忘れられないものとなる。
だから苦しめられたひどいことをされたことも延々と忘れないのである。
意外と良くされたことは人は忘れるのである。だから恩も忘れやすいということがあるのだ。でもひどいことをした人のこと忘れないのである。
いづれにしお釈迦様が言ったように人間は苦るしむために生まれてきたともなる。
それがカルマだったというのは現実にカルマの法則があるからなのである。
苦しまない人はない、一見めぐまれていても病気にならない人がいないからどこかで苦しむのである。人間はいくら文明が発達しても苦しみが消えることはない、かえって文明ゆえに原発事故でもそうであり苦しみを受けるし医療が発達しても延命治療とかで苦しむのである。医療といかのが人間を楽にするだけのものではないのである。
かえって苦しみを与える場合がある。医療にはなにか残酷なものがかえってあるのだ。
だから病院とは恐怖の場所なのである。
だからかえって病院で死ぬより野垂れ死にでもいいともなる。

人間の最後はみんな無残なのであり孤独死だから悲惨だともならない。
人間は死をもってしか苦しみから解放されないということもある。
生きていること自体苦をまねがれないのである。
死か人間の救いということもある。やっと死んで楽になったなと認知症でも苦しみ死ぬ人を見ればそう思うのである。

 
タグ:病院

抽象画(眼鏡をかけた日本人)


抽象画(眼鏡をかけた日本人)

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 原画
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日本人は外国で眼鏡をかけて真面目そうにしているいるからわかるとかいう。
日本人はなにか真面目な職人なのかもしれない、商人には向いていない
中国人やイスラムは歴史的に商人の国である。
日本人は真面目に物を作っている細かい作業をしているふうに見られる。

抽象画は具象画と違うからいくらでもできる。ただ最近パソコンの故障とかでしていなかった。
抽象画は子供で簡単にできる。
加工すると無数に変化するからできる。
これ何だろうとなりそれにそれらしい名前や説明をしてみる、するとそれが抽象画なのである。
蜂みたいなのが生まれたのは全く偶然である。でもこれも不思議なことである。
これも今までにないものを創造しているのだから創作なのである。
これをアニメで動かせば一つの創作となる。
抽象画はパソコンから必然的に生まれた新しい芸術なのである。
これは絵の才能もなにもいらない、これ何だろうかと変化を楽しむ遊びなのである。

2014年10月14日

抽象画(古い道と新しい道)


抽象画(古い道と新しい道)

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透視ささた古い道


これも最近中古品のwindowe7のペイントを使って作った。抽象画はソフトを変えるといくらでもまた違ったように作れるのである。だからペイントショップなどを使えばいいのだが使いこなす事がずかしくなっているのだ。それと暇がないとまたできない。
ソフトを使いこなす方がハソコンを使いこなす方よりめんどうなのである。
なんかいろいろなことをするの2が億劫になる。時間もない。
抽象画をプログに出すときは余裕ある時なのである。
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古い道と新しい道(古町のことなど)


古い道と新しい道(古町のことなど)

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抽象画(古い道と新しい道)
http://musubu.sblo.jp/article/104552247.html

道には古い道と新しい道がある。道も変わり安いのである。古い道は古い通りは忘れられてゆく、相馬市は城下町だから道が碁盤上になっていてそれほど変わっていないのだろうでも駅前通りはまっすぐだったのかわからない。
昔の道は曲がっていた道が多い、鹿島駅からますぐな道は新しいかもともと脇に入った細い道が昔の道でありそこに店屋があり映画館があった。
日立木の道の駅でいつもたねろしている老人は日立木の生まれで学生のとき鹿島の映画館によっていたという。映画館という言葉自体死語になった。
映画で動画のニュースを見ていた時代があったのだ。そのニュースは相当に遅れていた、テレビのようにリアルタイムのニュースではない。フィルムを汽車で運んでいたとなるとそうなる。あのころは時代劇全盛の時代だった。。鞍馬天狗とか良く見ていたのである。嵐 寛壽郎(あらし かんじゅうろう)今でも覚えている。
ともかく老人になると昔の話を語りあうことで妙に同胞意識をもつのも不思議である。
昔の話があわないとやはり何か友達にもなりにくい。
家に来た二年くらいしか年が違わない農家の出の人の話は本当に面白かった。
同時代だから話があったのである。

道にも古道があるが町にも必ず古町がどこにでもある。都路に古道とあるのはその道が古い道になったからである。
どこの街でも古町があるのはそこがもとは栄えていたからである。
南会津でも古町温泉とかあり地元の人が入っていた。
ここが古町だったのかと山奥だから不思議に思った。

会津田島駅発内川行き → 針生 → 山口 → 古町温泉入口下車(乗車時間約1時間) 
 福島県南会津郡南会津町古町 字太子堂186-2

 古町温泉赤岩荘
 http://www.sayurinosato.co.jp/akaiwa/access.php


古町や会津の奥の湯秋の暮
 
 ここに自転車で寄ってこの風呂に入ったのである。写真を見ると赤い岩の温泉だった。
旅の面白さはこうしてふらりと地元の人しか入らない温泉などに入るとなつかしく思い出す。まずホテルなどに泊まったら旅情が今はないのだ。豪華な温泉にとまってもそうである。旅は別にそれほど金がなくてもできる。
何度も言っているけど金より時間なのである。それと体力があるといい、自転車だと最近何か筋肉か疲れて原町に行っても筋肉痛になっているのだ。
これではもう長い旅を自転車でははできないと思った。
あの辺で栃餅を売っていてうまかった。柳津で粟餅だった。自転車で旅していたらただでもらったりした。その粟餅屋が火事になったのには驚いた。
自転車の旅だと何か車とは違い目にとまり話かけられたりする。別に金がないわけではないがそんなふうにしてくれるというのも思い出に残る。
旅というのは道が二つに分かれていたとすると本当はこの道を行ってみようかと思いがけないと所に出るの面白いのである。今は車で道があらかじめ決められる。
何か旅自体が道(未知)への旅がなくなった。どこもあらかじめ知られているという感しになって観光地に行ってもつまらないという人が多くなったのはそのためである。
芭蕉がみちのくを旅したのは全く未知の世界だからこそ「奥の細道」を残したのである。

まず日本では道がまっすぐな所は少ないだろう。何か曲がりくねっている。高度成長期の日本改造で道はいたるところに新しく作られた。その道はまっすぐなのが多い
それは結局スピードを出して早く目的地につくという物量の道であり旅の道にはふさわしくない。浜街道でも日立木に入る道は細い道なのである。六号線からそうした脇道の昔の街道に入ると旅情があるが旅人は注目しないしそれが特殊な歴史趣味の人しか見ないのである。相馬市の道の駅には休んでもまた六号線を行く、だから旧街道のことを知らずにすぎてしまうのが普通である。
これは自分でも東海道に行ってもそこが昔の街道なのか良くわからないことがあった。
他から来ると今の道ばかりに目が奪われるからわからないことか多いのである。
よそから来ると昔を偲ぶことはむずかしくなる。外国などは特にわかりにくくなる。
最近はインターネットで思い出す旅をするのに便利になった。古町温泉とキーワードを入れればでてくるからである。

相馬市は城下町の名残の細い道や路地が残っている。だから多少昔を偲ぶことがてきる。そして景観にも注意している。公共的な建物は切り妻風の建物にしているから落ち着いた感じになる。やはり建物は相当に人間の心に影響する。馬場野の一人暮らし用の長屋風の建物のことを書いたがあれはも木の造りで落ち着くのである。やはり木の家は落ち着くのである。それは芒がなびいていたり菖蒲が咲いていたりとそうした日本の景色と和するのである。つまり文化とは一つのものではなく全体だから全体が消失すると部分だけを作っても文化にはならない、茶室などでも大都会の隅に作っても全体が高層ビルやマンションになったら合わないのである。京都すら町家の前がおしかぶさるようにマンションが建っているからだ。

老鶯の句に宇陀の古町
http://hai575.info/sa06f/20/20.htm

ここに老鶯の句を集めていた。自分の俳号も老鶯にしていた。ここの句は選ばれているからいい句がでている。古町とキーワードで引いたらここがでてきたのが面白い。こういう利用方法がインターネットならではである。そのときインターネットが活きる時なのである。
インターネットの活用方法がいろいろあるが使いこなすことがむずかしい。
それはソフトと使いこなすのと同じである。何かありすぎるのだけどもう一つ利用方法がわからないということがある。要するにあらゆるものがあっても分散しすぎてどこに何があるかわからなくなっているのだ。最近自分はこれまで書いたもの印刷したりと分類して整理している。
この作業が大変なものになっている。相当な時間と手間がかかる。
しかし小冊子にしてみるとまた違ったものに見えるから不思議である。

失われた旅の神秘性(未知の欠落)
http://www.musubu.jp/hyouronkannshou3.htm#m


 
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posted by 老鶯 at 09:50| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

absutract(bright towns)


abstract(bright towns)

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green town

中古品で買ったペイントの色の感じが違っていた。明るいパソコン特有の色になっていただからこのペイントでまたいくらでも抽象画ができる。
抽象画はいくらでも変化させられるからである。
街といったらどうしても具象画にすると街並をイメージするけどただ色から街をイメージするとなるといくらでもパターンがある。
無数にさえあるとなる。これはほんの一部である。
色から茶色だと土をイメージする。緑は森であり赤は花だとかイメージも固定しないのである。だからいくらでも変化できるのである。まさに千変万化となる。


抽象画がともかくソフトの影響が大きいということは技術的要素が高い
ただ観る方でも見方がありいろいろに見ることができるのもいい。
一つの俳句でも短歌でも人によって違ったように解釈している。
それがインターネット的なものとして読める。
一部の識者だけに左右される時代が終わったともなる。
その場合はどうしてもマスコミに左右される
マスコミによって人物が操作されるのである。
それは権力によって操作されることになるのである。
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