2014年09月30日

鶏頭(人は何かを継ぐために生きている)


鶏頭(人は何かを継ぐために生きている)

KEITOUKKKKKKK.jpg
クリック拡大

鶏頭の赤や継ぎなむ我が里を

鶏頭の朝に赤しもコスモスの風にゆれにつ映えにけるかな


鶏頭の赤は何を意味しているのか?赤とは神道でも赤き心とか偽りなき心とかに通じて重んじている。特にこの鶏頭は他の違う赤だからである。
つまりこれまで花を追求してきたのが自分である。
花には花言葉があるようにいろいろな意味が付与されてきた。
だから花言葉一応の目安でありその人によって解釈がある

今回はこの鶏頭の赤は我が里を継ぐものとして赤いと見た。
これはこの辺の事情と関係して生まれた感覚である。
ここだけではない、我が里に住めないという状態が生まれたからである。
前にも書いたけどいったん住んだ所は人が住まなくなると荒廃がひどくなる。
そこは廃村巡りのサイトを見ればわかる。
異様な雰囲気をかもしだしているのである。
まさに幽鬼が彷徨っているようなすさまじい光景になっているのだ。
そこにも長い歴史があり継ぐべきものがある。
その継ぐべきものが継がれずに廃棄されたことによりそういう異様な光景となった。

そもそも人間は何かを生み出すといってもたいがいすでにあるものを活かして継続したものとして生活がある。一から何かを作りだして生きている人はいないのである。
そんな風に生きられるはずがないのである。
田舎では先祖が残した田畑だから手放せないというときもそうである。
先人の残したものがありその上に今の生活がある。
もちろん時代によって生活は変化するが前の代にあったものを継いで生活している。

確かに近くで裸一貫で一代で材を築いたということを盛んに言う人がいる。
その苦労は並大抵のものではないことであったことはわかる。
つまり一代で財を築くことはそれだけ苦労かあるということでもある。
土地とか家とか何かしら資産があってならそれを継いでやるから楽なのである。
残されたものを活かしてさらに資産を増やすとか何か新しく付け加えることがてきる
何にもないところから生活している人などいないのである。

もし家がないから自分が家を建てたりしたり何か資産がなかったらとても芸術の創造などできない、その苦労だけで重荷となり何もできなくなる。
芸術はなにかしら余裕があるとできるからである。
家事だってこれもかなりの重圧になり時間がなくなるから創作できなくなることもある。
学問だってそもそもスコーレ(暇)から生まれたのであり暇がなければ学問もありえないのである。
毎日稼ぐばかりの労働を強いられたら学問とか芸術の創造はなくなる。

嗣業(しぎょう)

聖書にのみ使われている造語単語。嗣には本来、家や王位、名前、家財などを継承するという意味があり、聖書では、神様の祝福、財産、恵み、名前を受け継ぐことをいう。ゴエルはまさに嗣業である。

さらにゴエルとは、再びさがし出す、元に戻すという意味もあり、ルツ記にはこの概念が13回 も出てくる。この概念が重要なのは、この考えが私たちの救いと重なっているからだ。エデンの園で本来持っていた神様の嗣業(神様の祝福の相続)を、罪の為 に失ってしまった私たち

 嗣業(しぎょう)という概念が他にないから説明しようがない。
カナンの地、今のイスラエルは神に与えられ嗣業(しぎょう)の地であった。
だからこそ今でもそこをめぐって争われている。

神様の祝福、財産、恵み、名前を受け継ぐことをいう

これは日本的に良くいう先祖のことになるだろう。先祖の残したものとなるとわかりやすいのである。なぜならそういうものを原発事故で失ってしまったからである。
 名前とは家系ともなり恵みは田畑の実りなどでありそこに家とか土地とかあり財産もあったのである。それらを失ったことか原発事故周辺なのである。
特に住めなくなった地域はそうなのである。

何かしらその家々には受け継ぐものがある。嗣業(しぎょう)は何かをもっている。
そもそも嗣業(しぎょう)は神から与えられたものであり人間で作り出せないものである。
農業とかもともと神聖なものだったというとき一つの嗣業(しぎょう)だからそうなっている。漁業とかもそういうものとしてもともとはあった。

原発事故で住めなくなった地域はそうした土地や資産やそれだけではない家系としてつづいた名も失うことになる。それは相当深刻なことだろう。
他の土地で一からはじめことは容易ではないからだ。まず土地がなければ農業ができないとかになるからである。
ただ他の土地に移り飯館牛を絶やさないためにと牛を飼っている人もいるし土地を借りて農業をはじめた人はいる。だからできないことはない、でも村とか町としての 嗣業(しぎょう)は失われたのである。
個々には回復があっても全体としては村や町が消失したからないのである。

また避難区域だったところに老人だけ住んでも何か 嗣業(しぎょう)はやがて絶えてしまうだろう。そして元の荒野に森に戻ってしまうだろう。
だから75歳で稲田を作ったとか川内村では75歳でエチゴ栽培をはじめた。
それも一つの嗣業(しぎょう)を回復して新たに作ろうとしてはじめた。
すでに山元町などはエチゴ栽培のノウハウが蓄積され 嗣業となっているからはじめられた。そういうノウハウの蓄積がなければ一からはじめるから容易ではなくなるのである。

だから原発事故で住みなくなった地域は神に呪われた地になっかのかとも思う。
なぜなら 嗣業が奪われ人々は離散してしまったからである。
これは三陸などの津波の被害地にも言えるだろう。
もう人が継続して住めないというほど被害が大きすぎたのである。
人口の20パーセントが女川では流出したとかなるとそうである。
高齢化社会がまた追い打ちをかけて若い人たちが流出して町も村も維持されなくなっいるのだ。

小さなる漁港点々津浪きて暮らし奪いぬ誰か跡継ぐ

跡継ぐ人がいない、 嗣業が受け継がれない、村は消滅するとまでなっている。
ただ 嗣業とは何かというとき、そもそも農業とか漁業ではやっていけないと原発事故前から言っていたし跡継ぎもいないというのは津波や原発事故前から盛んに言われたいたのでありそれが津波や原発事故で致命的になったのである。

インカ帝国などはもともと国家としても旧弊化して滅びる運命にあったとか言われる。
それがスペインのわずかの盗賊強盗集団が入ってきてあっけなく滅んでしまった。
それだけの抵抗力がすでに国自体になくなっていたからだとも言われる。
今回は農業でも漁業でも林業でも壊滅的打撃を受けたのはもともと収入が少なくてやっていけないと常に言われてきて跡継ぎもいないというのとは津波や原発事故前からそうなっていたのである。ただ津波原発事故はとどめさしたとなるだけだったのである。
なぜなら三陸があれだけ百年前でも一万人以上も百年前ころに津波で死んでも回復していることでもわかる。その頃は漁業が暮らしの中心だからそうなっていたのである。
要するにすでに津波原発事故前から農業や漁業に見切りをつける人が多かった。
それが津波原発事故であからさまになり本当に見切りをつける決断を強いられたともなっているのである。



  




タグ:鶏頭