2014年09月25日

秋風吹く三年半過ぎた津波原発の被災地(短歌十首)


秋風吹く三年半過ぎた津波原発の被災地(短歌十首)


葱畑働く人見ゆ仮設に住み三年半すぎ何思ふらむ

我が町の仮設に住みて隣の人や秋となるかな

小高にそ帰るものなれ久しくも家は荒れしも秋まためぐる

これよりは草に埋もれし線路かな遠くなりにき小高浪江かな

小高駅電車は来じや我が町と住み人あれや秋の日暮れぬ

浪江にそ空屋となれる農家かないつの日帰らむ秋風の吹く

飯館に久しく行かじ家々の何となるらむ秋風の吹く

津波跡移る季(とき)かな荒野にそ秋風吹きて波のしぶけり

津波にも残る神社や烏崎草に埋もれて秋風の吹く

津波にて死す人あわれいたましも月日はすぎて忘れられゆく

ここに住む人は誰なれ草埋もれ問うもあわれも秋風の吹く


数回の土寄せと追肥のおかげです。

葱は早く成長する、40日間である。野菜を作るにしてもどのくらいでできるかが問題になる。買っていると何かいつでもできているというふうに感覚になる。
農業をしていれば時間の感覚が違ってくる。すぐにはできないからである。
二十日大根の名も早くできるので重宝されたためだろう。
40日間だって長いと思う。そのままほうっておくわけでもないからだ。
水をやったり肥料をやったり土寄せというものもする。
多分小高の人だろう、土地を借りて葱を作っていた。土寄せしていたのだろう。
この辺で葱畑が増えたのは葱は作りやすいからだろう。

田舎ではまず農業のことを知らないと田舎を知ることはできない。
でも田舎に住んでいて農家でない人は知らないのである。
田舎といってもほとんどが会社員になっているからである。
稲の実りの風景かあるときこの辺でなくなったから何かそれが新鮮だった。
実りの風景は見慣れたものだったがなくなったときなんだったのだろうと考える
人間は家があれば家はあるものだと思っていた。それがなくなったとき家のことを思うようになる。あまりに当たり前にあるものは特別思うことはないのである。
たがらこの辺で起きたことはありえないことの連続だったのである。

第一すでに主に小高の人は仮設に住んで三年半すぎている、これは結構長いと思う。
さらにあと一年半とか五年の歳月は長い、この間にいろいろな身辺の変化があり心境の変化が起きてくる。だから小高に帰る人がどれくらいいるのか予想つかないというのもわかるのだ。なぜなら常に人間の身辺とか境遇とか人間関係とか財政状態とかいろいろなものが変化しているからだ。
特に若い人と年寄りの考え方の落差が大きいことが問題なのである。
老人は終の住処を死に場所を求めている。それはもともと先祖から住んだ故郷がふさわしいのが普通である。だからこそ年寄りはどこでも住んだところに帰りたいとなるのだ。
現実にチェルノブエリでも老人は故郷に帰り細々と野菜などを作り住んでいたのである。

小高は帰れれば帰れるから浪江とか飯館とは違っている。ただ何か帰りたくないという人も多くなっている。でもいつまでも仮設に留まることもできない、補償金をもらっているということで周囲かねたまれているし住みずらいとなる。
何かその人は66歳で原町に住居が提供されとか言っていた。5年くらいは補償金でためた金で暮らしあとは生活保護で暮らさすと言っていた。
家はあっても土地は自分のものでないからであり一人暮らしだからである。
生活保護で暮らすという老人は結構多いみたいだ。
小高の人は生活保護を受けやすい環境にあることは確かである。
小高で働けといってももう働けないとなる。

結局この辺は三年半すぎて何ら復興していない、また無情の秋風が吹いてくるだけである。
そもそも津波の跡にはもう家は建たない、原野化したままだから余計そうなる。
何か秋風が一層かえって身にしむような感覚になる。
松原があり実りの風景があったらそんなに感じない、荒涼とした原野なのだから秋風が一層身にしみるものとなる。
ただ津波の跡はいくら三年半すぎてもまだまだその跡は生々しく忘れられるものではない、
それだけ津波の被害は深い傷痕を人間に残したのである。

二万人近く死んだということは簡単に忘れられることではないのだ。
津波の被害の特徴は神戸とか戦争で死んだとかとも違っている。
死んだ場所が自然に帰り荒野化したということが違ってる。
神戸などはすでに震災の面影もなくなっているだろう。
津波の跡は原野化したのだけど何かそこには死んだ人の霊魂彷徨っている感じになるのだ。

だから3キロ離れて被害にあった人も海の方が怖いと言っている。
いったん津波の被害を経験すると海が近いなと離れていた人も思うのである。
もうその感覚からは生きている限りぬけられないだろう。
時分住んでいる場所でも一キロも離れていない場所に津波がきたことは本当に海が近いということを感じた、そもそも不思議なのはそうした津波の記憶がある人は海のあるところを干拓してまた田を作ったりはしない、でも伊達藩では慶長津波がきた場所を広く開拓したのである。これは今の感覚とは違っていたからそうなった。
どうしても米を作らねばならない事情があったのである。

小高駅電車は来じや我が町と住み人あれや秋の日暮れぬ

小高では理髪店が開業していて人が住んでいるみたいだ。
役所も開いているし何か飯館村とも違っている。
浪江には道路は通れても人が住んでいない
やはり人が住んだところには少数でも誰か済まないと
前にも書いたけど廃村となった集落のうように
そこには幽鬼がさまようような異様な空間になってしまうだろう。
少数でも人が住んでいればそこに明かりが灯れば
そこに人間的あたたかみが生まれる
ゴーストタウンやゴーストビレッジは不気味である。
それはまるで映画のようなのである。
コンパクトシティでもシルバータウンでもやはり人が住めば違ったものとなる。
 何かそこで救われた感じにもなるのだ。


タグ:秋風