2014年09月21日

秋の夕暮(日立木から相馬市を夕暮れに回る)


 秋の夕暮(日立木から相馬市を夕暮れに回る)



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日立木に秋の夕日や古き蔵

日立木に半鐘残り実りかな


この道や萩に薊に草の花実りの稲穂六万石かな

一所はや稲刈られ街道の松並木見え夕日のさしぬ

街道にソバナの花やはや暮れむ細道通り城跡に着く

相馬市に秋の夕日の山に没る土手に芒や家並淋しき

スナックの名前の一つ目にとめぬ誰が営むや秋の夕暮

道の駅今日も老人たむろしぬ秋のはやくもめぐりけるかな

白菜の三カ月すぎて実れるとその間の長き見守りけるかな


日立木に半鐘があったのに気づかなかった。ここは数えきれなく通っていてもあまりに見慣れていて気づかなかった。人間の盲点としてあまりに見慣れたものは注意しないのである。そういう盲点をついてポーが推理小説を書いた。重要な手紙が一番見られる所にあったので注意されなかった。これは人間心理の盲点である。
あえてわからないところに隠そうとするとかえって見つかる。それは自分の実際に経験したのである。大金などを大事なものを隠すときは誰でも目につくところにあると注意しないのである。確かに大きな看板とかいつも見慣れているものは人間は注意しないのも盲点である。いつもあるものは注意しない、灯台下暗しなのである。
毎日見ているものに注意しないのである。

半鐘は近くの神社で遊んでいたとき、火事があったりしたとき登っていた。それが急であり意外と危険なものだったが子供でも登っていた。子供はそういう点意外と運動能力があり機敏だということがある。子供はそうして危険な所でも怪我かないということもある。
子供は順応力がある。大人になると順応力がなくなる。

日立木の家並を出ると稲田でありその一部はすでに刈り取られていた。ずいぶん早いと思うがそういう季節になってきた。夕暮れは何かこれまでの残暑と違い秋めいていた。
最近北風もふいたし急速に秋がやってきているのだろう。
萩の花に薊に草の花と咲いているのもいかにも秋らしい道である。

どういうわけか今日は相馬市についたら橋の手前の何か注意もしない、家並がある。
そこは何か古ぼけた感じがする。その中にスナックの名前が書いてあった。
どうしてかその名前を今回は注目したのである。
そんなスナックなど注意してどうなるのだと普通だったら見過ごしていたしこれまでも見過ごしていた。
ただ人間は長く住んでいれば細部に注意するようになる。最近7年間は遠くにゆくことがない、仙台にすら春に行ったがそれから一回も行っていないのである。
そうなると近くに注意するようになった。
それでそんなスナックを注意して短歌にするようなことはないのだが今日はしたのである。
というのは同じ街に住んでいればそこにも人の営みがあるからだ。
するとここに誰が住んでいるのだろう、やはりスナックでもそこで生活している人がいるとなり注意した。

これは啄木の歌ににかよったものがいくらでもある。表札を見ただけで歌にしている。
あれだけ若くてあういう死ぬ間際に短歌を残したことの不思議である。
人間は一見意味ないと見えるものでも意味を発見するのは老人になってからなのである。

Yといふ符牒ふてふ、
古日記ふるにつきの処処しよしよにあり――
Yとはあの人の事なりしかな。啄木

こういうことは老人になってからそうなる。もう誰とあったのかそれが誰だったのか何を意味したのかさえ不明になる。丁度認知症気味になってゆくのだ。
覚えている人間が二人とか三人とかになりそれも定かではない。
それも変なのである。人が子供のころからあっている人間は数限りなかったのである。
でも覚えている人はほんのわずかだとなってしまう。
つまりY としか浮かばない謎になってしまうのである。
人間がこの世で会うとしても最後はさよならだけが人生だとなってしまう。
老人になるとどれだけ人と人が別れてゆくが痛切に現実になそうなるからだ。

何か相馬市と原町市では感じ方がかなり違うのも何度も書いてきたが不思議である。
相馬市では歯医者に通っていたがそのとき驚いたのは夫婦でしていた歯医者の夫が死んだということには驚いた。夫婦で歯医者をしているなど恵まれているなと思っていたからだ。
そこには何回も通っていたからそう思った。別に親しいわけでもなんでもない、相手も何も自分のことを知らない、そこで思ったことは人間は本当に恵まれたと思ってもいつまでも恵まれるということもないということなのだ。その夫はわからないが50代だったのか若いが癌で死んだらしい。
相馬市にはなぜ二週間相馬総合病院に入院していたから病院通いで行っていたのである。
二年間以上通っていたのである。

知り合いの女性が小さな畑を作っている。白菜を植えたというが実るのは三カ月後だという。ええ、三カ月後なのか長いなと思った。なぜそう思ったのだろうか?
スーパーに行けばいつでも野菜はあるじゃないかということでそう思った。
そんなに三カ月でも待つ必要はない、金を出せばいつでも食料は手に入ると思っているからだ。
この白菜が三カ月でやっととれて食べられるのかということである。
それだけでも食料は食べるまでになるのには手間がかかるのだ。
ただ買うだけの人はそういうことが全く実感としてわからなくなっている。
田舎に住んでいても農業に関係しない人は同じなのである。
自分もそんなことを感じたことはなかった。そこが失敗だったと思う。
まず田舎に住むなら農業を片手間でもいいからしてみることが必須である。
そうでない限り都会人と同じになってしまうからである。

でも実際はその畑はほとんどとるにしてもずかである。いまだにキュウリ一本とかしかもらえない、ただその小さな畑をする苦労だけが語られている。
キュウリを虫に食われた、ネズミに食われた、モグラに食われた、肥料に苗に金かかったとかそこから得るものはただそうした苦労話だけだった。
その女性もいつも腰痛いとかそんな話であり老人はつくづくもう農業さえできないのかと思った。
そこは小学校か中学校の試験用の畑みたいなのである。収穫はほとんどない。
ただ金場それなりにかかっているから収益はない、むしろ金をかけたぶん損になっている。
だから学校の実験の畑と同じである。
ただ農業はそれだけ手間がかかるものなのである。

相馬市の道の駅には今日も暇な老人がたむしていた。あのように時間をつぶしているのも高齢化社会の風景である。ともかく今日は本当に秋の夕暮れになっていたのである。



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