2014年09月20日

今高い野菜のことで田舎と都会を考える (原発事故も田舎と都会の差から作られた)


今高い野菜のことで田舎と都会を考える


(原発事故も田舎と都会の差から作られた)



●田舎は地方は戦前までは自給自足で都会に頼っていなかった

今野菜が高い、レタスが3百円とかは高くて買えない、東京辺りではもっと高くなっている。こうなると野菜自体が買えない状態になっている。わからないのは外国産が入ってこないことである。前には外国産が入ってきたことがあった。
アスパラガスはメキシコ産であった。自分はアスパラガスは好きなので毎日食べている。
あとはあまり野菜は食べない、肉も食べない、魚は食べている。小食になっている。
不思議なのは卵とご飯とお菓子くらいで介護されている百歳にもなる人が生きていることである。もともとご飯と味噌汁と梅干しだけで生きてきたのだからその昔と変わりないのである。だから戦前生まれの人は生きることに耐久性がある。今の人は団塊になると贅沢だからとてもこうはならないだろう。糖尿病が増えているのもそのためである。

この野菜の高騰で思うことは田舎と都会はもともと差があった。特に東京と田舎は差があった。だから東京に憧れる人がまだ多かった。自分も東京にゆくことに憧れた。
それより田舎を脱出したかったのである。脱出願望がありそこに東京がのっかただけである。その後も旅行ばかりしていたことはそういう田舎の脱出願望がつづいていたからである。一般的に若い人は田舎を好まない、特に団塊の世代辺りでは特にそうだった。
その頃東京と地方には相当な差があったのである。
いづれにしろ高度成長時代になると豊かになりたい東京と同等の生活をしたいという欲望が地方でも強くなった。それが双葉辺りで原発を積極的に誘致した原因でもあった。
なぜなら原発ができて出稼ぎにゆくこともなくなり良かったと言っているからである。
あのころは地元で農家などは現金収入がなく出稼ぎの時代だったのである。
ただ出稼ぎで現金収入があり子供を大学まで出した農家の人がかなりいたから出稼ぎがみな悪いものとはならない。今や建築現場では出稼ぎの人もいないから人手不足で困っているからだ。

その時代から東京と地方の差をうめる努力をしてきた。その一つが公共事業であった。やたら建築関係の土木の会社が田舎に増えた。田舎の産業は農業と漁業と林業など第一次産業だったが建築土木が主流ともなる。それで都会との差を縮めようとした。
工場も誘致されて現金収入が増えた。
東京と地方というとき戦前はうまく東京と地方の役割があり調和していた。
その例が平機関区や原町機関区は石炭や木材や石材など原材料を東京に運んでいた。
それは全国で森林鉄道が網の目のように張りめぐらされていることでもわかる。
木材はみんな国内産だったのである。そういう時代は東京と地方の田舎の軋轢がない、限界集落などもない、田舎は税金の無駄使いだなどと言われることもない、そもそも田舎は田舎で自立していたのである。東京に田舎から供給するものがあったからでてある。
それは団塊の世代が集団就職でそうだったように労働力も供給していた。
出稼ぎも労働力を供給していたのである。

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ここは丸森である

富めりとも翁の身には知らざらん木の間のけむり絶えずのぼりて 大和田建樹

これは炭焼きして自活していた時代であった。戦後十年も炭の生活だった。だからこそ田舎では自給自足で自立していたからこういう自負があった。
国に頼っていない、都会にも頼っていないから都会の人に税金の無駄使いなどともいわれなかったのである。今からすると貧しいのにそういう自負があったということを見直すことになる。おれ達は東京のお荷物ではない、国のお荷物ではない、自分達のことは自分達でまかなっているとうい自負があった。今は地方自治体でそんな自負をもっている所は少ないだろう。だから原発はかえってそうした辺鄙な地域に建てられやすい、そうなったとき地域の自立は消失して東電に町ごと村ごと市ごと買い取られるような状態になっていたのである。現実にあれだけの補償金が出されることに驚いている。
村一つとか町一つなど東電で軽く買い取る規模だったのである。

●都会(東京)と田舎の差がはっきりあった方が良かった

今思えばかえって東京と都会と田舎の地方の差はあった方が良かった。そして地方は地方なりの田舎なりの自然とともにそれに見合った生活を目指せば良かった。
つまり野菜が馬鹿高くなっているが田舎では安く買える農家からもらうとか市場で安く買えるとかあるからだ。都会では東京ではそうはいかないのである。
野菜がキャベツでもレタスでも白菜でも一個千円だとかなれば東京に住みたいたいという人はへるだろう。外国産を仕入れろと言ってもアメリカのカリホリニュアが干ばつだとか
世界的食料危機くになるとかで入らないとしたらどうなるのか?千円のキャベツを買うか食べないのかになる。そしたら田舎がいいという人はでてくるのである。

また田舎は田舎で野菜は東京のようにはならないが車は贅沢品だとなり一人一台はもていないとかなる。文明の贅沢品は買えないということが起きる。前のように現金収入がかなりへるからである。それはそれで田舎は嫌だ都会がいいという人も逆に前のようにでてくる。でも野菜がキャベツでも一個千円の所では暮らしたくないともなる。
そういう選択が迫られる。今のように東京も田舎も変わらない生活をしていればそういうことが自覚できないのである。
都会で暮らす、田舎で暮らすメリットとデメリットがはっきりさせられる。
田舎は嫌だとしても東京でも野菜が馬鹿高いとなり嫌だとなればどっちを選ぶのかとなる。

おそらく原発事故はそういう課題を生み問うことになった。だから双葉の人が蝋燭でもいいから家族一緒に暮らしたいとなった。こういうときは極端なことがでてくるのである。
山尾三省のようなパンが贅沢だとまではならなくても田舎に暮らすことはやはりそれなりの貧しさがあり覚悟が要求されてくる。
田舎でも地方でもそういう生活なのだということを自覚して生活していれば原発など誘致しないのである。東京も都会も田舎も地方も生活水準は同じであるべきだという追求が原発を誘致する結果となった。
それは大きくは文明の問題でもあった。
現代は本当に過分な贅沢を追求している。それは借金してまでしている。借金してまで豪邸を建てている。事業に失敗しても成功しているととか借金していたりとか見栄を張り生活していた人もいる。
そういうものをどんどん追求してゆくことが原発が誘致される要因だったのである。

●資本主義は無限の欲の追求であり限界が・・・

小高の人は腕のいい大工であり庭師であり感心した。それでも借金して豪邸を建てているとか他のブラック的な事業にも手を出している。そして小高に原発が建つと景気良くなるよと言っていた。実際に小高に東北電力で原発を建てることが決まり工事も始まるところだったのである。
つまり一個人でも欲望かかぎりなくなってゆくとそうなるということでてある。
原発のことなど何も知らなくても景気よくなるよというだけで誘致する。
それは双葉や大熊や他の地域でも同じである。その金が桁違いであり幻惑されてしまうのである。結果的に事故の後も巨額の賠償金でもめて翻弄されているから変わりないのである。
原発はそうした地元でも国でも人間の欲望と密接に結びついて危険でも作られてきたのである。

事業して借金した人もそうである。見栄をはりその見栄をはった生活がやめることができない。
そうするとモラルもなにもなくなる。嘘もつくし金のためについには保険金殺人までするような状態に陥ってゆくから恐ろしいとなる。
そういう現代の文明的生活の追求か実は危険なものがひそんでいたのである。
資本主義自体が人間の欲望の自由な無限の拡大でありそれは自然破壊にも通じていたし現実に世界の自然破壊になった。だから資本主義やグローバル化を否定する人々もでてきた。
かといって資本主義で利益を得ている人はその欲望を減らすことなどできないのである。
金があれば一億あってももっと増やしたいとなる。それはきりないのである。
自分も矛盾しているのは株をしていることでもわかる。
金の魅惑は大きいし実際的力をもっているからそうなる。
原発事故周辺では結局土地とか家を失うと金だけが頼りだとなり金中心で動くようになったことである。頼るのが金しかなくなってしまったのである。
自分でも米も野菜も作れないからである。
ともかく原発事故はここだけではない文明をそのものを見直すものとなったのである。


タグ:東京と地方
posted by 老鶯 at 13:38| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連