2014年09月15日

虫の声 (敬老の日ー石のように動かなくなる老人の心境ー石の心(詩))


虫の声

(敬老の日ー石のように動かなくなる老人の心境ー石の心(詩))

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秋の蝉残り屋にひびく海老の村

朝の海望み揚羽や舞いにけり

露草や石一つ残る津波跡

老いゆくや夜更けに光る後の月


田舎なれ夜のふけて鳴く虫の声かすかなるも我が聞き入りぬ

秋となり声なき死者は何求む別れし人も遠くなりゆく


スーパーで掃除などしている退職した人は母親が92歳で息子の名前もわからないというから重症である。その人がだれかわからないのは認知症でもかなり重症である。
夜中に起きるのが困ったということも自分も経験している。
その人が早く死んでくれればなと何度も言っていたから認知症になるとみんなそうなる。
自分の場合は最後まで自分のことはわかっていたのである。
認知症は時々正気に帰ることがあり意識不明になり昏睡状態になるまえも正気にもおったことがあった。だから本当に認知症は不可解な病気だと思う。
90歳過ぎるともう半分は認知症になる。


今日はは敬老の日といってもこれだけ高齢化になると社会で祝うというより負担に感じる人がふえるだけである。
福島県では会津の方で65歳以上が50パーセント越えている村がある。
そういうところは村自体維持できなくなってゆく、そして津波原発事故は高齢化で復興できないとなっている。
避難区域になっているところはどこも若い人は帰らないとなり帰るのは老人だとなると
復興はできない、老人は先のことは考えない、まもなく死んでゆくものとして在るから
先の長いことは考えられないのである。

そして老人は動くこと変化に対応できなくなる。老人は本当にだんだん石のようになってゆく。 老人は死に場所を求めているのだ。その場所は先祖代々生きてきた場所がふさわしいのである。だから老人はどうしても故郷に家に帰りたいとなる。それが奪われたことはいくら補償金をもらっても償いないとは言える。ただ補償金はまわりからどう見られるかも問題になるからそれはまた別問題である。

ともかく老人の心境は詩にすれば次のようになるだろう


 石の心

在るべき所に人はあらじ
在るべき所を人は知るべし
巌のように固く重く
在るべきと所を悟り
その場を動かざるべし
在るべき所に人は死ぬべし
汝は在るべき所に安らかなるべし
その死後もまたしか在るべし
巌のように固く重く
そこに花のまた咲くべし
巌とは夫であり花は妻なれ
花はその巌の上に安らかに咲くべし 

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巌の石のように在るべき所に在るということ悟りのように自覚する。それはなにかというと自分の人生をふりかえっても在るべき所になかった。
いろんなところ無駄に彷徨っていた。カルト宗教団体などで活動していたのも在るべき所になく時間が浪費されただけだった。都会の生活は何かその繁華街であり本当の生活があるように思えないのである。現実ならざるものにも見える。それは自然から全く離れた人工的空間になっているからである。
人間は死ぬ場所がどこになるのかも大きな問題だろう。ここが死ぬ場所だと納得して死ねる所である。仮設で死ぬようなことがあれば本望にはならないだろう。
女性だったら嫁ぎ先の家で死ぬのが本望だろう。そう思わない人はやはり結婚が失敗だったともなる。 

海老村の津波の跡に石が残っていて露草が咲いていた。石と露草が在るべき所に在り咲いているとなる。津波とか原発事故はその在るべき所を奪われたことが最大の悲劇であり理不尽だっともなる。
一方で若い人は一億円もらって便利な都会で暮らした方がいいとなるおも現代では避けられないのである。
皮肉だったのは「絆」とは外部との絆だった。広域社会になると外部との繋がりが大きくなり金の力が増大する。つまり地球の裏側からもものが入ってくるからである。
一方で肝心の内部の絆は繋がりは助け合いはない、補償金でいがみあっているというのもつくづく現代社会の矛盾がここで露骨に表れたのである。
広域社会では外との繋がりで絆が生まれたのもそういう社会になっていたからである。
一方で近くはかえって繋がりがないというのは現代社会ではそういう構造になっていたからである。金さえあれば食糧にこまらないということがそのことを象徴していたのである。そして広域社会でも交通が遮断されたとき危機に陥ったことでわかる。
外部から食糧が入らなければ現代では万事休すになるのである。

ともかく敬老の日ということ自体が全くそぐわない時代にもなった。
早くしんでくれというのが悲鳴のようになっている時代でもあるからである。        
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