2014年09月14日

田舎の路上でギターの演奏していた若者 (除染で名古屋から来たというが・・・・)



田舎の路上でギターの演奏していた若者


(除染で名古屋から来たというが・・・・)

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夏草や若者歌う田舎道


この辺では外部から人が入ってくるのは珍しくない、でもあれは変わっていた。
脇道で車もあまりと通らないところでギターとハーモニカで演奏していた。
あれは都会でよく歌っているストリートミュジシャンである。
それが田舎道でしていたから驚いたのである。

その若者は名古屋から車できたばかりだった。随分田舎だとか言っていた。
ホテルが用意してあるというがプレハブだった。
この辺にコンビニあるのかとか随分田舎だと思い何もないとか言っていた。
名古屋からすればそうなる。
名古屋に太平洋フェリーで何度も行った。
名古屋の人とはトルコのイスタンブールでも会った。その人は会社の派閥争いで敗れてやめて世界旅行していた50代の人だったろう。
その人はシリアにも行っていてあそこの人たちは純朴でいいよと言っていた。
外部からまだ人があまり入れない地域は昔のままであり汚されていないからである。
アジアでは元のビルマのヤンマーやラオスに行った人もそう行っていた。
だからシリアは悲劇だった。日本人はアラブに好感を持っている人がいるしアラブ人も日本人に好感を持っている。アラブ人は何か付き合いやすいところがあるからだろう。

そこであった名古屋の人は何かエネルギッシュだった。若者と交わり溶け込んでいた、名古屋人には信長や秀吉タイプがいるのかと思う、一般に大阪や西の人は積極性が全面に出る。近江の大津の人も値切るのがうまい、外国でもそんなことができていた。
近江商人の出た所だと今では思っている。
東北人はたいがい農民であり体質的に積極性がない、それはここに転勤してきた関西の人も言っている。
日本人は商人に向いていない、職人だというとき特に東北人はそうなのである。
ただ伊達政宗は例外だったのである。
前の親戚の人が事業に失敗したのも商人として失敗したのだろう。
職人のままだったら成功していたのである。ただ事業は20人一人しか成功していないとすると地域だけでは測れない、でも事業で成功しているのはやはり関西の方だろう

いずれにしろあの若者は除染とか建築関係の仕事ができるのかと思う
一週間で辞めるかもしれないというときそんな感じなのである。
飯場でギターひいている人はいないだろう。
人手不足でだれでもいいから人をあつめているからだろう
建築関係の仕事はアルバイトではやるべきではない、危険であり除染でも屋根から落ちたりすう。あれは相当な訓練が必要なのである。
ただあんなふうに積極性のある若者はこの辺ではすくないだろう。

今年はまだ夏でありまた秋になっている。
だから夏草でもある。一般にはこの辺の労務者は高齢化している。
若い人はどこでも少なくなっているのだ。
若人はやはり無鉄砲であるがエネルギーはあるから活気は出てくる。
田舎何もないというとき田舎もともと老人向きだった。
田舎の良さは本当は老人になってからわかる。
自然にとけこむのには木が育つように時間がかかるのである。

posted by 老鶯 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

相馬市の道の駅で昨日の話 (補償金で分断されて絆がなくなった原発事故周辺)


相馬市の道の駅で昨日の話

(補償金で分断されて絆がなくなった原発事故周辺)



相馬市の道の駅ではいつも近くの老人が4、5人集まっている。話題にしていたのが1200万で売り出していた土地と家だった。広告がでてそれを見せていた。
家は築44年だから価値がないけど土地が140坪では広いと思った。
日下石であり街内ではないにしろ近くにスーパーもあり学校もある。
今では土地を求めている人が多いから買得ではないかと思った。
農家だった人などは広い土地を求めているからである。

そこには飯館の人が来ていた。相馬市の大野台の仮設にいるという。あそこには仮設が多く津波の被害者もいる。津波の被害者は地元に家を建てて仮設を出た人が多いという。
その人は飯館の飯樋であり墓が三つあり牛を飼っていたという。
牛を600頭も飼っていた家があったというのも驚きである。
それだけ飯館は広い土地だったのである。
米の耕作面積も広かったのである。山でも平地が広い所でもあった。
みんな帰るのかと聞いたら帰るのは老人だけだといっていた。
これは避難区域などではみんな同じである。

テレビで放送していたが川内村では原発に三分の一働いていたという。
川内村は原発でもっていたのである。辺鄙な村でも結構豊かに暮らしていた。
なぜなら原発で働くと給料が他よりいいからである。
それに比べて飯舘村は牛の村であり原発とは関係ない村だった
東電からの援助もなかったろうから悲劇だったのである。
南相馬市でも原発で働く人が多かったのには意外だった。
今回原発事故で被害にあった所では飯舘村は恩恵を受けていない村だった。

道の駅には外部からの人も出入りしている。自転車日本一周とかの若者もいた。
仕事できている人もいる。六号線がいわきまで通じていないのでどこを行けばいいのか
尋ねる人がいた。六号線は朝晩は許可証なしで通れるようになる。
それでもなかなか通りにくいのは変わりない。
この辺はまだまだ混乱が続いている。
大野台では仮設でも飯館村と津波の被害者の事情はかなり違っている。
津波の被害者は補償金を漁業関係者意外はもらいないからだ。
それで飯舘村の人がトマト栽培農家に雇ってもらおうとしたら断られた。
津波の被害者を雇うからだとnhkで放送していた。

この補償金問題もこの辺で内部対立を作り出した。
浪江の工場経営者も前の仕事仲間から補償金もらっているのだからと仕事をさせてくれないと嘆いていた。
一方では避難民は補償金で働かず遊んでいると非難される。
近くでも畑で野菜をつくっている人がキュウリをくらと仮設に住んでいる人に言われたが
小高の人にはやらない、金あるんだから、買えばいいだろうと言ったという。
それもそうなのである。
ただ南相馬市では小高の人は同じ南相馬市でありイワキや他の市町村とも違っている。
悪感情があってもそれがいわきのように露骨に嫌がらせまではならないだろう
車をパンクさせたというのは本当かどうかわからない

もし本当に困っていたら

「私は食べののがなくて困っています、一本でいいからキュウリわけてください」
「あなたたちが困っているの見ていてわかっています、どうぞもっていってください」
「ありがとう、ここの人は親切です 恩にきます」
「困ったときはおたがいさまです」

「キュウリ一本など買えばいくらでもあるよ」
「金はあるんだからそんなもの買えばいいんだよ」
「この土地のものには世話にはならん 俺たちは俺たちでやるうんだよ
金で遊ぼうが金あるんだから手伝いに雇ってもいいよ、金があるものが今に世の中では
ものを言うんだよ」

こんなふうになるのはまさに現代を象徴していたのである。要するに原発事故は現代社会の矛盾を露骨にした場になったのである。

絆だとか最初はいわれたけど今では心もバラバラになってしまった。
人間は貧しいときは助け合うけど豊かになると助け合わない、それと広域社会になったとき、金の力が大きくなりすぎたのである。
このへんでは食料がとれなくても全然困らないのである。かえって補償金で贅沢をしているのだ。
そのことを象徴していたのがこの土地のものが作った野菜をくれろといったらもし保証金もなく苦しんでいたら分け与えていた。そうしなくても困らないから協力もないのである。
広域社会になり金の力が大きくなると近くでは協力しなくても生活できるからそうなる。
若い人が故郷から流出するの移動するのが容易な時代だからそうなる。
原発や津波の被害地はそうした現代の矛盾を露骨にしたのである。

タグ:原発補償金
posted by 老鶯 at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連