2014年09月01日

秋薔薇(また厚寿苑にショートスティ)


秋薔薇に菊(また厚寿苑にショートスティ)

kikuuu123_FotoSketchernew2222.jpg


kikuuu123_FotoSketchernew1.jpg


kikuuu123_FotoSketcher333.jpg

kikuuu123_FotoSketcher4444.jpg

kikuuu123_FotoSketcher66666.jpg


それぞれに違ったように見える。

フラワーアレンジは前もフォトブックにしたけど絵になりやすい。

これは無料のフォトスケッチャーできる。

ソフトは無料であれ安いのであれそれを使いこなす方が手間なのである。



窓しめて三色の菊壺に挿す

十数輪老人増えて秋薔薇

買い物にいつもの道や秋薔薇

雨しとと夏も過ぎたり秋薔薇


なお生きぬ大正生まれの女(ヒト)語る我が町にあり新しき施設に



厚寿苑のショートスティに泊まりである。あそこでは介護色をだしているから家では食べないのに食べた。食べやすいからいいのである。
施設では無理に食べさせているがあういうふうにしないともう食べたくない人がいるからやがて体力がなくり死がはやまる。食べ物の点では施設がいいし長生きになる。
ただ施設には行きたくないという人が多い。
99になったらもうどこに行きたくない、動きたくないのは当然である。
そもそもこうして無理に食べさせたり介護しないと早く死んでゆく
それがまた寿命を伸ばしているのだ。
だから老人に金かかるのは介護ということが社会的にも金をかけてしているからである。家にいたら長生きだとはならない、自分はおかゆを作るのもめんどうでしていない。
介護食がないとだんだん弱り風邪などでも死ぬことはありえる

ショートスティでは意外大正生れが多いことにきづいた。大正生まれは九〇才以上である大正生まれはそれだげまだまだ生きている。大正生まれは明治生れはいなくなり貴重なものになっている。大正生まれかとなると年号の不思議は昭和生まれは区別される。
昭和はなにか戦後もつづいたので混同されやすい。
戦後と戦前の昭和はまるで違ったものである。
だから年号で時代を見るのもすべてがいいとは言えない。
大正生れの人は姉のいる蒲庭(かばにわ)まで原町から汽車できて歩いたという。
その頃街のうよになっていなかったとか言っている。
その時鹿島がどんな町だったのか?

いづれにしろ汽車があっても運賃が高くてのれないとか歩いた人が多いのである。
姉は下駄はいて葛尾(かつろう)村まで歩いた話しを良くしていた。
それだけ遠くても歩くのが普通だったのである。
汽車を利用する人はまだまだ少なかったのだろう。
明治とか大正とか戦前はまだ江戸時代の延長のようなところがあったから
長距離でも普通に歩いて移動していたのである。

厚寿苑は近いから便利である。街中にありすぐ隣の感じになる。福祉施設は近くにあると便利なのである。原町とかだったら体が弱っていると車で行くにも遠いし体に負担になる体が弱った人は行きずらくなる。福祉になると何でも近くがいいのである。
だから福祉施設は近くにありそこを利用できるといいのである。
ただ南相馬市では人口が多いのだから原町の人が多いのである。
厚寿苑は建物が立派である。あそこははじまったばかりでありまだまだ利用する面では歴史がない、ただ公共施設でありそこで南相馬市の老人が集まるからそこは一つの老人の社交の場になる。

でも介護士は地元の人ではないから同じ福島県でも蒲庭と言われてもわからないことが多い。地元の人でないとそうした過去の経験を言われても話を合わせられないということがある。それで介護士としては問題が生れる。
得に若い人が多いとそうした話しを聞かないし合わせるのがむずかしいとなる。
とどこから来たかというときその土地のことを知らないと話しが合わせられないのであるそれは日本全国でもそうなのだ。
自分が沖縄の辺野古のことを書いたのはそこに一回でも泊まったことがあり知っているからである。自分は全国を旅しているからたいがい住んでいる場所を聞くとあそこ行ったことがあるなと話しできるのである。
この前海老であった人はそうだった。白川郷に自転車で行ったからだいたいどいうところに住んでいるから実感としてわかっているから話を合わせることができたのである。

秋薔薇の季節である。その薔薇は夏からずっと咲いていた。十輪くらい咲いているので目立つ。そこは買い物に行く道である。
今年はやっぱり残暑はそれほどでなく秋が早いのだろう。
秋雨の季節にもなっている。秋薔薇はしんみりとしていい。

菊の季節でもあり暑ければ窓をあけているが窓をしめて花を飾る、秋はやはり芸術の秋でもある。ただ最近忙しくてフラワーアレンジはしていない、こういう趣味もまず時間がないとできないのである。
家事は意外と大きな家に住んでいるといろいろある。明日は一カ月一回の燃えないゴミを出す日だからこれを忘れるとまずいのである。
タグ:

2014年09月02日

厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話 (老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)


 
厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話

 
(老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)


厚寿苑のショートスティで今日話を聞いたのは大正生れの小高のおばあちゃんだった。
大正一〇年生まれであり二月に生れたからユキと名付けられたという。
その当時の名前の名付け方もそれなりのパターンがあり時代を反映している。
春に生れればハルとなり秋に生れればアキとなっていたともなる。
ウメとかキクという名前はポーュラーでありあとはその土地の名をつける人もいる。
自分の母親は富岡で生れたからトミ子になったと聞いた。
苗字はどこかの土地の地名と結びついているからその謂われある土地と結びつくことは不思議ではない。
要するに昔の人の名前はわかりやすいのである。今の人の名前はその由来も様々でありわかりにくくなったのである。

その名前のことだがそのおばあちゃんが言うには私の弟は倉で生れたら倉吉となづけられたというのも不思議だった。倉が吉ということで名付けられた。
というのはおばあちゃんの実家は火事になったことがあり家が燃えてしまってそのあと母親が大変な苦労をしたという。倉も一部の柱などが燃えて焦げたが残った。
倉は家から離れているから残った。倉は町では防火のためにもあった。
倉は今回の津波でも残っていたりするから丈夫な作りになっている。
昔は蔵の役目は生活に欠かせないものとしてあった。
肺病になり若い女性が蔵に隔離されたことをテレビで放送していた。
蔵の利用にはそういうこともあった。
自分の家には蔵などないから蔵のもっている意義がよくわからない。
ただ今でも農家にはたいがい蔵はある。
蔵に関する物語も多い、喜多方は蔵の町だったのは商人の街として栄えたからである。
倉敷なども蔵だらけだからやはり商人の街として栄えると蔵が農家でなくても蔵が多くなるのである。

忠蔵 ちゅうぞう chuuzou
恒蔵 つねぞう tsunezou
米蔵 こめぐら komegura
清蔵 せいぞう seizou
五百蔵 いおくら、いおろい iokura、ioroi
泰蔵 たいぞう taizou
修蔵 しゅうぞう shuuzou
嘉蔵 かぞう kazou
小蔵 おくら okura
網蔵 あみくら amikura
与蔵 よぞう yozou
重蔵 じゅうぞう juuzou
秀蔵 しゅうぞう shuuzou
律蔵 りつぞう ritsuzou
助蔵 すけぞう sukezou
蔵並 くらなみ kuranami
西蔵 にしくら nishikura
古蔵 こくら kokura
蔵座 くらざ、ぞうざ kuraza、zouza

くらきち 倉吉 庫吉 蔵吉
くらじろう 倉次郎 蔵次郎
くらたろう 蔵太郎
くらのすけ 蔵之介 倉之助 内蔵助

蔵とつく名前もいろいろある。米蔵(倉)はわかりやすい、蔵並というのも蔵が並んでいる風景があって名付けられた。倉吉という名前も他でもあった。

喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)

ここのページに喜多方を訪れたことを書いています。

その女性は小高のどの辺のかわかりにくい、福浦と言っていたからその辺なのか、父親は村会議員だったというからそれなりの家だった。だから蔵もあった。
尋常小学校をでて小高の小高専修学校に二年学んだというから普通は尋常小学校で終わっているから村ではいい暮らしをしていた部類なのだろう。
弟は北海道大学を出たとう、そして獣医になったというからその当時大学まで行ったとなるとほんのわずかだろう。それでも金がなくて困って学費で苦しんだという。
その弟か兄は獣医になったのはいいけどなぜか南米に移民したという。
その辺の辻褄が合わない、獣医が地元でうまくいかないのか獣医が嫌になって南米に移民したのかよくわからない、ただ結果的には乞食のようになって帰ってきたという。
その辺の事情がよく聞き取れないしわかりにくい、あのくらいの年になると話を聞いても何か明確でないことはよく起きる。

ともかく当時としては他の人よりは裕福な家だったことは確かである。
ただ女学校に入ることはできなかったから当時では下になるがそれでも尋常小学校で終わらないのだから恵まれていた。何かそこで生け花とか花嫁修行のようなこともしたといっていた。当時の学校は花嫁修行という側面が江戸時代から継続されていたとなる。
まず大正生まれでは字を書けない,読めない人はいない、明治生まれでは自分の祖母にあたる女性が字を読めないし書けないので苦労していた。代筆してもらわないから苦労していたのである。自分の父親も明治生まれだけど学校に入った形跡もないのに字を書けたのは不思議だった。丁稚方向していたからどこかで字を覚えたのだろう。

その小高のおばあちゃんの話でその尋常小学校に通うとき、坂道がありその崖の穴に乞食が住んでいて怖かったという。その乞食の話しは自分も姉から良く聞いた。
乞食は洞穴に住んでいたのである。裸でいたから怖かったというのは少女だったらそうなる。乞食は戦後もいたるところにいたのである。
子供にとってはやはり乞食は怖いものだったとなる。地名としては乞食坂とかとして残ることになる。

小高は実際は相馬藩では最初に城があったところだから一番古いとなる。相馬氏の歴史では古いから古い家も残っているとなる。小高はなんとか浪江のように住めなくはならないでも先はわからない、若い人が帰らないから家も直さないとか老人が多いから復興が進まないのである。
老人の価値とか役割は何かというと昔を語ることなのである。
その昔はその土地と密接に結びついている。記憶はその土地と結びついている時残りやすいのである。
だから古い碑でも神社でもその場所から昔を探るのである。
それでどこに住んでいたのかその土地のことを知らないとなかなか話が通じない
厚寿苑では今は外部から来た介護士が身体の世話をしているがそうした昔の話を聞きあわせることはむずかしい。
ただ身体だけを世話しているだけでありその土地と結びついて話を聞いたりできないことが問題になる。
身体だけの世話ならいいがやはり介護はそれだけではない、昔の話を聞いてその土地に刻まれたゆく人間の歴史を記す必要がある。

だから郷土史は祖父母から聞くことからはじまると前にも書いたのである。
いづれにしろ大正生れとなると今はかなり貴重だろう。
ただやっかいなものとなるが大正生まれが多いというのもやはり高齢化なのである。
百才もだんだんめずらしくなくなってくるかもしれない、もし六〇才から百才となる退職しても四〇才あるとなると第二の人生はさらに長くなるのが高齢化社会なのである。
自分は戦後十年は大正時代や戦前の生活の延長を経験しているので実感としてわかる。
乞食も知っているし燃料は炭だったとかも経験している。
だから大正時代とか戦前の人と話を聞いても通じる。でも二〇代とか三〇代とか四〇代でも高度成長時代になるから話しが通じなくなっているだろう。
そこに介護する側の問題もある。
タグ:
posted by 老鶯 at 14:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2014年09月03日

日立木の秋ー俳句十句(蔵に松に菊に月ー鉄道の写真)


日立木の秋ー俳句十句

(蔵に松に菊に月ー鉄道の写真)

nitakiakii1.jpg


kuraine123_FotoSketcher.jpg


matummmm1_FotoSketcher.jpg


matummmm1333.jpg

kurahanaa11_FotoSketcher.jpg

無効に蔵がある



夕暮れや実りに松の五本かな

蔵ありぬその家の前実りかな

蔵二つここに落ち着く実りかな

菊畑この家の古く蔵二つ

庭広く蔵の二つや松に菊

この家の松手入れして菊花かな

浜街道日立木通り秋の蝉

山翳り薄なびくや鉄路かな

電車去りその間や長く月光る

夕月や風にそよゆる糸薄

夕暮れや二両の電車に薄かな

ハマヒルガオ線路の脇に名残かな

夕月や日立木にとまる電車かな

雁二羽の飛び去り夕べ月光る

電車来て山鳩二羽や実りかな


gennkkounn1.jpg

trainsusu1.jpg

相馬市方面から来る二両の電車

trainbbb123.jpg

日立木は無人駅である



hamahiruuu123.jpg

これはハマヒルガオだからめずらしい、海はここから結構遠い



相馬市に来ると今までどおりの風景である。実りの風景は当たり前であり実り風景がないなど江戸時代の飢饉の時でもなかったろう。米が全部だめになったとは思えないからだ。南相馬市になると原発事故で原野化しているから実りの風景はない、草茫々の世界であるだからどうしても心まで荒廃してしまう感じがする。
別に草原の風景はモンゴルなどではある。その草原とはこれは違っている。
実りは単なる景色ではない、生活していける実りなのである。
だから蔵があり家の前の前田に実る風景は単なる景色ではない、そこで生活できる風景なのである。

昨日一昨日と回ったのは日立木の街道からそれた鉄道の方へゆくほうである。
浜街道からその鉄道の線路は近い。
相馬地方では原町駅から相馬市までは常磐線は通っている。
原町ー鹿島ー日立木ー相馬市は二両の電車が通っている。
一時間から二時間感覚で出ていることはでている。
でも今までは八両だったから二両の電車だと感覚的にずいぶん違う。
八両の電車は仙台まで通じていた。仙台まで乗る人が多かった。
それが今は相馬市が終点でありそこで乗り換えてバスで亘理まで行きまた電車に乗り換える。それがめんどうなので今は直通で仙台に行くバスを利用する人が多いし自分もしているが最近めんどうだし忙しいから仙台にも行っていない、でかけるのが億劫になっしまう
自分は鉄道が好きである。旅行はまず電車からはじまっているからだ。
全国の路線をほとんどのりつぶして残されたのは私鉄くらいである。
関西の私鉄は多いし面白いから乗ってみたい、ただこれもきりがないということがわかった。外国でも電車にのったから十分だとは言える。
まず一生がそうした乗り物であれ旅に費やされたのが自分だった。
これだけ旅をしてもまだまだ旅をしていないところはいくらでもある。
それだけ世界は広いのである。

結局人生とは何かと言ったら何に時間を費やしたかで決まる。
働こうがこうして遊ぼうが実は人生の経験には変わりないのかもしれない
遊んで暮らして恵まれていたなとか言われるが今ではフリーターとかニートとか働かない人の数が半端ではないからこれまた働かない人が普通に大勢いる時代なのである。
高度成長時代に馬車馬に企業戦士としてほとんど全部が働いていいたということも異常な側面があったのかもしれない。
高度成長時代は経済成長はあっても文化的には不毛だったような気がする
ただふりかえると音楽は庶民の歌謡曲であれ演歌であれフォークソングであれいい落ち着いた歌があったからそこが文化だったのかもしれない。
]今の音楽はすでに日本的情緒もないし音楽部門では衰退した。
だから今になるとあの時代の音楽がなつかしいとか聞いている人はいる。
それは単に昔が懐かしいのではなくいい音楽が多かったのである。

鉄道の思い出としてはいろいろあるが常磐線は仙台までいつも乗っていたからある。
ただ沿線の風景は見慣れると特別なものには思えない、通勤している人もその風景を特別だとは思わない、でも津波で鉄道が流された時、なくなったとき思い出すことになる。
新地駅や山下駅などが流されてなくなったからである。
新地駅はあそこで必ず列車交換で待ち合わせるから五分ほどとまる
そのとまる時間が鉄道では思い出になる不思議がある。
あそこは一番海が近く海が見える場所だった。ただいつも新地の海岸の集落の方を見ていたのである。

新地駅電車とまりて蛙鳴く夏の夜なれや今はなしかな
新地駅電車とまりて虫の声村のともしび今はなしかも
新地駅消えにけるかな村も消え浪打ち寄せる冬の海見ゆ
新地駅なきしも哀し三年過ぎ津波に流さる人の待つかな

津波に家を流されたあの新地駅から見えた釣師の浜に住んでいた人と相馬市の病院であった。津波の被害者はこの辺ではあうことが多い。それだけ広範囲に被害があったのである
今回秋になり鉄道の線路を歩いた。今はあそこを歩いても危険はない、そして何か薄もなびき月もでて電車が去ったあとにしんみりとする。それは二両の電車でありあまり走らないからそう感じるようになったのである。前はなかなか鉄道の線路を歩むことはできなかった。結局二両の電車になったとき、人間的になったという不思議があるのだ。
二両の電車はより自然を感じるという不思議である。
機械化すると人間的なものは何でも排除される。機械とは時間をに性格であり勝手に休んだりはしない。人間のリズムはそもそもそんな機械的なものと合わないきまぐれである。だから休んだり遅くなったりすることが人間的になる自然と融合する時間になるのだ。

今日は実りがあり月が出て薄がなびき秋を感じた、これは日本の秋であり普通にある風景である。ただ南相馬市にはないからこの実りの風景が新鮮なものになる。
どうしても南相馬市の方は荒廃している感じになるからだ。
でも放射線量からすると相馬市と南相馬市はさほど変わりないのだから補償金などがもらえないことで相馬市では不満があるだろう。
でも今まで通りで実りがあり普通に暮らしていけるということで平和を感じたのである。







 

2014年09月04日

バソコンの怖さ (プロダクトキーをなくしてオフィスのソフトが使えないークロウドで記録が取り出せない)


 
バソコンの怖さ

 
(プロダクトキーをなくしてオフィスのソフトが使えないークロウドで記録が取り出せない)


reg clean proはマルウェアでウィルスとは違うと言っていたが
それも影響してパソコンのスタート画面が出なくなり
富士通のサポートに連絡した。

セーフモードでたちあげて通信もできている。
でもオフィスのソフトが使えなくなっている
そこにワードとかワンノートがあり
それがクラウドに記録されていても取り出すことができない

今度はマイクロソフトに聞いてみると
再インストールと直るというが
買った時箱に入っていたものに
プロダクトキーの番号があれば再インストールできると言われたが
その買った時箱もなげたしプロダクトキーは見つからない
前もソフトのキーをなくして新しく買ったりしていた

ここもパソコンを使う点で注意する必要がある
オフィスは三万もするから簡単に買えない
記録したものはだいだい移動したからいい
でもオフィスのワンノートに記録したのがクラウドになって
取り出せないのだ

クラウドというのがわかちらないので使っていなかった
新しいものはわかりにくくなるからこまる
ここではプロダクトキーがいかに大事になっているかわかる
これがないとお手上げになってしまうのである。

記録さえ移せば初期化してもなんとかなるが
記録したものが取り出せない、消えることがパソコンの一番の怖さである。

ただ今回わかったことは富士通であれマイクロソフトであれ
直接聞いて答えてくれたので助かった
有料とかなっていたので電話をかけなかった
料金は今のところとられていない
富士通はサポートはいい
それも一年の保証期間があと三日くらいで切れる時だったのである。

ともかく完全にクラッシュしたのは違うから助かった
パソコンはやはりわからないところはすぐ聞いて対処した方がいい
マイクロソフトでも聞けるとは思わなかった。
ソフトの会社は電話しても通じないのが多かったからだ

パソコンはやはり会社だったら詳しい人がいるからすぐに聞けるからいい、
個人でしているとやはりわからなくなったら富士通のすぐに聞けるようにしておかないとまずい、つまりクラッシュする突然アクセスできない
壊れることがパソコンでは一番怖いからである。

 
タグ:バソコン
posted by 老鶯 at 11:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

自分のパソコンの履歴 (親指シフトキーボードで文章をスムーズに書けたことがパソコン つづけることができた)


自分のパソコンの履歴


(親指シフトキーボードで文章をスムーズに書けたことがパソコンつづけることができた)


自分がパソコンに親しんだのは富士通のオワシスのワープロからだった。
これはたまたま買ったワープロがオワシスでありそこから親指シフトキーボードを覚えた。
それがパソコンでもできたのでパソコンに親しんだ
パソコンでつまづくのは文章をいかにスムーズに打ち込むかなのである。
いちいち文章を打つのにてまどうとパソコンは使えない
ローマ字入力だとどうしてもスムーズに打鍵できない
親指シフトキーボードだと思考の邪魔にならないようにスムーズに打鍵できる
自分はローマ字入力だとパソコンに親しめなかったろう

だから自分はパソコンも富士通のものをずっと買っている
パソコンは今やどれでも親指シフトキーボードがあれば使える
ただこれをしていると他では不便な面がでてくるだろう。
少数者しかしていないからサービスが少ないから対応できなくなる
でもwin8でも親指シフトキーボードで打鍵できた。
ソフトを売っているところで対応していた

親指シフトキーボードからはじめるとそれをつづける人は多い
でもこれを知らない人はローマ字入力になる
ローマ字入力だと長い文章には向いていない
だから親指シフトキーボードでないとパソコンを自分は使いなかった
どうしてもパソコンでも文章がめいんになるからだ

今回win8が使えなくなったのでXPの古いパソコンでアップしようとした
そしたらやはりパソコン自体が画面が狭いとか文字が雑に見えると違っている
新しいパソコンはきれいに文字もでている
パソコン画面は広い方がいい、狭いと窮屈になる

パソコンはその人なりの仕様に使うことがある
ただソフトはあまり使わない方がいい
なるべく少なくしてシンプルにして使った方がいい
そしてパソコンで大事なのは安全性だった
突然クラッシュしたりウィルスで機能不全に陥るのが一番怖い
それが突然になることが多いからである。
reg clean proは別なパソコンにも入ってきた
こんなものがすべてのパソコンに入り混乱させる
それは今や何億という人に影響するからその範囲が広くなる
だからこれは世界的犯罪でありこういうものをで
インターネットが攪乱することは世界的犯罪であり重罪にすべきである
今やパソコンとかインターネットは世界のインフラにもなっているからだ
この世界的システムを破壊する罪は大きいのである。
パソコン
は一部のマニアの時代はとっくに終わっているからだ

明日は初期化の作業になるだろう
半日もかかるというのは困る
初期化することにはかなり抵抗があったがどうしようもない
やはり最初に親指シフトキーボードが使えないと
何もできないから困る
あとは順次そろえればできる
その親指シフトキーボードも一つの字がキーボードの一つが故障したらこれは不便で使えなくなった。
この故障にも困ったがこれは直してもらうのは簡単にはできない
サービスする場所が限られているし通販で買ったものだからである。
こういう特殊なものになるとパソコンは使いにくくなるのだ。
ただその特殊化があったからこそ自分はパソコンを使い続けることができたのである。


posted by 老鶯 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年09月05日

秋の蝉の短歌十首(故郷に尽きる命とならない不幸)


秋の蝉の短歌十首


(故郷に尽きる命とならない不幸)


秋の蝉なお一つ鳴く屋形かな


この森や夏の終わりに集まれる蝉の鳴くかな命尽きるまで

蝉の声ひびきあいつつこの森に夏も終わりて命尽きなむ

秋の蝉せつなきまでに鳴きにける命の尽きる日の短しも

故郷は荒れにけるかもその跡を誰か継ぎなむ秋の蝉鳴く

歯の一つまた欠けにしや我が老いぬ残る命をいとおしむかな

人はみな尽きゆく命何故に争い別る時こそ惜しめ

その命いづこに尽きむ常なき世他郷に死すもあわれなるかな

故郷は荒れにけるかもその跡を誰か継ぎなむ秋の蝉鳴く

揚羽蝶朝に出会いて舞いにけり草原広がり風そよぐかな

しばしの間光れる月も雲隠れ猫はいづくにまた消えてなし

山陰の道にとびにき黒揚羽いづくに消えむ雨しととふる


歯がまた欠けた、前にも三つくらい欠けた。年になるとだんだん歯が欠けてゆく、年がとるということは命が尽きてゆくということなのだ。
その心が反映して蝉の声を夏の終わりに秋の蝉の声を聞く、蝉の声は聞こえなくなるときそれは死なのである。
人間もまたはかない短い命なのである。その短さが若いときには感じない
時間なんかいつまでもあると思っていたが時間はあっというまに消失してゆく
そして残された時間はわずかとなってゆく


確かに長生きの時代でもやはり老いは迫ってくる
そうなるとやはり自然でも感じ方が違ってくるのだ。懸命に蝉が鳴いている、もう限りある命を精一杯鳴いているなと聞くようになる。
老年の一日は何か時間が凝縮されたようになってゆく
若いときは何か時間は緩慢として浪費されてゆく時間だった
老人になると時間は浪費できない、時間が消失して死んでゆくからである。
若いときは感じやすいというけど死をまじかにした老人の方が感じやすい。
自然を末期の目で見るようになるからである
もうそれぞれに尽きてゆく命だとなるときその命は凝縮されたものとなる


この辺ではもう故郷に帰れない人たちも多くなると他郷で死すことになる、故郷で死ねないというのも悲劇なのかもしれない、それは流浪するもの、旅人のように普通の人がなってしまったのかもしれない。先祖代々の故郷で死ねないというのも考えられないことだった。
これもまた無常だったのである。仮設に五年もいるのは長い。その間に働かない期間も長い、
伊達の桃売りに来ていた農家の人はもう二年仕事から離れると体がなまり働けないと言っていた。
それが5年も過ぎたらもう働く気力もなくなるし老人が多いからあきらめになりどうでもいいとなってしまう。あとは生活保護だと言うのもそのたぬなのである。


故郷がこんなふうに荒れてしまうことは信じられないことだった。
その無常はあまりにも大きかったのである。ただ呆然としてしまう無常である。
田んぼが草原化してしまうなど想像すらできないことだった。
千年とかも田んぼの風景はあったのである。
いづれにしろいくら長生きでも無常迅速である。それは蝉の声とにていたのである。
蝉のように一時鳴いて人はたちまち終わるのであり無常なのである。





タグ:秋の蝉

2014年09月06日

芸術の基本は俳句も短歌も写生である (津波原発事故で事実が写生が驚くものとなった)


芸術の基本は俳句も短歌も写生である


津波原発事故で事実が写生が驚くものとなった)


rinndouu1.jpg

rinndouu1_FotoSketcher.jpg

竜胆の紫に薄紫のそえて咲き我が家の内に争わざるかな


ggggggnnnn222.jpg

ggggggnnnn222_FotoSketcher.jpg

枯蟷螂ミイラとなりて机の上


朝日さし隣の庭に揚羽蝶花めぐり舞いつつ去りて花は映えにき

女郎蜘蛛窓に巣を張り隣家の庭の花には揚羽蝶とまる

竜胆の紫に薄紫のそえて咲き我が家の内に争わざるかな

故郷に住みて老いにし女あわれその皺深く秋となるかな



短歌とか俳句の基本は写生である。なぜ写生なのかというと自然界でも人間界でもありのままが実は驚くべきものだからである。
窓に女郎蜘蛛が巣張っていてその向こうに隣の庭が見えて花に揚羽蝶が舞いながらはいり花に止まっている。
この情景そのものが驚くべきものなのである。
女郎蜘蛛は不気味であるこの世は不気味なものであれ花であれ
美的なものの中にあることが特徴なのである。
女郎蜘蛛が嫌だとしても視界に入り避けることはできない、この世常にきれいごとでは済まない、不気味なものでも嫌なものでも混在しているのである。

tourouuu123.jpg

枯蟷螂ミイラとなりて机の上

これも写生そのものである。なんだそれだけかとなるがこれも写生でありそのままが一つのリアリティを示している。
俳句はもう短いからこれ以上端的なっ写生以外文字を入れられないのだ。その点短歌はまだ長いからその人の独自のもの「ものの見方が読めこめるのであるq
だから俳句のほうが解釈は難しい、だから俳句はその俳句を鑑賞している人が鑑賞力がないと評価もされないことはありえるのだ。
うまり俳句のほうが月並みな平凡な俳句が量産されやすいのである。


写生の俳句であれ短歌であれ今やデジカメやスマホや携帯で即座にとってプログにアップする時代である。
だから写生の俳句や短歌はインターネットで興隆しているがまだ評価はされていない。
今や文章だけではない、写真が日記代わりにもなる時代である。
だから写生の時代であり俳句短歌も写真なくしてありえないのである。

いずれにしれこの辺はありのままを写生しても驚くべきものとなってしまった。だから別にテレビのように視聴率をとるために工作する必要がなかったのである。
ありのままが驚くべきものとなっていたのである。
文学でも絵画でも基本的には写生がある。
芸術の基本は写生なのである。
(事実は小説より奇なり)をこの辺で体験してきたのである。



タグ:写生俳句

2014年09月07日

秋に故郷を想う 厚寿苑の建物はいいし見晴らしもいい


秋に故郷を想う

厚寿苑の建物はいいし見晴らしもいい

mukugeee1_FotoSketcher2.jpg

土色の壁に映えにき木槿かな

厚寿苑に大正生まれなお生きて小高の昔語る秋かな

故郷に住みて老いにし女あわれその皺深く秋となるかな

山の端に夕陽の没りて塩崎船着の名や月もい出にき

shiosaki11.jpg

tukiiiii123.jpg


厚寿苑はできたばかりでありまだ歴史がない、あそこは建物がホテルのようになっているから気持ちがいいし見晴らしもいい。
厚生病院は古くなっているし見晴らしがよくない、介護とか自分の病気とかになって病院とか福祉施設を利用することが多くなる
現実に南相馬市立病院に一か月入院したし相馬総合病院に二週間入院した。そのことをプログに書いた。
建物も人間に相当影響する。ただ建物でも見晴らしがよくないと活きてこない。三階建てとか高くなると田舎では見晴らしがよくなるから気持ちがいい。
人間は見晴らしのいいところで解放感を感じる、病院とか施設でもやはり見晴らしがいいところに入りたいとなる。
南相馬市立病院は見晴らしが抜群だった。相馬総合病院は迷路であり古くなっているから嫌だった。ただ専門の医者が三人で担当していたから良かった。

ともかく厚寿苑は建物はいいが働く介護士は外部の人である、ただ福島県だと同じ方言でなまりがある。岩手県もいても福島県一番多い、介護士の仕事は何か決まり切っていて工夫のない何かスキルが身に付く仕事には見えないから誰でもできるようにみえる。看護師になると注射や点滴などがありスキルを磨かないとできない、この世の中誰でもできる仕事は価値がない。
この世の仕事はスキルがみんな必要であり経験を積まないと一人前に離れないのが多い。
介護士が低くみられるのはそういうことがないからである。
看護師には給料が高く誇りもあるが介護士にはない、介護は自分もしているから誰でもできるのである。
仕事は危険だったり難易度が高くなると給料も高くなる。
ただ土木建築関係では危険でも安い、それでも型枠大工とか鳶とか技術が必要になるのは高くなる。

人間の社会は必ず昔があって今がある。動物は一代で終わり昔がない、ただ一代でも歴史はある、飼い猫だったもの捨てられて拾われたというときあわれだとかなりその猫にも過去があった。
ただその猫の話は伝えられない、伝えるのは人間になる。
だから猫にまつわる話は人間を通じて伝えられるのである、それも人間の歴史となる。

人間は常に歴史を刻んでゆくものである。昔があって今がある。
今があるのは昔があるからなのだ。そういう昔は土地と結びついているのである。だからその土地から切り離されると伝えにくくなるのである。
だから避難して住まなくなったら歴史も失われる。
人間を語るとき、お国はどこですかとなりその人が何をしてきたかが問題になる。狭い範囲でも村々で自然環境も違っているから同じなのである。村々には地形的にもそれぞれ特徴がある。
それは日本人がそれぞれ土地で自給自足的生活をしてきたからである。
だから鹿島区でも屋形とか栃窪でも塩崎村でも特徴があるしそこで感じるものが違ってくる。いなかにはもともとそうした多様な生活があったのである。それhその土地土地で生きるとなるとその土地土地活かして生きるほかないからそうなったのである。
それは会社とか工場で働くのとは違っていたのである。

塩崎村に秋の夕陽沈み月がでる、あそこの特徴は船着という地名があり塩崎というように海だったのである。
だから津波で船が流されてきてその船着近くまで津波で海水をかぶったことに驚いたのである。
海があるところは海から月がのぼり映える。
あそこもその土地柄で情緒を作り出している。あそこの森にはまだ蝉が鳴いている。屋形にも森があり秋の蝉が鳴いている。
屋形はこの辺では一番古い場所である。
                       
タグ:福祉

2014年09月08日

深野(ふこうの)(ユッサの湯)から大原から橲原(じさばら)の秋の俳句短歌 (人が住んでいるから自然も活きる)


深野(ふこうの)(ユッサの湯)から大原から橲原(じさばら)の秋の俳句短歌

(人が住んでいるから自然も活きる)


fukounosss1.jpg

karesannsuiii`123_FotoSketcher.jpg

ユッサの庭

meotoiii.jpg

クリック拡大


大原

tatemeee111_FotoSketcher.jpg

sobanaaa1.jpg

fujikuroooo11.jpg





秋日さし石の五つや枯山水
山陰に枯山水や秋の蝉


秋の蝉五つつの石にひびくかな


five stones in the garden
sounding in autumn
Voices of the cicadas


水引やユッサの湯に入り帰る道
故郷の村々あわれ虫の声
山に雲深野の野や花薄
大原の秋や人住み夫婦山
牛に馬秋の日さして里めぐる
家の中広く虫の音ひびくかな

深野の墓地の古しも秋日さし知りにし人のここに住むかな
病院に知り合う人の眠るかな大原の秋虫の鳴くかな
大原ゆじさバラに行く月見草ソバナの花咲き山は曇りぬ
橲原に立目石ありいつよりやここに動かず秋の日さしぬ
山路来てソバナの花の雨にぬれ磐の重くもここにあるかな
ソバナの花あまた咲きにつ一輪のフジクロセンノウ隠され紅し
雨ぬれてソバナの花に一輪のフジクロセンノウ隠れて紅し
雨ぬれてソバナの花に磐に咲き隠れし家を誰か問わなん



小池から深野に行く道は森の道である。あの高台は家はまれでありもともとは野であった。
謎なのその小池の奥に江戸時代の古い墓地があることなのだ。そこは江戸時代の
墓が多くあとは少ないから墓地としては継続していない、あの辺を見れば家がまれであるのになぜ江戸時代の墓があるのか謎なのである。明治以降の開拓に入った人の墓に見えた。
ただ深野は古い土地であり大原広くもともと原町は大原方面から開墾された土地だった。
原町の市街地は江戸時代まで野馬の放牧場だった。そこから野馬追いの祭りが始まった。
原町の江戸時代は深野から大原の方が中心だったのである。

深野はフコウノと呼ぶ、なぜフコウノになったのか謎である。深野はフカノである。なぜフコウノとしたのだろうか?深野から石神に嫁に行っ女性を知っている。
小池から深野に行く高台には古い墓地がある。薄が茂っているけどあそこも畑だったのだろうこの辺は放射線汚染で耕作しないから原野化して芒や芦が茂るようになったのである。
深野のユッサには今は外部の人も入るから混んでいる。あそこには食堂があるからいい。
そして今日注目したのは石の庭であり秋の日がさしていて落ち着いた山陰にあるのもいい。
小川も流れていたから自然を活かすもっといいだろう。
そこから大原の方に向かった。水引が咲いていた。大原の二つの並ぶ山は双子山なのか、夫婦山がいいと思った。大原は実際は相当広い、130軒ありもともと原町の中心部だったのである。そこの前田という土地に南相馬市立病院で知り合った人が住んでいた。

その人は79歳とかで古い家であり猫とともに一人で住んでいたのである。
息子は市街に住むようになったからである。後継ぎがいない農家になっていたのである。
すぐ近くに廃屋もあったから山村はそうなりやすい。空家が一番多いのは長野県なのはやはり山国だからである。
その人の墓杉の木立に隠されるようにしてあった。大原では半分くらい一時は避難した。
鹿島区の仮設にも住んでいる。家を見たら今は帰っている人が多いみたいだ。
実際大原放射線量が高かった。原町は街中でも本陣、雲雀が原0.5とたかいのである。
だいたい0.2を基準にしているから0.5でも高いとなる。
いずれにしろ人が住まなくなった村や町はどうなるのか?そこでは自然も活きず死んでゆくということにもなる。人が住んで自然も活きる、例えば全国にある夫婦山とあればそこには人間の暮らしがあってその名があり山も人間化しているのである。
だから人が住まなくなった村でも町はどうなるのか、飯館など芦に埋もれてしまったのである。
浪江や双葉になればその荒廃はもっとひどいのである。

大原から橲原に行く新しい森の道を行くと変な大きな鳥が出てきた見たことのない大きな鳥だった。なにかまだ知らないものがひそんでいる。
橲原の立目石は小池との境の石だという、ここはもともと江戸時代から木材の供給地だった。
この名前が変わっていて注目されている。自分の家も姉がよく言っていたけど同級生の人が木こりで家の柱は橲原の木だと自慢していたのである。
これはどこでもそうだった。みんなその土地のものを利用していたのである。それが自然な生活だった。日本全国に網の目のように張り巡らせた森林鉄道網がそれを語っているのである。
原町機関区からも東京に木材を供給していたのである。
葛尾(かつろう)村の落合まで通じいたのには驚いた。そこには明暦と元禄の碑があったから
葛尾(かつろう)村も古いのである「

橲原の川に降りたらソバナの花が一杯咲き一輪フジクロセンノウが咲いていた。
その花が際立って美しかった。やはりデジカメはいいのでないときれいにとれない。
鹿島に帰ると仮設だらけである。仮設はやはり本当の生活ではない。やはり日本ではもともと村が中心であり自給自足していた時に自然とも調和していたのである。
牛と馬が秋の日を浴びているのは気持ちがいい、飯館にも牛がいたがいない、馬はこの辺では野馬追いのために飼われている。
確かに貧しいのだが村は自然と調和していたからなごむということがあった。

原発事故はそいう村々や町すら根こそぎ消失させたのある。
それは何を意味しているのだろうか、それは大きくは現代の文明を問うことでもあった。
現代の科学文明はそもそも第一次産業をもともとあった村の暮らしを破壊してきていたのである。それが現実化したのがこの辺の惨状だったのである。














2014年09月09日

ひまわりの市となった南相馬市 (今年は夏と秋が一緒にある)


ひまわりの市となった南相馬市


(今年は夏と秋が一緒にある)


sunnflowerrr345_FotoSketcher.jpg

sunnfloweeeer12345.jpg

sunnflowerrr12234.jpg

hhhhhhnetu1.jpg

sunnflowerrr12.jpg

ageha3454.jpg

クリック拡大

agehaaaaa12348.jpg


ひまわりを燃え尽くさんや直射かな
ひまわりや背中に汗や畑に人
ひまわりや畑に人あり暮れるかな
秋の蝉夕暮れひびき屋形かな

花瓶に咲くひまわり外の光を求めもだえけるかな
痛いほど直射にさらされひまわりの今日も咲きつつゴッホは外に出る
ひまわりや今命の燃えるとき幾羽の揚羽舞にけるかな
ひまわりのあまた咲くかな朝開けて仕事始める南相馬市
この道や稲穂の実り萩の花五本松かな道の駅に着く
道の駅奈良の人と出会いけりみちのくの実り夕べ映えにき
線路脇ソバナの花のうなだれてツリガネニンジンそいて咲くかな
唐神の堤に鷺の一羽かな広々として夕暮れにけり
夕雲の紅く染まりて十五夜の満月上り実りうれしき

紅に紫の雲や十五夜の月の昇るも黄金の実り



haguine123.jpg



gohonnmmmm11.jpg

sobaturigann1_FotoSketcher.jpg




kkksagi123.jpg
クリック拡大
murasakituki123.jpg
クリック拡大

稲を見回りに来ていた

fullmoonnnn123.jpg


今年の気候は変だ、暑いのだが寒い、秋なのだが残暑である。
それは8月からそうだった温暖化が変則的な気候にしているのだ。
何度も書いているけどこのへんの不思議は南相馬市は原野であり相馬市に来ると津波の被害がない所は稲が実っている。
原野の世界から前の実りの世界に戻ることがまるで過去にもどる感覚になるから不思議なのである。今までは当たり前だったことが新鮮に見える不思議である。
萩の花が咲き黄金の実りがある。この実りが南相馬市にはない。一部再開したが一面の実りの風景はないのである。
また松と実りの風景や青田の風景は心と一体化した風景となっていた。
五本松がありあの松はいつも見ているけど実りになり風景をつくる、それだけではない、その実りがあって生活できるのである。

一方では南相馬市はひまりり畑がそちこちにある。するとひまわりに注目する。
南相馬市の花が今ではひまわりになっているのだ。
草原化して揚羽蝶が十羽くらい集まっていた。小さなモンシロチョウはへっていた。春からあまりみかけない、揚羽蝶はなぜかここにあつまっている。揚羽は減っていないようだ。田んぼより風景としては草原の方が何か開放的で揚羽蝶にあっている。
ひまわりというとゴッホである。でも花瓶にひまわりをさすのは向いていない、熱い光を浴びているのがあっている。
あまり暑いと外に自転車では出れない、このくらいだとまだでれるからいい。
それで写真の被写体を求めて歩くのである。近くでも隠された場所がある
線路に入ったのは今はスーパー日立が走らないから安全である。
あの辺は車窓からいつも見ていたけど線路に入って見たことはないので見に行ったのである。

いずれにしろ畑でも人がいないと働いていないと自然も活きてこないのだ。
暑い日差しを受けて人も野で働いているときなお蝉の声もひびきひまわりも野に映えるのである。自然と調和するのである
だから警戒区域では無人化しているから荒廃するだけだとなる。
十五夜の月が夕べの雲から昇ってきた、一部稲の実りがあり見回りに来ていた。
十五夜の月と実りがある風景はいい。この辺の不思議さまだ続いているのである。



タグ:ひまわり

2014年09月10日

海老村の津波の分析 (津波はどこが高くなるかわからない)


海老村の津波の分析

(津波はどこが高くなるかわからない)



tunamiiiiii123.jpg

クリック拡大



negiffff123333.jpg


neghatakeee123.jpg
坂の手前までは来ていない

だからネギ畑を作った

tunamiiiebi1.jpg

ここから下は低く津波が流れ落ちて行った


ebbbm1.jpg

ebiiii123.jpg

海老の海岸の道は通行止め




海老村は高い場所にあったから津波であれだけ被害があったのは意外だった。
津波はどこがたくなるかわからない。海底の状態にも左右される。
海老村ではんみに接した崖のところが避難所になっていたという。確かにあそこは高いがあの崖を軽く越えて津波が襲いかかった。
だからあそこがなぜ高くなったのかわからない。
津波は一様な高さでは来ない、あるところで高くなる。
崖の上の海に接していた家は悲惨だった。
三人くらい子供も死んだ。あの崖は高く感じていた。
あの崖を軽く越えてきたのだ。

テレビでも双葉の原発がある場所の崖に津波が高く襲って生きた映像は恐ろしかった。
三陸せも高い防波堤でも越えてきた。高くしても津波を防げない、
津波に効果的なの土を盛り人口の丘を作ることである。
それは低くても津波の勢いをそぐことができる。
松原は津波には弱かった。

ともかく鶏足神社の前の坂まで津波は来ていなかった。
あの坂で遮られたと思っていた。実際はそれより前までしか来ていない、だから坂の脇でネギを作っていた。
塩水はかぶっていないからネギを作り始めたのである。
今は天候不順で野菜が高いから農家でも畑を始めたところが多くなっている。
やはり人間は働いていあないと土地も自然も活きて来ない、
防波堤は高くしているからあそこは当分工事が続く、
海岸の道は立ち入り禁止になった。


タグ:津波
posted by 老鶯 at 14:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係

2014年09月11日

ひまわりを見て写真をとっていた京都の若い女性 (やがて津波の跡も観光地になる)


ひまわりを見て写真をとっていた京都の若い女性

(やがて津波の跡も観光地になる)

京都から来た人が女性二人男一人が写真で紹介したひまわりバックにして写真をとっていた。
あそこのひまわり大きい、あそこはこはひまわりがずっと咲き続けているから大きくなった。
ほかのひまわり畑は枯れてさいていない、咲いているところも小さいひまわりである。
でも南相馬市がひまわりの市になったと書いたがやはり外から来た人もそのひまわりに注目したのである。

京都というそこに住んでいるだけでうらやましがられ所である。でも意外とそこに住んでいる人は京都のよさ知らないことがある。
京都にはなんでもあるから京都の人は旅はあまりしないともいわれる。
奈良の人に一作日はあったが若人は地元のことがわからない、いくら歴史があっても普通はわからない、そして若い時はただ外に憧れているのである。
要するに長年住んでいる場所に感動している人まれである。
京都には山ほど文化遺産があっても感動しない人もいる。
いつもみているから感動しないのである。

観光でも京都はわくりにくい、特に歴史的なものはわかりにくいのだ。どこでも歴史を感じることはむずかしいのだ。京都はありすぎてかえって文化的なものさえ興味がなくなるということも起きているだろう。
京都は街のなかでもきれいな水が流れているのがいい。
まわりが山に囲まれているからまだ自然はある。
ただ今日会った若い女性がここは広く感じるといって言っていたことがわかる。
京都も都会であり家が密集しているかそう感じる。東京よりはいいのだがやはり広々とした空間はないのである。
だから鰻の寝床もような町屋になった。

現代は医療関係は田舎と都会の差はあってもそのほかで差が感じられなくなった時代である。仕事面では都会中心でも文化的に東京や京都や大阪が中心とはならない時代である。むしろ自然がないのだから自然の感性はつちかえないということもある。平安時代の環境とはあまりにも違いすぎるのである。
要するに京都からはかえって紫式部や枕草子がうまれにくいのである。
現代は文化的面では都会に住むメリットが少ない、京都の日常は家が密集して狭い空間に押し込められている感じになるのだ。

「田舎の学問より京の昼寝」
これは今まではあった。でも交通が発達してインターネットで通販時代になると買い物でも不便を感じないのである。情報的にもそうである。
今ではかえって京で昼寝しても何にも得るものがないだろう。都会と田舎の環境がそれだけ似通ってきたからである。
むしろ田舎で都会をはなれて昼寝していると都会の喧騒から離れて人間的になり感傷的になる。物思うのは田舎の方が向いている。
兼好法師の徒然草の時代とはあまりに違いすぎるからでる。

結局人間はどこに住んでも感じるものがなければどこにすんでも同じである。名所に行っても同じである。
現代は何かに深く感じることができなくなっている。
情報社会になっても感受性は衰えている。人工的空間で機会に囲まれ生活しているから自然への感受性が衰退する。

石や岩を詩にしてきたがその石や岩は都会にない、それは具体的な像としてもてないから言葉も観念的なものとなる。言葉と具体的な事物が結びつかないのである。
だから今や人間は政治人間経済人間科学人間になり本来の人間はいない、トータルな人間もいない、ただ部品化した人間しかいないとなる。

郷土を考えるとき自分は全体としての郷土であり部分として機能するものではない、なんでも全体として機能するものとして見るのである。
小さい田舎だとそいうことがしやすいということもあった。福島県でもこれをアイデンティティ化することはむずかしいのである。
ともかく人間の充実した生は自然を離れてはない、なぜこれほどに殺伐として美のない世界になっているのか?
これが繁栄といえるのか、いずれにしろ都会の価値はここ十年くらいでインターネットの発達などでまた下がった。

南相馬市の将来像は描かれていない、まだ混乱状態にある。ただフクシマが世界的にも有名になった。
全国的にも有名になったから今までは南相馬市を観光する人は少ない、野馬追いくらいだった。
だから外から来る人少なかった。六号線で道の駅ではあっていた。でも自転車を借りて見て回る人は見かけなかったのである。
ひまわりが咲いているということでもそれが人を引き付けるものにはなるということである。
津波の被害地域はまだ観光にするのは無理である。でも現実は津波の被害地を見て回っている人がいる。
その人たちにとっては観光でしかないのである。
だんだんかいそうだというよりそいうふうにポンペイの遺跡見学のように時間がたてばたつほどなってしまうのである。


タグ:京都
posted by 老鶯 at 20:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2014年09月12日

夏の終わりに死んだ揚羽蝶を見て思ったこと (人は生きたように死ぬ・・・・揚羽蝶の軽やかな死(詩)


夏の終わりに死んだ揚羽蝶を見て思ったこと


(人は生きたように死ぬ・・・・揚羽蝶の軽やかな死(詩)



agehadaliaaa123.jpg



agehadddd34566.jpg


agehadddd345.jpg

agehadaliaaa12344.jpg
クリック拡大できれいに見えます


入れ替わりダリやにとまる揚羽蝶




揚羽蝶の軽やかな死


揚羽蝶は軽やかに野を飛び回り
道に美しい羽を残し死んだ
風に吹かれて光を一杯に吸い
蝶は花々を巡り舞いぬ
蝶にはただ花々が映じている
その美しい紋様を見せて
蝶は喜々として舞った
風は草原に吹きわたりかなたに
海の波が寄せて飛沫があがる
この世の労苦は限りない
蟻の労役は果てしなく続く
人の生は重く苦渋に満ちている
それはこの世の終わりまで続く
この世を生きることは苦役を課せられた囚人
なぜ無残な死があるのか
蝶の軽やかな死よ
そこに苦痛はなく軽やかな死
美しい羽を残した死
何も苦痛はなく惨めではない
それを手にとれば
また風にのり飛んで行きそう
蝶は死んでも野の花々の中を舞っている
神の庭園の花々の中を舞っている
風に吹かれて十分に光を吸った蝶よ
風に軽やかに舞い上がる蝶よ
なお眩しい夏の日は続く
そは来世でも天国で舞い続ける
軽やかに風に吹かれて喜々として
限りなき花々の中を・・・・・・



今年は暑つくなったり寒くなって秋だと思うとまた暑く夏になっている。
残暑なのだけど秋も既に来ているという奇妙な感じである。
揚羽が飛んでいるのは夏である。日ざしも夏である。
人間の生が苦だというとき病気になり死ぬときである。
それがあまりにも無惨なのである。それは別に金持ちだとか貧乏とは関係なく人間の最後は誰でも無惨なのである。最後の姿は無惨である。

今日道端に死んでいた揚羽蝶にはそういうことはない、そこになんら苦痛が感じられない美しい羽を残して息絶えている。そこにかわいそうだとも感じない、それを見て死んだように見えないのである。
人はよく生きたように死ぬというとき、まさに蝶は生きたまましんでいる。
またその羽を手に取れば風に乗り舞い上がう感じなのである。

自分もこのように生きた。自分は会社員とか向いていない、だから学校が特に中学とか高校が嫌だった。実際は高校でも卒業できないほどでありやめったかったのである。
受験勉強に興味をもてなかったからだ。
それ以後大学でも自由になり卒業しても一時仕事しても単純な流れ作業だったのでしていないのっだ。それで仕事の嫌悪感わ感じてしていない流れ作業やるなら家事の方が毎日していて面白いしやりがいもある。掃除するにしても我が家のためにしているのだから他人がやるのとはやるきがちがってくるのである。主婦は結構やりがいあるものにもなる。
今仕事にやりがい感じている人は少ないだろう。
そのことがニートが増えた要因もある。
ただはっきり言って会社勤めををしないとかしていると社会性が身につかないとか社会のこと知らないことでいつか苦しむようになる。
この七年の自分の苦しみがそうだった。社会的訓練を積んでいないから苦しんだのである。

自分は特殊な環境にありこういうふうに生きられたのである。幸運だっといえばそうだった。今でも金には困っていない、これまでは小遣いをもらっていたから贅沢はできなかった。旅行したとしても贅沢をしたことはない、千円以上の食事もしたことがないし温泉にとまっとことも安いのに一回くらいしかとまっていないのである。
ただ自由な時間が与えられたということだったのだ。

自分の母は子供の頃から働き詰めであった。親のためにも働かされたし何か遊ぶということさせられなかった。だから最後に庭はいらないとか狂気のようになり言い張った。
花にも興味もないし美しいとも思うものもない、その一生は働くだけだった。
こういう人生も悲惨だった。それはアリの一生だった。休むことなく働きつづける奴隷と同じだったのである。ただ食べ物にだけは贅沢だったのは豊かになってからはみんなと同じだった。
こんな人生だと百歳生きても幸福だったのか、生きたのかともなる。
ただそいう人生を選んだのではなく強いられたのである。
そういう人もまた多いのである。
ともかく自分は外の光を十分に吸って生きた。
毎日半日くらいは外で過ごしている。一日デスクワークしているのに耐えられない

ともかく自分の最後はこの蝶のようにありたいとも思うがむずかしい
こんなふうには人間は誰も死ねないのである。

タグ:揚羽蝶

2014年09月13日

夏の蝶の抽象画



夏の蝶の抽象画


agehadddd345_FotoSketcher.jpg

agehadddd345_FotoSketcher22.jpg

agehadddd345_FotoSketcher234.jpg


agehadddd345_FotoSketcher2233end.jpg

これは自分の写真が抽象画になってる。写真は明らかに絵なのである。
だから絵画風にも抽象画風にもできる。
これも加工する途中で変化したもの切り取ったのである。
これに蝶を見れるかというと普通は見れない
ただ写真を見てこれは蝶なんだよと言うとそうみえるのである。
もちろん別なふうに見るものもいる。
でも抽象画も具象画を基にしているから何かイメージできないと鑑賞できないことはある。
黄色が揚羽蝶と見れば鑑賞しやすいのである。
タグ:夏の蝶

金の貸す方の恐怖 (貸すと際限なく借りに来る恐怖)



金の貸す方の恐怖


(貸すと際限なく借りに来る恐怖)


金を貸す方の心理を借りる方は知らない、立場が変わると人間は相手のこと理解できない、患者と医者と看護師でも親と子でも上司と部下でも立場が違うから理解できなくなる。
正直親とならない人は親の気持ちがわからないということがある。
自分がそうだった。今親の介護をして世話する人の気持ちを理解した。
毎日食事の用意をすることが大変なのである。でも親もそうしてくれてきたことを理解したのである。
親は子供を世話してきた。そこには子に対する願いも生まれる。
子供が立派に育ってほしいとなる。その立派とは何か明確ではないにしろそいう気持ちを持つのである。
それは日々子供のために尽くすからそうなる。

人のために他人でも同じである。
特に看護師などや介護士でも人と直接向き合う仕事だから余計に感じるのだ。
「なぜこの人のために働き尽くさねばならないのか?」
金をもらっているから仕方がない、そう割り切れないのである。
だから病院とか介護関係では虐待も起きてくる。それは家族でも起きてくる。
家族も実際は様々な家族があり複雑なのである。
要するに世話する人と世話される人の立場の違いで問題が起きる。

金の貸し借りもそうだった。金を借りる人は金を貸す人の気持ちがわからないのである。
返すから貸してくれとはいうけど返すとは簡単に誰でもいうことができる。
一回貸すと必ずまた借りにくる。返さなくても借りにくる。
金を貸すとそれが延々と続くから怖いのである。要するに切りがないことがこわいのである。
延々と金をせびられのが金を貸す方にとっては怖いのである。
金を貸す方にすると延々とせびられる、たかられるということが恐怖になる。
そういうことは親族間で起こりやすい。
借りに来ても断りにくいからである。

恐喝事件では推理小説では延々と金を請求されるということで殺害するというのも切りがないことが恐怖になってそこまで金を与える方が殺害までにいたる。
金を貸す方もそういう恐怖がある。
なぜなら金を借りるような人は常に金に困っていて借りに来るからである。
金を借りに来ることに終りがないのである。

その金の貸し借りから信頼関係はこわれてゆく、金の借りる方は金にならないならと離れてゆくし金を貸す方は金を延々と要求されるということで恐怖となり縁も切れてゆく。
人間は限度がないことが怖いことになる。欲望にも限度がない、だからかえって一千万の月収があっても生活が苦しというのはそのためである。
収入が増えれば楽になるというのではないという。それ相応の生活ができないことが問題なのだというのは本当だろう。

なぜ金の貸し借りから人間関係が破綻するのか?
金を借りる人には必ず問題がある。そして知人であれ金を借りるとなるとどうして金を借りるようになったのか厳しくとわれる。ギャンブルでおおまけしたからだと言ったら誰も貸さない、貸すのはサラ金である。
金を借りることはその人の人間人格、人生まで問われることになるのだ。
おまえはいいかげんな奴だから借金するのだとみられる。

まず事業している人などと付き合うのは怖い、こっちに弱みがあったりしたらさらに怖い、相手は金しか眼中にない、ちょっとでも何か頼めば百万単位で借金を要求するから頼めなくなった。だからかえって頼むときは法人会社がいいとなる。
要するにもう知人でもなにかしてもらうと際限なく要求されることが怖いのである。
「ただほど怖いものはない」の意味は報酬として決まった金でケリがつくことはわりきれていいのである。
なにかしてもらっていくらだと決まっているとかえって割り切れる。
いくらでもいいですよおいわれると一万から百万までまりうるのである。金持ちだったら百万払うこともあるからである。

いずれにしろこの金の問題も親から受け継いだカルマだった。いつも金を貸すことで返してもらうのに苦労していたからである。そのカルマも引き継いだのである。
カルマは親からのカルマ必ず引き継がされるのである。
そこにはいい面と悪い面がある。いい面だけを引き継ぐことはありえないのである。
いずれにしろ金の問題はやっかいである。自分はそんなことにかかわることがなかったからよかった。今やいろんな世俗的なことに関わらざるをえなくなった。
人間は世俗のカルマから逃れられないのである。
借金をすること自体がすでに具体的にカルマを背負うことになっているのだ。
だから借りた人に借金を返さなくても他の人から取立てがされそれは厳しくなるというのもありうる。そのカルマともかくどこかでまた返さない限り要求されるのである。

タグ:金を貸す

2014年09月14日

相馬市の道の駅で昨日の話 (補償金で分断されて絆がなくなった原発事故周辺)


相馬市の道の駅で昨日の話

(補償金で分断されて絆がなくなった原発事故周辺)



相馬市の道の駅ではいつも近くの老人が4、5人集まっている。話題にしていたのが1200万で売り出していた土地と家だった。広告がでてそれを見せていた。
家は築44年だから価値がないけど土地が140坪では広いと思った。
日下石であり街内ではないにしろ近くにスーパーもあり学校もある。
今では土地を求めている人が多いから買得ではないかと思った。
農家だった人などは広い土地を求めているからである。

そこには飯館の人が来ていた。相馬市の大野台の仮設にいるという。あそこには仮設が多く津波の被害者もいる。津波の被害者は地元に家を建てて仮設を出た人が多いという。
その人は飯館の飯樋であり墓が三つあり牛を飼っていたという。
牛を600頭も飼っていた家があったというのも驚きである。
それだけ飯館は広い土地だったのである。
米の耕作面積も広かったのである。山でも平地が広い所でもあった。
みんな帰るのかと聞いたら帰るのは老人だけだといっていた。
これは避難区域などではみんな同じである。

テレビで放送していたが川内村では原発に三分の一働いていたという。
川内村は原発でもっていたのである。辺鄙な村でも結構豊かに暮らしていた。
なぜなら原発で働くと給料が他よりいいからである。
それに比べて飯舘村は牛の村であり原発とは関係ない村だった
東電からの援助もなかったろうから悲劇だったのである。
南相馬市でも原発で働く人が多かったのには意外だった。
今回原発事故で被害にあった所では飯舘村は恩恵を受けていない村だった。

道の駅には外部からの人も出入りしている。自転車日本一周とかの若者もいた。
仕事できている人もいる。六号線がいわきまで通じていないのでどこを行けばいいのか
尋ねる人がいた。六号線は朝晩は許可証なしで通れるようになる。
それでもなかなか通りにくいのは変わりない。
この辺はまだまだ混乱が続いている。
大野台では仮設でも飯館村と津波の被害者の事情はかなり違っている。
津波の被害者は補償金を漁業関係者意外はもらいないからだ。
それで飯舘村の人がトマト栽培農家に雇ってもらおうとしたら断られた。
津波の被害者を雇うからだとnhkで放送していた。

この補償金問題もこの辺で内部対立を作り出した。
浪江の工場経営者も前の仕事仲間から補償金もらっているのだからと仕事をさせてくれないと嘆いていた。
一方では避難民は補償金で働かず遊んでいると非難される。
近くでも畑で野菜をつくっている人がキュウリをくらと仮設に住んでいる人に言われたが
小高の人にはやらない、金あるんだから、買えばいいだろうと言ったという。
それもそうなのである。
ただ南相馬市では小高の人は同じ南相馬市でありイワキや他の市町村とも違っている。
悪感情があってもそれがいわきのように露骨に嫌がらせまではならないだろう
車をパンクさせたというのは本当かどうかわからない

もし本当に困っていたら

「私は食べののがなくて困っています、一本でいいからキュウリわけてください」
「あなたたちが困っているの見ていてわかっています、どうぞもっていってください」
「ありがとう、ここの人は親切です 恩にきます」
「困ったときはおたがいさまです」

「キュウリ一本など買えばいくらでもあるよ」
「金はあるんだからそんなもの買えばいいんだよ」
「この土地のものには世話にはならん 俺たちは俺たちでやるうんだよ
金で遊ぼうが金あるんだから手伝いに雇ってもいいよ、金があるものが今に世の中では
ものを言うんだよ」

こんなふうになるのはまさに現代を象徴していたのである。要するに原発事故は現代社会の矛盾を露骨にした場になったのである。

絆だとか最初はいわれたけど今では心もバラバラになってしまった。
人間は貧しいときは助け合うけど豊かになると助け合わない、それと広域社会になったとき、金の力が大きくなりすぎたのである。
このへんでは食料がとれなくても全然困らないのである。かえって補償金で贅沢をしているのだ。
そのことを象徴していたのがこの土地のものが作った野菜をくれろといったらもし保証金もなく苦しんでいたら分け与えていた。そうしなくても困らないから協力もないのである。
広域社会になり金の力が大きくなると近くでは協力しなくても生活できるからそうなる。
若い人が故郷から流出するの移動するのが容易な時代だからそうなる。
原発や津波の被害地はそうした現代の矛盾を露骨にしたのである。

タグ:原発補償金
posted by 老鶯 at 13:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

田舎の路上でギターの演奏していた若者 (除染で名古屋から来たというが・・・・)



田舎の路上でギターの演奏していた若者


(除染で名古屋から来たというが・・・・)

natukusa111.jpg

夏草や若者歌う田舎道


この辺では外部から人が入ってくるのは珍しくない、でもあれは変わっていた。
脇道で車もあまりと通らないところでギターとハーモニカで演奏していた。
あれは都会でよく歌っているストリートミュジシャンである。
それが田舎道でしていたから驚いたのである。

その若者は名古屋から車できたばかりだった。随分田舎だとか言っていた。
ホテルが用意してあるというがプレハブだった。
この辺にコンビニあるのかとか随分田舎だと思い何もないとか言っていた。
名古屋からすればそうなる。
名古屋に太平洋フェリーで何度も行った。
名古屋の人とはトルコのイスタンブールでも会った。その人は会社の派閥争いで敗れてやめて世界旅行していた50代の人だったろう。
その人はシリアにも行っていてあそこの人たちは純朴でいいよと言っていた。
外部からまだ人があまり入れない地域は昔のままであり汚されていないからである。
アジアでは元のビルマのヤンマーやラオスに行った人もそう行っていた。
だからシリアは悲劇だった。日本人はアラブに好感を持っている人がいるしアラブ人も日本人に好感を持っている。アラブ人は何か付き合いやすいところがあるからだろう。

そこであった名古屋の人は何かエネルギッシュだった。若者と交わり溶け込んでいた、名古屋人には信長や秀吉タイプがいるのかと思う、一般に大阪や西の人は積極性が全面に出る。近江の大津の人も値切るのがうまい、外国でもそんなことができていた。
近江商人の出た所だと今では思っている。
東北人はたいがい農民であり体質的に積極性がない、それはここに転勤してきた関西の人も言っている。
日本人は商人に向いていない、職人だというとき特に東北人はそうなのである。
ただ伊達政宗は例外だったのである。
前の親戚の人が事業に失敗したのも商人として失敗したのだろう。
職人のままだったら成功していたのである。ただ事業は20人一人しか成功していないとすると地域だけでは測れない、でも事業で成功しているのはやはり関西の方だろう

いずれにしろあの若者は除染とか建築関係の仕事ができるのかと思う
一週間で辞めるかもしれないというときそんな感じなのである。
飯場でギターひいている人はいないだろう。
人手不足でだれでもいいから人をあつめているからだろう
建築関係の仕事はアルバイトではやるべきではない、危険であり除染でも屋根から落ちたりすう。あれは相当な訓練が必要なのである。
ただあんなふうに積極性のある若者はこの辺ではすくないだろう。

今年はまだ夏でありまた秋になっている。
だから夏草でもある。一般にはこの辺の労務者は高齢化している。
若い人はどこでも少なくなっているのだ。
若人はやはり無鉄砲であるがエネルギーはあるから活気は出てくる。
田舎何もないというとき田舎もともと老人向きだった。
田舎の良さは本当は老人になってからわかる。
自然にとけこむのには木が育つように時間がかかるのである。

posted by 老鶯 at 21:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年09月15日

虫の声 (敬老の日ー石のように動かなくなる老人の心境ー石の心(詩))


虫の声

(敬老の日ー石のように動かなくなる老人の心境ー石の心(詩))

rocktuyu11.jpg


秋の蝉残り屋にひびく海老の村

朝の海望み揚羽や舞いにけり

露草や石一つ残る津波跡

老いゆくや夜更けに光る後の月


田舎なれ夜のふけて鳴く虫の声かすかなるも我が聞き入りぬ

秋となり声なき死者は何求む別れし人も遠くなりゆく


スーパーで掃除などしている退職した人は母親が92歳で息子の名前もわからないというから重症である。その人がだれかわからないのは認知症でもかなり重症である。
夜中に起きるのが困ったということも自分も経験している。
その人が早く死んでくれればなと何度も言っていたから認知症になるとみんなそうなる。
自分の場合は最後まで自分のことはわかっていたのである。
認知症は時々正気に帰ることがあり意識不明になり昏睡状態になるまえも正気にもおったことがあった。だから本当に認知症は不可解な病気だと思う。
90歳過ぎるともう半分は認知症になる。


今日はは敬老の日といってもこれだけ高齢化になると社会で祝うというより負担に感じる人がふえるだけである。
福島県では会津の方で65歳以上が50パーセント越えている村がある。
そういうところは村自体維持できなくなってゆく、そして津波原発事故は高齢化で復興できないとなっている。
避難区域になっているところはどこも若い人は帰らないとなり帰るのは老人だとなると
復興はできない、老人は先のことは考えない、まもなく死んでゆくものとして在るから
先の長いことは考えられないのである。

そして老人は動くこと変化に対応できなくなる。老人は本当にだんだん石のようになってゆく。 老人は死に場所を求めているのだ。その場所は先祖代々生きてきた場所がふさわしいのである。だから老人はどうしても故郷に家に帰りたいとなる。それが奪われたことはいくら補償金をもらっても償いないとは言える。ただ補償金はまわりからどう見られるかも問題になるからそれはまた別問題である。

ともかく老人の心境は詩にすれば次のようになるだろう


 石の心

在るべき所に人はあらじ
在るべき所を人は知るべし
巌のように固く重く
在るべきと所を悟り
その場を動かざるべし
在るべき所に人は死ぬべし
汝は在るべき所に安らかなるべし
その死後もまたしか在るべし
巌のように固く重く
そこに花のまた咲くべし
巌とは夫であり花は妻なれ
花はその巌の上に安らかに咲くべし 

stonnnehana1.jpg


巌の石のように在るべき所に在るということ悟りのように自覚する。それはなにかというと自分の人生をふりかえっても在るべき所になかった。
いろんなところ無駄に彷徨っていた。カルト宗教団体などで活動していたのも在るべき所になく時間が浪費されただけだった。都会の生活は何かその繁華街であり本当の生活があるように思えないのである。現実ならざるものにも見える。それは自然から全く離れた人工的空間になっているからである。
人間は死ぬ場所がどこになるのかも大きな問題だろう。ここが死ぬ場所だと納得して死ねる所である。仮設で死ぬようなことがあれば本望にはならないだろう。
女性だったら嫁ぎ先の家で死ぬのが本望だろう。そう思わない人はやはり結婚が失敗だったともなる。 

海老村の津波の跡に石が残っていて露草が咲いていた。石と露草が在るべき所に在り咲いているとなる。津波とか原発事故はその在るべき所を奪われたことが最大の悲劇であり理不尽だっともなる。
一方で若い人は一億円もらって便利な都会で暮らした方がいいとなるおも現代では避けられないのである。
皮肉だったのは「絆」とは外部との絆だった。広域社会になると外部との繋がりが大きくなり金の力が増大する。つまり地球の裏側からもものが入ってくるからである。
一方で肝心の内部の絆は繋がりは助け合いはない、補償金でいがみあっているというのもつくづく現代社会の矛盾がここで露骨に表れたのである。
広域社会では外との繋がりで絆が生まれたのもそういう社会になっていたからである。
一方で近くはかえって繋がりがないというのは現代社会ではそういう構造になっていたからである。金さえあれば食糧にこまらないということがそのことを象徴していたのである。そして広域社会でも交通が遮断されたとき危機に陥ったことでわかる。
外部から食糧が入らなければ現代では万事休すになるのである。

ともかく敬老の日ということ自体が全くそぐわない時代にもなった。
早くしんでくれというのが悲鳴のようになっている時代でもあるからである。        
タグ:石の詩

2014年09月16日

火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化 (国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


火災保険、10年超引き受け停止へ 損保大手 自然災害増加で収支悪化

国民年金も保険であり支払いきれなくなっている)


  損害保険大手が、10年を超える期間の火災保険の新規契約引き受けを来年秋にも停止する方針を固めたことが13日、分かった。異常気象による建物被害が増加傾向にあり、長期契約での収支予測が難しくなったためだ。現在、最長で36年の保険契約は、 ...
MSN産経ニュース

若い世代はまともな職にも就けず、安定収入もなく、結婚もできず、ジリ貧。 
一方、老人世代が雇用延長して会社に居座り、高給を得て、裕福な生活をおくる。 
自分たちだけ良ければ後はしらねえ、って感じがぷんぷんする。 
政治家も自らの懐にカネが転がり込む仕組み作りに腐心しているだけで、表向きは 
キレイ事をいっているだけで、将来の日本がどうなろうと知ったことではない。 
だいたい、余命幾ばくもない70才の老人がまともに将来を考えるかっての。 


年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

国民年金「保険」も、厚生年金「保険」も同じこと。貰うような事態にならないほうが幸せ なんです。保険金をもらえなかったら、「無駄に長生きして生活に困らなくてよかった」と
喜ぶべきなんです。 

そういうわけで、年金の支給は90歳からにしますのでよろしくお願いいたします。 



一般にも保険が「危険を分担」し合う契約であることの認識は薄く、自らに保険事故が発生し、経済的保障を受けなければ保険の効用、仕組みについて理解がされないことが
多い。

保険というのがこれもそもそもわかりにくい。親が農協の保険の火災保険い入っていた。それで今回の地震で30万くらいはもらった。
でも津波に被害があった人は500万もらったという。床上浸水で被害が大きかった。
それでもその額が大きいと思った。その人は1200万くらいの保険だった。
自分は600万だったのである。それも積み立てたのが戻ってくる保険だった。
ただ自分は少ないと感じたが保険は何かあった場合のために助け合うことが保険だということを理解した。そういう助け合いだということを自覚している人は少ない。
保険会社に一任してその保険会社から支払われるのであり互いに保険金を納める人が協力してなりったていることがを自覚していないのである。
それが近くで同じ農協だったから自覚したのである。
正直農協は一年に5万であり高いと思った。でもこれは掛けたものが返ってくるから高かったのである。

現代は保険の時代でもあるが保険とは何か理解している人が少ないと思う。

年金は保険だから。得する人もいれば損する人もいる。最も公的年金は、政府が出資してるから得する割合が高い。

 自動車保険は事故を起こさないと貰えませんよね。健康保険は病気や怪我をしないと 
貰えませんよね。保険金を貰うような事態にならないほうが幸せなんです。それを、 
「掛け金が無駄になった。私も事故を起こしたかった。病気になりたかった。」と悔やむ 人はいません。 

年金が保険と理解している人もまれだろう。若い人が年金を払うのが馬鹿らしいというのはわかる。
自分もそう思っていたが払うのは親だったので苦しいとは思わなかった。
年金は保険だとすると老後のために何かあった時にもらうものであり月給のようにもらうものではない。
それは病気とかになった時もらうものだとなる。そうなると定期的に死ぬまでもらうのはないとなる。
国民年金などはこうした保険というよりは国の社会保障になっている。半分は国で保証しているのである。健康保険でもそうである。アメリカでは健康保険が馬鹿高いから貧乏人は入っていないから病気の時はいい医者にみてもらいない、日本では平等にみてもらえるのがいいと評価される
でも国でその負担が増えるとはらいきれなくなり消費税などの増税になるのである。
それはこれも保険でありみんなでなにかあったら負担しあうという思想があり成りたっている。
生活保護でもそういう思想があり成り立っている。ただ税金で納めるから保険だという感覚がないのである。

若い人が年金に不満なのは今の団塊の世代などは少なく払ってももらえるが自分たちが老人になるときはもらえるかどうかわからないという不満である。現実に今の90代は年金をはらわなくても三万くらい国から支給されたのである。年金は国で保証されるから支払われるとしても今払っている年金は今の世代に支払われるから不満なのである。
考えてみれば火災保険などは支払う額はそうした世代間で差はない、みんな同じ額を払って維持している。今の若い人は多く払ってももらえるかどうかわからないというのは当然だとなる。
厚生年金や企業年金も国民年金とは違っている。
公務員はなぜ年金が高いのかと不満がある。その差があまりにも大きすぎるからである。
そもそも国民年金にしてもそれが保険なら病気とかの時支払われるのであり月給のように支払われるのではない、そうしたいなら貯金の年金に入り老後にもらえるようにしひた方がいいとなりそうしている人もいる。

いずれにしろ社会保障費も増大すれば消費税などあげねばならない、少子高齢化でその負担が若い人にかかるから不満が増大する。最近火災地震保険でも払いきれないから募集を保険会社で取りやめたことも同じことなのである。支払う額が大きくなるともう維持できなくなるのだ。
それは社会保障費でもそうだし年金でもそうだし民間でも維持できなくなる。
そういう限界状態が社会全体に生じているのである。

現代社会が理解しにくいのは何でも規模が大きくなっているからである。少人数の頼母子講などなら理解しやすいが巨大化すると人間はなんでも理解しにくくなる。
でも今回のような大災害になると巨大化しているから巨大なシステムを構築した保険会社でないと対処できない、その一番巨大化したのが国の保障なのである。これだって税金で成りたっているのだから
保障しきれない事態になっている。
タグ:保険

東京の危機迫るー貞観津波の時と同じ傾向 (茨城から千葉、埼玉と地震が頻発)



 東京の危機迫るー貞観津波の時と同じ傾向


(茨城から千葉、埼玉と地震が頻発)

これまでの地震は散発的に起きていた。東日本震災から違っている。周辺に集中的に起きているのはやはり東日本震災の影響である。埼玉に震度5弱が起きたのは不気味である。
東京は東電が原発を福島に浜通りに作った。それは一千万の東京を維持するために作られた。東京は自らの危険を避けて東京に作った。そして原発事故の災禍をもたらしフクシマでは浜通りでは人も住めなくなった。
この災いをもたらしたのは東京のような巨大都市がありそれが負荷となり原発事故がもたらされたのである。東電や政府は東京から離れたところで安全策を図ったのである。
そして飯舘村のような原発とは関係ない自然と共生を図って暮らしていた村に住めなくさせたのである。その罪は余りにも大きすぎたのである。
そのカルマを支払わせるために東京に危機が迫っているのだ。
貞観津波の時も陸奥は大被害を受けた。それはそのとき大和王権が陸奥の蝦夷をふみにじり虐殺していたのである。

そうして人心が乱れるとき自然も乱れる。その乱れを蝦夷の怨霊を鎮めるために祇園祭が始まったという。そのときの政権は奈良から京都に移っていた。
そのときは首都は京都だったが今は首都は東京である。
そういう人間の歴史とも災害は関係して起きてくる。
大災害はまた人間社会の根本的変革をうながす強制するものとしても易姓革命を起こすものとしても起きる。
原発事故も天の警告であり変革をうながすものとして津波が襲ったのである。
東京一局集中も国土利用では間違っている。天の配剤がありそれに反するとまた天変地異が起きてくる。東京はすでにもうそうした自然から見れば異常に肥大化した自然に天の理に反したものとなっている。
だから天の理に従って大災害が起きて新たな日本の国造りを強いるのである。
それはとても人間の力ではできるものでないから天が関与するのである。
原発事故でもその悪が暴いたのは人間ではない、国家的犯罪になると人間では裁けないから天が神が自然を動かすともなる。

蝦夷の怨念と同じものが今回も起きている。貞観津波では京都だったが今度は東京になる。
東京では常にに地方を軽んじてきた。第一次産業を食料を提供する地方を軽んじることは自然を軽んじることに通じているのだ。
大きく見ればグローバル経済というのも日本を起点にして見直される時期に来ている。
食料は国内で自給するのが基本であり外国に頼るのは天の理に反するのである。
だらこそ天から罰を加えられる天変地異が起きてくる。
tppもアメリカの第二の属国化なのである。

都会には都会のカルマがある。関東大震災があったが東京では必ずそういう地震災害が起きる。都会は災害に弱いからである。だからカルマを繰り返す、東北でも津波は繰り返されてきた。日本自体がそうした国土のカルマをもっている。その運命から逃れられないのである。歴史を振り返ってもその地理が歴史を作るように災害も繰り返される。
ただ日本人は忘れやすい民族なのである。何か一過性で台風のように荒らされてもその後の青空のように忘れる。
神戸の地震でも都会の被害は甚大になる。それを考えたら普通はあんなに密集して住んでるのは地獄を作り出すためにお膳立てしているとしか思えない、それは津波でなぜ危険な海岸に家が密集していたのかと言われるのと同じなのである。
高層ビルに住むということはやはり人間の危険に対する感覚がマヒしているとしか言い様がないのだ。

東京が大被害受けることは日本の国土再建計画が起こり地方に危険を分散させる政策が取られる。東京オリンピックは中止され国土再建に向かう。東京遷都も具体化するそれだけの衝撃がない限り本気の改革はできないのである。

窮まれば変じ、変ずれば通ず(易経)

正に被害地はこうなっている。原発事故ではそもそも町や村がなくなった、住めなくなったのである。これ以上の変化ない、これに対処するには変じるしかないのである。
これはまた明治維新とか戦後の焼け野原と似ているのだ。
東京に大地震が起きたら全国規模で国土再建をせざるを得ない、それはそうしいられるのである。 その後にまた新しい日本国土の天の理にかなった再建が行われる。
そうでないければとても大きな根本的改革はできないのである。
そのときまた荒廃の極点に達していた日本人のモラルの再建もありうるのである。
つまり人間の力だけではモラルもあらためることができないのである。
だからそこに天の力が働き国土の改革が行われる。そのための犠牲として津波原発の犠牲があったともなる。戦争の犠牲者があって戦後の復興があったと同じである。
時期的に明治維新から70年で戦争へ戦後約70年で大災害になった。そいう節目に自然災害も起きてくる。それも天の理だったのである。



posted by 老鶯 at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係