2014年09月01日

秋薔薇(また厚寿苑にショートスティ)


秋薔薇に菊(また厚寿苑にショートスティ)

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それぞれに違ったように見える。

フラワーアレンジは前もフォトブックにしたけど絵になりやすい。

これは無料のフォトスケッチャーできる。

ソフトは無料であれ安いのであれそれを使いこなす方が手間なのである。



窓しめて三色の菊壺に挿す

十数輪老人増えて秋薔薇

買い物にいつもの道や秋薔薇

雨しとと夏も過ぎたり秋薔薇


なお生きぬ大正生まれの女(ヒト)語る我が町にあり新しき施設に



厚寿苑のショートスティに泊まりである。あそこでは介護色をだしているから家では食べないのに食べた。食べやすいからいいのである。
施設では無理に食べさせているがあういうふうにしないともう食べたくない人がいるからやがて体力がなくり死がはやまる。食べ物の点では施設がいいし長生きになる。
ただ施設には行きたくないという人が多い。
99になったらもうどこに行きたくない、動きたくないのは当然である。
そもそもこうして無理に食べさせたり介護しないと早く死んでゆく
それがまた寿命を伸ばしているのだ。
だから老人に金かかるのは介護ということが社会的にも金をかけてしているからである。家にいたら長生きだとはならない、自分はおかゆを作るのもめんどうでしていない。
介護食がないとだんだん弱り風邪などでも死ぬことはありえる

ショートスティでは意外大正生れが多いことにきづいた。大正生まれは九〇才以上である大正生まれはそれだげまだまだ生きている。大正生まれは明治生れはいなくなり貴重なものになっている。大正生まれかとなると年号の不思議は昭和生まれは区別される。
昭和はなにか戦後もつづいたので混同されやすい。
戦後と戦前の昭和はまるで違ったものである。
だから年号で時代を見るのもすべてがいいとは言えない。
大正生れの人は姉のいる蒲庭(かばにわ)まで原町から汽車できて歩いたという。
その頃街のうよになっていなかったとか言っている。
その時鹿島がどんな町だったのか?

いづれにしろ汽車があっても運賃が高くてのれないとか歩いた人が多いのである。
姉は下駄はいて葛尾(かつろう)村まで歩いた話しを良くしていた。
それだけ遠くても歩くのが普通だったのである。
汽車を利用する人はまだまだ少なかったのだろう。
明治とか大正とか戦前はまだ江戸時代の延長のようなところがあったから
長距離でも普通に歩いて移動していたのである。

厚寿苑は近いから便利である。街中にありすぐ隣の感じになる。福祉施設は近くにあると便利なのである。原町とかだったら体が弱っていると車で行くにも遠いし体に負担になる体が弱った人は行きずらくなる。福祉になると何でも近くがいいのである。
だから福祉施設は近くにありそこを利用できるといいのである。
ただ南相馬市では人口が多いのだから原町の人が多いのである。
厚寿苑は建物が立派である。あそこははじまったばかりでありまだまだ利用する面では歴史がない、ただ公共施設でありそこで南相馬市の老人が集まるからそこは一つの老人の社交の場になる。

でも介護士は地元の人ではないから同じ福島県でも蒲庭と言われてもわからないことが多い。地元の人でないとそうした過去の経験を言われても話を合わせられないということがある。それで介護士としては問題が生れる。
得に若い人が多いとそうした話しを聞かないし合わせるのがむずかしいとなる。
とどこから来たかというときその土地のことを知らないと話しが合わせられないのであるそれは日本全国でもそうなのだ。
自分が沖縄の辺野古のことを書いたのはそこに一回でも泊まったことがあり知っているからである。自分は全国を旅しているからたいがい住んでいる場所を聞くとあそこ行ったことがあるなと話しできるのである。
この前海老であった人はそうだった。白川郷に自転車で行ったからだいたいどいうところに住んでいるから実感としてわかっているから話を合わせることができたのである。

秋薔薇の季節である。その薔薇は夏からずっと咲いていた。十輪くらい咲いているので目立つ。そこは買い物に行く道である。
今年はやっぱり残暑はそれほどでなく秋が早いのだろう。
秋雨の季節にもなっている。秋薔薇はしんみりとしていい。

菊の季節でもあり暑ければ窓をあけているが窓をしめて花を飾る、秋はやはり芸術の秋でもある。ただ最近忙しくてフラワーアレンジはしていない、こういう趣味もまず時間がないとできないのである。
家事は意外と大きな家に住んでいるといろいろある。明日は一カ月一回の燃えないゴミを出す日だからこれを忘れるとまずいのである。
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2014年09月02日

厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話 (老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)


 
厚寿苑で聞いた大正生れの小高のばあちゃんの話

 
(老人の役割と価値は昔を語ることにあるー倉の話しが興味深い)


厚寿苑のショートスティで今日話を聞いたのは大正生れの小高のおばあちゃんだった。
大正一〇年生まれであり二月に生れたからユキと名付けられたという。
その当時の名前の名付け方もそれなりのパターンがあり時代を反映している。
春に生れればハルとなり秋に生れればアキとなっていたともなる。
ウメとかキクという名前はポーュラーでありあとはその土地の名をつける人もいる。
自分の母親は富岡で生れたからトミ子になったと聞いた。
苗字はどこかの土地の地名と結びついているからその謂われある土地と結びつくことは不思議ではない。
要するに昔の人の名前はわかりやすいのである。今の人の名前はその由来も様々でありわかりにくくなったのである。

その名前のことだがそのおばあちゃんが言うには私の弟は倉で生れたら倉吉となづけられたというのも不思議だった。倉が吉ということで名付けられた。
というのはおばあちゃんの実家は火事になったことがあり家が燃えてしまってそのあと母親が大変な苦労をしたという。倉も一部の柱などが燃えて焦げたが残った。
倉は家から離れているから残った。倉は町では防火のためにもあった。
倉は今回の津波でも残っていたりするから丈夫な作りになっている。
昔は蔵の役目は生活に欠かせないものとしてあった。
肺病になり若い女性が蔵に隔離されたことをテレビで放送していた。
蔵の利用にはそういうこともあった。
自分の家には蔵などないから蔵のもっている意義がよくわからない。
ただ今でも農家にはたいがい蔵はある。
蔵に関する物語も多い、喜多方は蔵の町だったのは商人の街として栄えたからである。
倉敷なども蔵だらけだからやはり商人の街として栄えると蔵が農家でなくても蔵が多くなるのである。

忠蔵 ちゅうぞう chuuzou
恒蔵 つねぞう tsunezou
米蔵 こめぐら komegura
清蔵 せいぞう seizou
五百蔵 いおくら、いおろい iokura、ioroi
泰蔵 たいぞう taizou
修蔵 しゅうぞう shuuzou
嘉蔵 かぞう kazou
小蔵 おくら okura
網蔵 あみくら amikura
与蔵 よぞう yozou
重蔵 じゅうぞう juuzou
秀蔵 しゅうぞう shuuzou
律蔵 りつぞう ritsuzou
助蔵 すけぞう sukezou
蔵並 くらなみ kuranami
西蔵 にしくら nishikura
古蔵 こくら kokura
蔵座 くらざ、ぞうざ kuraza、zouza

くらきち 倉吉 庫吉 蔵吉
くらじろう 倉次郎 蔵次郎
くらたろう 蔵太郎
くらのすけ 蔵之介 倉之助 内蔵助

蔵とつく名前もいろいろある。米蔵(倉)はわかりやすい、蔵並というのも蔵が並んでいる風景があって名付けられた。倉吉という名前も他でもあった。

喜多方は新しい街だった(喜多方の歴史)

ここのページに喜多方を訪れたことを書いています。

その女性は小高のどの辺のかわかりにくい、福浦と言っていたからその辺なのか、父親は村会議員だったというからそれなりの家だった。だから蔵もあった。
尋常小学校をでて小高の小高専修学校に二年学んだというから普通は尋常小学校で終わっているから村ではいい暮らしをしていた部類なのだろう。
弟は北海道大学を出たとう、そして獣医になったというからその当時大学まで行ったとなるとほんのわずかだろう。それでも金がなくて困って学費で苦しんだという。
その弟か兄は獣医になったのはいいけどなぜか南米に移民したという。
その辺の辻褄が合わない、獣医が地元でうまくいかないのか獣医が嫌になって南米に移民したのかよくわからない、ただ結果的には乞食のようになって帰ってきたという。
その辺の事情がよく聞き取れないしわかりにくい、あのくらいの年になると話を聞いても何か明確でないことはよく起きる。

ともかく当時としては他の人よりは裕福な家だったことは確かである。
ただ女学校に入ることはできなかったから当時では下になるがそれでも尋常小学校で終わらないのだから恵まれていた。何かそこで生け花とか花嫁修行のようなこともしたといっていた。当時の学校は花嫁修行という側面が江戸時代から継続されていたとなる。
まず大正生まれでは字を書けない,読めない人はいない、明治生まれでは自分の祖母にあたる女性が字を読めないし書けないので苦労していた。代筆してもらわないから苦労していたのである。自分の父親も明治生まれだけど学校に入った形跡もないのに字を書けたのは不思議だった。丁稚方向していたからどこかで字を覚えたのだろう。

その小高のおばあちゃんの話でその尋常小学校に通うとき、坂道がありその崖の穴に乞食が住んでいて怖かったという。その乞食の話しは自分も姉から良く聞いた。
乞食は洞穴に住んでいたのである。裸でいたから怖かったというのは少女だったらそうなる。乞食は戦後もいたるところにいたのである。
子供にとってはやはり乞食は怖いものだったとなる。地名としては乞食坂とかとして残ることになる。

小高は実際は相馬藩では最初に城があったところだから一番古いとなる。相馬氏の歴史では古いから古い家も残っているとなる。小高はなんとか浪江のように住めなくはならないでも先はわからない、若い人が帰らないから家も直さないとか老人が多いから復興が進まないのである。
老人の価値とか役割は何かというと昔を語ることなのである。
その昔はその土地と密接に結びついている。記憶はその土地と結びついている時残りやすいのである。
だから古い碑でも神社でもその場所から昔を探るのである。
それでどこに住んでいたのかその土地のことを知らないとなかなか話が通じない
厚寿苑では今は外部から来た介護士が身体の世話をしているがそうした昔の話を聞きあわせることはむずかしい。
ただ身体だけを世話しているだけでありその土地と結びついて話を聞いたりできないことが問題になる。
身体だけの世話ならいいがやはり介護はそれだけではない、昔の話を聞いてその土地に刻まれたゆく人間の歴史を記す必要がある。

だから郷土史は祖父母から聞くことからはじまると前にも書いたのである。
いづれにしろ大正生れとなると今はかなり貴重だろう。
ただやっかいなものとなるが大正生まれが多いというのもやはり高齢化なのである。
百才もだんだんめずらしくなくなってくるかもしれない、もし六〇才から百才となる退職しても四〇才あるとなると第二の人生はさらに長くなるのが高齢化社会なのである。
自分は戦後十年は大正時代や戦前の生活の延長を経験しているので実感としてわかる。
乞食も知っているし燃料は炭だったとかも経験している。
だから大正時代とか戦前の人と話を聞いても通じる。でも二〇代とか三〇代とか四〇代でも高度成長時代になるから話しが通じなくなっているだろう。
そこに介護する側の問題もある。
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2014年09月03日

日立木の秋ー俳句十句(蔵に松に菊に月ー鉄道の写真)


日立木の秋ー俳句十句

(蔵に松に菊に月ー鉄道の写真)

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無効に蔵がある



夕暮れや実りに松の五本かな

蔵ありぬその家の前実りかな

蔵二つここに落ち着く実りかな

菊畑この家の古く蔵二つ

庭広く蔵の二つや松に菊

この家の松手入れして菊花かな

浜街道日立木通り秋の蝉

山翳り薄なびくや鉄路かな

電車去りその間や長く月光る

夕月や風にそよゆる糸薄

夕暮れや二両の電車に薄かな

ハマヒルガオ線路の脇に名残かな

夕月や日立木にとまる電車かな

雁二羽の飛び去り夕べ月光る

電車来て山鳩二羽や実りかな


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相馬市方面から来る二両の電車

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日立木は無人駅である



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これはハマヒルガオだからめずらしい、海はここから結構遠い



相馬市に来ると今までどおりの風景である。実りの風景は当たり前であり実り風景がないなど江戸時代の飢饉の時でもなかったろう。米が全部だめになったとは思えないからだ。南相馬市になると原発事故で原野化しているから実りの風景はない、草茫々の世界であるだからどうしても心まで荒廃してしまう感じがする。
別に草原の風景はモンゴルなどではある。その草原とはこれは違っている。
実りは単なる景色ではない、生活していける実りなのである。
だから蔵があり家の前の前田に実る風景は単なる景色ではない、そこで生活できる風景なのである。

昨日一昨日と回ったのは日立木の街道からそれた鉄道の方へゆくほうである。
浜街道からその鉄道の線路は近い。
相馬地方では原町駅から相馬市までは常磐線は通っている。
原町ー鹿島ー日立木ー相馬市は二両の電車が通っている。
一時間から二時間感覚で出ていることはでている。
でも今までは八両だったから二両の電車だと感覚的にずいぶん違う。
八両の電車は仙台まで通じていた。仙台まで乗る人が多かった。
それが今は相馬市が終点でありそこで乗り換えてバスで亘理まで行きまた電車に乗り換える。それがめんどうなので今は直通で仙台に行くバスを利用する人が多いし自分もしているが最近めんどうだし忙しいから仙台にも行っていない、でかけるのが億劫になっしまう
自分は鉄道が好きである。旅行はまず電車からはじまっているからだ。
全国の路線をほとんどのりつぶして残されたのは私鉄くらいである。
関西の私鉄は多いし面白いから乗ってみたい、ただこれもきりがないということがわかった。外国でも電車にのったから十分だとは言える。
まず一生がそうした乗り物であれ旅に費やされたのが自分だった。
これだけ旅をしてもまだまだ旅をしていないところはいくらでもある。
それだけ世界は広いのである。

結局人生とは何かと言ったら何に時間を費やしたかで決まる。
働こうがこうして遊ぼうが実は人生の経験には変わりないのかもしれない
遊んで暮らして恵まれていたなとか言われるが今ではフリーターとかニートとか働かない人の数が半端ではないからこれまた働かない人が普通に大勢いる時代なのである。
高度成長時代に馬車馬に企業戦士としてほとんど全部が働いていいたということも異常な側面があったのかもしれない。
高度成長時代は経済成長はあっても文化的には不毛だったような気がする
ただふりかえると音楽は庶民の歌謡曲であれ演歌であれフォークソングであれいい落ち着いた歌があったからそこが文化だったのかもしれない。
]今の音楽はすでに日本的情緒もないし音楽部門では衰退した。
だから今になるとあの時代の音楽がなつかしいとか聞いている人はいる。
それは単に昔が懐かしいのではなくいい音楽が多かったのである。

鉄道の思い出としてはいろいろあるが常磐線は仙台までいつも乗っていたからある。
ただ沿線の風景は見慣れると特別なものには思えない、通勤している人もその風景を特別だとは思わない、でも津波で鉄道が流された時、なくなったとき思い出すことになる。
新地駅や山下駅などが流されてなくなったからである。
新地駅はあそこで必ず列車交換で待ち合わせるから五分ほどとまる
そのとまる時間が鉄道では思い出になる不思議がある。
あそこは一番海が近く海が見える場所だった。ただいつも新地の海岸の集落の方を見ていたのである。

新地駅電車とまりて蛙鳴く夏の夜なれや今はなしかな
新地駅電車とまりて虫の声村のともしび今はなしかも
新地駅消えにけるかな村も消え浪打ち寄せる冬の海見ゆ
新地駅なきしも哀し三年過ぎ津波に流さる人の待つかな

津波に家を流されたあの新地駅から見えた釣師の浜に住んでいた人と相馬市の病院であった。津波の被害者はこの辺ではあうことが多い。それだけ広範囲に被害があったのである
今回秋になり鉄道の線路を歩いた。今はあそこを歩いても危険はない、そして何か薄もなびき月もでて電車が去ったあとにしんみりとする。それは二両の電車でありあまり走らないからそう感じるようになったのである。前はなかなか鉄道の線路を歩むことはできなかった。結局二両の電車になったとき、人間的になったという不思議があるのだ。
二両の電車はより自然を感じるという不思議である。
機械化すると人間的なものは何でも排除される。機械とは時間をに性格であり勝手に休んだりはしない。人間のリズムはそもそもそんな機械的なものと合わないきまぐれである。だから休んだり遅くなったりすることが人間的になる自然と融合する時間になるのだ。

今日は実りがあり月が出て薄がなびき秋を感じた、これは日本の秋であり普通にある風景である。ただ南相馬市にはないからこの実りの風景が新鮮なものになる。
どうしても南相馬市の方は荒廃している感じになるからだ。
でも放射線量からすると相馬市と南相馬市はさほど変わりないのだから補償金などがもらえないことで相馬市では不満があるだろう。
でも今まで通りで実りがあり普通に暮らしていけるということで平和を感じたのである。







 

2014年09月04日

バソコンの怖さ (プロダクトキーをなくしてオフィスのソフトが使えないークロウドで記録が取り出せない)


 
バソコンの怖さ

 
(プロダクトキーをなくしてオフィスのソフトが使えないークロウドで記録が取り出せない)


reg clean proはマルウェアでウィルスとは違うと言っていたが
それも影響してパソコンのスタート画面が出なくなり
富士通のサポートに連絡した。

セーフモードでたちあげて通信もできている。
でもオフィスのソフトが使えなくなっている
そこにワードとかワンノートがあり
それがクラウドに記録されていても取り出すことができない

今度はマイクロソフトに聞いてみると
再インストールと直るというが
買った時箱に入っていたものに
プロダクトキーの番号があれば再インストールできると言われたが
その買った時箱もなげたしプロダクトキーは見つからない
前もソフトのキーをなくして新しく買ったりしていた

ここもパソコンを使う点で注意する必要がある
オフィスは三万もするから簡単に買えない
記録したものはだいだい移動したからいい
でもオフィスのワンノートに記録したのがクラウドになって
取り出せないのだ

クラウドというのがわかちらないので使っていなかった
新しいものはわかりにくくなるからこまる
ここではプロダクトキーがいかに大事になっているかわかる
これがないとお手上げになってしまうのである。

記録さえ移せば初期化してもなんとかなるが
記録したものが取り出せない、消えることがパソコンの一番の怖さである。

ただ今回わかったことは富士通であれマイクロソフトであれ
直接聞いて答えてくれたので助かった
有料とかなっていたので電話をかけなかった
料金は今のところとられていない
富士通はサポートはいい
それも一年の保証期間があと三日くらいで切れる時だったのである。

ともかく完全にクラッシュしたのは違うから助かった
パソコンはやはりわからないところはすぐ聞いて対処した方がいい
マイクロソフトでも聞けるとは思わなかった。
ソフトの会社は電話しても通じないのが多かったからだ

パソコンはやはり会社だったら詳しい人がいるからすぐに聞けるからいい、
個人でしているとやはりわからなくなったら富士通のすぐに聞けるようにしておかないとまずい、つまりクラッシュする突然アクセスできない
壊れることがパソコンでは一番怖いからである。

 
タグ:バソコン
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自分のパソコンの履歴 (親指シフトキーボードで文章をスムーズに書けたことがパソコン つづけることができた)


自分のパソコンの履歴


(親指シフトキーボードで文章をスムーズに書けたことがパソコンつづけることができた)


自分がパソコンに親しんだのは富士通のオワシスのワープロからだった。
これはたまたま買ったワープロがオワシスでありそこから親指シフトキーボードを覚えた。
それがパソコンでもできたのでパソコンに親しんだ
パソコンでつまづくのは文章をいかにスムーズに打ち込むかなのである。
いちいち文章を打つのにてまどうとパソコンは使えない
ローマ字入力だとどうしてもスムーズに打鍵できない
親指シフトキーボードだと思考の邪魔にならないようにスムーズに打鍵できる
自分はローマ字入力だとパソコンに親しめなかったろう

だから自分はパソコンも富士通のものをずっと買っている
パソコンは今やどれでも親指シフトキーボードがあれば使える
ただこれをしていると他では不便な面がでてくるだろう。
少数者しかしていないからサービスが少ないから対応できなくなる
でもwin8でも親指シフトキーボードで打鍵できた。
ソフトを売っているところで対応していた

親指シフトキーボードからはじめるとそれをつづける人は多い
でもこれを知らない人はローマ字入力になる
ローマ字入力だと長い文章には向いていない
だから親指シフトキーボードでないとパソコンを自分は使いなかった
どうしてもパソコンでも文章がめいんになるからだ

今回win8が使えなくなったのでXPの古いパソコンでアップしようとした
そしたらやはりパソコン自体が画面が狭いとか文字が雑に見えると違っている
新しいパソコンはきれいに文字もでている
パソコン画面は広い方がいい、狭いと窮屈になる

パソコンはその人なりの仕様に使うことがある
ただソフトはあまり使わない方がいい
なるべく少なくしてシンプルにして使った方がいい
そしてパソコンで大事なのは安全性だった
突然クラッシュしたりウィルスで機能不全に陥るのが一番怖い
それが突然になることが多いからである。
reg clean proは別なパソコンにも入ってきた
こんなものがすべてのパソコンに入り混乱させる
それは今や何億という人に影響するからその範囲が広くなる
だからこれは世界的犯罪でありこういうものをで
インターネットが攪乱することは世界的犯罪であり重罪にすべきである
今やパソコンとかインターネットは世界のインフラにもなっているからだ
この世界的システムを破壊する罪は大きいのである。
パソコン
は一部のマニアの時代はとっくに終わっているからだ

明日は初期化の作業になるだろう
半日もかかるというのは困る
初期化することにはかなり抵抗があったがどうしようもない
やはり最初に親指シフトキーボードが使えないと
何もできないから困る
あとは順次そろえればできる
その親指シフトキーボードも一つの字がキーボードの一つが故障したらこれは不便で使えなくなった。
この故障にも困ったがこれは直してもらうのは簡単にはできない
サービスする場所が限られているし通販で買ったものだからである。
こういう特殊なものになるとパソコンは使いにくくなるのだ。
ただその特殊化があったからこそ自分はパソコンを使い続けることができたのである。


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2014年09月05日

秋の蝉の短歌十首(故郷に尽きる命とならない不幸)


秋の蝉の短歌十首


(故郷に尽きる命とならない不幸)


秋の蝉なお一つ鳴く屋形かな


この森や夏の終わりに集まれる蝉の鳴くかな命尽きるまで

蝉の声ひびきあいつつこの森に夏も終わりて命尽きなむ

秋の蝉せつなきまでに鳴きにける命の尽きる日の短しも

故郷は荒れにけるかもその跡を誰か継ぎなむ秋の蝉鳴く

歯の一つまた欠けにしや我が老いぬ残る命をいとおしむかな

人はみな尽きゆく命何故に争い別る時こそ惜しめ

その命いづこに尽きむ常なき世他郷に死すもあわれなるかな

故郷は荒れにけるかもその跡を誰か継ぎなむ秋の蝉鳴く

揚羽蝶朝に出会いて舞いにけり草原広がり風そよぐかな

しばしの間光れる月も雲隠れ猫はいづくにまた消えてなし

山陰の道にとびにき黒揚羽いづくに消えむ雨しととふる


歯がまた欠けた、前にも三つくらい欠けた。年になるとだんだん歯が欠けてゆく、年がとるということは命が尽きてゆくということなのだ。
その心が反映して蝉の声を夏の終わりに秋の蝉の声を聞く、蝉の声は聞こえなくなるときそれは死なのである。
人間もまたはかない短い命なのである。その短さが若いときには感じない
時間なんかいつまでもあると思っていたが時間はあっというまに消失してゆく
そして残された時間はわずかとなってゆく


確かに長生きの時代でもやはり老いは迫ってくる
そうなるとやはり自然でも感じ方が違ってくるのだ。懸命に蝉が鳴いている、もう限りある命を精一杯鳴いているなと聞くようになる。
老年の一日は何か時間が凝縮されたようになってゆく
若いときは何か時間は緩慢として浪費されてゆく時間だった
老人になると時間は浪費できない、時間が消失して死んでゆくからである。
若いときは感じやすいというけど死をまじかにした老人の方が感じやすい。
自然を末期の目で見るようになるからである
もうそれぞれに尽きてゆく命だとなるときその命は凝縮されたものとなる


この辺ではもう故郷に帰れない人たちも多くなると他郷で死すことになる、故郷で死ねないというのも悲劇なのかもしれない、それは流浪するもの、旅人のように普通の人がなってしまったのかもしれない。先祖代々の故郷で死ねないというのも考えられないことだった。
これもまた無常だったのである。仮設に五年もいるのは長い。その間に働かない期間も長い、
伊達の桃売りに来ていた農家の人はもう二年仕事から離れると体がなまり働けないと言っていた。
それが5年も過ぎたらもう働く気力もなくなるし老人が多いからあきらめになりどうでもいいとなってしまう。あとは生活保護だと言うのもそのたぬなのである。


故郷がこんなふうに荒れてしまうことは信じられないことだった。
その無常はあまりにも大きかったのである。ただ呆然としてしまう無常である。
田んぼが草原化してしまうなど想像すらできないことだった。
千年とかも田んぼの風景はあったのである。
いづれにしろいくら長生きでも無常迅速である。それは蝉の声とにていたのである。
蝉のように一時鳴いて人はたちまち終わるのであり無常なのである。





タグ:秋の蝉

2014年09月06日

芸術の基本は俳句も短歌も写生である (津波原発事故で事実が写生が驚くものとなった)


芸術の基本は俳句も短歌も写生である


津波原発事故で事実が写生が驚くものとなった)


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竜胆の紫に薄紫のそえて咲き我が家の内に争わざるかな


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枯蟷螂ミイラとなりて机の上


朝日さし隣の庭に揚羽蝶花めぐり舞いつつ去りて花は映えにき

女郎蜘蛛窓に巣を張り隣家の庭の花には揚羽蝶とまる

竜胆の紫に薄紫のそえて咲き我が家の内に争わざるかな

故郷に住みて老いにし女あわれその皺深く秋となるかな



短歌とか俳句の基本は写生である。なぜ写生なのかというと自然界でも人間界でもありのままが実は驚くべきものだからである。
窓に女郎蜘蛛が巣張っていてその向こうに隣の庭が見えて花に揚羽蝶が舞いながらはいり花に止まっている。
この情景そのものが驚くべきものなのである。
女郎蜘蛛は不気味であるこの世は不気味なものであれ花であれ
美的なものの中にあることが特徴なのである。
女郎蜘蛛が嫌だとしても視界に入り避けることはできない、この世常にきれいごとでは済まない、不気味なものでも嫌なものでも混在しているのである。

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枯蟷螂ミイラとなりて机の上

これも写生そのものである。なんだそれだけかとなるがこれも写生でありそのままが一つのリアリティを示している。
俳句はもう短いからこれ以上端的なっ写生以外文字を入れられないのだ。その点短歌はまだ長いからその人の独自のもの「ものの見方が読めこめるのであるq
だから俳句のほうが解釈は難しい、だから俳句はその俳句を鑑賞している人が鑑賞力がないと評価もされないことはありえるのだ。
うまり俳句のほうが月並みな平凡な俳句が量産されやすいのである。


写生の俳句であれ短歌であれ今やデジカメやスマホや携帯で即座にとってプログにアップする時代である。
だから写生の俳句や短歌はインターネットで興隆しているがまだ評価はされていない。
今や文章だけではない、写真が日記代わりにもなる時代である。
だから写生の時代であり俳句短歌も写真なくしてありえないのである。

いずれにしれこの辺はありのままを写生しても驚くべきものとなってしまった。だから別にテレビのように視聴率をとるために工作する必要がなかったのである。
ありのままが驚くべきものとなっていたのである。
文学でも絵画でも基本的には写生がある。
芸術の基本は写生なのである。
(事実は小説より奇なり)をこの辺で体験してきたのである。



タグ:写生俳句

2014年09月07日

秋に故郷を想う 厚寿苑の建物はいいし見晴らしもいい


秋に故郷を想う

厚寿苑の建物はいいし見晴らしもいい

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土色の壁に映えにき木槿かな

厚寿苑に大正生まれなお生きて小高の昔語る秋かな

故郷に住みて老いにし女あわれその皺深く秋となるかな

山の端に夕陽の没りて塩崎船着の名や月もい出にき

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厚寿苑はできたばかりでありまだ歴史がない、あそこは建物がホテルのようになっているから気持ちがいいし見晴らしもいい。
厚生病院は古くなっているし見晴らしがよくない、介護とか自分の病気とかになって病院とか福祉施設を利用することが多くなる
現実に南相馬市立病院に一か月入院したし相馬総合病院に二週間入院した。そのことをプログに書いた。
建物も人間に相当影響する。ただ建物でも見晴らしがよくないと活きてこない。三階建てとか高くなると田舎では見晴らしがよくなるから気持ちがいい。
人間は見晴らしのいいところで解放感を感じる、病院とか施設でもやはり見晴らしがいいところに入りたいとなる。
南相馬市立病院は見晴らしが抜群だった。相馬総合病院は迷路であり古くなっているから嫌だった。ただ専門の医者が三人で担当していたから良かった。

ともかく厚寿苑は建物はいいが働く介護士は外部の人である、ただ福島県だと同じ方言でなまりがある。岩手県もいても福島県一番多い、介護士の仕事は何か決まり切っていて工夫のない何かスキルが身に付く仕事には見えないから誰でもできるようにみえる。看護師になると注射や点滴などがありスキルを磨かないとできない、この世の中誰でもできる仕事は価値がない。
この世の仕事はスキルがみんな必要であり経験を積まないと一人前に離れないのが多い。
介護士が低くみられるのはそういうことがないからである。
看護師には給料が高く誇りもあるが介護士にはない、介護は自分もしているから誰でもできるのである。
仕事は危険だったり難易度が高くなると給料も高くなる。
ただ土木建築関係では危険でも安い、それでも型枠大工とか鳶とか技術が必要になるのは高くなる。

人間の社会は必ず昔があって今がある。動物は一代で終わり昔がない、ただ一代でも歴史はある、飼い猫だったもの捨てられて拾われたというときあわれだとかなりその猫にも過去があった。
ただその猫の話は伝えられない、伝えるのは人間になる。
だから猫にまつわる話は人間を通じて伝えられるのである、それも人間の歴史となる。

人間は常に歴史を刻んでゆくものである。昔があって今がある。
今があるのは昔があるからなのだ。そういう昔は土地と結びついているのである。だからその土地から切り離されると伝えにくくなるのである。
だから避難して住まなくなったら歴史も失われる。
人間を語るとき、お国はどこですかとなりその人が何をしてきたかが問題になる。狭い範囲でも村々で自然環境も違っているから同じなのである。村々には地形的にもそれぞれ特徴がある。
それは日本人がそれぞれ土地で自給自足的生活をしてきたからである。
だから鹿島区でも屋形とか栃窪でも塩崎村でも特徴があるしそこで感じるものが違ってくる。いなかにはもともとそうした多様な生活があったのである。それhその土地土地で生きるとなるとその土地土地活かして生きるほかないからそうなったのである。
それは会社とか工場で働くのとは違っていたのである。

塩崎村に秋の夕陽沈み月がでる、あそこの特徴は船着という地名があり塩崎というように海だったのである。
だから津波で船が流されてきてその船着近くまで津波で海水をかぶったことに驚いたのである。
海があるところは海から月がのぼり映える。
あそこもその土地柄で情緒を作り出している。あそこの森にはまだ蝉が鳴いている。屋形にも森があり秋の蝉が鳴いている。
屋形はこの辺では一番古い場所である。
                       
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2014年09月08日

深野(ふこうの)(ユッサの湯)から大原から橲原(じさばら)の秋の俳句短歌 (人が住んでいるから自然も活きる)


深野(ふこうの)(ユッサの湯)から大原から橲原(じさばら)の秋の俳句短歌

(人が住んでいるから自然も活きる)


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ユッサの庭

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大原

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秋日さし石の五つや枯山水
山陰に枯山水や秋の蝉


秋の蝉五つつの石にひびくかな


five stones in the garden
sounding in autumn
Voices of the cicadas


水引やユッサの湯に入り帰る道
故郷の村々あわれ虫の声
山に雲深野の野や花薄
大原の秋や人住み夫婦山
牛に馬秋の日さして里めぐる
家の中広く虫の音ひびくかな

深野の墓地の古しも秋日さし知りにし人のここに住むかな
病院に知り合う人の眠るかな大原の秋虫の鳴くかな
大原ゆじさバラに行く月見草ソバナの花咲き山は曇りぬ
橲原に立目石ありいつよりやここに動かず秋の日さしぬ
山路来てソバナの花の雨にぬれ磐の重くもここにあるかな
ソバナの花あまた咲きにつ一輪のフジクロセンノウ隠され紅し
雨ぬれてソバナの花に一輪のフジクロセンノウ隠れて紅し
雨ぬれてソバナの花に磐に咲き隠れし家を誰か問わなん



小池から深野に行く道は森の道である。あの高台は家はまれでありもともとは野であった。
謎なのその小池の奥に江戸時代の古い墓地があることなのだ。そこは江戸時代の
墓が多くあとは少ないから墓地としては継続していない、あの辺を見れば家がまれであるのになぜ江戸時代の墓があるのか謎なのである。明治以降の開拓に入った人の墓に見えた。
ただ深野は古い土地であり大原広くもともと原町は大原方面から開墾された土地だった。
原町の市街地は江戸時代まで野馬の放牧場だった。そこから野馬追いの祭りが始まった。
原町の江戸時代は深野から大原の方が中心だったのである。

深野はフコウノと呼ぶ、なぜフコウノになったのか謎である。深野はフカノである。なぜフコウノとしたのだろうか?深野から石神に嫁に行っ女性を知っている。
小池から深野に行く高台には古い墓地がある。薄が茂っているけどあそこも畑だったのだろうこの辺は放射線汚染で耕作しないから原野化して芒や芦が茂るようになったのである。
深野のユッサには今は外部の人も入るから混んでいる。あそこには食堂があるからいい。
そして今日注目したのは石の庭であり秋の日がさしていて落ち着いた山陰にあるのもいい。
小川も流れていたから自然を活かすもっといいだろう。
そこから大原の方に向かった。水引が咲いていた。大原の二つの並ぶ山は双子山なのか、夫婦山がいいと思った。大原は実際は相当広い、130軒ありもともと原町の中心部だったのである。そこの前田という土地に南相馬市立病院で知り合った人が住んでいた。

その人は79歳とかで古い家であり猫とともに一人で住んでいたのである。
息子は市街に住むようになったからである。後継ぎがいない農家になっていたのである。
すぐ近くに廃屋もあったから山村はそうなりやすい。空家が一番多いのは長野県なのはやはり山国だからである。
その人の墓杉の木立に隠されるようにしてあった。大原では半分くらい一時は避難した。
鹿島区の仮設にも住んでいる。家を見たら今は帰っている人が多いみたいだ。
実際大原放射線量が高かった。原町は街中でも本陣、雲雀が原0.5とたかいのである。
だいたい0.2を基準にしているから0.5でも高いとなる。
いずれにしろ人が住まなくなった村や町はどうなるのか?そこでは自然も活きず死んでゆくということにもなる。人が住んで自然も活きる、例えば全国にある夫婦山とあればそこには人間の暮らしがあってその名があり山も人間化しているのである。
だから人が住まなくなった村でも町はどうなるのか、飯館など芦に埋もれてしまったのである。
浪江や双葉になればその荒廃はもっとひどいのである。

大原から橲原に行く新しい森の道を行くと変な大きな鳥が出てきた見たことのない大きな鳥だった。なにかまだ知らないものがひそんでいる。
橲原の立目石は小池との境の石だという、ここはもともと江戸時代から木材の供給地だった。
この名前が変わっていて注目されている。自分の家も姉がよく言っていたけど同級生の人が木こりで家の柱は橲原の木だと自慢していたのである。
これはどこでもそうだった。みんなその土地のものを利用していたのである。それが自然な生活だった。日本全国に網の目のように張り巡らせた森林鉄道網がそれを語っているのである。
原町機関区からも東京に木材を供給していたのである。
葛尾(かつろう)村の落合まで通じいたのには驚いた。そこには明暦と元禄の碑があったから
葛尾(かつろう)村も古いのである「

橲原の川に降りたらソバナの花が一杯咲き一輪フジクロセンノウが咲いていた。
その花が際立って美しかった。やはりデジカメはいいのでないときれいにとれない。
鹿島に帰ると仮設だらけである。仮設はやはり本当の生活ではない。やはり日本ではもともと村が中心であり自給自足していた時に自然とも調和していたのである。
牛と馬が秋の日を浴びているのは気持ちがいい、飯館にも牛がいたがいない、馬はこの辺では野馬追いのために飼われている。
確かに貧しいのだが村は自然と調和していたからなごむということがあった。

原発事故はそいう村々や町すら根こそぎ消失させたのある。
それは何を意味しているのだろうか、それは大きくは現代の文明を問うことでもあった。
現代の科学文明はそもそも第一次産業をもともとあった村の暮らしを破壊してきていたのである。それが現実化したのがこの辺の惨状だったのである。














2014年09月09日

ひまわりの市となった南相馬市 (今年は夏と秋が一緒にある)


ひまわりの市となった南相馬市


(今年は夏と秋が一緒にある)


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ひまわりを燃え尽くさんや直射かな
ひまわりや背中に汗や畑に人
ひまわりや畑に人あり暮れるかな
秋の蝉夕暮れひびき屋形かな

花瓶に咲くひまわり外の光を求めもだえけるかな
痛いほど直射にさらされひまわりの今日も咲きつつゴッホは外に出る
ひまわりや今命の燃えるとき幾羽の揚羽舞にけるかな
ひまわりのあまた咲くかな朝開けて仕事始める南相馬市
この道や稲穂の実り萩の花五本松かな道の駅に着く
道の駅奈良の人と出会いけりみちのくの実り夕べ映えにき
線路脇ソバナの花のうなだれてツリガネニンジンそいて咲くかな
唐神の堤に鷺の一羽かな広々として夕暮れにけり
夕雲の紅く染まりて十五夜の満月上り実りうれしき

紅に紫の雲や十五夜の月の昇るも黄金の実り



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稲を見回りに来ていた

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今年の気候は変だ、暑いのだが寒い、秋なのだが残暑である。
それは8月からそうだった温暖化が変則的な気候にしているのだ。
何度も書いているけどこのへんの不思議は南相馬市は原野であり相馬市に来ると津波の被害がない所は稲が実っている。
原野の世界から前の実りの世界に戻ることがまるで過去にもどる感覚になるから不思議なのである。今までは当たり前だったことが新鮮に見える不思議である。
萩の花が咲き黄金の実りがある。この実りが南相馬市にはない。一部再開したが一面の実りの風景はないのである。
また松と実りの風景や青田の風景は心と一体化した風景となっていた。
五本松がありあの松はいつも見ているけど実りになり風景をつくる、それだけではない、その実りがあって生活できるのである。

一方では南相馬市はひまりり畑がそちこちにある。するとひまわりに注目する。
南相馬市の花が今ではひまわりになっているのだ。
草原化して揚羽蝶が十羽くらい集まっていた。小さなモンシロチョウはへっていた。春からあまりみかけない、揚羽蝶はなぜかここにあつまっている。揚羽は減っていないようだ。田んぼより風景としては草原の方が何か開放的で揚羽蝶にあっている。
ひまわりというとゴッホである。でも花瓶にひまわりをさすのは向いていない、熱い光を浴びているのがあっている。
あまり暑いと外に自転車では出れない、このくらいだとまだでれるからいい。
それで写真の被写体を求めて歩くのである。近くでも隠された場所がある
線路に入ったのは今はスーパー日立が走らないから安全である。
あの辺は車窓からいつも見ていたけど線路に入って見たことはないので見に行ったのである。

いずれにしろ畑でも人がいないと働いていないと自然も活きてこないのだ。
暑い日差しを受けて人も野で働いているときなお蝉の声もひびきひまわりも野に映えるのである。自然と調和するのである
だから警戒区域では無人化しているから荒廃するだけだとなる。
十五夜の月が夕べの雲から昇ってきた、一部稲の実りがあり見回りに来ていた。
十五夜の月と実りがある風景はいい。この辺の不思議さまだ続いているのである。



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