2014年08月26日

抽象画(夏の光の道)


抽象画(夏の光の道)


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重なる山

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これはずいぶん前の自分の抽象画が原画になった。抽象画は原画がAだとするそれを基にしてAB AC AD AE・・・・と無限に変化しやすいのである。だから化学変化とにているといった。
要するに無限の変化なのである。

それは創作的なものとは違う、ソフトの機械的変化の偶然から起こってくる無数の変化なのである。
題はまぶしい暑い夏だからその中をゆく道もみえるから「夏の光の道」とした。
意外とこの題が抽象画では大事になるかもしれない。
これなどはわかりやすいがわかりにくい抽象画が多いからである。

自分が前にだした抽象画が相当あるけどそれはそこで終わっていない、そこからまた変化してゆく一過程としての一作品に抽象画はなっているのだ。
変化は偶然から生れている、予期せぬものとして変化がソフトの操作で生れてくる。
だからパソコンのソフトに頼っているのであり具象画の画家の才能とはこれは相当違ったものなのである。

ただこれは何だろうという時、やはり自然を反映させたものとして見る時、自然へに対する感覚が磨かれているといい。
夏だというとき、あれは道であり暑いとき、まぶしい光の中を通った道だなと感じる。
今年も自転車でずいぶん暑いときも走ったからである。
そういう思い出がこの抽象画からはよみがえってくるのである。
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木槿 (福祉の湯はいい、老人は何でも近くで用たせると暮らしやすい)


木槿

(福祉の湯はいい、老人は何でも近くで用たせると暮らしやすい)

福祉の湯我も入るや木槿かな
我が家や朝の静かに秋の蝉
我が家に介護のつづく秋の蝉

森深く夕べ鳴きにし秋の蝉鳴く声聞きて街に帰りぬ

福祉の湯というと近くにある。三〇〇円で誰でも入れる。ただ時間は三時ころまでであるあれは一人暮らしに便利である。風呂が震災以来壊れて使えなくなっていた。
一人しか入らないとするとコストの無駄である。
大きな家は一人で維持するのがコスト的にも高くつく、なにやかにやと出費がある。
だから資産がないともう維持できない、保険でも一年で五万払っていた。
リホームするとその出費も大すぎる。
一人暮らしには何か大きな家とか向いていない
掃除することからかたづけることから料理から介護から毎日追われているのだ。
買い物でも近くても一仕事である。

今日は雨降っていたから近くでないとめんどうになる。
自分より倍の距離に住んでいる所の人は自転車だと遠いと感じる。
車は関係ないけど自転車だとそうなる。
だからかえって大都会の方が一人暮らしとか老人には住みやすいことがある。
今日もテレビでおじさんの食堂を紹介していた。老人が集まり食事するところである。
おかみさんが相手の要望に答えておかずも作ってくれる。
おふくろと同じだとか言っていた。おくさんも作れないのもここでは出してくれると言っていた。
そこは老人のたまり場にもなっている。
これは高齢化社会のまた一つの姿である。
一人暮らしで困るのは一番は料理だからである。

ともかく老人になると近くが大事になる。近くで用をたせる環境にあるといいのである。大都会だといろいろな人が集まってそれに答えるものが出てくるからいいのである。
ただ自分は回りに自然がないと季節が感じられない所には住みたくない。
近くに小さな森がある。あそこは高台なので人はほとんど通らずきもちがいい。
ただ森といっても深い森ではない、森といえるものでもない、ただこれもこの辺では森は山の方に行けばすぐに森がある。でもそこも住んでいる街の近くにはないから身近にならない。身近にあると自然とともに暮らすことを感じる。

人間でも助けてもらうとなる家で手伝ってもらったりするのは近くでないと結構手間になりできない、まず原町だと車で十分だとしても実際は手間として倍はかかるだろう。
それで家で手伝ってもらうのは手間なのである。
老人は近くで用をたせると助かる、住みやすいのである。医者だって近くにあると楽だろう。みんな車をもっていて通っているからいい、車がないと半日かかりになる。
その手間も大きいのである。
これはここでは二軒しか開業医がいないから簡単な病気しかみてもらえない。
だから老健の施設が新しくできたことは便利である。
すぐ近くであり様子見にゆくこともできる。
そして福祉介護では老人は集まっている方が便利なのである。
田舎だと本当に離れて住んでいるからそこに車でゆくにしても相当な手間なのである。
老人が集まっていれば福祉のサービスも効率化できる。
弁当など配るにしても離れた所を一軒一軒回ると手間が大きすぎるのである。
近くに住んでいれば往診でもやりやすいし福祉でも医療でもサービスが効率化できるのである。

だからそうした「老人の村」のようなものを作るのが一つのアイデアである。
街となると大きすぎるから村くらいの小さな単位で集まる。
そこで福祉のサービスを受けるとサービスする方も人員も少なくてすむのである。
津波で被害にあった一人暮らしの人がすむ相馬市の長屋風住宅は見本なのである。
コンパクトシティも老人だけでなく人が集まると大都会のようにそれぞれに応じたサービスが生れるのである。
ただここの盲点はそこに集まる人なのである。
田舎では人間関係がめんどうであり嫌な人とは一緒にいることを嫌う
自分は福祉の湯は入っている人がいつもいないので通っている。
いつもすいていてたいがい一人で入れるのである。
知っている女性は毎日街の中でも畑でもどこでも人の目を気にしている。
もうそれは町のものがみんな監視カメラになっているのだ。
だからそういう窮屈さは尋常じゃない。
田舎が嫌になるのはこの人間関係なのである。
仙台辺りだと気楽に歩けるからいいともなる。

今日は雨ふって蝉の鳴く声は聞こえなかった。今日は寒いくらいだ。
木槿はまだ咲いている。木槿は何か福祉にあっている。
花があつぼったく白は白でも違っている。
今年の夏もこれで終わりなのか、また暑くなるのか、体がバテた。

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