2014年08月24日

相馬市馬場野の長屋風住宅の秋 (建物は人間の心に深く影響するーコンクリートだと季節も感じない)


 

相馬市馬場野の長屋風住宅の秋

(建物は人間の心に深く影響するーコンクリートだと季節も感じない)

nagayafuuu1234.jpg
クリック拡大


長屋風住宅に老後薄かな

ひまわりや日ざしを受けて畑に人

常磐木の松の緑に実りそむ稲穂色づき夕日さし暮る



相馬市の馬場野地区に建った一人暮らしの人のための長屋風住宅はいつも見ていて落ち着く外観である。それは木で作られているから木の素材が心に影響している。
もしこれがコンクリートのようなものだったらそんなふうに感じない。

鹿島の街内の復興団地はコンクリートで団地になっているから何かいい感じがしない。
その建物自体が心を圧迫するように作用する。そんな建物が田舎でも増えているのは
やはり経済的であり効率的だからである。
ただそこには人間をおしこめる箱のようにも見えてしまう。
仮設住宅でもログハウス風になると普通のプレハブよりはいい感じになる。

人間はその外観もそうだが建物の内部も心に影響する。内部が広いと広い寛容な心が養われるかもしれない、天井など関係ないと思っていたが棹天井を見ていると何か違っている内部が良質な木材を使っていれば何か落ち着くだろう。
その外観でもやはり鉄骨のコンクリートだらけの建物だと何か人間的ではなくただ圧迫されるものを感じる。

日本では街でも計画がなくただ雑然として作られていることに問題がある。
ヨーロッパなどでは計画的に都市が作られているから整然として落ち着きがある。
日本の街は雑然としすぎるのである。それもいいという人もいるがやはり落ち着かないということがある。なんか街が迷路のようになっているからだ。
それから今はそもそも街の機能すら消失した。
スーパーとかイオンは街の外にあり街からは切り離されてある。
そこはただ買い物だけの空間になってしまっている。
それも便利でも味気ないとなる、それは車社会でそうなったともいえる。

建物が心に影響するというとき、盛岡の古い煉瓦作りの銀行は盛岡の象徴のようになっていることでもわかる。煉瓦はコンクリートと違っているからである。
質素で質実で堅実だとか銀行として煉瓦作りが合っている。
煉瓦作りの塀とか建物だと戦前とか大正時代までさかのほる郷愁を感じる

現代は何かそうした時代を象徴する建物が不在である。高層ビルのようなものが象徴となっているがあれはただ高いというだけであり人間的なものを越えているから別物である。そこには人間が介入するものがなくなる。感情も移入もできない。
京都でも町家の保存が言われたがその前に大きな高いマンションがおおいかぶさるようにできていたのには幻滅した。
町家でも一軒くらいぽつんと残されても意味がないだろう。街並み全体を残さないと意味がないだろう。
でも現実の生活では不便だし合わないから消えてゆく。

この辺では津波や原発事故で南相馬市では一部田んぼになってもほとんど原野である。
でも八沢浦から相馬市に入ると前と同じ風景なのである。
それがいつでも不思議に思うのだ。八沢浦は葦原になっているが相馬市に入ると元の田んぼの風景なのでありなにかほっとするのである。
街道に松があり稲穂が実りそめて色づいている。そこで季節感を感じる。
その対象が原野から田んぼの風景が新鮮なものになっているのだ。
日本だったら北海道をのぞいて田んぼの風景である。
その風景は千年とかつづいてきたのだからその影響は理屈では語れない、日本人の心ともなっているのだ。

ともかく相馬市の馬場野の長屋風住宅は何か一つの見本である。それが一人暮らし用であり外観もよく回りは山であり自然もある。
だからすでに初秋となり薄が出ていたのである。
その秋らしい感じがあの長屋風住宅とマッチしていたのである。
木材はやはり秋となれば秋を感じる、コンクリートには秋も冬もないだろう。
ただ自然を感じない無機質的な空間を作るだけだとなる。
だから新しい街作りとか何か一つの見本としてあの長屋風住宅はいいのである。
タグ:長屋風住宅