2014年08月18日

秋の蝉俳句連句十句 (家をもつ人ともたない人の差)


秋の蝉俳句連句十句


(家をもつ人ともたない人の差)

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ここは一人暮らしの人が住んでいる長屋風住宅

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我が家や朝の静かに秋の蝉
我が家に介護のつづく秋の蝉
一生を賃貸住宅秋の蝉
家もてぬ人もありなむ秋の蝉
人はみな老いゆくものや秋の蝉
独り身の寄り合いにつつ秋の蝉
故郷に古りゆくものや秋の蝉
故郷や遠くも聞こゆ秋の蝉
しんみりと今日も聞きにき秋の蝉
日立木の街道あわれ秋の蝉
城下町路地裏細し秋の蝉
一軒の古本屋あり秋の蝉


新しき住宅街や初秋かな
城下町田町通りや秋柳

朝顔や三年すぎし長屋風一人暮らしの人の住むかな

城跡に蝉なおしげく鳴きにしや我がたずねて街を行くかな



田舎に住んでいる人は多くは家をもっているし田畑ももっている人が多い。農家だと普通にそうである。自分も子供の時から家があった。その家はトタン屋根のおんぼろな家だったけど庭もあった。アパートのような家に住んだことはない。
大学の時は住んでいたがその時は別に一時期であり若い時は苦にならなかった。
だからそもそも家にもいろいろある。貸家もあるが田舎だと大きな貸家に住んでいる人がある。庭もその家は広々としている。それが4万くらいで借りられるのが田舎である。
そこに二十年以上とか住んでいるともうそこは貸家という感覚はないだろう。
だから家がない、借りているといってもそういう庭付きの家を借りていたら別に家がないとは言えない。ただ借りているうといだけで自分の家なのである。
だから自分の持ち物だから我が家だとも言えない。

ただその人は田舎の賃貸住宅に住んでいる。田舎では住宅といえばそうした賃貸住宅である。でも一人で部屋が三つある。他にもそういう一軒屋に住んでいる人がいた。
だから田舎では住居は意外とぜいたくな場合がある。
ただその住宅に住んでいる人はもともと農家の人であり広い家と庭と田畑のある家で育ったのである。
だから一生そうした賃貸住宅に住んで終わる人もいる。
そこは我が家という感覚はないだろう。ただ一時借りて住んでいるという感覚である

この辺で回りに2000人以上が仮設に住んでいる。これもやはり家のことを考えることになったろう。広い家に住んでいる人たちが多いのだから特にそうなったのである。
我が家に還りたいというとき広い家と庭があり田畑もあるからである。
だから変なのはもともと住宅を借りて住んでいた人は仮設に移ってもさほど違和感がないだろう。
その一生住宅暮らしの人は家や庭をもっている人をうらやんでいたからだ。
狭い家に住んでみればわかるとか言っていたからである。
ともかくこの辺では津波で4000軒が全壊したとか信じられないほど家を失った人たちが生れた。その人たちの中で新しく家を建てた人は少ない、以前として仮設であり復興住宅や団地にしてもわずかしか作られていない、だから土地がほしい、新しい家を建てたいという人が多いのである。

故郷という時これもまたこの辺では問われたのである。故郷は何かなど我が家があり田畑がある人は問うこともなかった。しかし一旦失った時問われることになった。
故郷は我が家があり我が家族があり我が仲間がありとか我が自然があるとか一つのものでは成り立てッいない、故郷はそうしたトータルものがあって故郷になりうる。
故郷はまた代々つづいている家ではその重みが違ってくる。江戸時代から15代とかつづいているとなるとそういう家のことを二代しかつづかない家では考えられないのである。
農家は三代つづいてやっと仲間に入れてもらえるという時、田舎ではそれだけ時間をかけて人間関係でも作られてきたということである。
それが窮屈さを生んでいるということも確かである。

秋の蝉というと一匹二匹が淋しそうに鳴いているとき感じる。
まだ今の時期、数が鳴いていると感じない。
ただ今年は涼しくなって秋が早く感じている。
相馬市に行くとすでに稲穂を色づき実りそめている。
南相馬市では原野化しているからそうした今まであった稲が実っていく風景がないから
季節を感じないのである。

これも変な感覚なのだけど自分には我が家は確かにある。しかし我が家族がないのである介護している母はボケていて会話ができない、ただ寝ているだけでありその人が家族のようにも今は思えないのである。
だから何か自分は介護するようになってからすでに家族を失っていたのである。
我が家、建物があっても我が家族はすでにないてのである。
自分はつくづく身寄りのない独り身でありその悲哀を痛いほど味わってきた。
ただ独り身というとき、例えば夫婦はそうではないがどっちか一人が死ぬと独り身になるのだ。
それで7年前妻をなくした人のことを書いたがあの人も大きな家と庭の家に一人で住んでいるから境遇がにたものとなった。
もう一人も夫もないから一人身でありそういう境遇が似通っていると通じ合うから集まったということはある。
夫婦は独り身でないから一人暮らしの人について何の関心もないのである。
ただ一人になったとき痛切に感じるのである。
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