2014年08月17日

お盆終わる (お盆は死者が還るのではなく死者を偲ぶ日)


お盆終わる


(お盆は死者が還るのではなく死者を偲ぶ日)


お盆かな墓地に集まり蝉時雨

猫歩む墓地の細道秋の蝉

家の跡死者の探すやお盆かな

鹿島より原町に見ゆ遠花火

一二匹夏蛙鳴き津波跡


津波跡闇の深しもお盆かな彷徨える霊なお家探しぬ

縁浅き兄にしあれどお盆には死者を思いぬ二十年すぎて


お盆には死者が還ってくるというより死者を思う時なのである。だから終戦記念日もあっている。人間が死ぬと急速に忘れられてゆく、どんなに有名でも芸能人でも全く忘れられてゆく、なぜまたそんなに早く忘れられるかというと生きている人はまた新たなことが次々と起こってくるからそれに心を奪われて死者は忘れられてゆく、現在生きている人は
今を生きるのに精一杯なのである。だから死者を思う余裕もなくなってきて忘れられる。だからこそお盆だけでも死者を思う時にしようとしたのだろう。
それは日本人の知恵であり文化であった。そもそも死者が還るということはありえない、死者を思うということはある。
ただ時間がすぎればすぎるほど死者は遠くなりあいまいになり忘れられてゆく。
戦争のことでももう膨大な死者を思うことはできない、その一人一人のことでももう親族も死んだりしているから思うことがなくなってくる。

津波で死んだ人はまだまだ生々しい、だから以前として死者が彷徨っている感覚がある。お盆にはその津波の跡を彷徨って自分の家を探しているような感覚になる。
人魂が見えたりするかもしれない、何かそういう不気味さがまだある。
だからとても観光地化するような状態になっていないのである。

今夜は原町の方に花火が見えた。遠花火となるが原町だったら見えるが相馬市だとここでは見えない、原町はそれだけここからは近いのである。

墓地というのは何か猫が歩むのにあっている。こっそりと墓の間を歩むのがあっている。猫は忍び足であり辺りを乱さないからである。
猫は目は悪いがいつも耳をそばたてているから耳はいいのだろう。
だから秋の蝉の声も聞いているのかとなる。お盆はすでに秋でもある。
お盆を境にして秋になる。今年は今日も涼しいから秋らしいとなる。

いづれにしろ自分の兄は自分の家で五年間は一緒に住んだがあとは別々になった。
だから縁が浅いしすでに交通事故で死んでから25年もすぎている。
いつのまにそんなにすぎてしまったのかと思う。
母は百才まで生きると思うが25年前に息子は死んでいる
ボケたので息子も忘れているだろう。
結局25年もすぎるともうなんか遠い過去となり忘れててしまう。
その死者が何を思っているのかとか何を伝えたいのとか思ってみてもわからない。
25年すぎたのでそうなってしまったのである。

自分の家の縁となるものはみんな切れた。その因縁はまたカルマであり最悪の結果となって切れた。金にからんで切れた。まさに金の切れ目が縁の切れ目だった。
本当にこのことわざをここ7年間でいたいほど経験した。
だから諺は迷信とかとは違い人間の変わらぬ真理なのである。

縁が切れるとか別れるとかで一番多いのは金の問題なことはまちがいない。
すでに多額な金を貸し借りするような関係は切れるだろう。
その人は最初から金ばっかり要求してきた。
事業で失敗して借金していたのだから頭には金のことしかなかった。
ただ前の代のつづきで交際していたのである。
まず親戚でも二代つづいて交際している人はまれだろう。
それだけ人の交際もまた変わり安いのである。
この辺はあまりにも変わりすぎたのである。
「さよならだけが人生だ」というのは本当に60代になったら現実である。
みんな最後は別れて永遠に会わないものとなりこの世で会うことこそ不思議だったとなるそして最後に思い出す人すら数人になる。
ぼけたりすると息子でも娘でも忘れる
「みんな忘れたわ、お前はだれじゃ」と母親が息子や娘に言う時、まさに生きながら死別していると同じなのである。相手に対しての記憶が喪失したら存在しないと同じだからである。息子娘も知らない人になってしまったということである。

抽象画の謎(水の力) (パソコンはソフトをいかに使いこなすかに移る)


 
抽象画の謎(水の力)


(パソコンはソフトをいかに使いこなすかに移る)

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無題

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地中海(結ばれた海)


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水の力


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高低のある山


抽象画は何なのか?これも謎である。人間の世界は自然界でも実際謎なのである。
わかったようなことを言っていても科学者でもわからないのが多いのだ。
原子力や核のことでも実際はわからないのである。
芸術もこれを説明することは不可能である。
その基になる色にしても無数にあり色からイメージされるのも無数にある。

最初の抽象画は何と名付けたらいいのかわからない。
適当に名前をつけることができるがそれでもその名前通りでないのが抽象画である。
山なら山、机なら机と明確に現すことができないから抽象画になる。
抽象画見る人によって違ってくるのだ。

だから「無題」としたがこれが何か極めて抽象画的だからアップしたのである。
「水の力」となるとこれは水をイメージして作られているともなる。
ただ一定のソフトの手順が抽象画できることに関係している。
そのソフトは2000円のペイントグラッフィックでも十分である。
このソフトを使いこなすだけで相当な労力が必要になる。
今やパソコンはハードの問題ではない、ソフトをいかに使いこなすかが問題になる。
ソフトの分野とは頭脳とより深く関係しているのである。

これからはハードの分野はもうこれ以上発展しないかもしれない。
もうハードの分野は整備されたからである。
パソコンだって今はハードではない、ソフトの分野に入っている
だからこそソフトをいかに使いこなすかが問題になる。