2014年08月11日

ジャコウアゲハを初めて見た (玄関にとまっていて写真をとった)


ジャコウアゲハを初めて見た


(玄関にとまっていて写真をとった)

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一時をジャコウアゲハの我が家にとまりて去りぬ夢のごとくに



とくに雄は芳香を放つので麝香(じやこう)の名がついた

本州より南西諸島まで分布するが、東北地方北部では稀となる。
国内の分布を詳細にみると、食草であるウマノスズ類の分布との対応がみられる。関東や中部地方では標高700〜800m以下の場所に限られる。


ジャコウアゲハ生態集ーここが一番詳しい
http://www.g-hopper.ne.jp/free/fukuda/zukan-a/agehacho/za_jakoageha-al.htm

平成元年に姫路市は、市制100年を迎え、「市蝶」にジャコウアゲハ(お菊虫)を制定しました。それは姫路市のシンボル姫路城には築城主池田輝政の家紋「揚羽蝶」の瓦紋が何千と用いられているからです
http://ehc-hyogo.net/hp/?i=jakouageha&m=55

 オオバウマノスズクサ  (大葉馬鈴草)
http://fairysilv.exblog.jp/m2011-04-01/



この草が生えているところにジャコウアゲハが生息する。馬の鈴というのもすでに古くからつけられていた名前である。

この蝶は埼玉県まで見られるし東北南部でも見られるとしてもめったに見られない、南の方の蝶である。それで姫路市の蝶になっている。
どうして自分の家の玄関で見れたのか?
やはり最近暑くなっているせいだろう。ただ馬鈴草など見たことがない、そんな花があったのか?その花が自生していればこの蝶も生息できる
原発事故でこの辺では山野が元の自然に還り野生化している。
放射能で汚染されても人が住まなくなると自然が甦る不思議があった。
中には遺伝子が障害受けて蝶が小型化したとかなんか影響を探っているが明確にはわからない。遺伝子の放射能の影響はまだわからない。

ともかくこの蝶は見たことがないので驚いた。それも山の中ではなく街の中の自分の家の玄関で見たのだから驚いた。何か原発事故以後自然の変化がこの辺ではある。

チョウトンボ

国内では本州東北部から九州にかけて分布し、国外では朝鮮半島、中国に分布していますある程度自然度の高い環境でないと、多数の個体は見られないとのことです

チョウトンボが津波の跡に飛んできたのを見た。それは生息した海岸の潟がありそこが繁殖地だった。それは山元町から仙台の海岸線にあったという。そういうまだ自然を残した場所に生息していた。
これも津波の跡に一時だけ見たのである。あとは見ることがなかった。
そんな場所があるとは知らなかったし普通の人は知らない、研究者のみ知っていたのである。

自分は花とか蝶を見てきた。蝶は沖縄が種類が多いからいろいろ見れて楽しめる。ただこれも時間がないと本当は見れない、自然の観察は何でも時間に比例して記憶に残りやすいのである。自然観察となると特に動くもの動物類は知るのがむずかしい。
一瞬出てきてもすぐ消えてしまうから観察できないのである。
だから動物写真家何日もいい写真をとるためにテントに寝泊まりしてとっているのであるそれはプロだからできるのであり普通の人はそこまでできない。
ともかく今日ジャコウアゲハを見て写真まではっきりととったのは幸運だった。
なぜなら一生に一回しか現物を見れないということもあるからだ。



鹿島街内の墓地の前に建った復興団地の違和感 (地盤が柔らかい場所だった) 。


鹿島街内の墓地の前に建った復興団地の違和感


(地盤が柔らかい場所だった)

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元禄の次に宝永になるし天保の碑もあるからここは古いのである。

鹿島町内の墓地の前に立った復興住宅の団地を作っている労働者に聞いた。
「ここは地盤が弱い、ブルドザーがゆるているだろう、あれは地盤が柔かいからだ
ここは昔は沼地か湿地帯だっただろう、川が近いからその影響もあるだろう
ここは地震が来たら建物割れるな」
「う、そういこともありうるな」
「この墓地は江戸時代からある、天保という碑を見つけた、もともとここは鹿島御子神社の領域だったがその脇に寺が立つようになった。
それで宝永の仏教関係の大きな碑がある。あれは目立つ
神社から寺になった神宮寺というのは全国的に多い、ここもその一つだ」

この復興住宅は一階が一人暮らしの老人用であり集会所もある、二階以上は家族で住むようになっている。つまり一人暮らしの老人が孤立しないような作りになっているという。相馬市では一人暮らしの長屋風の住宅ができた。それは一室でも二部屋あり
食堂のようにな大きな集まる場所がある。だから長屋だというのは昔風に人がつながることイメージしたのである。
それは老人ホームとは違う、そこでは自立した老人が生活する場だからである。
こういう配慮は老人の一人暮らしが増えているのだからいいと思う。
その墓地の隣には小さな公園がありほとんど使う人がいなかった。
子供すら使っていない、でも百人くらいが生活する団地になるとあの公園も使われる
やはり人がある程度子供でもいないと公園すら閑散として使われず淋しいともなる。

それにしてもこの世とは本当に変わる。そもそも鹿島御子神社から隣に寺ができた。
神宮寺ができた。そこに寺子屋ができて一つの碑が記念として残された。
それは天保の碑だった。その時はその前は草むらか沼地か田畑にもなっていない所だった川が近いので地盤も柔らかい、鹿島町内はどこも地盤は弱いだろう。
それは真野川が影響している、鹿島町内は一回真野川が氾濫して水にひたった。
その時自分の家が下にあり一番低いところで被害が大きかった。
それは小学六年の時だった。自転車とか学用品が流されたことを覚えている。
その時泣いたのは自転車が壊れたことだったのである。
その頃から自転車には乗っていて好きだった。
ふりかえるとあの時家族はみんな意気消沈した、それは津波の跡と同じだった。
ただ家は残っていたがトタン屋根の家であり雨もりするボロ家だった。
その水害があってから二階がなかったのでなんとか二階のある家を作りたかった
それで水害から十年後くらいに大きな二階のある家を建てたのである。
その頃まだ新しい家は建たない時で大きな家で回りがびっくりしたし隣で日影になったのでいつまでも怒っていた。
回りでもやっかみがあったのはその時まだ新しい家がまだ建っていなかったからである
水害は近くの堤防が決壊して30年前頃も被害を受けた。その後河川改修して水害がなくなった。真野川はそれだけ大きな川でもあるから水害が度々あったのである。

これだけの家建てたりできたのは姉の力が大きかった。自分の家は姉がいないと成り立たない家だった。姉の恩恵で豊かになったのである。
それぞれの家にはもそうした歴史が必ずある。栄える家にはやはりそれなりの原因がある衰退する家でもそうである。母方の実家は警察署長でも事業に失敗して一家離散になったのだからその原因を作ったのは祖父でありそれゆえに今は実家は消えて墓しかないのである。
実家がそうなったのは衰亡して墓しかないのは祖父が原因だったとなるのだ。
家は誰か人がいて栄えたり衰退したりしているのである。
ただ栄える家も衰退してゆくのは国単位でも普通にあるから何代も栄えるつづく家はやはり何か家がつづく原因がある。

ともかくあの墓地の一角も郷土史であり古代から江戸時代からと変遷を重ねてきているのだ。ただ今回の変化は想像すらつかないものだった。
前には保育所などあったがそれはさほど違和感を感じなかった。
あの団地だけは一つの街と化したので変化が大きすぎた。
だから墓地の前にあんなに人が住む場所ができることが何かしっくりこないのである。
墓地から霊がでてきてその団地の家に入り込んでゆくような奇妙な感覚になってしまうのである。墓からすぐにその団地に通じているからそうなる。
その団地に住む人にしても常に墓を見ているというのも奇妙な感覚になってしまうだろう
街内は地盤が柔らかい、中世はたいがい小高い丘や山に館を構えている。それは平地になると日本ではもともと湿地帯だから地盤が柔らかいのである。だからそもそも古い家は高台にあり高台の方が地盤も強いとすると地震にも強いとなる。もちろん水害などの害もないから高台の方が先に人が住んだ。
今回の津波でも古い家は高台にあり助かったという。新しく入ってきた人たちは低地に住んで被害が大きかった。
田んぼになっている平地も地盤は柔らかいから地震には弱い。
とにかく日本では地盤の柔らかい所が多すぎるのだ。

posted by 老鶯 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

お盆で墓参り(その人にふさわしい供養の仕方がいい)


お盆で墓参り(その人にふさわしい供養の仕方がいい)


我が姉の思いはなおも南国へドランゴンフルーツ霊前に献ぐ

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姉が死ぬ間際まで語っていのはシンガポールではない、その向かい側のジョホールバルというイギリスが支配していた地域である。そこにイギリスの病院があった。
そこはマレーシアでありそこで4年間従軍看護婦として過ごした。
この4年間が姉にとっては人生の最も印象深いものとして終生語るものとなった。
戦争のことは普通に経験できないことだからそうなる。
戦争に負けてジャングルに逃げた時が食料もなく一番苦しかった。
そのままジャングルに逃げて何十年後に日本に帰還した日本兵がいたことで話題になった未だにジャングルがありそのジャングルも奥深いということなのか?

だからよくドリアンとか南国のフルーツのことを語っていた。ドリアンのことも語っていた。ここに飾ったのはドラゴンフルーツである。これも南国的な果物である。
これを飾るにふさわしいと思って飾った。
死んでみるとその人にふさわしいものが何か残る、あの人はこういう人だったからこれがふさわしいとかなる。
その命日にはそうしてそういうものを墓にささげたりする。酒とかタバコをささげたりもする。それもまた好きだったものだからとなる。

現代では何かもうこれまでの供養の仕方や葬式の仕方はすたれた。墓もその人が生前好きだったものがありその好きだったものをモチーフにして墓にしたりしている。
戒名などはもうすたれたのである。それよりその人がどう生きたか何が好きだったとかで葬式をする。あの人はこの歌が好きだったかとその人なりの葬式をする。
お経など唱えても今は金をとられるだけである。
戒名にもその人なり個性があるかもしれないが実際は現せないだろう。

その人を偲ぶにしてもその人なりのその人にあうものでもって供養するのがいいのであるただこのお盆というのはそれなりに意味があるものだと思う。
これは仏教には由来していない日本的文化なのである。
これは宗派を越えて日本的文化だからお盆に死んだ人を供養するのがあっているのだ。
お盆と終戦記念日とか重なっているのも一つの日本的なものの継承なのだろう。
お盆には戦争のことも話題になるからである。

継がれず無縁、さまよう墓石 不法投棄続々、墓の墓場も
http://www.asahi.com/articles/ASG7Y5F9PG7YPTFC019.html

墓は簡単に捨てられないということが問題だと前に書いたけどこれはもうどうしようなくなりこうなった。テレビでも今日放送していたけど捨てられた墓には元禄とか刻まれていたからそうした古い墓も捨てられている。
この辺では墓だと元禄となるとほとんどない、自分はいつも墓地を見ているがその時江戸時代の墓があればここは古い場所だから貴重だと思う。
江戸時代から人が住んでいたということで貴重なのである。
明治時代になるとあまり関心がなくなる。明治にしてもすでに140年とかすぎているのである。明治とか大正でもすでに歴史的に価値あるものとなっている。
でも江戸時代のものがあるときそこは古いと認識している。
だから江戸時代の墓は個人の墓でも文化財になってもいい。
その墓はもともとあった場所にないとまた意味がないだろう。

ともかく墓の問題は本当にめんどうである。ただ墓は家より長く残る、家は壊されてなくなるが墓は無縁仏になっても残っている。ただもう墓も供養するものがなくなればただの石ころになってしまう。古いものは文化財となるが明治くらいだと普通は捨てられるだろう。だから元禄と刻まれた墓が捨てられていたのは理解しにくいのである。
今日はすぐ近くの墓地に行ったらガーガー団地の工事をしている。そこは今までとは全く環境が違ったものとなった。この変化も大きかったのである。
一つのにぎやかな街が生れその中に昔の墓地があるという奇妙なコントラストになってしまったのである。
墓地はやはり静かなしんみりとした場所がふさわしい
都会では普通かもしれないが墓に眠っている霊がその団地に住んだら入ってゆくような奇妙な感じになっているのだ。
この変わり方も想像もつかないものだった。
津波であれ原発事故であれその変化は全く想像すらできない変化をもたらしたのである。