2014年08月02日

なぜか働いている浪江の人 (南相馬市の鹿島区であった人)



なぜか働いている浪江の人


(南相馬市の鹿島区であった人)


浪江の人と5人くらいあっている。最初は二本松に会社があり通っているという。会社が浪江から移動してそうなった。それから相馬公立病院に入院してあった人は相馬の看護学校の生徒だった。親も看護師で親戚がいて空家を借りていた。
もう一人は福祉関係で働いていた。なぜか移動してきてすぐに働いていた人がいた。
今日あった人はグループホームで働いていた。時給750円とか言っていた。
浪江の人にあったがなぜか働いている人が多い。一人は老人であり働かないがしょうがないだろう。
雲雀が原であった大堀で相馬焼きを作っている人は白河ですでに三軒そこで仕事しているという。その人は帰らないと言っていた。
浪江では帰らないという人が多くなるみたいだ。

実際問題として町を維持するにはそれなりの人口が必要である。
それがもう維持できないとなると除染作業員の町を作るとかあるがそれが町なのかともなる
原発の作業員に宿舎を提供するだけの町が町なのかともなる
つまり町には様々な機能があって町なのである。
田舎だったらいくら農業だけではやっていけないと言っても田畑があって田舎でありうる工場と会社だけなら田舎になるのかとなる。漁業も生業としてあって浜通りの魅力が作られている。ただ海をながめているだけならそこに魅力が生れないのだ。
それは山でもそうである。そこに生活がなかったら魅力が生れないのだ。
ソーラーハネルとか風力発電の風景になったらそこが田舎なのかとなる。

ともかくなぜ浪江の人はここであった限りは働いているのだろう?
数が少ないこともあるが小高の人で働いている人にあっていないのも不思議である。
除染作業しているという人にはあった。
会った人が限られているからいちがいには言えない。
でもギャンブルで競馬で東京とか仙台で遊んでいるという人が何人かいたし働いている人にあっていないのも不思議である。
ただ自分の家の庭を作った人は腕のいい大工でもあるから原町であった時働いているといっていた。こういう時は手に職をもっていれば働けるがその他の人は働かない
それで福祉とか介護関係で働くことになったのだろう。
それでも働いているということは小高の人と違うのだろうかとなる
フィリッピン人の女性を仮設に呼んでいるとか何か小高の人の話しはそういうのが多い
ただこれは小高の人は数が多すぎるからそうなりやすい。
でも全般的には働いていないのだ
浪江の人はここに来てすぐに福祉関係とかで働き始めていたのである。

原発避難者などは遊んでるばかりでは良くない批判もされるので介護関係で働くのがいいとか言う人がいたが浪江の人はそれを実践しているとなる。
介護関係は人手不足であり鹿島の厚寿苑では働いている介護士は岩手県とか福島県でもここの人たちではない、他から応援に来て働いている人たちである。
でも小高の人で働いているとは聞かない、もともと数が多いし何をしているかは把握できない。
でも浪江の人はあう人が極限られている人なのに働いている。
それもここに移ってからすぐに働き始めているのである。
何か浪江の人は移動したとき心構えが違っていたのだろうか?
小高の人は一気に大量に移動したが浪江の人は少数だった。
その辺にも原因があるのか?

考えてみれば小高の人は数が多い、鹿島区だけで2000人とかの規模かもしれない、だからそんなに多くの人が働くということはありえない、だから働かないで毎日パチンコ屋通いだとなった。そんなに働く場所すらないからだ。小高の人でもごく一部だが働いている人はいる。でも数からするとあまりにも少ない,だから遊んでいる人がパチンコ屋通いの人が目立つのである。数が多いからそういう人も目立つのである。
浪江の人などごく限られている人しかいないから目立たないしわからないのである。
イワキでも原発避難民と大熊や双葉の人たちともめたのは二万人とか数が多いせいなのである。その人たちが一挙に入ってきたから問題が起きたのである。
分散すればそういうことは問題があっても表面化はしなかった。
南相馬市でも小高の人が特に鹿島区に入ってきたから問題が起きたのである。
少人数だったら遊んでいても問題はあるにしろそんなに非難しないだろう。
数が多いということが問題を生んだのである。
2000人くらい入ってきてその人たちが毎日ハチンコ屋通いとなると目立つし非難されたのである。

ハチンコ屋で人手たりないとか親戚の人が言っていたが自分は介護で苦しんでいるのに異常なことだった。その異常さに気づいていないのである。もちろん事情があってそうなっているのだがこれもこの辺の異常さだった。
例えば一つの村でも町でも市でも大家族だとして考える時、ある人が介護などで困っているのに介護では立派な施設を建てても働く人がいない、外部の人が来て働いているというとき、地元の人はパチンコ屋通いでそこで人手がたりないからなんとかしてくれということ自体の異常さに気づいていない、金になれば何でもいいとはならないのである。

でも現実は補償金で金があるのだからパチンコ屋に行こうが飲み屋に行こうが勝手だとなっている。
でもそのことがなんらか自分のようにしわ寄せがあるから憤りになる。
小高の人たちは介護でも仮設だから優遇されているし病院も無料である。
それなのに働いていない、そのしわ寄せは南相馬市内の人に来る。
施設に入りたい人も小高の人が優先だとなるといくら事情があっても何でなのだとなる。それはイワキでも起きていることである。
なんで何でも原発避難民が優遇されるのか?
地元の人は土地も高騰して買えるのは補償金をたんまりもらった原発避難民だとなるとますます憤り嫌がらせになった。

人間は小高の人が別にみんな遊んでいるわけでもいな、働いている人は働いているのだ。原発避難民でも全部が遊んでいるわけでもない、ただそうして避難民が大勢になると一人でも遊んでいて補償金があるからいいとかやりほうだいなにると全体の印象を悪くしているのである。それは一市町村とかではない、福島県全体が今では日本全国から嫌われる人たちとなってしまった。それは沖縄と同じになったのである。
何かというと補償金をもらいたがる国にたかり税金を奪うやつらだとなってしまった。
病院でも経験しているがその病院に医者でも看護師でも一人でも嫌な人がいると評判落とすのとにているのだ。一人でもその一人によって全体の印象を悪くするのである。
数が多ければどんな組織でも団体でもそういう嫌な人は必ずいるがその一人によって評判を落とすのが怖いのである。
だから小高の人がみんなそうでなくてもそれなりにそうして補償金で遊んでばかりいると数が多いから評判を落としているのである。

ともかく今回の原発事故などでは何か常に双葉町だ大熊町だとか富岡町だとか浪江町だとか飯館村だとそうした市町村単位で人が見られる。そんなこと今までなかったのである。補償金交渉では町村が単位となったからそうなる。浪江町で一人補償金35万にしろとか司法に訴えたときも全国的には顰蹙をかった。浪江町民はそんなやつらだとか非難されたのである。
ただ自分はここで個人的に接した浪江の人は最初から働いているし働く意欲があったとなる。
だからええ、浪江の人がこんなに働いていると意外だったのであり浪江の人は小高の人と違うなと評価するようになった。それは自分の個人的なものであり全体的になるとわからないのである。ただ自分でも鹿島区でも小高の人に対する評判は良くないことは確かなのである。

タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した (文明は利害得失しかない世界になった) 福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した (文明は利害得失しかない世界になった)


福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した


(文明は利害得失しかない世界になった)


「天下衆人の発達」とは「民情一新」と言い換えることがで
きる。蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一
新させた。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、
文学にあるのでもなく、また理論にあるのでもない。どこにあるのか。
私がこれを見ると、その人民交通の便にあると言わざるを得ない
(福沢諭吉)


江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。

江戸時代から明治になる時の変化は激しかった。だからその変化に対応するために言葉も変わったし新しい言葉も生れた。その新しい西欧の概念を漢字で翻訳したのが日本人でありそれを中国で使用するようになった。
だから民情というのもその意味は何なのだろうとなる。おそらく江戸時代にはなかった言葉なのだろう。民衆とか大衆とか民間とか人民とか自由民権とか民主主義とか・・・何か民とつく合成語は明治以降作られたものだろう。日本には民(たみ)という言葉はあっても民衆という言葉はなかったからである。つまり民とつく字が増えたことはそれだけ民が主役になってきたから増えたのである。

そもそも民情という言葉は実際は死語になっていて理解しにくい。民権とか民主とかは理解できる。それは常に今でも用いられる言葉だからである。常に民の権利を主張するのが現代だからである。だから民情という言葉は何を意味しているのかわかりにくい。
そもそもなぜ大倉村と佐須村は山の中で隣り合っている村である。
それが民情が違うから合併できないというのがわかりにくいのである。何か利害があって合併できないというのはわかる。入会権で山の木材をとる権利を失うからだとなればわかる。民情が違うから合併できないということが今では理解できないのである。
現代の人間はすべて個々人であろうが市町村であろうが利害得失で動いている。
何かもめる争いがあるとしたらたいがい利害得失なのである。
原発事故でも補償金でもめるのは利害得失が原因しているからである。

宗教さえ集団化権利化して利害得失なのである。カルト宗教団体は創価でも政治化しているように利害得失しかない、世界平和だとなんだとか言うけどそんなことは何の関係もない、つまり個々人の御利益追求があってあれだけ増えたのである。
では他の宗教が利害得失と関係ないかというとみんな同じである。
京都の寺は観光利権で組合化して力をもっている。それはすでに奈良時代からはじまっているから根深い、他の宗派でも戒名利権とかでありいかにも戒名が大事かと説くのは利権のためである。第一釈迦は一言もそんなことを言っていないからである。
だからそんな意味のないものがもうつづくとは思えないから檀家も衰退してゆくだけになる。

現代は民情などでは動かない、すべて利害得失でありあらゆることが得か損かで動いている。日常の生活そのものがその繰り返しである。
だから原発を作るにしても地元でも官僚でもマスコミでもそれが自分たちに得か損かで決まった。その利害があまりにも巨大なものになっていたからすべての人が目がくらんでしまったのである。それで富岡町長の五億円の金庫が流れたとか噂になったのもそのためである。今でもこれだけの巨額の賠償ができるということが驚きだった。
今や原発事故の避難区域や30キロ圏内とか飯館村などはただ補償金交渉の場となってしまったのである。

文明とは何か?それは交通の発達の影響も甚大だがすべては利害得失でありそれ意外の規範はモラルはなくなったということである。資本主義でも民主主義でも個々の欲望の全面的解放であり自由とはあらゆる欲望が得られる自由なのである。
その欲望と利害で一致して協力して団結して組合化する。それが民主主義である。
宗教団体も同じである。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、

まさに文明とは利害得失意外何もないということが明治維新からすでに150年になろうとして現実化したのである。しかし人間が利害得失だけになったら野獣になる。
人間は人間にとって狼になる。自分があった人間はそうして狼になった人間たちだった。眼中には利害得失しかなくなればその人が弱った時が最大のチャンスとなる。
弱いものは餌食になり子供でも食べられてしまうのが自然界だからである。
そこにいたわる気持もなにもない、金でめんどうみてもらい、金をくれ、裁判にしてやる・・ついには大金を盗み自分の欲望と利のためには相手も平気で殺すことになる。

これが文明人なのかとなればまさに福沢諭吉の見た西欧文明であり現実化したのである。文明とは最大の野獣化野蛮化であり人間が互いに狼になっているとしたらいかに豊かでも心安らかになってはいられないのである。
だから富裕層はアメリカのように塀をめぐらして貧乏人とはつきあわないようになる。
そんな文明社会に住んでも安心も得られない、かえって貧乏でも安心社会の方がよかったともなる。ただどうしてもこれだけの欲望があふれているときそれを制御することは至難になっているのだ。誰だって金があった方がいいし金がなくてもいいなどとは言えない、その限度はあるにしても清貧などという生活はありえないのである。
自分でも毎日買い物に追われていることでもわかる。買うことが生活になっているからだ
蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一新させた。

確かにそれはさらにインターネットかと進歩しつづけているからそうである。でも一方で無限に欲望も拡大してその欲望も留まることも知らないものとなりそれが原発でも生み出して危険なも省みないものとなった。グローバル化とは欲望の無限の拡大ともなったのである。その欲望は知的視野の拡大などいい面もあるが一般的には物欲の拡大化であり
その欲望に歯止めがないから原発も作られ故郷にすら住めなくなったということも現実化したのである。

文明の利器が発達しても人間の欲望がグローバルに無限に拡大して人を殺してもその欲望を得るのだという文明人は野獣であり最大の野蛮人でしかないのである。そういう人間に囲まれていたらいくら豊かでも金があっても心は一瞬たりとも休まらない地獄にいると同じなのである。現実自分はそういうこと身をもって一身上のことで経験してきたのである。金のためなら自分の利害得失のためには相手のことなどどうでもいい、むしろ相手が弱った時こそチャンスだとなる、人間は人間にとって狼だというのが現代の文明でありそういう社会にいることは地獄にいるのも同じだとなる。
常に牙をむきだして相手を威嚇していないと食われるかも知れないという恐怖の中で生きているということなのだ。