2014年08月18日

秋の蝉俳句連句十句 (家をもつ人ともたない人の差)


秋の蝉俳句連句十句


(家をもつ人ともたない人の差)

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ここは一人暮らしの人が住んでいる長屋風住宅

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我が家や朝の静かに秋の蝉
我が家に介護のつづく秋の蝉
一生を賃貸住宅秋の蝉
家もてぬ人もありなむ秋の蝉
人はみな老いゆくものや秋の蝉
独り身の寄り合いにつつ秋の蝉
故郷に古りゆくものや秋の蝉
故郷や遠くも聞こゆ秋の蝉
しんみりと今日も聞きにき秋の蝉
日立木の街道あわれ秋の蝉
城下町路地裏細し秋の蝉
一軒の古本屋あり秋の蝉


新しき住宅街や初秋かな
城下町田町通りや秋柳

朝顔や三年すぎし長屋風一人暮らしの人の住むかな

城跡に蝉なおしげく鳴きにしや我がたずねて街を行くかな



田舎に住んでいる人は多くは家をもっているし田畑ももっている人が多い。農家だと普通にそうである。自分も子供の時から家があった。その家はトタン屋根のおんぼろな家だったけど庭もあった。アパートのような家に住んだことはない。
大学の時は住んでいたがその時は別に一時期であり若い時は苦にならなかった。
だからそもそも家にもいろいろある。貸家もあるが田舎だと大きな貸家に住んでいる人がある。庭もその家は広々としている。それが4万くらいで借りられるのが田舎である。
そこに二十年以上とか住んでいるともうそこは貸家という感覚はないだろう。
だから家がない、借りているといってもそういう庭付きの家を借りていたら別に家がないとは言えない。ただ借りているうといだけで自分の家なのである。
だから自分の持ち物だから我が家だとも言えない。

ただその人は田舎の賃貸住宅に住んでいる。田舎では住宅といえばそうした賃貸住宅である。でも一人で部屋が三つある。他にもそういう一軒屋に住んでいる人がいた。
だから田舎では住居は意外とぜいたくな場合がある。
ただその住宅に住んでいる人はもともと農家の人であり広い家と庭と田畑のある家で育ったのである。
だから一生そうした賃貸住宅に住んで終わる人もいる。
そこは我が家という感覚はないだろう。ただ一時借りて住んでいるという感覚である

この辺で回りに2000人以上が仮設に住んでいる。これもやはり家のことを考えることになったろう。広い家に住んでいる人たちが多いのだから特にそうなったのである。
我が家に還りたいというとき広い家と庭があり田畑もあるからである。
だから変なのはもともと住宅を借りて住んでいた人は仮設に移ってもさほど違和感がないだろう。
その一生住宅暮らしの人は家や庭をもっている人をうらやんでいたからだ。
狭い家に住んでみればわかるとか言っていたからである。
ともかくこの辺では津波で4000軒が全壊したとか信じられないほど家を失った人たちが生れた。その人たちの中で新しく家を建てた人は少ない、以前として仮設であり復興住宅や団地にしてもわずかしか作られていない、だから土地がほしい、新しい家を建てたいという人が多いのである。

故郷という時これもまたこの辺では問われたのである。故郷は何かなど我が家があり田畑がある人は問うこともなかった。しかし一旦失った時問われることになった。
故郷は我が家があり我が家族があり我が仲間がありとか我が自然があるとか一つのものでは成り立てッいない、故郷はそうしたトータルものがあって故郷になりうる。
故郷はまた代々つづいている家ではその重みが違ってくる。江戸時代から15代とかつづいているとなるとそういう家のことを二代しかつづかない家では考えられないのである。
農家は三代つづいてやっと仲間に入れてもらえるという時、田舎ではそれだけ時間をかけて人間関係でも作られてきたということである。
それが窮屈さを生んでいるということも確かである。

秋の蝉というと一匹二匹が淋しそうに鳴いているとき感じる。
まだ今の時期、数が鳴いていると感じない。
ただ今年は涼しくなって秋が早く感じている。
相馬市に行くとすでに稲穂を色づき実りそめている。
南相馬市では原野化しているからそうした今まであった稲が実っていく風景がないから
季節を感じないのである。

これも変な感覚なのだけど自分には我が家は確かにある。しかし我が家族がないのである介護している母はボケていて会話ができない、ただ寝ているだけでありその人が家族のようにも今は思えないのである。
だから何か自分は介護するようになってからすでに家族を失っていたのである。
我が家、建物があっても我が家族はすでにないてのである。
自分はつくづく身寄りのない独り身でありその悲哀を痛いほど味わってきた。
ただ独り身というとき、例えば夫婦はそうではないがどっちか一人が死ぬと独り身になるのだ。
それで7年前妻をなくした人のことを書いたがあの人も大きな家と庭の家に一人で住んでいるから境遇がにたものとなった。
もう一人も夫もないから一人身でありそういう境遇が似通っていると通じ合うから集まったということはある。
夫婦は独り身でないから一人暮らしの人について何の関心もないのである。
ただ一人になったとき痛切に感じるのである。
タグ:秋の蝉

2014年08月19日

鴻(こうのとり) 地名のの謎 (浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)



鴻(こうのとり) 地名のの謎

(浪江のこうのくさ(鴻草)は砂鉄を求めてきた渡来人の跡?)


こう 【×鴻】

[人名用漢字] [音]コウ(漢) [訓]ひしくい おおとり
1 鳥の名。オオハクチョウ。「鴻鵠(こうこく)・鴻毛」
2 鳥の名。ヒシクイ。ガンの一種。「鴻雁(こうがん)」
3 大きい。「鴻恩・鴻基・鴻業・鴻儒」
[名のり]とき・ひろ・ひろし

ひし‐くい 〔‐くひ〕 【×鴻/×菱×喰】

カモ科の鳥。全長83センチくらい。体は褐色、くちばしは黒く先に黄色帯がある。ユーラシア北部で繁殖、日本には冬鳥として飛来。ヒシの実や草を食べる。天然記念物。沼太郎。おおがり。《季 秋》

出典:小学館 この辞書の凡例を見る



『日本書紀』巻第6、垂仁天皇の条、「鳥取の姓」には、物言わぬ誉津別皇子が、大空を飛ぶ白鳥の鵠(くぐい)を見て声を発するエピソードが紹介されています。これまで、白鳥とばかり思っていましたが、鵠をコウノトリとする説もあるようです。

『古事記』垂仁天皇の条、「本牟智和気王」で、鵠は紀伊、播磨、因幡、丹波、但馬、尾張、信濃、越を飛び回ります。これらの地は、鉄の産地をさすのではないでしょうか。

大阪府の池島・福万寺遺跡の、国内で水田稲作が本格化した約2400年前、弥生時代の水田跡から発見されていた足跡が、コウノトリのものとわかり話題になったことがあります。

コウノトリが身近な鳥で、桜ケ丘銅鐸などに描かれた鳥がコウノトリである可能性が高まりましたが、銅鐸の絵は簡略で、足跡だけで鳥を特定するのは難しいようです。

弥生時代の銅鐸に記された鳥がコウノトリであるなら、単に身近な鳥として描かれただけでなく、弥生時代に稲作とあわせ砂鉄採取が行われ、良質な砂鉄が大量にとれることを願い、銅鐸を鳴らしていたのかも知れません。
http://tajima2000nenkatsura.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-b114.html

鴻沼(こうぬま)は、埼玉県さいたま市の旧与野市から旧浦和市にかけて幅が100〜400m、長さが4km、約75haに渡って広がっていた沼である。市内にある見沼、伝右衛門沼に次ぐ大きさだったと言われている。江戸時代に干拓され、田圃となり、現在は宅地化が進む。現在も地名などに残る。高沼(こうぬま・たかぬま)とも呼ばれている(下記)。

鴻沼、コウノトリやサギなどの鳥が飛来することから付けられたと言われている。 鴻という字は画数が多く難しいため、古くから高に変えて、高沼と書かれ、のちにたかぬまとも呼ばれていった。農民の文書には専ら「高」の字を使うことが多かった。 今でも、鴻沼川に鴻沼橋、高沼橋が架かっている。

鴻巣(こうのす)の地名の由来と鴻神社


 「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、また、一時この近辺に武蔵の国の統治を行う機関(国府)があったのではないかと推測されることから、「国府の洲(中心) こくふのす」が「こうのす」となり、後に「こうのとり」の伝説から「鴻巣」の字をあてるようになったと思われます。
 国府のことを「こう」と呼ぶのは、他の地名(国府台[こうのだい]、国府津[こうづ]など)からも類推され、国府のお宮を国府宮(こうのみや)と呼ぶのは、愛知県稲沢市にある尾張大国霊神社、別名国府宮(こうのみや)など、全国でも例があります。
 このことからこうのとりのお宮「鴻の宮」は「国府の宮(こうのみや)」であったのではないでしょうか。

※笠原直使主(かさはらのあたいおみ)

 6世紀に活躍した豪族で行田市の埼玉古墳群の中の稲荷山古墳にまつられています。そこから出土した大和朝廷から拝領したとされる金象眼銘の鉄剣は国宝に指定されていま

鴻巣の地名は古来からのもので、この地のほかに茨城県や栃木県、福岡県にも同様の地名が存在する。古来からの地名ゆえその由来は不明だが幾つかの仮説が存在する。
高台の砂地を「コウ(高)のス(洲)」と言い換えて、その言葉が由来となったと言う説があり、これは大宮台地上に位置する古来からの鴻巣郷(現在の鴻巣市南部から桶川市北東部にかけての地域)および他地域の同一地名の地域の地形的特徴と合致する。
日本書紀に出てくる武蔵国造の乱で鴻巣郷に隣接する埼玉郡笠原郷を拠点としたとされる笠原直使主(かさはらのあたいのおみ)が朝廷から武蔵国造を任命され、一時この地が武蔵の国の国府が置かれたところ「国府の州」が「こうのす」と転じ、後に「鴻(こうのとり)伝説」から「鴻巣」の字を当てるようになったとする伝承もある。

鴻池家の始祖は鴻池新六(直文)である。家伝では、新六は尼子氏家臣の山中鹿介(幸盛)の子という(#山中幸盛との関係参照)。

新六には多数の男子があり、鴻池村の本家(鴻池村山中総本家)と醸造事業は七男の新右衛門元英が嗣いだ。大坂における醸造・海運事業は、次男の善兵衛秀成、三男の又右衛門之政、八男の善右衛門正成がそれぞれ引き継いだ。



浪江町には中世の鴻草館(こうのくさ)があり相馬藩政記の文禄二年の士禄高調に記されている。クサとあるとき草野神社でもクサは製鉄に関係していたとも言われる。
そこに末のとか熊のとかありそれは末森であり末(陶)氏であり末続駅とある末続とも関係している。熊とあれば大熊なのである。この辺はすでに文禄には相馬藩の領域だった。
その前にも中世には標葉氏が請戸館などを領していてさらに古代にさかのぼる。
鴻草館とはすでに「このうくさ」という地名があった名付けられたのである。
その地名は古代にさかのぼり渡来人系の製鉄の技術集団の移動の跡なのである。
鳥とつく地名は製鉄と関係していると言われるからである。南相馬市の金沢でも鳥打沢とかいう地名がありそこでは大規模なの製鉄が行われた地として有名になった。

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文禄二年相馬藩政記の士禄

●浪江の棚塩の津大明神はつのみやーツノガノアラシトから来ている

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津大明神(浪江町棚塩)
大宝二年(702) 棚塩村 津大明神(貴船大明神) 高霊神(たかむすび)
(貴船宮 祭神 高霊神(たかおかみのかみ)
祈雨・止雨の神として水を掌る神)

この読み方がわからない、津神社となるのは相馬市の松川浦の津神社でもそうだったが
(つのみつ)神社と読んでいて三大実録に記されている古いものだとされていた。
これは津波とは何ら関係ない、ただ高台にあり津波と関係づけられた。
もともとは「つの」がつくからツノガノアラシトの製鉄にかかわった渡来人に由来するものだった。なぜなら津神社は全国にあり海岸だけではない山の方にもある。
海に関係したものが多いとしてもこの津神社は「つの」と読んでいた。津の神社となりまぎらわしくなって誤解された。

そのアラヒトの字は、阿羅人、荒人ともなり荒木姓にも転訛しているともいわれています。荒茅という地名があるそうですが、阿羅加耶の転とされ、またアラシトの阿羅斯等であり、ツヌガ阿羅斯等「都怒我阿羅斯等」は意富加羅(おほから)の王子  と『日本書紀』にはあります。「都怒我阿羅斯等」のまたの名は、于斯岐阿利叱智干岐ウシキアリシチカンキで"ウシ"の字が見えています。 天之日矛や、都怒我阿羅斯等(日本書紀)の説話にも、牛の話がありました。牛頭天王とはスサノヲのことですが、牛頭や角のある人とは、三日月型の兜をかぶった人が渡来したと読む人もいるようです。スサノヲが新羅で天降ったところが「曽戸茂梨」であり、ソシモリは牛の頭の意であるそうです。新羅といえば。天之日矛は新羅の王子でした。
http://whalesongs.web.fc2.com/iwato/tunuga.html

その名前が古事記ではアメノヒボコ日本書紀ではツヌガアラシトで書かれているのです。そしてアメノヒボコが持ってきたという神宝からみてみると、また新たな人物が同一神ではないかと疑われてきます。
 日本書紀ではこのような記述があります。
 アメノヒボコは新羅の国の王子で、七つの神宝を持ってやってきた。
 七つの神宝とは、羽太の玉、足高の玉、鵜鹿鹿(うかか)の赤石の玉、出石の小刀、 出石の鉾、日鏡、熊の神籬(ひもろぎ)である。
 古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼、風振比礼、風切比礼、奥津鏡、辺津鏡の八種

http://blogs.yahoo.co.jp/caroline_a_go_go/37419318.html    

浪江の津神社は700年となると相当に古い,ではなぜこれほど古い神社の謂われがあるのかとなる。それは大熊から双葉から浪江の海岸には砂鉄がとれていて渡来系の製鉄技術者が来たことに由来しているのだ。それはツノガノアラシトに由来している。
なぜなら小高の村上の角部とあるがそれはもともとはつのほうと呼ばれていた。
これはツノガノアラシトに由来するのである。つまり渡来系の製鉄の技術者集団の跡なのである。
浪江町の名前も火事があって改名されたとしているがこれも不明である。

古事記では八種類の宝をアメノヒボコが持ってきています。

 珠が2つ、浪振比礼(ひれ)、浪切比礼

ここに浪が二つでているからこの浪に由来しているのかもしれない、とするとすでにツノガノアラシトなどの渡来系の製鉄の技術者集団が700年には来ていたとなる。
みちのくの真野の草原(かやはら)が万葉集の奈良時代の750年ころに読まれたものとされている。だからすでに真野の草原(かやはら)というのは地名でありすでに真野の草原に渡来人が到達する前に浪江町にその痕跡を残していたのである。
地名は意外と古く古代にさかのぼる場合がある。
一見新しいようでも古いのである。だから浪江という地名は古代にさかのぼり小高もオタカというのは蝦夷(えみし)の名前だとされている。この辺で南相馬市鹿島区の海老村も実はエミシが住んだ場所だったとしたとき古代にさかのぼるのである。
ツノとつく地名も神社もすべてではなくても津神社となっていればその傾向が大きいのである。

●みちのくの真野の草原(かやはら)は地名であり渡来人の製鉄集団の移動の跡

都怒我阿羅斯等は意富加羅(おほから)の王子 とありこの意富(おほ)と大でもない多でもないこれは当て字手ありオホとは韓国系一族の言葉である。加羅はまた伽耶ともなる。
「こうのす」という地名は、古代に武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)である笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が現在の鴻巣市笠原のあたりに居住したとされ、

この笠原はカサ氏のことでありこれも韓国の渡来系の氏である。笠の笠とはなんの関係もなく当て字なのである。笠女郎(かさのいらつめ)となるとそうした先祖が渡来系につながっているのである。
大和王権は技術集団の渡来系が深くかかわって成立した。だから騎馬民族征服説とか渡来系のかかわりが常にとりざたされる。
天皇すら伽耶系だとかまで言われる。そして伽耶国は実際は古代は日本の一部でありだからこそそこから前方後円墳が発見されたとか逆の見方もするようになったのである。
地名は意外とこうして古代に由来するのが多いのである。
双葉とか浪江町は何か新しい地域に見れらるが実際は700年代からその歴史ははじまっている。
地名もそこまでさかのぼるということなのだ。

いづれにしろ津神社は何か津波があって津波と関係されたがもともとは何の関係もなかった。それは津神社を津(つ)の神社としたからである。実際はツノミヤと呼ぶのが多いのである。一語でツとしていればツノミヤではない、でも何かまぎらわしいから誤解されたのである。
北海道のアイヌ語地名が漢字の当て字によって奇妙なものになったのと同じである。

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文禄二年相馬藩政記の士禄
タグ:こうのとり
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2014年08月20日

海にかかった虹の写真 (海老浜でとった)



海にかかった虹の写真

(海老浜でとった)

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二重の虹

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飛んで来た鴎と虹

 
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雲に夕日

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千輪のひまわり映えて雷鳴りぬ

復興や津波の後の海に虹

雲白く雷鳴り海に虹かかる

虹たちて鴎飛び来ぬ一羽かな

夕虹の大いなるかな凪し海

今日は朝から暑かった。33度なると何もする気がなくなる。今年はクーラーをしていない、昼間から海の方に行ったら黒い雲が海の方から湧いて雷が鳴った。
この雲は雨にはならなかった。
それから海老浜に行ったらキジが十匹くらいでてきた。みんな雄だった。
原野化するとやはり野生の鳥でも増えるのがある。

海老の浜で二重の虹を見た。これもめずらしい。そもそもこの辺では夕方に虹がかかりやすい。
ただこうして海にかかった虹を見たのははじめてである。
結構長くかかっていたので写真にとれた。
カメラはいつももっていないといい写真はとれない。
いい写真をとるのは技術よりも今はシャッターチャンスをいかにとらえるかなのである。瞬間的にしかとれないものも結構あるからだ。
虹だって消えやすいからなかなかとれない。
旅をいくらしても虹を見たのは一二回とか限られている。
旅で虹に出会うのはよほどの幸運なのである。
今回は海の方まででてきたのでいいのがとれた。

海老浜で釣りをしている人がいた。名古屋の人だった。
もう一人は地元の人で火力発電所で働いていた。
津波の時、働いていたが逃げたという。
あそこではまだ応援の人が相当働いているという。

魚は三年もとっていないから増えたのではないかと言ったら
その人は船で沖にでて釣りをしているが増えていないという。
それも不思議だと思った。
南の方が魚がとれているという、これは暑くなっているせいだろう。
ジャコウアゲハなどが飛んできたのは温暖化のせいだろう。
それと原発周辺が原野化しているからそういうところで自然の変化が起きているのかもしれない。

ともかく津波から三年でありなんらか復興に向かう時期だろう。
ただすでに仮設から出れないとか何か東北の津波の被害からの復興はあるのだろうかとなる
この辺は原発事故もありその復興もどうなるのか
ただ今回の虹は何か津波から復興に向かうまた自然が躍動しているのを感じた。
ただ不思議なのは津波の前も異様に暑かったのである。

まだ秋は早い、今年はまだまだ暑いのか、残暑が厳しいのか、それでも虹を見たから良かった。
虹の俳句は良くない、でも写真は良かった。こういう写真はなかなかとれないだろう。

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2014年08月22日

八沢浦の葦原(雷雲の写真など)


八沢浦の葦原(雷雲の写真など)

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八沢浦葦原となり雷鳴りてエゾミソハギのここに咲くかな

八沢浦は葦原になってしまった。あそこはもう田んぼにできないだろう。
他ではトラクターで土を堀り起こしているから田んぼにする用意ができている
一部は田んぼを今年は作った。
あそこの一面の葦原を見ていると田んぼはできないように見える

それは伊達市から来ていた桃売りの人が言っていたが二年間働かないと百姓のようなものはやれないという、それは百姓をしていて実感として言ったのだろう。
体がなまるとかなまけくせがつくとかになってそうなる。
ギャンブル、パチンコばかりしていたらそうなるだろう。
肉体労働は体がなまるとできなくなるのかもしれない。

八沢浦の葦原の中に咲いていたのはエゾミソハギだろう。
北海道に良く行っていたからその名前を思い出した。

昨日は雷雲が大きくなり稲光がすごかった。ただこれは一雨ふってすぐにやんだ。
昨日は暑かった。なんかぐったりして何もやる気がなくなった。
今日は涼しいので楽である。
昨日は33度で今日は30度だと楽だなとなる。

タグ:雷雲

万葉集の歌が津波の跡に甦った (八沢浦が葦原になって実感した)



万葉集の歌が津波の跡に甦った


(八沢浦が葦原になって実感した)

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●万葉集では萩は美的鑑賞として歌われている


古い時代から、季節感だけではなく暮らしに役立つ植物として愛されてきた。
枯れ枝で屋根を葺き、皮を剥いで縄をなった。
家畜のエサになり、根は薬になった。
若葉は乾燥させてお茶代わりに飲んだというし、
種は粉にしてご飯に混ぜたという。
http://northend.exblog.jp/4592818

萩をこんなふうに見ている人はまれだろう。ウサギが萩の若枝を食べる。そんなことも知らないだろう。萩はやはり原初の状態だと相当に密生していた。
萩は自然の中で様々な効用があり活きていた。
人間は今自然のことがわからなくなっている。都会生活していると自然を実感としてわからない。田んぼもないのだから米がどうしてできるのか実感としてわからない。
教科書や映像でみても米がどうしてとれるのか実感としてわからないのだ。
自然はやはり日々の生活でじかに接しているとき実感としてわかるのだ。
これは萩だけではない、他の植物でもそうでありまずただ美的鑑賞するものとして最初はなかった。

1541: 我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿

1598: さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露

1599: さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる

万葉集では萩が恋の歌が多いことは宮廷人が歌ったとなる。萩を実用的なものとてし見ていない、美的な鑑賞的態度である。ただ一面が萩原になっているとき、そこに白露が玉となっている感覚は現代にはないだろう。
現代ではやはり一面の萩原とか葦原とか花の原とかはない、自然があっても一部分である万葉時代は一面に自然が密生していた風景が奈良の平城宮の回りにもあった。
鹿がいる風景も普通にあった。それで奈良には鹿が今も飼われている。
「さを鹿の胸別けにかも・・」という表現は万葉時代で萩の原があってこそ歌われるものだった。
こういう風景が山の中に入ったからあったのではなく身近にあってこそ歌われた。
鹿は日常的に野生として自然の中で観察できていた。
だからこそ人間と鹿は一体化してゆく、動物に人間を見るというのはその時代からあったのではなく今でもある。家畜であれペットであれ人間的感情が移入される。
それを感じたのは野良猫だった。子がいる母猫であり四匹も子を生んだ、でも餌がない、親自体が餌がないのだから子供はどうしているのだろうと思う。
その時、雨がふり子供ぬれて鳴いていた。そして親を見たら歯をむきだして自分をにらんだ。子に餌をやらねばならない、守らねばならない、その顔は母親としての必死の形相があった。これはやはり人間と同じなんだなとその母猫を見ていた。
どうしても犬とか猫は人間の感情が移入されるのである。
野良猫と野生の動物は違っている。それでも鹿が野生の中でどうして生きているかは今ではわかりにくい、ただ鹿が自然の中から消えたわけではない、北海道では原野でも見たし雪の知床でも見たのである。

知床の雪に埋もれてエゾシカの鳴き声鋭くひびきけるかな

エゾシカは北海道では必ず見れる。だから鹿が自然界から消えたわけではない。
鹿が原初の自然に生きている姿はそれ自体が美になる。野生の動物はもともと自然と野生の中に自然と調和して生きるとき美しいものとなる。
そういう姿を実感できないのが現代なのである。
だから自分は津波の被害で死んだ人には申し訳ないけど原野化した自然というのは不思議な光景だなとつくづく思う。
この風景は何なのだろうと否応なく意識される風景なのである。

●海老村の跡に雉が十羽も出てきた

海老村は壊滅したけどそこが原野化してキジが十羽くらい出てきたのには驚いた。
普通は今までは一二羽である。なぜ10羽もでてきたのだろうか?
原野化して増えたのだろう。津波と原発事故が重なりこの辺は田畑を作らないのでそこが原野化した。それでカヤネズミなどが増えてそれを餌とするノスリが増えた。
ノスリが七八羽集まって所を見たからである。
10羽のキジを見たときこれなら狩りもできるなと思った。
原野化するとそこはもともと江戸時代でも狩場になっていたからだ。
狩というとき山の奥に入って狩りするというのではない、身近な場でもしていたのであるそもそも野馬追いが野生の馬を追いつかえまて焼き印を押して神に献げる神事だったのでありそれはまさに馬を狩りすることであり動物を狩る狩猟時代にさかのぼることなのである。

ともかく八沢浦でも一面が葦原になってしまった。それは日本の原風景だった。
日本で一番多い地名は葦原だろう。飯館村も葦原になってしまった。八木沢峠の麓の
バラ坂なども人が住まなくなり元の自然に戻った。そして羚羊が出てきたのには驚いた。羚羊は今まで見たことがない、つまり人が住まないと自然の野生動物が住みやすくなるのである。

雉(きじ)で、名前が鳴女(なきめ)という者を遣わしましょう。」
とお答え申し上げたので、鳴女に言われました。
「おまえが行って、天の若日子にこう尋ねよ。
「この葦原の中つ国は私の御子が治める国で、私が委ねて与えた国である。
しかし、この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。
そこで、どの神かを遣わして、帰順させてほしい。」と。

神話とかが今実感として理解できないのはあまりにも文明化した結果、原初の自然から離れた結果なのである。東京に住んでいる人がビル群がある東京に帰って見えてくるとほっとするというのも異常な感覚である。それほど文明化してしまって自然から離れてしまっているのだ。全く人工的環境の中で生きている。
ただそこで食べているものはその人工的空間からは得られない、自然からしか得られないのだけどそううい感覚もなくなっているだろう。実感として食料でもどうして得られるのかわからない、ただスーパーには何でも並んでいるか金さえあれば食べられるという感覚になってしまう。

●葦原は日本の原風景

葦原といってもそれを実感として感じることができないと葦原を知り得ないのである。
そういう風景がなかったら理解し得ようがないのである。
八沢浦はもともと入江だったことは今回の津波で実感した。ただ今葦原になっていることはこれも予想外だった。この葦原も原初の風景にもどったのである。
この一面の葦原を日々見ていると葦原が実感できる。

4419: 家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも

651: 難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき

 現代語訳すれば、「難波人が葦火を焚く部屋のようにすすけて古びているけれども、わたしの妻はいつまでも可愛くて一番だよ」ということでしょうか。
 古代より、難波の地は葦が生い茂っていることで有名でした。昔、燃料として用いた葦は火力が弱く、煙って家の中は煤(すす)だらけだったようです。
 「まるで家の中の真っ黒な煤のように、顔も手も煤で黒くなり、若い頃の初々しさはないけれど、それでも女房は世界一だ」と貧しいながらも明るく生きている庶民のくらしと思いが生き生きと詠まれています。

 この大阪の昔からの象徴を、関西大学は校章に用いているわけです。
http://www.kansai-u.ac.jp/presiweb/news/column/detail.php?i=1160


人類史上、最初に「文字」を考案したのはメソポタミアの人々である。
当初はエジプト同様の絵文字だったが、エジプトと違い書くものが粘土板だったため、絵文字は書きにくい→葦を粘土板に押し付けて絵文字っぽい模様を書き始める→簡略化して楔形文字に という流れで一連の楔形文字が確立していく。この文字はメソポタミアを中心に、広く西アジアで使われるようになる。
http://55096962.at.webry.info/201202/article_12.html


現世の人々の住む住居は葦や日干し煉瓦造りの粗末な物であった。朽ちにくい石造には永遠性への観念が込められていた

葦は世界中でもいたるところに生えている。だからエジプトでも生えていて利用した。
パスカルの考える葦というのもこれも原初的思考があった。葦が身近なものだからこういう思考になった。葦原はは世界的にも原初の風景なのである。

1324: 葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも
2134: 葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る
2468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは
2565: 花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ
2745: 港入りの葦別け小舟障り多み我が思ふ君に逢はぬころかも
2748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも
2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
3279: 葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ
4459: 葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに

萩は宮廷人の美的鑑賞の歌になっているけど葦は原初的生活感覚の歌になっている。
葦が燃料となっていたこと時代そうである。つまり一面の葦原を見ていたらやはり
何か役に立たないかと考えるのが普通である。
つまり八沢浦で見る葦原はそうだし津波の跡は他でも葦原になっている。
その中にエゾミソハギの花が咲いていた。それは北海道で見た風景だった。

468: 港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは

ここまで深く葦を生活に則して感じることは今はできないからこのような歌も作れない。この葦の歌はたいがい生活と密着してできているからである。

748: 大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも

この歌なども不思議である。葦を刈って船に積んで何かに使った。その積んだ荷の上に妹の心がのるというのはどういうことなのか?
まずこんな歌を今なら作り得ようがないから理解するのかむずかしくなる。
これは理屈ではなく生活実感から生れたからである。
生活の中でその仕事する人と妹が一体になっていたのである。

2762: 葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな

この歌などは八沢浦の葦原の中に咲いていたエゾミソハギを見たがそれを思い出すと実感できるのだ。
ともかくこの辺は津波と原発事故で原初の自然がもどり縄文時代に還ったような風景にもなった。だからこの辺は何かいつも前とは違うものを感じるから新鮮だともなる。
ただ津波の犠牲者とかありそれを喜ぶのかともなるが八沢浦が葦原になったということも入江になったときもそうだったがあまりにも大きな予想外の自然の変化だったのである。
タグ:万葉集
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2014年08月23日

日本の国土のカルマを知るべき (どうして広島の土砂災害が起きたかー津波被害と同じことが・・)


日本の国土のカルマを知るべき

(どうして広島の土砂災害が起きたかー津波被害と同じことが・・)


●原発のような危険なものをどうして建てさせたのか

●なぜ津波が来る海岸線に住んでいたのか

●土砂災害地帯にどうして住んでいたのか?

●夜に災害が起きたのが致命的


このことは今回も言われた。なぜそんな危険な所に家を建てたのか?そこには土建屋とか市議会議員とか様々な利権も働いていたとか、地価が上る場所だから建てたとか、確かにすぐ下に鉄道の駅があった。鉄道がすぐ近くにあることは便利なのである。
便利であることがまた危険にもつながっていた。

広島市は無理な宅地造成が山の方に向かって無造作に広がって行った。土地がないから山の方に向かって宅地造成が行われたことが地図を見ればわかる。山の斜辺も急であり土砂災害地域として指定されてもいたがかえりみられることなく宅地造成がつづけられた。
市でも警告もしないでその危険を認識させなかった。
それは市にとっても宅地造成は利権になりいいものだったからそうなった。
家を建てるにしてもそこは市中心部から近いから地価も高くなり選ばれた。

危険より先に利権が第一になるのが今の社会である。
危険ばかり言っていれば何もできない、利益にもならないからそうなる。
仙台でも今回の津波で海岸地帯に新興住宅地が海側に広がっていった。
そこで津波の被害にあったのとにている。
学者が津波の危険を指摘したら土地の価格が下がるから言うなと脅迫されたという。
これも利権利益第一主義になるのとにている。

危険を無視するということでは津波でも原発でも同じ構図ができあがる。
危険を言えば金にならない、利益にならない、だから利益第一主義になれば危険は無視される。
日本はどこでも山と海の国だから危険を言っていたら住むところがなくなる。
日本列島は災害列島でもあった。
でも人間の生活はそうした危険より利便性がまさる。
危険でも便利なら人は住む。三陸でも津波の後も海の近くに住んだ。
それは便利だからいつのまにか元の状態にもどったのである。

危険な所に住まない
危険な所に近寄らない
危険なものを誘致しない
危険なものを置かない
危険を警告する

津波でもこのことは言われた。なぜ海岸線のような海に接した所に住んでいたのか?
そのことが何度も言われた。そして危険を警告されなかったのかと何度も言われた。
今回の広島の土砂災害でも言われる。

ただ今回の土砂災害で一〇〇人近くで死んだとしても何かたいしたことがないと思うようになったのは津波の被害があまりにも大きすぎたためである。
この影響はあまりにも大きかった。
二万人近く死んで流されたり破壊されたりした家が数知れないとなるとあの規模ではたいしたことがないと思ってしまう。
普通ならあの津波被害がなかったらそんなふうには考えないのである。
広島市でもあのくらいなら市でも打撃を受けても4000軒の家が破壊された消失したとかとは違う。ても死者が広島市で百人は多いだろう。
しかし人口の割合にすると市自体にそれほど影響がないともなるのか?
ボランティアでも全国から来る必要はなく広島市内と近辺でまにあうだろう。
これは都市型災害であり津波の被害とは違っている。
津波や原発事故は自然全体から農地から宅地から全部である。
未だにその被害から立ち直っていないのである。

戦争でも2百万人も死んだとなると死が日常的でありだれも驚かないだろう。
なんか原爆でも日本人が怒らなかったのかのかというと全くその恐怖に打ちのめされて何も言えなくなった。
想像を絶する被害でありそれで打ちのめされてアメリカに何も言えなくなり前面降伏した今回の津波の被害もそうだった。あまりの被害の大きさに打ちのめされてただ茫然としているという状態だった。
未だに復興というのも壊滅した市町村ではできていない
土砂災害は一部分で起きるから毎年起きてもたいしたものとみていないのである。
日本のような山国に住むならやむをえないと許容しているところがある
ともかく津波の被害地でも原発事故周辺でも喪失感が大きすぎたのである。
何かあまりにも被害が大きすぎると復興の気力もそがれてしまうのである。
茫然自失となり強大な自然の力に圧倒されてしまうのである。
その時人間は自然の前に弱いものであり小さいものと自覚する。

今回は夜に大雨になった。それは突然のゲリラ豪雨だった。夜は災害は危険が十倍にも増大する。津波でも夜だったら一〇倍の被害があったと言われる。
それだけ災害の時、緊急の時、夜は危険なのである。
大災害になるのはそれなりの法則が確かにある。
ただ目前の利益とかにまどわされて見えなくさせられるのである。
ともかく人間は個々人でもカルマが重くのしかかる。
自然でもその土地の成り立ちカルマを知ることが大事になる。
でもあそこには過去には土砂災害が起きていたのか?
それより日本全土が災害列島であり日本国土の歴史、成り立ち、カルマを知るべきだったそれを知って対策をたてていれば原発など建てられなかったのである。

日本の最大の弱点は平地があまりにも少ないことなのである。
だから狭い土地を耕して棚田のようなものを作ったり狭い土地を活かして効率よくするとか狭い土地でも生産性を上げるとかうまい米を作るとかしてきた。
茶室もわざわざ狭くしたのではなく狭い土地しかないからこそできた。
外国だと庭でもベルサイユ宮殿とかとんでもない広い空間を利用できたのである。
日本の庭でもそれは常に狭さを活かすことで美を作り出していたのである。
満州に日本が進出したのはこの狭い国から脱出するという歴史的願望が一気に爆発したのかもしれない、そこでも米を作ることを試みていることでもわかる。
農業中心の世界ではやはり土地を求めるからそうなった。
それが悲劇につながっていたのである。
満州進出が徒となり戦線は無際限に拡大してしまったからである。
そもそも海側を大規模に干拓して田んぼにしていなければ津波の被害が少なくてすんだのである。
海岸線に住んだのは背後の農地を広くとるためでもあった。
湊としての機能だけではない、土地も関係していたのである。

人間は個人でもそうだが性格でも必ずいい面と悪い面に作用するのである。
しつこい性格はいやがられても正義をしつこく追求するとかにもなるししつこいということは何かをしつこく追求するからその方面ではいい性格になる。
どこの国でもそうである。いい面と悪い面が作用する。
日本は海に囲まれていること山が多いということは海の幸、山の幸の国であり
それは独特の美をもたらしいい面なのである。
それが悪い面に作用すると津波になり土砂崩れになる。
そういう宿命、カルマの国であり代々そうだったのである。
タグ:土砂災害
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2014年08月24日

相馬市馬場野の長屋風住宅の秋 (建物は人間の心に深く影響するーコンクリートだと季節も感じない)


 

相馬市馬場野の長屋風住宅の秋

(建物は人間の心に深く影響するーコンクリートだと季節も感じない)

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長屋風住宅に老後薄かな

ひまわりや日ざしを受けて畑に人

常磐木の松の緑に実りそむ稲穂色づき夕日さし暮る



相馬市の馬場野地区に建った一人暮らしの人のための長屋風住宅はいつも見ていて落ち着く外観である。それは木で作られているから木の素材が心に影響している。
もしこれがコンクリートのようなものだったらそんなふうに感じない。

鹿島の街内の復興団地はコンクリートで団地になっているから何かいい感じがしない。
その建物自体が心を圧迫するように作用する。そんな建物が田舎でも増えているのは
やはり経済的であり効率的だからである。
ただそこには人間をおしこめる箱のようにも見えてしまう。
仮設住宅でもログハウス風になると普通のプレハブよりはいい感じになる。

人間はその外観もそうだが建物の内部も心に影響する。内部が広いと広い寛容な心が養われるかもしれない、天井など関係ないと思っていたが棹天井を見ていると何か違っている内部が良質な木材を使っていれば何か落ち着くだろう。
その外観でもやはり鉄骨のコンクリートだらけの建物だと何か人間的ではなくただ圧迫されるものを感じる。

日本では街でも計画がなくただ雑然として作られていることに問題がある。
ヨーロッパなどでは計画的に都市が作られているから整然として落ち着きがある。
日本の街は雑然としすぎるのである。それもいいという人もいるがやはり落ち着かないということがある。なんか街が迷路のようになっているからだ。
それから今はそもそも街の機能すら消失した。
スーパーとかイオンは街の外にあり街からは切り離されてある。
そこはただ買い物だけの空間になってしまっている。
それも便利でも味気ないとなる、それは車社会でそうなったともいえる。

建物が心に影響するというとき、盛岡の古い煉瓦作りの銀行は盛岡の象徴のようになっていることでもわかる。煉瓦はコンクリートと違っているからである。
質素で質実で堅実だとか銀行として煉瓦作りが合っている。
煉瓦作りの塀とか建物だと戦前とか大正時代までさかのほる郷愁を感じる

現代は何かそうした時代を象徴する建物が不在である。高層ビルのようなものが象徴となっているがあれはただ高いというだけであり人間的なものを越えているから別物である。そこには人間が介入するものがなくなる。感情も移入もできない。
京都でも町家の保存が言われたがその前に大きな高いマンションがおおいかぶさるようにできていたのには幻滅した。
町家でも一軒くらいぽつんと残されても意味がないだろう。街並み全体を残さないと意味がないだろう。
でも現実の生活では不便だし合わないから消えてゆく。

この辺では津波や原発事故で南相馬市では一部田んぼになってもほとんど原野である。
でも八沢浦から相馬市に入ると前と同じ風景なのである。
それがいつでも不思議に思うのだ。八沢浦は葦原になっているが相馬市に入ると元の田んぼの風景なのでありなにかほっとするのである。
街道に松があり稲穂が実りそめて色づいている。そこで季節感を感じる。
その対象が原野から田んぼの風景が新鮮なものになっているのだ。
日本だったら北海道をのぞいて田んぼの風景である。
その風景は千年とかつづいてきたのだからその影響は理屈では語れない、日本人の心ともなっているのだ。

ともかく相馬市の馬場野の長屋風住宅は何か一つの見本である。それが一人暮らし用であり外観もよく回りは山であり自然もある。
だからすでに初秋となり薄が出ていたのである。
その秋らしい感じがあの長屋風住宅とマッチしていたのである。
木材はやはり秋となれば秋を感じる、コンクリートには秋も冬もないだろう。
ただ自然を感じない無機質的な空間を作るだけだとなる。
だから新しい街作りとか何か一つの見本としてあの長屋風住宅はいいのである。
タグ:長屋風住宅

2014年08月26日

木槿 (福祉の湯はいい、老人は何でも近くで用たせると暮らしやすい)


木槿

(福祉の湯はいい、老人は何でも近くで用たせると暮らしやすい)

福祉の湯我も入るや木槿かな
我が家や朝の静かに秋の蝉
我が家に介護のつづく秋の蝉

森深く夕べ鳴きにし秋の蝉鳴く声聞きて街に帰りぬ

福祉の湯というと近くにある。三〇〇円で誰でも入れる。ただ時間は三時ころまでであるあれは一人暮らしに便利である。風呂が震災以来壊れて使えなくなっていた。
一人しか入らないとするとコストの無駄である。
大きな家は一人で維持するのがコスト的にも高くつく、なにやかにやと出費がある。
だから資産がないともう維持できない、保険でも一年で五万払っていた。
リホームするとその出費も大すぎる。
一人暮らしには何か大きな家とか向いていない
掃除することからかたづけることから料理から介護から毎日追われているのだ。
買い物でも近くても一仕事である。

今日は雨降っていたから近くでないとめんどうになる。
自分より倍の距離に住んでいる所の人は自転車だと遠いと感じる。
車は関係ないけど自転車だとそうなる。
だからかえって大都会の方が一人暮らしとか老人には住みやすいことがある。
今日もテレビでおじさんの食堂を紹介していた。老人が集まり食事するところである。
おかみさんが相手の要望に答えておかずも作ってくれる。
おふくろと同じだとか言っていた。おくさんも作れないのもここでは出してくれると言っていた。
そこは老人のたまり場にもなっている。
これは高齢化社会のまた一つの姿である。
一人暮らしで困るのは一番は料理だからである。

ともかく老人になると近くが大事になる。近くで用をたせる環境にあるといいのである。大都会だといろいろな人が集まってそれに答えるものが出てくるからいいのである。
ただ自分は回りに自然がないと季節が感じられない所には住みたくない。
近くに小さな森がある。あそこは高台なので人はほとんど通らずきもちがいい。
ただ森といっても深い森ではない、森といえるものでもない、ただこれもこの辺では森は山の方に行けばすぐに森がある。でもそこも住んでいる街の近くにはないから身近にならない。身近にあると自然とともに暮らすことを感じる。

人間でも助けてもらうとなる家で手伝ってもらったりするのは近くでないと結構手間になりできない、まず原町だと車で十分だとしても実際は手間として倍はかかるだろう。
それで家で手伝ってもらうのは手間なのである。
老人は近くで用をたせると助かる、住みやすいのである。医者だって近くにあると楽だろう。みんな車をもっていて通っているからいい、車がないと半日かかりになる。
その手間も大きいのである。
これはここでは二軒しか開業医がいないから簡単な病気しかみてもらえない。
だから老健の施設が新しくできたことは便利である。
すぐ近くであり様子見にゆくこともできる。
そして福祉介護では老人は集まっている方が便利なのである。
田舎だと本当に離れて住んでいるからそこに車でゆくにしても相当な手間なのである。
老人が集まっていれば福祉のサービスも効率化できる。
弁当など配るにしても離れた所を一軒一軒回ると手間が大きすぎるのである。
近くに住んでいれば往診でもやりやすいし福祉でも医療でもサービスが効率化できるのである。

だからそうした「老人の村」のようなものを作るのが一つのアイデアである。
街となると大きすぎるから村くらいの小さな単位で集まる。
そこで福祉のサービスを受けるとサービスする方も人員も少なくてすむのである。
津波で被害にあった一人暮らしの人がすむ相馬市の長屋風住宅は見本なのである。
コンパクトシティも老人だけでなく人が集まると大都会のようにそれぞれに応じたサービスが生れるのである。
ただここの盲点はそこに集まる人なのである。
田舎では人間関係がめんどうであり嫌な人とは一緒にいることを嫌う
自分は福祉の湯は入っている人がいつもいないので通っている。
いつもすいていてたいがい一人で入れるのである。
知っている女性は毎日街の中でも畑でもどこでも人の目を気にしている。
もうそれは町のものがみんな監視カメラになっているのだ。
だからそういう窮屈さは尋常じゃない。
田舎が嫌になるのはこの人間関係なのである。
仙台辺りだと気楽に歩けるからいいともなる。

今日は雨ふって蝉の鳴く声は聞こえなかった。今日は寒いくらいだ。
木槿はまだ咲いている。木槿は何か福祉にあっている。
花があつぼったく白は白でも違っている。
今年の夏もこれで終わりなのか、また暑くなるのか、体がバテた。

タグ:木槿

抽象画(夏の光の道)


抽象画(夏の光の道)


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重なる山

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これはずいぶん前の自分の抽象画が原画になった。抽象画は原画がAだとするそれを基にしてAB AC AD AE・・・・と無限に変化しやすいのである。だから化学変化とにているといった。
要するに無限の変化なのである。

それは創作的なものとは違う、ソフトの機械的変化の偶然から起こってくる無数の変化なのである。
題はまぶしい暑い夏だからその中をゆく道もみえるから「夏の光の道」とした。
意外とこの題が抽象画では大事になるかもしれない。
これなどはわかりやすいがわかりにくい抽象画が多いからである。

自分が前にだした抽象画が相当あるけどそれはそこで終わっていない、そこからまた変化してゆく一過程としての一作品に抽象画はなっているのだ。
変化は偶然から生れている、予期せぬものとして変化がソフトの操作で生れてくる。
だからパソコンのソフトに頼っているのであり具象画の画家の才能とはこれは相当違ったものなのである。

ただこれは何だろうという時、やはり自然を反映させたものとして見る時、自然へに対する感覚が磨かれているといい。
夏だというとき、あれは道であり暑いとき、まぶしい光の中を通った道だなと感じる。
今年も自転車でずいぶん暑いときも走ったからである。
そういう思い出がこの抽象画からはよみがえってくるのである。
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2014年08月27日

広島で土砂崩れが起きた場所、昔は蛇落地悪谷 (地名は先人が残したメッセージー原発事故とも同じ原因が)


広島で土砂崩れが起きた場所、昔は蛇落地悪谷


(地名は先人が残したメッセージー原発事故とも同じ原因が)


●地名の解釈は誤解が多い
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一帯は「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)とよばれていたという。
平野孝太郎さん(71)は「昔は蛇が降るような水害が多かったので、悪い谷・悪谷と名がついたそうです。八木蛇落地悪谷が八木上楽地芦谷と改名され、さらにいまは八木だけが残ったようです」という。名前が変わるうちに「土砂崩れ」の教訓も忘れ去られたらしい。
130年つづく浄楽寺の住職によると、竜がいて、その首をはねたところから「蛇落地」とついたという。「竜は水の神で、水害を収めたということかもしれません。記録にはないが、語り継がれてきました」

昔、阿武山の中腹に何千年も生きている大蛇が住んでいて、人里におりてきては人々に害を与えていました。
八木城主香川光景が大蛇退治を呼びかけたところ、香川八将の中で最年少の香川勝雄が志願しました。
天文元年(1532年)2月27 日、一人で馬に乗り阿武山の中迫というところまで登ると、
びょうぶを立てたような岩があり、大木に頭をのせていた大蛇がいました。
大蛇が勝雄を飲み込もうと飛びかかってきたとき、勝雄の抜いた太刀が大蛇の首をはねました。
切られた大蛇の首が落ち、流れ出た血が川のようで、ついには沼ができて深く沈んでいったということです。
ここが蛇王池と呼ばれ、供養塔が建てられたという言い伝えがあります。
http://www.city.hiroshima.lg.jp/www/contents/0000000000000/1210835372358/

八木は本当は八岐だったのでは?
本来は
八岐蛇落地悪谷?
八岐大蛇 = ヤマタノオロチ
ヤマタノオロチは川の氾濫を表しているという説がある

 蛇抜(じゃぬけ)の地名は、長野、岐阜、富山、長崎など各地にあり、水害の歴史と深く結びついています。笹本正治(ささもとしょうじ、歴史学者、信州大副学長、1951〜)によると、かって蛇抜で多くの犠牲者が出た与川のある木曽地域では、花こう岩の白い地質があり、川を曲がりくねりながら抜けていく土砂は、白い大蛇に見えてもおかしくなく、ここから土石流を蛇抜と呼ぶようになったと推測されます。


青森県東津軽郡平内町松野木蛇喰
# 青森県上北郡七戸町蛇喰
# 秋田県南秋田郡五城目町馬場目字蛇喰
# 秋田県由利本荘市松本字蛇喰
# 秋田県雄勝郡羽後町蛇喰
# 山形県鶴岡市越沢字蛇喰
# 福島県大沼郡会津美里町蛇喰川向
# 福島県双葉郡双葉町松倉蛇喰
# 新潟県岩船郡関川村大字蛇喰
# 富山県南砺市蛇喰
# 京都府相楽郡精華町乾谷蛇喰

福島県 喜多方市  蛇崩山  じゃくずれやま


今年の干支は巳。市内で「蛇」のつく地名の由来を調べた。
 現在の北矢名の一部に、「蛇久保」という字名(あざめい)が残っている。確認できた最古の記録では1835年の北矢名周辺の地図に「蛇クボ」という表記がある。
 地名の由来は、「砂利窪(じゃりくぼ)」が変化したとの説もあるが、「ヘビのように曲がりくねった窪地の地形を表したものが有力」と市史資料室の担当者は説明する。
http://www.townnews.co.jp/0610/i/2013/01/01/171476.html

地名に「沢・川・池・谷……」が付く土地は買ってはいけない?

戦後に日本中の山が杉林だらけにされたせいだろ
杉は成長が早く、戦後の復興による木材不足解消にもってこいだったが
ブナやナラなどの広葉樹と違って土壌保持力が低いから土砂災害が置きやすくなる
最近は林業が廃れた影響で山林の管理もされなくなって荒れ放題だから
さらに災害が置きやすくなってるんじゃないの

●地名はたいがい漢字の当て字である

「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)というときこの蛇がヘビと関係あるかどうかわかりにくい。(じゃらくじあしだに)と呼ばれていたのに漢字をあてた。
ではジャに蛇をあてたがそのジャが蛇なのかどうかわかりにくい。
喜多方に蛇崩山(じゃくずれ)とあってもその蛇は蛇ではなく、ジャは砂利(じゃり)のジャかもしれない、だから地名はいろいろ解釈され誤解が大きくなる。
北海道の地名はアイヌの音の地名に漢字をあてたからあのようにおかしな地名が続出したそして人間は漢字の訴えるものが視覚的であり絵画的であるから漢字を絵としてみるから漢字のイメージとして地名をみる。蛇とでていれば蛇しかイメージできなくなる。
そのために地名には誤解が多くなる。地名伝説にしても実はその漢字を当てたことによりその漢字から伝説を作り出しているのであり伝説がもともとあったのではない、地名にあわせて伝説を作っているのも多いのである。


この辺の新地の鹿狼山(がろう)があるがこれも漢字をあてたのである。
ガロウとは音が大事であり石がゴロゴロしているとか鹿とか狼は何の関係もないのであるだからはたしてこの蛇が蛇かどうかわからない、ただ砂利が落ちてくる地で悪(あし)は葦である。砂利が落ちてくるということは崩壊地名なのである。
蛇喰(じゃばみ)も蛇と関係なくジャはジャリなのだろう。何かに食われたようになっているジャリをとった土地なのか崩壊地名なのだろう。そういう地肌がむきだしになっているような山がそちこちにある。
蛇抜けとなるとこれは蛇が関係している。土砂が流れたような地形は蛇がぬけるような地形になっている。

八木というのも八木沢峠があるようにあそこも急峻な峠だから崖崩れが起きるような地形でにている。ともかく「蛇落地悪谷」(じゃらくじあしだに)と先人が漢字でもあてたのはよほどそこを忌み嫌うものがあった。住みたくない所だったことは確かである。
それがいつしか忘れられてしまった。
地名を変えることはその土地の成り立ちなどが不明になる。
石巻線で欠山(かけやま)が佳山となったのもそうである。欠けた山があったのだが縁起が悪いとかなり名前を変えた。ここも名前を変えて前の土地の状態がわからなくなった。
昔からあったものを変えることはその土地の成り立ちが不明にする。
原発事故で原発のある所の地名が古代から標葉(しねは)郷となっていてそれが禁断の地だったということも言われた。だから何か地名に先人からのメッセージがこめられている。それは危険情報でもあ場合がある。

ただ地名の解釈は後世の人にも勝手に解釈されてきたのである。
小名浜(おなはま)や女川のオナが男浪(おなみ)であると学者が言っても小名浜はオナハといわれていた。それは相馬藩の文禄の文献に出ていた。
小名浜(おなはま)のもともとの地名はオナハではありナハがもともとの地名である。なぜなら沖縄に那覇(なは)があり小那覇(おなは)という地名があるだ。
オ・ナハでありオは(小)であり接頭語がなのである。
だから男波(おなみ)に由来していないのである。
ただ津波があったので押しつけたのである。津波に由来する地名は本当にあるのかどうかまれである。

●津波や原発事故と同じ構図が広島の土砂災害にもあった

広島の土砂災害がなぜ起きたのか?それはこの辺で起きた津波原発事故とその原因が通じるものがあった。
無理な宅地造成が行われた。それは行政にとっても市にとっても金になるし市の発展として推進された。不動産でも高く売るためにその危険性が隠されたのである。
市議会でもそうした危険を言うことはない、なぜなら議員にも資金が援助されたりする場合があるし利益になることが多いからそうなる。
つまり危険だと指摘しても誰も得しないのである。
誰も得しないことは誰も味方にならないということである。
その人は回りから排除されて何もいいことはないとなる。
原発でもそうだった、反対する人はその土地に住むことすらできないようになっていた。それは仙台の海の方に宅地造成した不動産屋が津波のことを警告したら土地の価値が下がるから言うなと脅迫されたのとにているのである。
利益第一主義になり必ずそこに危険は無視される。
東電の清水社長はコストカッターとしてのしあがった。だから本当は土盛ってわざわざ高くして建てる予定だったのに不便だからと削りとったのである。
それが大事故につながっていたのである。

なぜ様々な危険が無視されてゆくのか?そこにはやはり利益が利権がからんでくるためだろう。必ず何か問題が起きるとそこには大きな利権利益がありそれで危険は無視される。原発でも何度も危険は指摘されたが権力側では利益にならないから隠したり無視することができた。地元の人でも利益があるから推進させる。
広島でもその土地を高く買って価値があると思ったから住んだ。危険を知らされていないということもあったが自ら調べることもしなかったろう。
常に安全より利益利権が第一になって危険は無視される構図は同じである。
韓国のフェリー沈没事故もそうだった。荷物を過重にのせていたり無理な改造をして危険になっていても利益のために無視された。その利益は政治家とかまで回っていたとかなる危険が無視されるのはそうした同じ構図があって起きる。

相馬藩でなぜ四〇〇年前の慶長津波のことが七〇〇人溺死と一行しか記されていないのかも同じ構図だったかもしれない、為政者側でその被害を隠したいためだっかもしれない、津波の被害を公にすることは為政者にとって都合が悪いことが戦国時代でありあったのかもしれない、弱体とみられと攻撃されることもある時代だったからである。
政治には為政者にとって都合が悪いことは隠したりしていたのは常にあったことである。そのことが後の大きな被害を生んだり今でもその危険はある。
人間はどうしても目前の利益が第一になり危険は見逃されるのである。

これは人災だというとき自然災害はある程度は人間側で注意すれば防げるから人災だとなる。まず危険な場所には住むなというのが鉄則である。
でも日本は土地が狭いから海側を米を作るために干拓した。でもそこはもともと海であったから危険な場所だったのである。また海岸に接して集落化したのも背後の土地を広くとって田んぼとすることにもあった。
日本の土地の不足が無理して危険な土地を開拓したり住んだことが大災害になった。
それはまさにくりかえされた日本の国土のカルマだったのである。

津波でわかったことは松原というのは津波に弱かったのである。松は根を強く張らない、自然林、混合林だと津波にも強かったのである。
竹林が津波に強いことがわかった。竹は強く根を張るからである。前に竹林があり津波の勢いがそがれて助かったということを何人からか聞いたからである。川の土手に竹を植えるのは水害を防ぐためでもあった。
山も杉林になったとき土砂崩れとかが起きやすくなった。それは十津川の災害でも言われた。
ブナの木は根を強く張り水分を吸収するから土砂災害も起こりにくくなる。
でもあそこの土はそもそも土砂災害を起こしやすい土地だったのである。
そういうことも科学的にかわっていたのだけど利益第一になるから隠されて見逃された構図は同じだったのである。

タグ:蛇落地悪谷
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