2014年08月09日

猫は人間で管理するほか生きられない (野良猫は害になるからかわいそうだけでは解決しない)


猫は人間で管理するほか生きられない


(野良猫は害になるからかわいそうだけでは解決しない)




猫の外飼い(放し飼い、出入り自由)は間違いなく身勝手なペット虐待行為
完全室内飼いの猫の平均寿命が15年超えているのと比較して、野良猫は3〜5年
出入り自由の飼い猫ですら12〜3年程度と完全室内飼い猫より有意に短命となる

日本における飼い猫の屋外および屋外原因での死の最大の理由は交通事故
大雑把な推定で年間数十万頭あるいはそれ以上、保健所での殺処分より遥かに多い
次いで野良猫を中心とする他個体との接触・喧嘩による致死性伝染病の感染・蔓延
この2つが双璧で、完全室内飼いを徹底できていれば確実に避けられる落命の仕方
さらに(これは野良猫特有だが)夏〜秋生まれの子猫を中心とした冬季の凍死・衰弱死
餌獲得競争に敗れ狩りも下手な弱い個体や老猫の餓死・衰弱死、烏やアライグマや
イタチ科動物を中心とした天敵による捕食が寿命を引き下げる

また各種猫害(糞尿・発情や喧嘩の鳴き声・住居侵入・動植物を殺され荒らされる等)の
被害者による合法的駆除・殺処分や、果ては異常者による虐待・殺戮に至るまで
猫があらゆる形で非業の最期を遂げる危険性を徒に激増させるのが外飼いという行為




猫をたまたま飼ったから猫も世界的な問題になっていることがわかった。猫を飼わなかったら猫のことについても無関心だった。猫の一番の問題は野良猫が多いことである。
それがわかったのは猫を飼って餌をやっていたら野良猫が必ずよってくる。
オスだとメスがよってくる。観察のために見逃していたら家の中まで入ってきて荒している。
野良猫は餌がないのだから餌をとるために必死なのである。そろそろと自分の顔をうかがい警戒して餌を食べる。でもゆっくりは食べていられない、いつも追われているから常に逃げる用意をして食べている。ゆっくり食事もできないのもあわれである。
たまたま飼った猫は未だに腹がへると狼のように襲いかかるように獰猛になる。
それはペットととは全然違った野生の姿である。
ただこの猫は飼われていた猫なので人間に近寄ってきたのである。

猫の問題は野良猫が多すぎることなのだ。猫は自由に家を出入りしているのも違っている自分の猫は夜はいないし家にいる時間は短い、家にいる時は寝ている時か餌をねだるときである。あとは外に出ているの猫なのである。だから外で喧嘩して傷つけられたりした。そして問題なのは最近メスの猫がきて余った餌を食べにくることである。
そのメスとは外ではいつもつきまとっている。自分が与える餌を奪い合いするというのではなく結構食べさせているのも不思議である。
メスであり共同意識があるのかもしれないので分けてやるということもあるのかもしれない。

ただ今日はせっかく遠くから買ってきた大きな食パンをただまわりを食いあらされて一斤が食べられなくなった。これには頭に来た。その猫は食べるために必死だからパンまで食べた。家にいる猫はパンなど食べない、猫はパンを食べないが腹をふかせば何でも食べるということがある。だから猫はそうして餌をやっていたりすると家の中に入り荒すようになる。
ここで自分の人間側の問題として猫を飼うでもない飼わないでもないというあいまいな状態においたことである。これは他でも問題になっている。野良猫に餌をやって野良猫が増えて近所に迷惑をかける。野良猫はどうしても餌をやる人がいるから生きている。
それでも野良猫は生きるのは厳しすぎる。野生でもないから餌がないのだから家の中に入ってでも餌を得ようとする。猫も生きるために必死だからそうなる。飼い猫は他人の家を荒したりはしない。

つまり猫は犬のように登録制になっていないことが問題なのだ。昔は野良犬が普通にいた今でもアジアでは野良犬はいっぱいいる。それは危険でもある。
野良猫も実際はいろいろと危険らしい。生態系的にも野良猫に殺される小動物が膨大になっているという。猫は狩りをするからスズメなどをとってくる。食べなくても本能でしている。そして他にも猫は外で何をしているのかわかりにくいが何かを虫なども食べているらしい。それが生態系にも影響しているという。それだけ猫は世界的にも多いのである。
猫は未だに飼い猫と野良猫がいて生きている。野良猫化しても生きていることが違っている。ねその数も相当多いのだ。近くで三匹の子猫を空家で隠れて育てているのを見た。
猫は繁殖力も旺盛なのだろう。ただ野良猫は生きてゆくのが本当に厳しい。
だから早死にするというのがわかる。だいいち飼っている猫でも腹がへると鳴いてうるさい、それも一日三回くらいなきつく、猫は胃腸が小さく何度も餌を食べるという、そしたらこの猫は野良猫の時どうして餌を取っていたのだろうとなる。
飼われてもそれだけ餌をとるために鳴きつくからどうしていたのだろうとなる。
腹がすくと動物は獰猛になり何でもするようになり害を与えることも平気でする。
猫側から見れば生きるために必死でそしているだけなのである。
でも人間側からすれば家の中が荒され貴重な食べ物が食われたりすると頭にくる
今回はそうだったし前にもあった。人間は被害にあってみないと関心がないのである。

それで猿やイノシシに荒される畑を作っている農民などの気持もわかる。せっかく苦労して作ったものが猿やイノシシや鹿に荒されたとき怒りとなるのは当然である。
でも人間は動物でも常にかわいそうだから殺したりするなよとかなる。
ところが被害にあった人たちはそういう感情がわかず怒りとなり殺したいとなる。
人間は自分が被害にあわないかぎり何でも傍観しているだけであり無責任なのである。
こういうことはすでに古代から起きていたのである。
動物を家畜化したときは人間と動物の共存を計った。その歴史も古いのである。
人間と動物がどうして共存してゆくかは古代からすでにあった。
だから野良猫でもみんな殺処分してしまいということもなかなかできない。
やはり猫でもそこは人間と通じるものとして動物をみるからである。
だからかわいそうだという感情がわく、ただそのかわいそうだということが無責任さも生んでいるのだ。

結局猫を責任をもって飼うのか、それともあいまいにして野良猫に餌をやったりして地域に迷惑をかけるのかとなり地域で猫を見守るという方法もとっている所がある。
猫は登録制ではないし野良猫の数は多すぎることが問題なのである。
何らか人間で管理する他ないのが猫なのである。それができていないから問題になる。
猫側にしても野良猫として生きることは厳しすぎるから三年くらいで死ぬとかなる。
そういうふうに生きることを強いられるのも厳しいとなる。
飼い猫と野良猫の差が大きすぎる。それは人間社会の格差とは比べようがない。
野良猫は毎日今日餌にありつくかつかないかと必死である。
飼い猫は一日のんびりと寝て腹がへったら餌が与えられるからその差が大きすぎるのである。

自分の猫は外にいる時間が長い,だから喧嘩してかなりの傷を負った。田舎だから交通事故にはあいにくいかもしれないが交通事故でも猫は相当死んでいる。それで猫を山に埋めてやったというばあちゃんがいた。ただ猫は一匹だと何か淋しいとなるかもしれない。
メスを求めることもありそのメスは外で会うことになるからだ。
家にばかりいたらそうした猫の仲間での暮らしがなくなる。猫はあまり群れないにしても何か外では仲間がいてメスがいてそれが猫らしく生きるとなる。
ともかくもともと動物と人間のかかわりはいろいろむずかしいものがあった。
だからインドでは動物を神のごとくして大事にした。それがヒンズー教となり仏教にも発展した。インドでは今でも牛が街中を歩いていたり猿を大事にしたり生き物を動物を大事にしているのだ。牛を食べたりもしないのである。
何でも食べる中国とはまた違った文化をもっていた国なのである。
だから動物と人間のかかわりはそれだけ古い歴史があり簡単には処理できないものなのである。つまり動物でもそれを人間のようにみるからそうなるのである。

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この家は広くていいな、のんびりできるな、餌もねだればもらえるしな
この家は俺様の家ということなんだよ
餌の心配はないことが一番だよ
野良になったときは生きた心地しなかったからな・・・・・・

背中の傷はかなりの傷だった、他にも頭にも傷があった。
外での生活はやはり危険がともなっている
でも家の中にばかりいると猫もつまらないだろう。
外が歩く時生き生きしてくのも猫なんだよ

 
posted by 老鶯 at 14:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 時事問題の深層

2014年08月11日

お盆で墓参り(その人にふさわしい供養の仕方がいい)


お盆で墓参り(その人にふさわしい供養の仕方がいい)


我が姉の思いはなおも南国へドランゴンフルーツ霊前に献ぐ

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姉が死ぬ間際まで語っていのはシンガポールではない、その向かい側のジョホールバルというイギリスが支配していた地域である。そこにイギリスの病院があった。
そこはマレーシアでありそこで4年間従軍看護婦として過ごした。
この4年間が姉にとっては人生の最も印象深いものとして終生語るものとなった。
戦争のことは普通に経験できないことだからそうなる。
戦争に負けてジャングルに逃げた時が食料もなく一番苦しかった。
そのままジャングルに逃げて何十年後に日本に帰還した日本兵がいたことで話題になった未だにジャングルがありそのジャングルも奥深いということなのか?

だからよくドリアンとか南国のフルーツのことを語っていた。ドリアンのことも語っていた。ここに飾ったのはドラゴンフルーツである。これも南国的な果物である。
これを飾るにふさわしいと思って飾った。
死んでみるとその人にふさわしいものが何か残る、あの人はこういう人だったからこれがふさわしいとかなる。
その命日にはそうしてそういうものを墓にささげたりする。酒とかタバコをささげたりもする。それもまた好きだったものだからとなる。

現代では何かもうこれまでの供養の仕方や葬式の仕方はすたれた。墓もその人が生前好きだったものがありその好きだったものをモチーフにして墓にしたりしている。
戒名などはもうすたれたのである。それよりその人がどう生きたか何が好きだったとかで葬式をする。あの人はこの歌が好きだったかとその人なりの葬式をする。
お経など唱えても今は金をとられるだけである。
戒名にもその人なり個性があるかもしれないが実際は現せないだろう。

その人を偲ぶにしてもその人なりのその人にあうものでもって供養するのがいいのであるただこのお盆というのはそれなりに意味があるものだと思う。
これは仏教には由来していない日本的文化なのである。
これは宗派を越えて日本的文化だからお盆に死んだ人を供養するのがあっているのだ。
お盆と終戦記念日とか重なっているのも一つの日本的なものの継承なのだろう。
お盆には戦争のことも話題になるからである。

継がれず無縁、さまよう墓石 不法投棄続々、墓の墓場も
http://www.asahi.com/articles/ASG7Y5F9PG7YPTFC019.html

墓は簡単に捨てられないということが問題だと前に書いたけどこれはもうどうしようなくなりこうなった。テレビでも今日放送していたけど捨てられた墓には元禄とか刻まれていたからそうした古い墓も捨てられている。
この辺では墓だと元禄となるとほとんどない、自分はいつも墓地を見ているがその時江戸時代の墓があればここは古い場所だから貴重だと思う。
江戸時代から人が住んでいたということで貴重なのである。
明治時代になるとあまり関心がなくなる。明治にしてもすでに140年とかすぎているのである。明治とか大正でもすでに歴史的に価値あるものとなっている。
でも江戸時代のものがあるときそこは古いと認識している。
だから江戸時代の墓は個人の墓でも文化財になってもいい。
その墓はもともとあった場所にないとまた意味がないだろう。

ともかく墓の問題は本当にめんどうである。ただ墓は家より長く残る、家は壊されてなくなるが墓は無縁仏になっても残っている。ただもう墓も供養するものがなくなればただの石ころになってしまう。古いものは文化財となるが明治くらいだと普通は捨てられるだろう。だから元禄と刻まれた墓が捨てられていたのは理解しにくいのである。
今日はすぐ近くの墓地に行ったらガーガー団地の工事をしている。そこは今までとは全く環境が違ったものとなった。この変化も大きかったのである。
一つのにぎやかな街が生れその中に昔の墓地があるという奇妙なコントラストになってしまったのである。
墓地はやはり静かなしんみりとした場所がふさわしい
都会では普通かもしれないが墓に眠っている霊がその団地に住んだら入ってゆくような奇妙な感じになっているのだ。
この変わり方も想像もつかないものだった。
津波であれ原発事故であれその変化は全く想像すらできない変化をもたらしたのである。

鹿島街内の墓地の前に建った復興団地の違和感 (地盤が柔らかい場所だった) 。


鹿島街内の墓地の前に建った復興団地の違和感


(地盤が柔らかい場所だった)

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元禄の次に宝永になるし天保の碑もあるからここは古いのである。

鹿島町内の墓地の前に立った復興住宅の団地を作っている労働者に聞いた。
「ここは地盤が弱い、ブルドザーがゆるているだろう、あれは地盤が柔かいからだ
ここは昔は沼地か湿地帯だっただろう、川が近いからその影響もあるだろう
ここは地震が来たら建物割れるな」
「う、そういこともありうるな」
「この墓地は江戸時代からある、天保という碑を見つけた、もともとここは鹿島御子神社の領域だったがその脇に寺が立つようになった。
それで宝永の仏教関係の大きな碑がある。あれは目立つ
神社から寺になった神宮寺というのは全国的に多い、ここもその一つだ」

この復興住宅は一階が一人暮らしの老人用であり集会所もある、二階以上は家族で住むようになっている。つまり一人暮らしの老人が孤立しないような作りになっているという。相馬市では一人暮らしの長屋風の住宅ができた。それは一室でも二部屋あり
食堂のようにな大きな集まる場所がある。だから長屋だというのは昔風に人がつながることイメージしたのである。
それは老人ホームとは違う、そこでは自立した老人が生活する場だからである。
こういう配慮は老人の一人暮らしが増えているのだからいいと思う。
その墓地の隣には小さな公園がありほとんど使う人がいなかった。
子供すら使っていない、でも百人くらいが生活する団地になるとあの公園も使われる
やはり人がある程度子供でもいないと公園すら閑散として使われず淋しいともなる。

それにしてもこの世とは本当に変わる。そもそも鹿島御子神社から隣に寺ができた。
神宮寺ができた。そこに寺子屋ができて一つの碑が記念として残された。
それは天保の碑だった。その時はその前は草むらか沼地か田畑にもなっていない所だった川が近いので地盤も柔らかい、鹿島町内はどこも地盤は弱いだろう。
それは真野川が影響している、鹿島町内は一回真野川が氾濫して水にひたった。
その時自分の家が下にあり一番低いところで被害が大きかった。
それは小学六年の時だった。自転車とか学用品が流されたことを覚えている。
その時泣いたのは自転車が壊れたことだったのである。
その頃から自転車には乗っていて好きだった。
ふりかえるとあの時家族はみんな意気消沈した、それは津波の跡と同じだった。
ただ家は残っていたがトタン屋根の家であり雨もりするボロ家だった。
その水害があってから二階がなかったのでなんとか二階のある家を作りたかった
それで水害から十年後くらいに大きな二階のある家を建てたのである。
その頃まだ新しい家は建たない時で大きな家で回りがびっくりしたし隣で日影になったのでいつまでも怒っていた。
回りでもやっかみがあったのはその時まだ新しい家がまだ建っていなかったからである
水害は近くの堤防が決壊して30年前頃も被害を受けた。その後河川改修して水害がなくなった。真野川はそれだけ大きな川でもあるから水害が度々あったのである。

これだけの家建てたりできたのは姉の力が大きかった。自分の家は姉がいないと成り立たない家だった。姉の恩恵で豊かになったのである。
それぞれの家にはもそうした歴史が必ずある。栄える家にはやはりそれなりの原因がある衰退する家でもそうである。母方の実家は警察署長でも事業に失敗して一家離散になったのだからその原因を作ったのは祖父でありそれゆえに今は実家は消えて墓しかないのである。
実家がそうなったのは衰亡して墓しかないのは祖父が原因だったとなるのだ。
家は誰か人がいて栄えたり衰退したりしているのである。
ただ栄える家も衰退してゆくのは国単位でも普通にあるから何代も栄えるつづく家はやはり何か家がつづく原因がある。

ともかくあの墓地の一角も郷土史であり古代から江戸時代からと変遷を重ねてきているのだ。ただ今回の変化は想像すらつかないものだった。
前には保育所などあったがそれはさほど違和感を感じなかった。
あの団地だけは一つの街と化したので変化が大きすぎた。
だから墓地の前にあんなに人が住む場所ができることが何かしっくりこないのである。
墓地から霊がでてきてその団地の家に入り込んでゆくような奇妙な感覚になってしまうのである。墓からすぐにその団地に通じているからそうなる。
その団地に住む人にしても常に墓を見ているというのも奇妙な感覚になってしまうだろう
街内は地盤が柔らかい、中世はたいがい小高い丘や山に館を構えている。それは平地になると日本ではもともと湿地帯だから地盤が柔らかいのである。だからそもそも古い家は高台にあり高台の方が地盤も強いとすると地震にも強いとなる。もちろん水害などの害もないから高台の方が先に人が住んだ。
今回の津波でも古い家は高台にあり助かったという。新しく入ってきた人たちは低地に住んで被害が大きかった。
田んぼになっている平地も地盤は柔らかいから地震には弱い。
とにかく日本では地盤の柔らかい所が多すぎるのだ。

posted by 老鶯 at 20:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

ジャコウアゲハを初めて見た (玄関にとまっていて写真をとった)


ジャコウアゲハを初めて見た


(玄関にとまっていて写真をとった)

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一時をジャコウアゲハの我が家にとまりて去りぬ夢のごとくに



とくに雄は芳香を放つので麝香(じやこう)の名がついた

本州より南西諸島まで分布するが、東北地方北部では稀となる。
国内の分布を詳細にみると、食草であるウマノスズ類の分布との対応がみられる。関東や中部地方では標高700〜800m以下の場所に限られる。


ジャコウアゲハ生態集ーここが一番詳しい
http://www.g-hopper.ne.jp/free/fukuda/zukan-a/agehacho/za_jakoageha-al.htm

平成元年に姫路市は、市制100年を迎え、「市蝶」にジャコウアゲハ(お菊虫)を制定しました。それは姫路市のシンボル姫路城には築城主池田輝政の家紋「揚羽蝶」の瓦紋が何千と用いられているからです
http://ehc-hyogo.net/hp/?i=jakouageha&m=55

 オオバウマノスズクサ  (大葉馬鈴草)
http://fairysilv.exblog.jp/m2011-04-01/



この草が生えているところにジャコウアゲハが生息する。馬の鈴というのもすでに古くからつけられていた名前である。

この蝶は埼玉県まで見られるし東北南部でも見られるとしてもめったに見られない、南の方の蝶である。それで姫路市の蝶になっている。
どうして自分の家の玄関で見れたのか?
やはり最近暑くなっているせいだろう。ただ馬鈴草など見たことがない、そんな花があったのか?その花が自生していればこの蝶も生息できる
原発事故でこの辺では山野が元の自然に還り野生化している。
放射能で汚染されても人が住まなくなると自然が甦る不思議があった。
中には遺伝子が障害受けて蝶が小型化したとかなんか影響を探っているが明確にはわからない。遺伝子の放射能の影響はまだわからない。

ともかくこの蝶は見たことがないので驚いた。それも山の中ではなく街の中の自分の家の玄関で見たのだから驚いた。何か原発事故以後自然の変化がこの辺ではある。

チョウトンボ

国内では本州東北部から九州にかけて分布し、国外では朝鮮半島、中国に分布していますある程度自然度の高い環境でないと、多数の個体は見られないとのことです

チョウトンボが津波の跡に飛んできたのを見た。それは生息した海岸の潟がありそこが繁殖地だった。それは山元町から仙台の海岸線にあったという。そういうまだ自然を残した場所に生息していた。
これも津波の跡に一時だけ見たのである。あとは見ることがなかった。
そんな場所があるとは知らなかったし普通の人は知らない、研究者のみ知っていたのである。

自分は花とか蝶を見てきた。蝶は沖縄が種類が多いからいろいろ見れて楽しめる。ただこれも時間がないと本当は見れない、自然の観察は何でも時間に比例して記憶に残りやすいのである。自然観察となると特に動くもの動物類は知るのがむずかしい。
一瞬出てきてもすぐ消えてしまうから観察できないのである。
だから動物写真家何日もいい写真をとるためにテントに寝泊まりしてとっているのであるそれはプロだからできるのであり普通の人はそこまでできない。
ともかく今日ジャコウアゲハを見て写真まではっきりととったのは幸運だった。
なぜなら一生に一回しか現物を見れないということもあるからだ。



2014年08月12日

南相馬市鹿島区の街内にできる復興団地の違和感(2) (墓地があり霊園として整備する場所だった)


南相馬市鹿島区の街内にできる復興団地の違和感(2)

(墓地があり霊園として整備する場所だった)

●都市計画なき復興団地

津波や原発事故で問題になったのはどういう街作り地域作りをするかということが大きな問題としてクローズアップされた。それは津波の跡は何もなくなってしまったからではそこを何にするのだとなる。ゼロから一からはじめるのにはいい状態になる。
それでは何にすればいいのかとなるとその解答も簡単には出てこない
まだそれぞれの所有者がいて公園にするといってもなかなかできない。
津波の被害の大きい地域は一体どういう街作りを地域作りをしたらいいのかとなる。
その前に住むのをあきらめている人もあり他に移った人たちも多い
するとすでにそこは何もない原野のままになってしまうのかとなる。

墓地の前に復興団地ができたのは土地がないということで幼稚園とかがあり市の所有だったので半分は私有でも買い上げてあれだけの土地を確保して復興団地にした。
それは津波などで家を失った人が多いのだから早めに建てる必要があった。
そもそも土地が不足していて土地があれば建てればいいという考え方であり
とても街作りのプランを多方面から検討する余裕もなかったのである。

でも自分の家の墓もあそこにありあの団地が何か違和感を感じたのはそこが墓地だったからなのである。墓地があったところに団地が建ったから何か変だなと感じた。
そもそもそこは最初は鹿島御子神社の領域であり次ぎに寺が建ち神宮寺になった。
それで宝永の大きな石碑が建っている。それは仏教関係の碑であり天保の寺子屋だった記念の碑もあった。
それがいつし墓地になった。明治時代以降に墓地が拡大して墓地だけになった。
今では墓が増えて窮屈なのである。もともと狭い所であり窮屈だった。
南相馬市の原町区の実家の墓がある場所は広々として気持いい。広い一画一画を分譲したからそうなっている。だから街中にあっても広々として気持いいのである。
そこは街中の霊園として市で整備したのである。
市で計画して整備して作ったからそうなっている。

ところが鹿島区内の街内の墓地は歴史的に発展して墓地になった。一般的に田舎の墓地は江戸時代の継続である。必ず江戸時代の墓があり新しい墓が建てられている。
橋本町の霊園は全く新しく作られたものである。一部は寺だから古い墓もあったにしても全体的には新しく作られた霊園なのである。
つまり市で霊園地区として計画して広い場所を確保したのである。

●本当は霊園として整備するべきだった

今回の復興団地ができた所は墓地であり本当は霊園として整備した方がいいということがあった。ただ土地がないし津波などの異常事態でやむなく復興団地が建てられることになった。だからじっくり計画して街作りする余裕がないからやむをえないとなった。
でも今建ったのを見ると何かそぐわないなとつくづく思ってしまう。
団地ということもあるからかもしれない、相馬市の長屋風の住宅などであればさほど気にしなかったかもしれない、突然三階建ての団地が建ったことが違和感をもたらしたのである。
本当は原町のように霊園は霊園地区として整備するのがいい、原町区はたいがいそうなっていようだ。墓地は霊園地区として整備されているのが多いだろう。
そこには一つの都市計画がありそうしたのである。
鹿島区内の街内でもそこを余裕があれば霊園地区として公園化することもありえた。
ただあまり墓地を小さな街で作るのはそぐわないということもある。
墓地はもともと郊外の方が向いているということもある。
それより墓地より何かもっと現代の生活に役に立つのに予算を注ぎ込んだ方がいいということもありそこにはいろいろな意見がありそうしたことを検討するなかで新しい街作りがありうる。

今日の河北新報で神戸でも巨大開発をしても商店街を作っても客が集まらなかったとかの反省がある。そこ住んでいる人たちの要望の上に作られるのではなくただ建物だけを作ればいいという発想がありそれでそうした建物でも利用されずに終わるということもある。金をかけても活きてこないという問題があった。
鹿島区の厚寿園でも立派な建物はできても介護士などが集まらなくて他から寄せ集めてかろうじて運営していることでもわかる。
建物というハードを整備してもそれを利用するソフトと人々の要望するものと生活するものと合わないと失敗する。
確かに一回を一人暮らしの老人が住み集会所もありとそこに工夫をしたのは良かった。
でもみなん住みたくないから空き部屋になるとかいう人もいる。
やはり田舎だと土地さえあれば一軒家を建てたいという要望があるからだ。

●土地や家の愛着を賃貸住宅ではもてない

あういう団地には何かなじめないという人も田舎では多いだろう。
故郷という時家がり土地があり田畑があり墓があり先祖がありとそういう人は故郷に愛着を覚える度合いが強いだろう。
でも田舎の安い住宅とかアパートに住んでいたら何か故郷とか土地への愛着度合いは低いように思える。
これは自分の家だとか自分の土地であり田畑だという感覚ないと愛着の度合い薄れる。

郊外の農家≫土地と家の所有者≫賃貸住宅

街の外の農家を見ると屋敷林に囲まれた農家ありあいいう家は何かより土着的であり愛着があるだろう。その家が一つの我が城みたくなっているからまた街内の密集した家とも違っているのである。そこは生産とも一体化していたときがあったから余計にそうなる。
農業だけで暮らしていた時代がありその時はその家は単なる会社につとめて休養する場所とも違っていたのである。そこには別な家の重みがあったのである。

朝の蝉なきひびきつつ屋敷林残れる家や津波の後かな

津波の後に残った家を残谷とか地名が残った。屋敷林があり蝉がなきびびいていた。
ああ、この家はつぐつぐ津波にも残ったのだなと感慨深かった。
つまり屋敷林があると相当に蝉が集まり鳴くのである。
屋敷林自体が一つの自然を作り出しているのである。
こういう家に住んでいる人と街中の狭い地域に住んでいる人と賃貸住宅とかに住んでいる人の感覚は相当違っている。だからあういう復興団地には入りたくないという人も多いだろう。もともと津波で家を流されたような人たちは広い宅地に住んでいた人が多いからである。
もともと市営の住宅に住んでいるような人だったらかえってそういう団地に住みたいともなる。そこにはもともと狭い場所に住んでいたから違和感がないとういこともある。

いづれにしろ市営の住宅や賃貸アパートなどに住んでいる人は一つの家に住んだことがないのだからそもそもがそういう一つの家に住むことがどういうことかわからないのであるだから近くの人が俺は若い時苦労して土地を買い庭を造りこの家を建てたから移りたくないという気持がわからないのである。
家を借りてばかり住んでいる人は家への愛着が理解できないのである。
自分の家のことも語ったが家には必ずそれぞれの歴史がある。
市営の住宅に住んでいる人はまず家に対する愛着がない、ただ一時いるというだけだから一つの家に住むということを知らないである。
だから仮設とにたような状況にあり仮に住んでいるだけだとなる。
いつでも他に移っても変わりないという感覚なのである。
posted by 老鶯 at 17:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年08月13日

桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人 (その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議ーにぐらや牧場の人)


桃を南相馬市原町区のコンビニの脇で売っていた伊達市の桑折町の農家の人

(その人が語ることには歴史が詰まっていた不思議ーにぐらや牧場の人)

●半田銀山は日本の三代銀山だった

桑折宿を出ると街道左手には半田銀山で知られた半田山(863n)の雄姿がよく見える。
かつては佐渡金山、石見銀山とともに日本三大鉱山といわれた半田銀山。慶長3年(1598)ごろから米沢藩上杉景勝の代より本格採鉱が始まり、江戸・明治期にその隆盛を極めました。  この銀山は幕府直営の御直山として佐渡金山と同組織で経営され、役人も佐渡、石見、生野から交替で派遣され産出量も大きく伸び、幕府の財政を大きく支えました。
http://www.town.koori.fukushima.jp/site/kankou/handa-ginzan.html

半田山(桑折町)は、徳川幕府時代に、通貨鋳造銀山として、佐渡相川金山、但馬生野銀山と共に日本三大鉱山といわれ、坑道の延長は十数キロメートルあり、当時は大いに賑わっていました。
「伊達はよいこと半田の銀山、末ははだかになる半田」との俗謡は日本中の坑夫が知っていたという。また、先代萩の芝居で御殿の場の一節に、政岡が「七つ八つから金山へ同じ名のつく千松は」と述懐するが、これは60余万石の重臣だった政岡が、半田銀山の一坑夫をうらやんだものと解されるくらいで、半田の当時の繁昌がわかる。
http://plaza.rakuten.co.jp/odazuma/diary/201008300000/

配線の接合に使われるハンダ(づけ)の名は、桑折町にあった半田銀山に由来するとの説がある。

半田山山麓にある半田沼は、伝説の沼としても知られている。
源義経が平泉の藤原秀衡を頼り、この沼を通った時、
金銀を背にした牛が暴れて沼に落ち、以来この沼の主になったという。
その牛は人を襲うので、沼に近づかないようにと伝承されていたようだ。

藤田宿は代官のいる桑折宿と違い、旅人や付近の人にとって気楽な宿場であったらしい。
そのためか、付近の人や半田銀山の人が旅籠や湯屋に入り浸りと賑やかであったようだ。
嘉永5年(1852年)で、旅籠は14軒もあった。
なお、この藤田宿は、今は伊達郡国見町(くにみまち)藤田となっている。
http://hitosh.web.fc2.com/04osyudo15/158oiwake.html

●にぐらや(荷鞍屋)だった農家

コンビニの隣で桃の安売りしていた人がいた。78個で一箱500円で二箱で1000円にしていた。これは安いと思った。次から次と売れてなくなった。
なんか桃の投げ売りのようになっている。放射能汚染で売れないのか多少痛んでいるのかわからない、味はいいしこぶりではあるがとってきたばかりで新鮮である。
その人は伊達市の元の桑折町の人だった。

その人は田畑も作っているし馬も競走馬も十頭くらいもっていて福島競馬なのだろう、競馬新聞で自分の馬が勝って賞金を獲得したと自慢していた。
そして自分の先祖は江戸時代から馬商人だったという、15代つづいていて正五郎とか正がついていたという。五代将軍からであり馬を徳川家に献上していた家柄であり葵の紋の提灯も家にあるとか言っていた。
その馬は盛岡から買って江戸に送っていたという。盛岡では確かに大規模な馬市が開かれたところであり福島県からも馬を買いに行っている。それは江戸時代からであり古い歴史がある。
その理由は江戸時代になり街道が整備されたからだろう。
でもこれほどの古い旧家だったということも驚きである。
「にぐらや」という家で天皇家に献上桃を出しているのだから由緒ある古い家なのである

福島県伊達市霊山町掛田荷鞍廻(字)

江戸時代末期の安政七年(1860)、村の商売を記した「松崎家名
書」には旅籠屋 荷鞍屋 ・馬喰(ばくろう)のほかに20種類もの食料品を
商う店が書かれています。成田詣の旅人が増え、さまざ
まな農閑商いを営む村人が現れ松崎は町化した村に変わ
りました。
http://www.city.narita.chiba.jp/DAT/05_1015p16.pdf#search=
'%E8%8D%B7%E9%9E%8D%E5%B1%8B'


「在りし日のこの国の文明」は「生態学のニッチという概念を採用するなら..棲み分けるニッチの多様豊富さという点で際立った文明であった。」「鬢を結うためのかたい詰めものを売る店、下駄屋、紙傘の店、日笠雨笠の店、紙の雨合羽や包み紙の店、人馬のためのわらじを売る店、蓑や蓑笠の店、馬の荷鞍を売る店。そして表通りには漆器店と仏具屋がある。古着屋、扇屋、掛け物を売る店、屏風屋、羽織の紐を売る店、ちりめんを売る店、手拭いの店、煙草道具の店、筆だけ売る店、墨だけ売る店、硯箱しか売らない店、
((渡辺京二『逝きし世の面影』)

「桑名よりくはで来ぬれば」と伝日永の里より、馬かりて杖つき坂上るほど、荷鞍うちかへりて馬より落ちぬ。
徒歩ならば杖つき坂を落馬哉
と物うさのあまり伝出侍れ共、終に季ことばいらず。

「桑名よりくはで来ぬれば」という日永の里から、馬を借りて杖つき坂を上る時、荷物を載せる鞍がひっくり返って落馬してしまった。
(笈の小文 芭蕉)

今やこの人の家の屋号はにぐらや(荷鞍屋)である。この話でリアルなのはそれは江戸時代ではなく父親が荷鞍を作る職人でもありその作り方が他の人と違って工夫したところがあり作るのが早かったという。なぜ早くしなければならないかというと手作りだから多く作れないから早く作ったというのはなるほどそれは生々しい話しだと思った。
売るにしても売れるにしても手作りだから量が限られている。そうなると夜なべまでして作らねばならなくなる、残業である。
「人馬のためのわらじを売る店」というとき人だけではない馬のわらじも売っていたのである。馬もわらじをはいていたのである。
野馬追いでもそうだがそもそも馬のことがリアルにイメージできなくなってしまった。
自分は子供のとき馬車屋があってその馬車の後ろに乗って遊んだことを覚えているから
荷馬車のことがそれほど昔とは思えない、荷鞍屋は馬車ではない、馬そのものに荷物をのせて運ぶためのものである。荷馬車になるともっと大量に荷物が運べたのである。
荷鞍橋とか荷鞍が地名になっているところが福島県に二つもあることはそれなりに福島県でも荷鞍作りも盛んだったのだろう

●半田銀山の裏話は本当なの?

もう一つ半田銀山のことで代官が賢くて本当は金がとれたのに徳川家には銀を送っていたという。これはごまかしていて代官の名前には銀がついているが本当は金がとれていた。その金は飾り職人によって細工されていた。確かに伝説には金銀の山ともあるから金もとれていたがそれは報告しないで隠していたのかとなる。
こんな話までしているのはそういう話しが伝えられてきたからだろうか?
もちろん半田銀山にはそれだけの日本を代表する銀山だった。
だからいろいろな話しが伝説がまとわりついてくる。
ただこの話は自分ははじめてきいた。この辺の歴史も調べていないし桑折町にはよっていない。というのは福島市に何度も行っても駅だけの名しか覚えていない
越河ー貝田ー藤田とかの駅である。ここはもともと街道の宿場町だったのである。
だからここは自転車でたどらないとわからない所だった。
電車の旅はこうして歴史の跡をたどることができずぬけてしまうのである。
ただその頃自転車の旅はしていない時期であった。
それでもあとで羽州街道は自転車で旅した。あの小坂峠を自転車で登るのは最高にきつかったのである。
桑折町は羽州街道へ出るまた江戸へ出る分岐点の町でもあった。
だからここはもともと人の出入りがある繁華な町だったのである。

まず奥の細道は新幹線でも普通電車でも通り過ぎたら何の感懐もないだろう。
最近インターネットで詳しくその行程を紹介している人がいて何かそれをたどると旅した気分になるのである。
旅にはこうした知識も必要でありただ通り抜けてゆくだけでは跡に何も残らないだろう。だから旧街道をたどることは必ず本当は必要なのである。
ただ遠くからくるとわかりにくくめんどうになるのである。
もう一回ここを通って旅したいがそれができない
旅するとなると自由な時間がかなり必要なのである。車だとできるがやはり旅するのとは違う。旅とは現代では最も贅沢なものになってしまったのである。
それでも福島県内でも自転車で自分は相当に旅している。
だから思い出して文を書くのだがここの桑折町についてはほとんどわからなかった。
でもここは奥州街道の要所であり歴史ある町だったのである。

いづれにしろ桃を売っていた人はこんな話できるのだから何か商売も上手なのだろう。
話がうまいということである。競馬はギャンブルだけど競馬は馬が疾走するのが見れからパチンコとは多少違っている。自分は動物に興味がある。馬が草原を疾走するのを見たら気持いいだろう。そこに馬本来の姿がある。競馬はそうではないが今や馬が見れるのは競馬場しかないということである。馬については野馬追いでもそうだが馬そのものについてイメージできなくなっている。馬が身近に接していないから馬が何であったのかイメージできなくなるのだ。

あそこでは毎日桃を売っているわげではない、不定期であり今回はお盆で特別安くしていたのである。今回限りと書いてあったからそうである。でもまた来るというからまだ桃の時期であり売り来る。桃は期間が短いし外国産も入らないから競争相手がないからいいとは言っていた。献上桃の家にしては安く売っているのもわからなかった。
何らか桃も早いうちに売る必要があって安くなっていたのだろう。
福島市は暑いから桃の産地になったのである。

ともかくこうして一人で売る人は今や一人で市を開いていると同じである。
昔の市を思い起こす、市には物を売るだけではない、こうした情報が集まることなのだ。物を媒介として情報が集まりそれで見聞を広めていたのである。
情報通信が発達していないとそうして人が集まる場所で情報交換していたから
昔の市はただ物を買うというだけではなかったのである。
物を通じて人と人が交流する場所だった。現代はただ物がどうして作られてどうして運ばれてきたか皆目わからない、ただ物があり買うとういことしかない、その物が作られた経過もわからない。だから地球の裏側で作られた人のことなど関心がないのである。
つまり人と人の交流がないことが問題なのである。
バナナをとるにしても重労働だったという若者が言っていたがそういう話をバナナを売る人から直接聞けないことが問題なのである。
そういうグローバルな経済は非人間的にもなる。物だけが流通して人の顔は見えないのである。それは金融でもそうであり人の顔が見えない巨大化した結果、雲をつかむような金融の世界になっている。だからコンピューターが操作しているのか悪魔が操作しているのかユダヤ人陰謀論とかになってくる。それはとても世界化した経済が見えない世界になっているからそうなる。金だけ神のようになってしったとかマルクスが言うのもわかるのである。だから人間的経済を復興させろということがしきりに言われるようになってきたのである。
タグ:半田銀山

2014年08月15日

花と蝶の写真(イワヒバの庭)


花と蝶の写真(イワヒバの庭)

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ここはクリック拡大

のうぜんの玄関に散り蟻歩む

夕蝉の甲高く一羽裏通り

夏の暮猫ねそべりて夕燕


我が庭の木陰に一時また休むジャコウアゲハの紋を見るかな

寺内にソバナの花のはや咲きぬそいて行くかな裏の細道

紫の色に染まりて揚羽蝶ここに出あいて喜々と舞ふかな

イワヒバの岩に根付きぬ津波来て残りし庭を手入れするかな

とことわの磐の庭なれゆうゆうと芙蓉に揚羽朝に舞ふかな


ジャコウアゲハをもう一回庭に見た。この辺を飛んでいたのだろう。温暖化で飛んできたのかもしれない。
寺内となると鹿島の町から通りからすぐ近くである。でも一万くらいの町になるとそれでも離れているし農家が多い。今は仮設の町になってしまった。
寺内という地名と歌が一致する。地名が短歌でも重要な要素になる。
すでに秋は来ているし今年は意外と秋が早くくるようだ。今日も涼しかった。

この一面に咲いていたのはハナトラノオである。原町の方に行ってみた。トラノオというのは自生しているがその大きなものであった。
夏は花を見て歩くのにいい、花というのは合歓の花でも咲く場所によってかなり違った雰囲気となる。だからこの道にも咲いていたなまた来てみるかなとなる。
場所によって同じ花でも咲いている感じが違ってくるのだ。

また近くの一人暮らしの人の大きな岩を組んだ庭を見に行った。イワヒバを植えていた。あの庭にはイワヒバがあっている。

岩の上に張り付いてでも生きる強靭な植物なので、根と葉をきちんとセットに植えこめば、それなりに生き延びてくれるはず。成長の遅い植物なので、今後に期待ですね
http://orangekinoko16.hatenablog.com/entry/2012/05/16/005625

イワヒバは自然の環境の中で自生しているシダ植物であり、「巻柏」「岩松」「長生草」などいろいろな呼び名があるが 不思議な植物である。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~tyuusan/iwahiba-frame.htm

イワヒバはまさに岩に根付くからイワヒバになる。何かその庭の主は体ががっしりしていて岩のように見えるのだ。一代で財を築いたしそれを自慢しているけどやはり家とか庭は財力がないと作れないから特に一代でとなるとそれなりの人でないと残せない。
その人は体ががっしりしていて親分肌の人だからそういうことができた。

芙蓉が咲いていてそこにも揚羽は喜々と舞っていた。それもあの庭にあっていた。
自分は家はあんまり興味がない、そもそも家は住んでみないとわからないものなのだ。
でも家の中はわからないから家に個性があってもわからないのである。
ただ庭は個性があってわかるのである。

今は芙蓉の花の時期である。この花は大きくておおらかな感じがするから好きである。
女性でもこういうおおらかな感じの人がいい、たいがいそういう女性は太っている。
太っていると何か包容力を感じる。やせた女性には感じないのである。
自分はやせた女性にも太った女性にも育てられたからその良さも悪さを知っているのである。
タグ:蝶の写真

2014年08月16日

抽象画(風の色) abstract colours of winds)


抽象画(風の色) abstract colours of winds)

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風の色


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地下の色

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踊る波

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重なる山


これも原画はインターネットにあった。なぜ抽象画がこのように量産できるかとなると
それはソフトの機械的作業から作られているからなのだ。
もし絵のようにイメージしたらこのように量産はできない。
抽象画は科学変化を楽しむようなのもだから量産ができる。

風にも色があり地下にも色があり動きがあるのかもしれない、風を感じるのは自転車である。風には言い表せないものがある。風はみんな一様ではとない、やはり色があるのだ。どちからかというとどうしても風は方向に左右される。
北風、西風、南風い東風とかで風を感じる。
しかしそれだけではない、風にはまだ何かその時々で違ったものを感じる。
風を感じることは車ではできない、車だと風を遮断してしまうからである。

だから機械化した現代は自然の感覚は麻痺している。
でもラジコン飛行機でも主に風にのって飛んでいるのでありプロペラを回して飛んでいるわけではない
それはあの大きな飛行機でも風を利用して飛んでいる。
いくら機械化しても風の力が作用して利用していたのである
風がなかったらものすごいエネルギーが必要になる。

風の働きで意外だったのは原発事故の放射能物質の流れだった。
福島市まで汚染されたことには驚いたのである。
3月11日の原発が爆発した時ちょうど東風が飯館方面から福島市方面に吹いていたのである。その時雨や雪もふり放射性物質が堆積してしまったのである。

地下にも色がありその地球の地下が解明されていない、でも死んだように動かない、色もない世界ではないだろう。地球全体が生き物でありやはり動くから地震も津波もある。

タグ:風の色

2014年08月17日

抽象画の謎(水の力) (パソコンはソフトをいかに使いこなすかに移る)


 
抽象画の謎(水の力)


(パソコンはソフトをいかに使いこなすかに移る)

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無題

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地中海(結ばれた海)


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水の力


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高低のある山


抽象画は何なのか?これも謎である。人間の世界は自然界でも実際謎なのである。
わかったようなことを言っていても科学者でもわからないのが多いのだ。
原子力や核のことでも実際はわからないのである。
芸術もこれを説明することは不可能である。
その基になる色にしても無数にあり色からイメージされるのも無数にある。

最初の抽象画は何と名付けたらいいのかわからない。
適当に名前をつけることができるがそれでもその名前通りでないのが抽象画である。
山なら山、机なら机と明確に現すことができないから抽象画になる。
抽象画見る人によって違ってくるのだ。

だから「無題」としたがこれが何か極めて抽象画的だからアップしたのである。
「水の力」となるとこれは水をイメージして作られているともなる。
ただ一定のソフトの手順が抽象画できることに関係している。
そのソフトは2000円のペイントグラッフィックでも十分である。
このソフトを使いこなすだけで相当な労力が必要になる。
今やパソコンはハードの問題ではない、ソフトをいかに使いこなすかが問題になる。
ソフトの分野とは頭脳とより深く関係しているのである。

これからはハードの分野はもうこれ以上発展しないかもしれない。
もうハードの分野は整備されたからである。
パソコンだって今はハードではない、ソフトの分野に入っている
だからこそソフトをいかに使いこなすかが問題になる。

お盆終わる (お盆は死者が還るのではなく死者を偲ぶ日)


お盆終わる


(お盆は死者が還るのではなく死者を偲ぶ日)


お盆かな墓地に集まり蝉時雨

猫歩む墓地の細道秋の蝉

家の跡死者の探すやお盆かな

鹿島より原町に見ゆ遠花火

一二匹夏蛙鳴き津波跡


津波跡闇の深しもお盆かな彷徨える霊なお家探しぬ

縁浅き兄にしあれどお盆には死者を思いぬ二十年すぎて


お盆には死者が還ってくるというより死者を思う時なのである。だから終戦記念日もあっている。人間が死ぬと急速に忘れられてゆく、どんなに有名でも芸能人でも全く忘れられてゆく、なぜまたそんなに早く忘れられるかというと生きている人はまた新たなことが次々と起こってくるからそれに心を奪われて死者は忘れられてゆく、現在生きている人は
今を生きるのに精一杯なのである。だから死者を思う余裕もなくなってきて忘れられる。だからこそお盆だけでも死者を思う時にしようとしたのだろう。
それは日本人の知恵であり文化であった。そもそも死者が還るということはありえない、死者を思うということはある。
ただ時間がすぎればすぎるほど死者は遠くなりあいまいになり忘れられてゆく。
戦争のことでももう膨大な死者を思うことはできない、その一人一人のことでももう親族も死んだりしているから思うことがなくなってくる。

津波で死んだ人はまだまだ生々しい、だから以前として死者が彷徨っている感覚がある。お盆にはその津波の跡を彷徨って自分の家を探しているような感覚になる。
人魂が見えたりするかもしれない、何かそういう不気味さがまだある。
だからとても観光地化するような状態になっていないのである。

今夜は原町の方に花火が見えた。遠花火となるが原町だったら見えるが相馬市だとここでは見えない、原町はそれだけここからは近いのである。

墓地というのは何か猫が歩むのにあっている。こっそりと墓の間を歩むのがあっている。猫は忍び足であり辺りを乱さないからである。
猫は目は悪いがいつも耳をそばたてているから耳はいいのだろう。
だから秋の蝉の声も聞いているのかとなる。お盆はすでに秋でもある。
お盆を境にして秋になる。今年は今日も涼しいから秋らしいとなる。

いづれにしろ自分の兄は自分の家で五年間は一緒に住んだがあとは別々になった。
だから縁が浅いしすでに交通事故で死んでから25年もすぎている。
いつのまにそんなにすぎてしまったのかと思う。
母は百才まで生きると思うが25年前に息子は死んでいる
ボケたので息子も忘れているだろう。
結局25年もすぎるともうなんか遠い過去となり忘れててしまう。
その死者が何を思っているのかとか何を伝えたいのとか思ってみてもわからない。
25年すぎたのでそうなってしまったのである。

自分の家の縁となるものはみんな切れた。その因縁はまたカルマであり最悪の結果となって切れた。金にからんで切れた。まさに金の切れ目が縁の切れ目だった。
本当にこのことわざをここ7年間でいたいほど経験した。
だから諺は迷信とかとは違い人間の変わらぬ真理なのである。

縁が切れるとか別れるとかで一番多いのは金の問題なことはまちがいない。
すでに多額な金を貸し借りするような関係は切れるだろう。
その人は最初から金ばっかり要求してきた。
事業で失敗して借金していたのだから頭には金のことしかなかった。
ただ前の代のつづきで交際していたのである。
まず親戚でも二代つづいて交際している人はまれだろう。
それだけ人の交際もまた変わり安いのである。
この辺はあまりにも変わりすぎたのである。
「さよならだけが人生だ」というのは本当に60代になったら現実である。
みんな最後は別れて永遠に会わないものとなりこの世で会うことこそ不思議だったとなるそして最後に思い出す人すら数人になる。
ぼけたりすると息子でも娘でも忘れる
「みんな忘れたわ、お前はだれじゃ」と母親が息子や娘に言う時、まさに生きながら死別していると同じなのである。相手に対しての記憶が喪失したら存在しないと同じだからである。息子娘も知らない人になってしまったということである。