2014年08月01日

小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した (文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)



小高には湊があり大船が出入りしていたが津波で消失した

(文禄二年の相馬藩の士禄の記録が語るもの)


●文禄から慶長年間の記録の再考

慶長地震とは一つの地震ではなく、慶長年間(1596年-1615年)に日本列島で起こった地震の総称だった。更に正確に言うと、文禄5年9月1日、4日、5日と大地震が連続したので、慶長と改元したが、その後も地震が連続したのだそうだ。慶長地震(ウィキペディア)から抜粋する

慶長伊予地震 - 文禄5(1596)年9月1日、伊予国をおそった地震。M 7.0
慶長豊後地震(大分地震) - 文禄5(1596年)9月4日、M 7.0〜7.8、死者710人。
慶長伏見地震 - 文禄5(1596)年9月5日、近畿地方をおそった地震。M 7.0〜7.1、
京都や堺で死者合計1,000人以上。
慶長大地震 - 慶長9(1605)年2月3日、東海・東南海・南海連動型地震でM 7.9〜8.0。さらに房総 沖までが連動したと考えられ、M 8.4〜8.5の説も存在する。地震動による被害は少な かったが現在の千葉県から九州に至る広範囲の太平洋岸に津波が襲来し、死者1〜2万
慶長会津地震(会津地震) - 慶長16(1611)年9月27日
慶長三陸地震(慶長三陸地震津波) - 慶長16(1611)年12月2日に三陸沖を震源として発生した地 震でM8.1。

この時九州や東海に大きな地震が起きている。その結果として今度は東北に大きな地震が起きて慶長津波が起きた。だから今度は東北地方に大きな地震と津波が起きて逆にプレートが地殻変動があり東海地震や津波が予想されるのである。

●多数の舟と相馬藩政記の記録が語るもの

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小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に積み、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」

小高郷塚原村に「郷中の年貢を大船に罪、当海より東都に運送」するための「蔵院」が置かれた。その間の流れる河口には
「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」

その岡田氏が力をもった背景は何かというとき、それが慶長津波と深い関係があったのだ塚原や村上には海運をになう湊があり物資の流通があった。
そこにそれだけの湊があったからこそ村上に城を作ろうとした。
それは朝鮮出兵で名古屋城に行くと瀬戸内海を見聞して海に接した城、海城を見てヒントを得た。「湊 幅十間、深さ4尺、・・・・空船出入りす」が存在した。

また義胤はその海運のために銚子とか海上へ役夫を出している。

そこまでやるということは当時の舟運は思った以上盛んだったとなる。

この文禄二年の記録は何を語るのか?村上に舟おんというのがこれだけ記されている。海運にたずさわった人たちがこれだけいたということなのか?
この時、松川浦に関しては全く記されていない、小高が先に小高城もあり湊が整備されたのである。相馬藩は文禄とかなると小高中心にあり村上城に城を移そうとしたのはそういうためである。松川浦には士禄が記されていないからだ。
そしてそのあと小高については湊のことや舟おんということなどの記録が全く消失した。相馬藩政記に記されているけどもその後の記録がないということは慶長の津波で全く今回の津波のように跡形もなく消滅したとなる。
これだけ舟おんとしるされているのだからその後にも何か記録が残ってもいいはずだがないということは慶長津波で今回のように壊滅して消失した。
不思議なのは村上城を火事があり不吉として牛越城に移った。
もし村上に城下町を作っていたら慶長津波で壊滅したのである。

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●なぜ慶長津波の前に移動している館や神社の不思議

慶長元年、相馬藩16代義胤は東に蒼海を望み、西に湖沼をめぐらし、四願一望、最要害の地と定め、十累を築き、濠を巡らしまさに殿舎を建てようとした前日、火事がおき、山積した材木がたちまち灰になったと伝えられる

慶長2年(1597)、義胤は居城を牛越城に移した。小高の地に築いた村上城が移転直前に火災で焼失し、そのため不吉として牛越城を修築して入城したためである

「宇多の湊に比定される松川浦の南端位置する磯部を支配したのは佐藤好信は岩城氏の旧臣であったが佐藤一族は「岩城之船」にかかわる氏族であった。
中村城も松川浦(宇多の湊)に面した城館であり南北朝時代に熊野堂や館腰遺跡には「瓦宿」=河原宿という地名も残っている。
http://musubu2.sblo.jp/article/99739032.html

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この諏訪神社が今の場所に移ったのは天文7年(1538)だから慶長津波からはかなり前である。ここに舟が流されてきたという津波伝説がある。それは松川浦にこの神社があったときのことなのかどうかわからない。慶長津波の時だったらあそこまで津波が来るとは思えない。
ただ中世の城館があったのは磯部の方でありその時、松川浦がどうなっていたのかわからない。佐藤好信が鬼越館に移ったのもやはり慶長津波の前である。
理由は浪の浸食を受けたからだという。そのことは八沢浦で実際に津波の前に台風の波の浸食で防波堤が壊されて家に浸水した被害があった。
あの時、移動していれば津波の被害にあわずにすんだのにとつくづく思った。
あそこは土地が低く津波が来ないにしろ波の浸食を受けやすい場所だったのである。

ともかく海岸の海の歴史は変化が激しく記録として残りにくいということがる。
浪に浸食されたり自然の変化も長い間に必ず起きてくる。海岸線はもともと自然の変化を受けやすい場所だったのである。

天文年中に津波によって社殿が壊れ、山の上へとそのご神体を移し、江戸中期に泉藩の祈願社となり、安寿と厨子王の祖父とも言われる岩城判官政氏公の旧舘跡に奉還。
古からこの土地を見守って来た泉諏訪神社の神の使いは龍。そして、この神社の今の跡取は姉妹の神主だ。
http://www.praylife.net/fukushimavoice/archives/iwaki/post_8.html

磐城の方でも度々慶長津波の前にも後にも津波の被害があり神社が移動していると記録にある。つまり磐城の方では津波の記録がそれなりにあるけど相馬藩内ではほとんどないのである。津神社が津波の神社でもなかった。ツノミヤ神社でありツノガノアラシト系統だったのである。

だから津波のことを探りようがないのだけど何か文禄から慶長と地震などが多く津波もあり不穏を東北でも感じていて移動したということも考えられる。
とにかく海とか海運とか海岸は自然の変化を受けやすく記録が失われやすい。
それで小高の湊は壊滅してあとに記録が残らなかったのかもしれない、藩政記には記されていても今はそれだけの湊だったという痕跡すらなくなっているからだ。
今回の津波で壊滅した磯部や海老や烏崎村でも萱浜でも同じことが起きたからである。
一瞬にしてこの世から消失してしまったという恐怖である。
そういうことは海岸線には起こりやすかったのである。
 
飛鳥湊と呼ばれた。名の由来は、古今和歌集の「世の中は 何か常なる 飛鳥川 昨日の淵ぞ 今日は瀬になる」という歌だといわれている。

湊もまた消えやすいのである。湊はまた船が来なくなったりすると廃れるから湊の繁栄は変わりやすいのである。


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posted by 天華 at 19:15| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

2014年08月02日

福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した (文明は利害得失しかない世界になった) 福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した (文明は利害得失しかない世界になった)


福沢諭吉の文明論は弱肉強食の世界となり現実化した


(文明は利害得失しかない世界になった)


「天下衆人の発達」とは「民情一新」と言い換えることがで
きる。蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一
新させた。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、
文学にあるのでもなく、また理論にあるのでもない。どこにあるのか。
私がこれを見ると、その人民交通の便にあると言わざるを得ない
(福沢諭吉)


江戸時代は村単位で生活していたから境界が大事だった。一つの関所のようになっていて人々が簡単に他の村に出向くことはない、よそものとして隣同士の村でも扱われたのである。だから明治になり村が合併するとき常に民情が違うので合併しなかったとある。飯館村辺りでも大倉村と佐須村が民情が違うので合併しなかったとなる。

江戸時代から明治になる時の変化は激しかった。だからその変化に対応するために言葉も変わったし新しい言葉も生れた。その新しい西欧の概念を漢字で翻訳したのが日本人でありそれを中国で使用するようになった。
だから民情というのもその意味は何なのだろうとなる。おそらく江戸時代にはなかった言葉なのだろう。民衆とか大衆とか民間とか人民とか自由民権とか民主主義とか・・・何か民とつく合成語は明治以降作られたものだろう。日本には民(たみ)という言葉はあっても民衆という言葉はなかったからである。つまり民とつく字が増えたことはそれだけ民が主役になってきたから増えたのである。

そもそも民情という言葉は実際は死語になっていて理解しにくい。民権とか民主とかは理解できる。それは常に今でも用いられる言葉だからである。常に民の権利を主張するのが現代だからである。だから民情という言葉は何を意味しているのかわかりにくい。
そもそもなぜ大倉村と佐須村は山の中で隣り合っている村である。
それが民情が違うから合併できないというのがわかりにくいのである。何か利害があって合併できないというのはわかる。入会権で山の木材をとる権利を失うからだとなればわかる。民情が違うから合併できないということが今では理解できないのである。
現代の人間はすべて個々人であろうが市町村であろうが利害得失で動いている。
何かもめる争いがあるとしたらたいがい利害得失なのである。
原発事故でも補償金でもめるのは利害得失が原因しているからである。

宗教さえ集団化権利化して利害得失なのである。カルト宗教団体は創価でも政治化しているように利害得失しかない、世界平和だとなんだとか言うけどそんなことは何の関係もない、つまり個々人の御利益追求があってあれだけ増えたのである。
では他の宗教が利害得失と関係ないかというとみんな同じである。
京都の寺は観光利権で組合化して力をもっている。それはすでに奈良時代からはじまっているから根深い、他の宗派でも戒名利権とかでありいかにも戒名が大事かと説くのは利権のためである。第一釈迦は一言もそんなことを言っていないからである。
だからそんな意味のないものがもうつづくとは思えないから檀家も衰退してゆくだけになる。

現代は民情などでは動かない、すべて利害得失でありあらゆることが得か損かで動いている。日常の生活そのものがその繰り返しである。
だから原発を作るにしても地元でも官僚でもマスコミでもそれが自分たちに得か損かで決まった。その利害があまりにも巨大なものになっていたからすべての人が目がくらんでしまったのである。それで富岡町長の五億円の金庫が流れたとか噂になったのもそのためである。今でもこれだけの巨額の賠償ができるということが驚きだった。
今や原発事故の避難区域や30キロ圏内とか飯館村などはただ補償金交渉の場となってしまったのである。

文明とは何か?それは交通の発達の影響も甚大だがすべては利害得失でありそれ意外の規範はモラルはなくなったということである。資本主義でも民主主義でも個々の欲望の全面的解放であり自由とはあらゆる欲望が得られる自由なのである。
その欲望と利害で一致して協力して団結して組合化する。それが民主主義である。
宗教団体も同じである。

西洋諸国の文明開化は、徳教にあるのでなく、

まさに文明とは利害得失意外何もないということが明治維新からすでに150年になろうとして現実化したのである。しかし人間が利害得失だけになったら野獣になる。
人間は人間にとって狼になる。自分があった人間はそうして狼になった人間たちだった。眼中には利害得失しかなくなればその人が弱った時が最大のチャンスとなる。
弱いものは餌食になり子供でも食べられてしまうのが自然界だからである。
そこにいたわる気持もなにもない、金でめんどうみてもらい、金をくれ、裁判にしてやる・・ついには大金を盗み自分の欲望と利のためには相手も平気で殺すことになる。

これが文明人なのかとなればまさに福沢諭吉の見た西欧文明であり現実化したのである。文明とは最大の野獣化野蛮化であり人間が互いに狼になっているとしたらいかに豊かでも心安らかになってはいられないのである。
だから富裕層はアメリカのように塀をめぐらして貧乏人とはつきあわないようになる。
そんな文明社会に住んでも安心も得られない、かえって貧乏でも安心社会の方がよかったともなる。ただどうしてもこれだけの欲望があふれているときそれを制御することは至難になっているのだ。誰だって金があった方がいいし金がなくてもいいなどとは言えない、その限度はあるにしても清貧などという生活はありえないのである。
自分でも毎日買い物に追われていることでもわかる。買うことが生活になっているからだ
蒸気船車、電信、郵便、印刷の四つの発明が民情を一新させた。

確かにそれはさらにインターネットかと進歩しつづけているからそうである。でも一方で無限に欲望も拡大してその欲望も留まることも知らないものとなりそれが原発でも生み出して危険なも省みないものとなった。グローバル化とは欲望の無限の拡大ともなったのである。その欲望は知的視野の拡大などいい面もあるが一般的には物欲の拡大化であり
その欲望に歯止めがないから原発も作られ故郷にすら住めなくなったということも現実化したのである。

文明の利器が発達しても人間の欲望がグローバルに無限に拡大して人を殺してもその欲望を得るのだという文明人は野獣であり最大の野蛮人でしかないのである。そういう人間に囲まれていたらいくら豊かでも金があっても心は一瞬たりとも休まらない地獄にいると同じなのである。現実自分はそういうこと身をもって一身上のことで経験してきたのである。金のためなら自分の利害得失のためには相手のことなどどうでもいい、むしろ相手が弱った時こそチャンスだとなる、人間は人間にとって狼だというのが現代の文明でありそういう社会にいることは地獄にいるのも同じだとなる。
常に牙をむきだして相手を威嚇していないと食われるかも知れないという恐怖の中で生きているということなのだ。

なぜか働いている浪江の人 (南相馬市の鹿島区であった人)



なぜか働いている浪江の人


(南相馬市の鹿島区であった人)


浪江の人と5人くらいあっている。最初は二本松に会社があり通っているという。会社が浪江から移動してそうなった。それから相馬公立病院に入院してあった人は相馬の看護学校の生徒だった。親も看護師で親戚がいて空家を借りていた。
もう一人は福祉関係で働いていた。なぜか移動してきてすぐに働いていた人がいた。
今日あった人はグループホームで働いていた。時給750円とか言っていた。
浪江の人にあったがなぜか働いている人が多い。一人は老人であり働かないがしょうがないだろう。
雲雀が原であった大堀で相馬焼きを作っている人は白河ですでに三軒そこで仕事しているという。その人は帰らないと言っていた。
浪江では帰らないという人が多くなるみたいだ。

実際問題として町を維持するにはそれなりの人口が必要である。
それがもう維持できないとなると除染作業員の町を作るとかあるがそれが町なのかともなる
原発の作業員に宿舎を提供するだけの町が町なのかともなる
つまり町には様々な機能があって町なのである。
田舎だったらいくら農業だけではやっていけないと言っても田畑があって田舎でありうる工場と会社だけなら田舎になるのかとなる。漁業も生業としてあって浜通りの魅力が作られている。ただ海をながめているだけならそこに魅力が生れないのだ。
それは山でもそうである。そこに生活がなかったら魅力が生れないのだ。
ソーラーハネルとか風力発電の風景になったらそこが田舎なのかとなる。

ともかくなぜ浪江の人はここであった限りは働いているのだろう?
数が少ないこともあるが小高の人で働いている人にあっていないのも不思議である。
除染作業しているという人にはあった。
会った人が限られているからいちがいには言えない。
でもギャンブルで競馬で東京とか仙台で遊んでいるという人が何人かいたし働いている人にあっていないのも不思議である。
ただ自分の家の庭を作った人は腕のいい大工でもあるから原町であった時働いているといっていた。こういう時は手に職をもっていれば働けるがその他の人は働かない
それで福祉とか介護関係で働くことになったのだろう。
それでも働いているということは小高の人と違うのだろうかとなる
フィリッピン人の女性を仮設に呼んでいるとか何か小高の人の話しはそういうのが多い
ただこれは小高の人は数が多すぎるからそうなりやすい。
でも全般的には働いていないのだ
浪江の人はここに来てすぐに福祉関係とかで働き始めていたのである。

原発避難者などは遊んでるばかりでは良くない批判もされるので介護関係で働くのがいいとか言う人がいたが浪江の人はそれを実践しているとなる。
介護関係は人手不足であり鹿島の厚寿苑では働いている介護士は岩手県とか福島県でもここの人たちではない、他から応援に来て働いている人たちである。
でも小高の人で働いているとは聞かない、もともと数が多いし何をしているかは把握できない。
でも浪江の人はあう人が極限られている人なのに働いている。
それもここに移ってからすぐに働き始めているのである。
何か浪江の人は移動したとき心構えが違っていたのだろうか?
小高の人は一気に大量に移動したが浪江の人は少数だった。
その辺にも原因があるのか?

考えてみれば小高の人は数が多い、鹿島区だけで2000人とかの規模かもしれない、だからそんなに多くの人が働くということはありえない、だから働かないで毎日パチンコ屋通いだとなった。そんなに働く場所すらないからだ。小高の人でもごく一部だが働いている人はいる。でも数からするとあまりにも少ない,だから遊んでいる人がパチンコ屋通いの人が目立つのである。数が多いからそういう人も目立つのである。
浪江の人などごく限られている人しかいないから目立たないしわからないのである。
イワキでも原発避難民と大熊や双葉の人たちともめたのは二万人とか数が多いせいなのである。その人たちが一挙に入ってきたから問題が起きたのである。
分散すればそういうことは問題があっても表面化はしなかった。
南相馬市でも小高の人が特に鹿島区に入ってきたから問題が起きたのである。
少人数だったら遊んでいても問題はあるにしろそんなに非難しないだろう。
数が多いということが問題を生んだのである。
2000人くらい入ってきてその人たちが毎日ハチンコ屋通いとなると目立つし非難されたのである。

ハチンコ屋で人手たりないとか親戚の人が言っていたが自分は介護で苦しんでいるのに異常なことだった。その異常さに気づいていないのである。もちろん事情があってそうなっているのだがこれもこの辺の異常さだった。
例えば一つの村でも町でも市でも大家族だとして考える時、ある人が介護などで困っているのに介護では立派な施設を建てても働く人がいない、外部の人が来て働いているというとき、地元の人はパチンコ屋通いでそこで人手がたりないからなんとかしてくれということ自体の異常さに気づいていない、金になれば何でもいいとはならないのである。

でも現実は補償金で金があるのだからパチンコ屋に行こうが飲み屋に行こうが勝手だとなっている。
でもそのことがなんらか自分のようにしわ寄せがあるから憤りになる。
小高の人たちは介護でも仮設だから優遇されているし病院も無料である。
それなのに働いていない、そのしわ寄せは南相馬市内の人に来る。
施設に入りたい人も小高の人が優先だとなるといくら事情があっても何でなのだとなる。それはイワキでも起きていることである。
なんで何でも原発避難民が優遇されるのか?
地元の人は土地も高騰して買えるのは補償金をたんまりもらった原発避難民だとなるとますます憤り嫌がらせになった。

人間は小高の人が別にみんな遊んでいるわけでもいな、働いている人は働いているのだ。原発避難民でも全部が遊んでいるわけでもない、ただそうして避難民が大勢になると一人でも遊んでいて補償金があるからいいとかやりほうだいなにると全体の印象を悪くしているのである。それは一市町村とかではない、福島県全体が今では日本全国から嫌われる人たちとなってしまった。それは沖縄と同じになったのである。
何かというと補償金をもらいたがる国にたかり税金を奪うやつらだとなってしまった。
病院でも経験しているがその病院に医者でも看護師でも一人でも嫌な人がいると評判落とすのとにているのだ。一人でもその一人によって全体の印象を悪くするのである。
数が多ければどんな組織でも団体でもそういう嫌な人は必ずいるがその一人によって評判を落とすのが怖いのである。
だから小高の人がみんなそうでなくてもそれなりにそうして補償金で遊んでばかりいると数が多いから評判を落としているのである。

ともかく今回の原発事故などでは何か常に双葉町だ大熊町だとか富岡町だとか浪江町だとか飯館村だとそうした市町村単位で人が見られる。そんなこと今までなかったのである。補償金交渉では町村が単位となったからそうなる。浪江町で一人補償金35万にしろとか司法に訴えたときも全国的には顰蹙をかった。浪江町民はそんなやつらだとか非難されたのである。
ただ自分はここで個人的に接した浪江の人は最初から働いているし働く意欲があったとなる。
だからええ、浪江の人がこんなに働いていると意外だったのであり浪江の人は小高の人と違うなと評価するようになった。それは自分の個人的なものであり全体的になるとわからないのである。ただ自分でも鹿島区でも小高の人に対する評判は良くないことは確かなのである。

タグ:原発避難民
posted by 天華 at 17:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

2014年08月04日

海霧と夏の月(海老浜に車で寝泊まりする人と話しする)


海霧と夏の月(海老浜に車で寝泊まりする人と話しする)

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実際はこんな車ではなかった
キャンピングーカーのよようになっていた
犬も連れていたし寝泊まりできる車だった
こんなきれいではなかった


浜風や車で寝泊まり夏の月

浪の音車で寝泊まり夏の月

海霧(うみぎり)に三日月光る海老の浜

海霧に草茫々の海老の浜

海老村の津波に消えぬ海霧かな


昨日は暑いから午後から海老の浜の方に行った。海からの風が涼しいからだ。
ここは海から近いし海の方に行くのは自転車でも3キロくらいである。
前は松原がありそこの影で休んでいることが多かった
ただ今は松原がないからそうして休む場所がなくなった。
その人とはずいぶん長く話ししたと思う
4時ころから9時ころ夜まで話ししていたのである。
というのはその人の生活が変わっていたのと話し上手だというか
いろいろなことを知っていたためである。
それも自分のように学問を本を読んでいるということはない
その人は話しは得意だが文章を書くのには苦手だということでもわかる。

その人はいろんなことができる。バイクにのって外国のラリーにも出たいという、
それは5百万かかるとかバイクは相当に乗っている。
旅も相当にしている。その人はまた店を作るとか大工もできる。
大工で実際に仕事して金を稼いでいた。今は何をしているとかというと
長良川の舟下り、ラフティングのガイドをしているという。
長良川はダムがなく自然の流れがあり鮎釣りなどが盛んなのである。
鵜飼などもありこの辺の川とは全然違っている。
長良川は名古屋に出て名古屋では木曽川と揖斐川と三つが合流するのである。
この川はこの辺の川とは違い長い川なのである。

その人は長良川の上流に住んでいてそこは急流もあるからラフティングもできる。
それでその観光もしている。手伝う若い人を探しているとも言っていた。
自分は太平洋フェリーで名古屋まで行きそこから自転車で白川郷から富山の方まで行ったただ白川郷が岐阜県なのかと思った。その距離は相当あったがなかなか全部を思い出せなくなっていた。
白川郷から見たの白山ではなくさらに背後の大きな山だとか言っていた。
あの辺も山が高いし多いからわかりにくくなる。
旅もふりかえると記憶から消えてゆくのが多くなる。
ただ日本だとこうして自分が実際に行った場所の人と出会うとその人がどこに住んでいたかでたいがい日本だったらその土地が感覚的にわかる。岐阜もわかりにくいところだが
名古屋から自転車で白川郷を通り富山の方まで行ったのである。
その距離は相当にあったがそれも途中記憶から消えてしまっている。
不思議なのは美濃の方に向かっていて有名な秀吉の一夜城というのがあった。
その時、秋であり三日月が光っていた。

ひた走り三日月光る一夜城

そこを通って白川郷の方に行ったのかその行程が記憶から消えている。

その人が住んでいる場所は長良川の上流であり郡上に近い所だと言っていた。
そこで野菜なども作っていて自給自足的生活もしている。
大工ができるから家具なども作っているという、でも売るのは大変だと言っていた。
そして人と話がするのがうまいから観光ガイドには確かに向いている。
その人は40代くらいなのか今度は外国旅行したいと言っていた。
ネパール人とか外国人の友達もいるという。つまり長良川で観光ガイドしているから
いろんな人と出会い話ししているのである。だからいろんな人のことを知っているのである。
その人は実際の経験から知識をもっている。山の中で猿の被害が大きいというとき、あの辺の猿はこの辺の猿とは違う、数も多く凶暴化して畑を荒しているから困るという。
あれだけの山があるのだからこの辺の猿とはまた違っている。数も多いから被害も大きくなる。

その人は自然に興味がありいろいろ知っている。野生生物にも興味があって熊を見たいと言っていた。もともと写真家になりたいと言っていていい写真機をもっていて海老の浜で最近ちょうど流星群などが出ていて写真にとったいう。自分は見逃してしまった。
その人はそれだけいろいろなことができるから違っていたと思った。
あういう人は田舎でもとけこめて暮らしていける。人づきあいもうまいし自分で大工もできるし何でもやるし器用だからである。
そして自分で稼いで自由な旅行をしているのである。稼ぐ力もあるのだ。
ただそういう人は現代ではめずらしくなくなっているというのもある。
みんな真面目な会社員とかではない時代である。
ただあういう遊びが仕事となっている時代でもありうる。ただ自営業がやりくりが苦しいといっていたことはわかる。

海老浜は津波の跡は草茫々となっている。その上に今日は三日月が光っていた。そして海霧がでていてその月を隠した。最近またこの辺では海霧がでる。朝に出やすいが夕方にもでる。何かそれが幻想的になっていてそういうとき人間は話しがはずむのかもしれない。その場の雰囲気で話がはずむということがある。津波のことでもその場に立って話すとリアルに伝わることがあるのだ。
その人は海老浜に5年前に来ていたからその場に家があることを知っていたからまた来てみるとそこには何もないのだから全然知らない人でないから感想も違ってくる。
意外と海老浜には来ている人がいると思った。どっちかというと松川浦には寄るがここにはあまり寄らないと思う。ただ自衛隊の人がここで仕事したので来たので案内したことがあった。

その人はいろいろ興味あるので津波のことなどを話しした。
津波のことに興味をもって来る人は増えたのである。
その人はボランティアもするためにこっちに来ようかとしたが来れなかったという。
車には発電機もあり用意はあった。今回の震災では東京までも影響した。
物資が入ってこなくなるのではないかと東京で買い占めとかがあったからだ。
停電もありここだけではない影響が広かったのである。
仙台にこの辺で避難した人たちも買い物にするのに並んでいて苦労した。
物資がやはり仙台でも入らなくなっていたのである。

ともかく6時間も話ししたことはない。それだけ話すものがこの辺のことでもあり相手にもあったのである。自分が他から来た人と話しができるのは全国を旅行しているから
その人の住んでいる所の地理的なものとかがわかるからなのだ。
そうでないと岐阜県はどんなところかとは長良川はどうだとかわからないとなかなか話しができないからである。木曽川も下ってきたことがあり知っている。
外部の人と話す時、その人の住んでいる地理的なことが根本的にわからないと話しが通じなくなるだろう。だから地理を知るということが大事なのでありそれは実地にその場を踏んでないとわからないのである。地図を見ても本を読んでもわかりにくいのだ。
その人が言うには川霧もあるというが海霧のようにはならない、川の上に霧がかかる程度だという。
それから富山県が雨が多いという。あそこにも行ったが雨が多いのかとなる。
それで雨晴らし海岸という所に行ったがその名前がずっと気になっていたのである。



雨晴海岸(あまはらしかいがんは、富山県高岡市北部の海岸。能登半島国定公園に含まれ、日本の渚百選に選ばれている。
晴れた日には富山湾越しに立山連峰の3000m級の山々を望むことができ、景勝地として人気がある。日本海の蒸気「けあらし」(20世紀には使わなかった言葉で北海道から逆輸入されたともされる)を待って冬には多くのカメラマンが集まる
があります。
けあらし(気嵐)は、北海道の方言だそうで、氷点下20℃以下にもなるシバレタ(厳寒の)朝、凍結しない海面や川面に白く立ち上る霧のことで、気象用語では「蒸気霧」というそうです

日本の北海道や、千島列島を含む北部北太平洋では、夏になると海霧が発生しやすくなる[3][4]。これは北太平洋高気圧から吹き出す比較的温顔湿潤な空気が、寒冷な親潮の影響を受けて海霧を生じさせるものである[3]。また、人為的物質を含めた陸由来の空中の微粒子の存在も、霧を発生させやすくする要因のひとつである[3]。内陸部の背後に山地がある関係で、根釧地方では流れ込んだ海霧が滞留しやすく、日照期間が少ない冷涼な気候になっている[4]。 北海道沿岸、特に釧路などでは、こうした海霧を「じり」と称し[5]、しばしば「霧と霧雨の中間」などとも表現される。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%A8%E6%99%B4%E6%B5%B7%E5%B2%B8



そこも霧がたちやすいところだった。霧は北海道で有名だから北海道のけあらしが言葉として富山県に入ってきたというのもそれだけ北海道が有名だということがあった。
この雨晴海岸は雨が晴れてくれという願いがこもっていたのである。
それだけ雨が多いとしたらそうなる。それは旅しただけではわかならい、もう一つ一番わかりにくいのがその土地の気候なのである。
福島県でも会津と浜通りは全く違った気候である。浜通りではほとんど雪はふらないしつもらない。夏は海の風が吹き涼しいし冬も福島市や会津のように寒くならないのである。それは海の影響があったからだ。ただ今回のように津波の被害は海があったからである。
海霧とは夏の季語になっていたのである。日本でもこうして季語が無数にありわかりにくくなっているのはそれだけ天候も地域で多様になっているからである。
タグ:海霧

2014年08月05日

抽象画(津波の衝撃)



抽象画(津波の衝撃)

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津波の衝撃


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 溶岩の山


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海中の人影


偶然またできたのだが題を何にしようかと思った。
それで津波の衝撃にした。
この題によってそう見る人はでてくるし
抽象画の場合は何を現そうとしているのかわかりにくいから
その題からそういうイメージで描いたのかと感じる
たいがい画家の場合は自分のように全く何もイメージしては描いていない
画家は具象画も描けるしパソコンのない時代は
やはり何かをイメージして描いていた
パソコンで化学変化のように抽象画を作ることなどできなかった
自分の場合は全く何かをイメージしたものではない
偶然にパソコンでできたものをだしているだけなのである。

でも抽象画には何かパターン的にできるものがあった。
それはパソコンのソフトがそうさせている
何でも抽象画にはならない
一つのパターンがありその過程で抽象画になる
それは機械的作業である
画家のように何かイメージして創造しているのとは違う
ここにできたのも前のバリエーションであり
ある同じソフトの作用でできたことがわかるのだ
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厚寿苑にショートスティして医者にみてもらう (心に青雲の主催者の言う社会性が欠如している 医者とかがどういうことなのか?)



厚寿苑にショートスティして医者にみてもらう


(心に青雲の主催者の言う社会性が欠如している
医者とはどういうことなのか?)


今日はショートスティで母がまた厚寿苑にまた行った。あそこは建物が立派であり眺めもいいのある。働いている人はほとんど外部の人であり30人以上は働いているだろう
あれだけのものを経営するには人手がそれだけ必要であり人手が大事になる。
南相馬市の鹿島区ではもう一つ新しい老人ホームを建てている。
ここでも建物を建てても人手が集まらなければ経営が成り立たない
これからは人手が集まらなくて倒産したり会社が起こせない所が現にでているのだ

厚寿苑のいいところは近いから気楽に行ける、そこで車椅子押したり食事を見ていたり
何か補助的なことも家族が近ければできる。人手たりない分を家族が資格がなくても補うことができる。近くの人が来て手伝うことも看護師の仕事とは違うのだからできるのである。ただみんなしないだけである。
いつまでも外部からの助けはない、どこも人手不足だからである。
すると地元で人手を補うほかなくなる。それができなければもう経営も成り立たなくなる
風をひいて一カ月くらい咳が止まらないので隣の病院でみてもらった。
そこの医者は今まであった医者では一番好感をもった。
前もみてもらったがニコニコしていて気さくな先生である。
「まあ、肺炎ではないですよ、風邪が長引いて咳がつづくことがありますから」
「そうですか、咳が長いので心配していました」
「肺炎ではないですから大丈夫です、百才までは生かさないとね」
「ええ、百才は一つの記録ですからそうですね」
こんなことを話できるのもその先生が気さくであり話しやすいからである。
あういう医者にはであったことがない、たいがい医者は愛想が悪くぶっきらぼうであり
必ず患者を見下している。
「あんたは自分の言うことを聞いているだけでいいのだ」というふうにふんぞりかえっている。
ただ最近は低姿勢な医者は多くはなっている。だから患者様とかなんかかえって不自然な対応もするようになったのである。
大病院では病気をみているのでありその人がどういう人であるかは関係ない
医者の問題は単に病気の問題だけではない人間そのものを直接相手にするから問題になるそれは看護師でも同じである。相手が生身の人間であり直接向き合う仕事だから他の仕事とは違っている。それも相手は弱者であるからお客さん相手の低姿勢になる必要はないのである。それでどうしても傲慢になる人が多いのである。
看護師でももう忙しいからその人などみている暇はない、機械的に治療して処理するという感覚になっている。
だから自分は病院で手術して入院して看護師にも虐待されたしそのこが忘れられないのである。一つのトラウマになってしまったのである。

「心の青雲」の著者もしきりに今の医者や看護師を批判している。自分も病気で医者や看護師と接するからそうなる。そこで医者とか看護師には社会性がないとまともに人と接することができる人がいないと批判している。
それは本当であり医療技術の前に医者は人間そのものとじかに向き合うから人を傷つけやすい立場にもある。ただそんなことを考慮していまく人はいない。
そもそもそのしきりに言う社会性とは何なのかよく分からない、社会性とはどうして身につくのかとなる。会社員だったから実につくということはあるだろう。
自分のようなものは会社にも勤めていないのだから社会性がまるでなく大変な苦労をしたのである。医者はどうしてその社会性がないのだろうか?

それは病院とか医者や看護師の働く場所が心の青雲の著者が言う社会性が養えない場だからだろう。つまり医者とか看護師は常に弱いものを相手にして見下していられる場にいつもいるということである。だから悪くなく容易に患者でも虐待できるしとがめられることもないことも多いのである。
もし強いものが相手だったら相手も黙ってはいないから怖いが福祉の場では弱いものが相手だから相手を見下そうが虐待しようが常にそういうことができてとがめられない場にいるから人間的におかしくなる。
社会性とは常に相手にするのがお客さんであり低姿勢になり人と対処する
それが全く医者とか看護師にはないからそうなる。

ただはっきり言って「心の青雲」の言う社会性とは何なのか自分にはわからない。
なぜなら会社で技術職で優秀な人が会社を企業して失敗していた。
その人は最高級の資格をもった頭のいい人で近くの人を指導してあの人はいい人だったと言っていたからだ。その人はその会社に勤めている時は社会性のある優秀な人だった。
でも起業して会社をはじめてから借金経営になり嘘もつくし人間がでためめになってしまった。ではその人がどうしてそうなったのか?
その人が社会性がなかったのかというと自分などより社会性があったし社会人としても社会から優秀な人として認められていたのである。
だから社会性とは何なのかというときそれまた明確にわからないのである。
ただ自分はあまりにも社会性がないことははっきりしていた。
それはニートとか会社とか勤めない人は本当に社会性が欠如してあとで困る
それをここ7年間くらい介護から自分の病気で苦しんできた。それはまさに自分の自業自得だったのである。

まず医者としての社会性を持ち対人的なことでうまくやれる人はまれだろう。
それは技術的に優秀でもそうである。東大出ようがそれも関係ない
そもそもどうしてそうした社会性が養えるのかわからない、ただ会社に勤めていれば養えるし社会人として仕事している人は養える。社会的常識は今や会社で養う時代だからそうなる。昔だったら村社会がありそこで社会の常識を養っていたからである。
だから会社からはずれたものは社会性が養えなくなるのである。

例えば東電の幹部であれ社員であれその人たちは社会性があり優秀だとみられていたのだでも技術にいくら優秀でも経営はまた違ったものでありその経営に失敗したのが東電だった。それは技術があり会社に勤めていて優秀だった人が会社を起こして経営に失敗したのとにている。つまり何かにオタク的に理系でも優秀な人がいる、そういう人は社会性がない、変わり者になる。でも人類的に優秀な発見発明をしたりする人もいるのである。
パソコンを発明した人はそうだった。機械マニアでありオタクであり社会性がないが人類に貢献したのである。ただあとでマックの社長とか経営者になったらか違っていた。
単なる技術のオタクではないものを身につけるようになったのである。
芸術家なども変人が多く社会性がない人が多い、でもその絵であれ音楽であれそれがよければ社会で評価する、社会性は犯罪をしないかぎり問わないのである。
かえってそういう人が芸術家らしいとかなり社会では容認しているのである。
芸術家が背広来てネクタイをしているのが似合いないのである。
だから盲目の世間だました作曲家もそんな格好をして世間をだましたのである。

いづれにしろ医者であれ看護師であれどんな職業でもすべてに通用する社会性など身につけられない、特に専門家の時代は社会性が身につかない人が多くなっているのだ。
専門にとじこもり他のことがわからない人が多くなっている。他の仕事も多様でありわからないのである。
だから今糞暑いから何もしたくないとか言うと外で働く人を見ろよ、こんな暑い所でも仕事をやめるわけにはいかないだろうとか言う人がいるしそれは本当である。
そう考えるのも一つの社会性なのである。そういう場でアルバイトでも働けばそういう社会性も経験しているから身につくことなにるのだ。
だから現代のような複雑な社会では社会性とは何なのかとなるのである。
これは本当に専門家していたら身につかないものである。
人間が経験することはあまりにも限られているからそうなるのである。

ただ自分には社会人として本当に基本的な現代の社会性すらなかったことは確かである。それはやはり会社勤めしたりして人と交わらないとかのためにそうなってしまった。
ニートなんかは必ずそうなるだろう。また社会性というとき結婚して子をもたない家族をもたない人も社会性に欠如することが確実にある。
それから何ら自ら苦労して働かない人も社会性が身につかない。
この世の中のことは働かないとわからない、介護でも苦労して食事作ってだしているだけでも最近スキヤが忙しく息つく暇もなく働いているのを見て自分も経験したから同情している。それから食事を作ってだしてくれた親にも感謝して食事作りをしているのである。社会に生きる限り人はいろいろなことを直接間接にしてもらっているといんうことを自覚したのである。そんなことが当たり前だいうとき、まさにそれが社会性でありその社会性がない人が多くなっているのも事実なのである。
鳩山首相のような人は大金持ちの家に生れたのだから一時は宇宙人などと言われたがまさにあの人に庶民をわかる社会性はまるでなかったろう。
今の阿部首相でもあまりにも恵まれすぎるとそもそも社会性がないから庶民のことなど苦しい人のことなど理解できないということがあり国のトップに立つ人が社会性がないともなるのだ。
だからそもそも社会性が何かなのかということがわかりにくいのである。

stap細胞の件でも責任者の一人が自殺したけどこれも研究という象牙の塔にとじこもり社会性が欠けたからだとかなる。その社会性とは何なのかとなる。世界的にも研究者として認められていた人なのだから社会性がないなどとは言えないだろう。

NHKスペシャル見たけど、研究者というより、マネージメント能力が高い、
 (お金を持ってこれる)っていうのは褒め言葉だと思うがなぁ。
 研究ばっかりで、社会のことをあまり知らないという人よりも、
こういう人がいてくれるおかげで、組織が回っていたということも
 あると思うが。

これは象牙の塔の専門バカではない学者バカではない、社会性があった人だったともなりその社会性はなにかやはりわかりにくくなる。

本当は嘘をついたりする人はそもそも社会性がないとなる。嘘をつくことから犯罪にも発展するし重大な事故にもなる。東電は権力をもっていたから嘘の報告をしていたし放射能などわからないからいくらでも危険を隠蔽していたのである。
だからこうした大会社でも社会性がないとかなるから社会性とは何かはわかりにくい。
ただ対人的に世話になったらお礼を言ったり何か礼儀的なことも社会性である。
そういうことも今はない人も多いし社会性とはいろいろな方面にある。
敬語を使うにしてもそうした会社とか人と交わる場所にいないと身につかないのである。敬語を使うことも社会性である。だから社会性とは何かとなると多方面になるから余計にわかりにくいのである。
会社勤めできるうよな人はそうした基本的な社会性は身につくがそれがすべての社会性ではとないから人間が生きることはむずかしいのである。


まず社会性は学校では身につかない、だから東大ででも社会性は身につかないしかえって社会性がないと心の青雲の主催者は批判しているのはわかる。
社会的にもまれた人は社会性が身につく、底辺を生きる人も福祉で生きるにしても役人との交渉が上手でないとできないとかそれも社会性かないとできないともなる。
福祉だからと何でも役人からしてくれるとは限らないのである。
交渉力をもたないと何もしてくれないから生活保護を受けられずに死ぬ人もいる。
一方で社会性がありすぎて不正受給も絶えないというのもあるのだ。
たから社会性とは何なのかわかりにくいということである。
結局すべての社会性を充たした人などこの世にいないとなっしまうからだ。


タグ:医者

2014年08月06日

厚寿苑にショートスティで出会った認知症のばあちゃん (はたかれたというが・・・わからない)



厚寿苑にショートスティで出会った認知症のばあちゃん


(はたかれたというが・・・わからない)


母と同じ部屋のばあちゃんは認知症なのだろう。認知症といってもいろいろあるからわかりにくい。どこの人かと聞いたらと大甕でといい、北原に住んでいた。
家の前まで津波がきたけど家は助かったという、その助かった原因が前に竹藪があったからだと言っていた。そのことは相馬市の新田でも聞いて書いたことがあったので
竹は根が強く張り津波に強いことは間違いない、川岸に竹を植えるのは水害を防ぐためだというのも大原の人から聞いた。竹は津波には強いといかことが明らかになったから
津波を防ぐ方策の一つとして竹を植えることが選択される。

そのおばあちゃんは萱浜に姉の一家が住んでいた。ただあまり良くされていなかった。
海で魚をとっていたがその魚を分けてもらったことがない、新鮮な魚はうまいのにといろいろ不満を言っていた。それで今回のその姉の家が全部流された、姉も死んだ、良くしてくれないからそんなことにもなったとか言っていた。
その人の姓はわかりやすいので自分は実際に知っていたのである。
めずらしい名前だと思って記録していた。その姓は萱浜の墓地で発見したのである。
そこは海がすぐ近くの場所だったのである。天保の墓があると書いたプログを読めばわかる。
ここではその人が誰か書けないがそれで驚いたのである。
地元だとそんなふうに身近だから誰のことを言っているのかさえわかることがあると思った。ある人は町の人が全部親戚のようになっているのが田舎では普通にある。
自分はないがそういう場所が田舎なのである。
なんらかの血縁関係でも結婚してもつながりがたどれるのが田舎である。

そのばあちゃんは何歳かわからない、認知症であることは確かなのだろう。
ただこの認知症のわかりにくいのはそれが完全な痴呆とは違う点なのである。
いわば後天的になった老化でなった痴呆でありこれまで生きてきた記憶は保持していて
そのことを語る時は正常なのである。
だから津波のことや姉のことを語る時は正常なのである。
実際にどういう関係の人かも知っている。
だから魚を分けてくれなかったとか自分を馬鹿にしていたとかしきりにいう。
そういうことは親戚関係でも常に普通にあることだから変わったことではない。

そのばあちゃんは巳年(みどし)生まれであり部屋に蛇がいたときも殺さないでとって近くの川に流したとか猫が車に引かれた死体を山に埋めてきたとか言っていた。
だから私にはいいことがあるんだよとかしきりに言っていた。
そういうやさしいおばあちゃんでもあったのだろう。

ただ非常に気が強いばあちゃんである。何か勝気な性格である。だから歌を歌ったりしていた。相馬流山などを歌っていた。私は何でもしてきたんだよとかいろいろ言う。
それで一人でいる時は壁に向かって一人で話している。お客さんを一人で迎えて一人で話ししているのである。だから淋しくないという。それはやはり認知症の症状なのだろう。それで「私は頬を強く何度もたたかれた」と言っていたので驚いた。
そして今度たたかれたらこんちでも黙っていない、私は力があるんだからと手を握ってみろと言ったから握ってみたら本当に体は小さくても力がある。
認知症は馬鹿力を出すことがあるということがあり暴力になると扱いにくいとか聞いている。
自分も気の強い女性を身内の認知症を介護したからそのことはわかっている。

では一体誰に叩かれたのか?ここの施設の人だと言っていた。
男の人でありその真意はわからない、私はそういう人は寄せつけないとか言っていた。
私は一端嫌ったらよせつけないんだよとしきり言っていた。
これも認知症の人は嫌った相手をよせつけないということがあるからそうなのだろう。
ただでは本当に叩かれたのか?こういうばあちゃんだから扱いに困り叩いたのかもしれない、でも強くたたかれたというから嘘でもないみたいであるがわからない。
認知症で気が強い人は扱いにくいから叩かれたりすることがあるかもしれない。
暴力をふるうからそうなることもありうる。
ただこうして叩いたりするともうその人は介護することができなくなるだろう。

ともかくこの辺の問題は介護士でも外部から来た人であり地元の人と話し合うということはむずかしいだろう。どこに住んでいたといっても外部の人だったらその土地のことがわかりにくい。この土地のことも例えば相馬流山のことも知らないだろう。
もし知っていたら一緒に歌ったりしたらかなり喜ぶだろう。
それが認知症の治療につながっているのである。
認知症を相手にするにはその人を知ることが大事になるがこれが外部だと余計に簡単にはできない、認知症は別に地元でなくてもその人がどういう人か理解することがかなり大事である。でないと話しも通じないし介護もしにくくなる。
それはなかなか若い人にはできないだろう。
つまり認知症の介護には精神的な面でのサポートが大きくなる。
ただ身体的介助だけではないからめんどうになる。

いづれにしろ新聞で読んだが外部の労働者が病院でみてもらっても診療費を払わないので病院で困っているとか外部の人が大勢来ることでこの辺はまた問題が起きている。
外部から入ってきてだます人もいるから注意しろとか警察でも言っているとかでもそうである。
つまり外部から人がこのように大勢入ってくるとこのように問題が起きる。
老人の介護問題でも起きるということがある。
厚寿苑では小高の中学生が研修していたのも不思議である。
中学生が介護施設で研修しているのか一人だけしていたのも不思議である。
小高の人は働かないと不満を書いていたから不思議だった。

ともかくこの辺はあらゆるものの問題の場所になっている。だからそれに対応するのが大変になる。老人施設でも建物を建ててもそこで働く人が問題になる。
その人が地元では確保できない、それでもボランティアでもできる仕事が介護施設にはある。なぜ中学生が研修していたのか、つまり中学生すらできることが介護にはあるということなのである。食事を運んだり車椅子を押したりは誰でもできるからである。

介護施設でも外部の人が入ることは大事である。別に厚寿苑は家族が出入りしていているし外部の人が入っている。ただ介護士はほとんど外部の人ということなのである。
そのばあちゃんははたかれても何もいわないよ、わたしは人に何を言われても争ったりしないとかそんなことを言うと問題になるから黙っているのがいいんだとかしきりに言っていた。そのことを言うことで波風がたつことを嫌がってそういっていた。
それも認知症にしてはまともなことなのかとも思う。
ただ現実に老人ホームでは虐待は起きている。病院でも起きている。自分も虐待とまでいかなくてもそれとにたことをされている。
おそらく表に出ない虐待は日常化しているかもしれない、それは老人ホームでは施設では一番起こりやすいからそうなる。認知症の人だと余計に扱いにくいから起こりやすいだろう。だからこの真意はわからないのである。
タグ:認知症

2014年08月07日

厚寿苑でのショートスティ終わる (人間は最後まで自分の意志を伝えることが大事) 厚寿苑でのショートスティ終わる (人間は最後まで自分の意志を伝えることが大事)


厚寿苑でのショートスティ終わる

(人間は最後まで自分の意志を伝えることが大事)


昨日同室のおばあちゃんは明らかに認知症である。今日は自分の母親が99歳だといって百才になると言ったら一千万もらえるよとか言っていた。一万しかもらえないというとそんなことないよ一千万もらえるよ、今はもらえるんだよと言っていたからこの辺は理解していない。
ただ今日もはたかれたと何度も言っていた。大学もでているのにそんなことするかなどとも言っていた。近づくなと言ってもよってくるんだよとか言っていた。
来たくないんだけど一人でいるのもよくないから家族に行ってみなと言うから来るんだよとも言っていた。たいがい施設でもショートスティでも行きたくない帰りたいとみんな言っている。
おそらくその原因が気兼ねすることであり他人だからありがとうとかここで言う人が多いからかもしれない、世話になることが気がひけるのである。
それでも食事ができない、食べられない人に無理やり食べさせている。
「せっかく作ってくれた人がいるんだから食べてね」
こういうふうに言う世話する方の心理はわかる。自分も世話しているからその気持が理解できる。世話する方になるといろいろ大変になるからである。
ただ無理して食べさせられる方は苦しいと思う。
自分の母親も人の言うことを聞かねばならないと思う人だから無理して食べろとか飲めとか言われて吐いてしまったことでもわかる。

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自分の99歳の母親がここまで書いていたのかと驚いた。ほとんど耳が聞こえないし書くこともできないと思っていた。自分の意志を伝えることができないと思っていたからだ。
99歳でもここまで自分で書けることは自分の意志を伝えたことなのだ。
ただこのノートに書いたのを介護する人は見ていない、これも問題なのである。
いくら伝えようとしても介護する方で見ていなかったらその意志をも伝えられないのである。

はたかれたというおばあちゃんは本当はどうなのかわからない、男の人に連れられてニコニコして食堂に来ていたからだ。それから女の人にもはたかれたと今日は言っていた。
だからこのおばあちゃんのことを本当だと思う人はいないだろう。
これは全く無視されるだろう。
つまりもう認知症になると自分の意志が伝えられなくなることが最大の弱者となる。
財産をもっていてもわからないから勝手に処理される。
その他でも嫌なことでももうその人の意志とは関係なく処理されるのである。

だから人間とはつくづく何か伝えることがいかに大事かわかる。それは個人的なことでも何かを伝えることは生きることなのである。その伝えることができなくなる時、人は死ぬもう人間として生きることはできなくなる。だから病院でも施設でもロボットのようにされて人間扱いされず処理される。病院とか施設は大きな権力をもっているから正常でも一個人の意志を無視できる。医療ミスでもいくらでも隠蔽できる権力をもっている。
だから正常でも個々人で意志を伝えることはむずかしいのだからもう認知症のようになったらその人のことなど全く無視して勝手にされるのである。そしてもはや何されようが抵抗できないのである。

こういうことは歴史上だって常にあった。最近ずっと相馬藩でなぜ慶長の津波で700人溺死としか記録されなかったかということである。もしその時津波の被害にあった人が生き残り文字を書くことと伝えることができれば後の世に貴重な記録を残したことになった。でもその時自らのことを書き記し残すことができない、庶民にはそれだけの記録を残す力がなかった。文字を書くこともできない,何に残すかと言っても残せない、相馬藩政記には戦争のことや跡継ぎ問題などは詳しく書きし記されて残っても庶民のそうした災害の記録は残らなかった。それが後の災いになったのである。

書くということは一つの力をもつことであった。伝えるということもそうである。
人間は書くことができても伝えることはできない、伝えることは権力をもたないとできない、今までは伝えることはマスメデアを通じてしかできないとなるとマスメデアが力をもったのである。出版もそうである。
だからこそ原発事故などでも内部の真実は伝えられなかった。伝える力をもつことができなかったことが事故につながったのである。
何かを知らせる伝えるにしても権力がないとできないのである。
記者クラブがあってそこからしか情報が得られない、すると記者クラブに入れないものは情報すら得られないから伝えようがない、すると記者クラブは馴れ合いとなり金も宣伝費でもらえたりして真実は伝えられなくなるのである。
だから2ちゃんねるとかユーチューブとかプログとかでも庶民が伝える力をある程度もったことはやはり大きな進歩である。
大きな権力しかもてないものしか伝えられないとしたら原発事故のようなものがまた起きる。

厚寿苑ではたかれたとかはたかれないとかはわからない、でもそういう場所で認知症であれ老人であれ弱者になると書き記してもみてもらえい、伝えようとしても伝えられないということが起きてくる。
最近のニュースで精神病院に隔離されて20代の時から40年をいたという人がいたのには驚いた。まるで岩窟王だった。精神病院が一生だったという悲劇である。
そういうことも弱者になると普通に起きてくるのだ。
それは認知症の人でも老人になるとそうなりやすいのである。
弱者化するから嫌なことで従い何も言うことができなくなる。
それは家族内でもありうるし施設などではさらにありえる。
インターネットはそうして権力がないものが訴える伝える力を持ったことは言える。
それは民主主義には不可欠なものとして生れたともいえる。
ただまだ成熟したものとならないから問題が多い。
でもかなり普及したからそれなりに個人から発信したものでも影響する場合もでてきているのである。

夏の雲、ダリヤ、菊(原町の牛越城へ)



夏の雲、ダリヤ、菊(原町の牛越城へ)

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暗雲に遠稲妻や牛越城
湧き騰がる夏雲に映ゆ牛越城
ひぐらしのここにひびけり牛越城

日に映えてダリヤの色や揚羽かな
夕月や五色に列なす菊畑

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牛越城は相馬氏が小高から移った城だけど何か短い間でも風雲の城だった。
ここで何かかなりのいざこざや内部の争いがあった。
なぜ相馬氏が中村城に移ったのかかとりざたされるけど村上城にしろ
それは小高い丘であり中世の館(たち)山城の感覚であり中村城になり
平城になり江戸時代に入ったのである。
館(たち、たて)が38もあったしこれは全国でいかに館が多かったかも物語っている。
中世の館(たち)が支配の拠点でありそれが統一されて藩が生れ江戸時代になったのである牛越城はイオンに行く時いつも見ている、見えるのである。
ただ一回もあそこに上ったことがないのである。
何か木が密生していて上りにくい感じがするからだろう。
今度は上ってみる必要がある。

現代は写真の時代である。揚羽とか動いているものをとるのはむずかしい。
揚羽がダリヤの上を飛んでいるのをとりたかったができなかった。
写真は絵であり絵に加工するとまた違って見える。

今日は午後からは涼しかった、涼しいと楽である。自転車は暑いとまともに日をあずるから辛くなる。日に焼けるのも困るのである。皮膚が弱いから自分の場合はあまり暑いと遠出したくない。
今日は自転車でも楽だった。
そろそろお盆であり墓参りとかの用意がある。
おりしも月がでて菊畑があったから秋の気配もでてきているのである。

タグ:ダリヤ

2014年08月08日

白木槿(お盆には死者集う)



白木槿(お盆には死者集う)


波の音夏の星座や太平洋

白木槿あまたや死者の集う盆

石静か月こそ照らせ災いの起こらざるべし虫の音を聞く


お盆には死者をとむらう、死者が還ってくるというのも日本的な風習であり仏教とは関係なかった。これは仏教が入る前からあった日本人の風習なのかもしれない。
その感覚は日本人でないとわからないだろう。こういう文化は理屈ではないからだ。
文化とは宗教はまた違ったものである、神道は宗教というより日本人の文化なのである。でも御札とかくばるとそれは宗教のおしつけになる。
なぜなら御札をもらえば簡単にゴミのように捨てるわけにいかなくなる。
何かそれは宗教の押しつけにもなっている。

今になると戦争が天皇が神とされてカルトだったとか平気で言っているけど当時にそんなことを言ったら憲兵につかまり刑務所に入れられた。
ただ戦争のことは以前として日本人自体で何であったのか検討されていない
だから天皇の責任でも何でもあいまいにされてあの三百万人死んだ戦争のことがなぜ起きたのかも良く日本人自身が歴史的に解明していないのである。

お盆には死者の霊がもどってくるというのはやはりそれは理屈ではない、その時死者を偲び墓参りするのはいいことである。死者を思うことはだんだん日にちがたつと忘れてしまうからである。死ぬとたちまち全く忘れられるということも起きてくる
その人の存在が希薄化してその人が生きていたのかどうかもあいまいになってしまう。
死者は日に日に忘れられてゆくものなのである。
死人坂というところがあってお盆になるとぞろぞろ死者が歩いているのを見えるという。死んだ人の数も多いのだからお盆に死者が還ってくるとなるとそうなる。

お盆中、千葉県に死者が溢れかえる!? 不気味な幽霊が徘徊する「死人坂」とは?
http://news.ameba.jp/20130803-373/

この話はそんなこと今の時代にありえないよとかかたづけられない、何か信憑性があって迫ってくるのも不思議である。それだけお盆には死者が還ってくるというのが日本人には見えていたのである。

お盆には何か白い木槿の花があっている。死者の花にふさわしい花のなのである。
白にもいろいろな白がありこの木槿の花の白は和紙のうよな白さで何かまた違っているのだ。

正直自分はこの六年間とか一身上でも災いの連続だった。もう嫌になるほど苦しんできたそれは回りでもそうである、津波だ原発事故だとか今でも延々ともめている。
そういう災いの場所と住んでいる場所がなってしまったのである。
だから災いないことが平和である。アフガニスタンの少女が戦争ないことが平和でありその平和がほしいということは痛切だった。毎日爆撃だったらそうなる。
ある意味でこの辺はそうした戦争状態とにていたのである。

だからつくづく不動の石がありそこに秋となり月の光がさしている。そうした穏やかな日が戻ってほしいとなる。もうこの辺はこうした混乱状態で疲れてしまった人たちもいるだろう。
あまりにも変わりすぎてしまったのである。
今日は涼しかったので楽であり秋を感じた一日だった。
タグ:お盆