2014年07月24日

原発避難民の風当たりはますます強くなる (介護など地元の負担が増えてきているのに遊んでいる)


原発避難民の風当たりはますます強くなる

(介護など地元の負担が増えてきているのに遊んでいる)

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鹿島区に仮設が集中している

避難住民の皆さんを対象に、公的負担でヘルパーなどの介護スキルを身に付ける職業訓練を行う。そして、医療や福祉の現場に就職してもらう。その収入は義捐金減額の対象としない。もちろん、除染作業や瓦礫処理作業による収入も減額対象から外す。
http://blogos.com/article/74517/


これは一つの避難民の具体的な仕事を与える工夫だろう。
どこでも今は介護で苦しんでいる家庭が多いからである。
介護自体が無駄だという議論があっても現実問題として苦しんでいるから放っておくわけにはいかな。
自分の問題にしてもこうした原発事故の避難区域でその矛盾をかかえた
介護していて親戚の人がパチンコ屋に借金返すために勤めていて何もしてくれない
それも借金だし深い関係があまわげでないからその人にとやかくは言えない
でもパチンコ屋がにぎわいそこに勤めて借金を返そうとする
その労働自体が有意義なものとなっていない
有意義も何も金になればいいではないかというのが現代だから仕方がないと言えるのか?
「地元でも他でも困っている人がいる、そんなことかまわず補償金があるしそんなこと知らねえよ、めんどうなことにはかかわらねえ、もともと知り合いでも何でもないからな」
介護問題では自分より困っている人は他でもいくらでもいる。何かそうしたこの辺の矛盾のしわ寄せが自分にはあった。
パチンコ屋通いしている人はそんなことを考えないだろうがいくら金があるからは言って遊びたいものは遊べばいいとはならない。それはこの辺の特殊な事情でそうなっているのだ。

「俺はもう年だし東京の方に行って遊んであとは生活保護だよ、今さえよければいいんだよ」

こういうい人がいたけどこれも無責任な話しだなと今になると思った。
生活保護をいちがいに批判はできないけど生活保護となれば市の世話になるしみんなの世話になることになる。
今は遊んであとは生活保護だという時、市のみんなの世話になるということではないか?
それは結果的に回りのものの負担になるということなのだ。
それほど負担をかけないで死んでくれたらいいがまた介護となると負担がかかる。
補償金がうちきられ生活保護になった時点で回りの負担になるのである。
そんな人を回りで市でかかえるとなると負担が増えるだけなのである。
こういうことは原発事故周辺ではかえって厳しい目が向けられる
人手不足が深刻であり介護でも外からの人でまかなっている
地元の人は避難民でも遊んで暮らしているというのも外からの目が厳しくなる
それでボランティアと遊んで暮らしている避難民が喧嘩になったというのもわかる。
もう避難民はかわいそうな人ではない、医療費はただ介護でも優先的であり
何でも優遇される時代は終わっているのだ。
なぜならその結果として回りの負担が増えているからだ。
介護にしても施設に優先的に入られるとしたら他のもっと困っている人は入れないから
負担が回りにくるのである。

この辺はいろいろなことが問われる場所になった。補償金があり金があるんだから別に遊んでいてもいいではないか?それか十人くらいの変わり者の単位だったらそういうことは問題にならない。それが多数なった時、問題になったのである。
そのことが市町村全体に影響するらヴになったからである。
それはイワキでも二万人も移住した結果、補償金で遊び暮らす人が問題になったのと同じである。数が少なければならなかった。
それが南相馬市ではなぜ鹿島区が大きな問題になっているかというと原町区は仮設住宅がすくない、鹿島区に仮設が集中して小高の人たちが移ってきたからである。
そして鹿島区では補償金が少ないことで小高の人に対して不満が大きくなったのである。原町の人があまり不満ではないのは原町に仮設が少なくて目立たないし関係しないし
鹿島区より補償金をそれなりにもらっているかららしいことがわかった。
原町区と小高区の人はもめていないのである。
鹿島区の人と小高の人が仮設が多いことで目立つからもめることになる。
それはイワキと同じだったのである。
金さえあればいいというのが現代社会だけどではその労働にしても金がもらえてもその労働自体に意味がないとなるととをなるのか?
それは回りにその影響がでる。介護の例がその良い例である。

「お前たちは毎日パチンコ通いで遊んでいるけと介護で苦しんでいる人たちがいる
働く人もみんな外から来ているんだぞ、お前らはよく遊んでいられるな」

三年も過ぎると風当たりが強くなってくる。だから小高の人が小高に帰れというのは別に自分が思っていることではない、鹿島の人はみんな思っているのだ。
それで車がパンクさせられたというのは本当かもしれない、イワキのように鹿島区では
そういう排斥が具体的なものとして起きてくるかもしれない
三年過ぎたということも影響している。これからまた二年もそうして遊んで補償金をためていることも批判される。
確かに具体的にはどうすればいいのかとなるとできないという面はある。
でも小高の人たちもこのまま遊んで暮らしていればいいんだとなると反発はますます大きくなりいやがらせも具体的にでてくるかもしれない。
だから小高の人と鹿島の人は何ら協力していない、それでも金があれば何も困らないからいいじゃないかともなる。でも実際はそうはいかないのである。
現実に回りに負担がかかっているのでありそれが金では解決していない
その金でもフィリッピン女性に使われたり東京だ仙台に費やされるとなると地元には回らないことなる。

ともかく行政でもなんらか手をうつべきであるが小高の人たちもこういう状況を考えないとこれからますます反発は強くなる、それが何か険悪になり事件が起きてくるかもしれない。イワキで起きたことと同じことが起きるかもしれないということである。

タグ:原発避難民
posted by 老鶯 at 08:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

松川浦の「松け江村」の謎 (松が浦の浦はあとからできたものなのか)


 松川浦の「松け江村」の謎

(松が浦の浦はあとからできたものなのか)
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地図を見ていくと面白い、インターネットだと本のようではなく海岸線をたどってゆく、どういうわけ三浦半島は浦とつくごとく浦が多い、ここは浦が多いし現実に人々が浦で古くから生活していた。何か江とつく地名は少ない、面白いのは江の浦という地名があったなぜ江の浦なのかとなる。江が先にあり江の中に浦がある。
それは地形的にそうである。江川とあるとき、川が江になっている。江はもともと中国では川であるから不思議ではない、でも江川と二つつくと何なのだろうとなる。
海岸線に川はあるところが江となりやすい、江が広い範囲のものであり川がその中にある江の浦も江が広いからその中に浦がありうる。
浜野浦とか浜浦も浜という広い地域があって浦があった。
ただ浜とつけられた地帯は非常に多い、日本には浜清み・・・という万葉集にあるごとく浜の多い国だった。その浜は白砂の浜であり美しかった。そこには防波堤などなかったのである。

だから「松け江村」もそういう地形の中にあった。松川浦はもともと江でありその中に川が二つ流れ込んでいてそこに松ケ江村がある。浦と認識していたのではなく最初は江と見ていたから松ケ江村となった。
松川浦とはあとから名付けられた名前である。川をつけているのはやはり二つ川が流れ込んでいるからだろう。
それで万葉集の松が浦の歌が松川浦を歌われたのかどうか疑問になる。

浜というのは海岸線をたどるとわかるがそこは砂浜のつづく人が住んでいないような地帯である。だから浜というのは新しい地名だというのがわかる。九十九里浜などが典型的な浜である。どこまでも砂浜がつづいて人気がないのである。
ハマというのは端(はし)であり間(ま)である。だから人が住んでいないよう地帯だった。かえって人が住んでいないと浜市とか浜町とか市がそこに開かれたかもしれない、河原も中世では人が住んでいないので市になっていたからだ。

日本の地名が多様なのは地形が複雑だからである。大陸のようにどこまでも平坦な地が山もない何もない平坦な地がつづく風景はない、変化に富んでいるのである。海あり山あり川ありと変化に富んでいる。こういう風土は世界的に少ない。満州に行ったらどこまでもトウモロコシ畑でありこんなにトウモロコシを作ってどうするんだと思った。
平坦な地帯が延々とつづきその中を馬車一台ゆく、そして小さな村があり川は泥川である何か見ていて変化でなくあきてしまった。ただ広いというだけなのである。
あういうところに住んでいたらあきる。地形に変化ないからだ。
日本は狭くても地形に変化があるから自転車で行ってもあきないのである。
相馬藩内だけでも相当に変化に富んでいるのだ。だからまだ未発見の土地がある。

いづれにしろ松川浦を歌われた東歌も謎でありそれが松川浦だとは確定されない。
万葉集自体が謎が多いし東歌自体もどうしてできたのか謎であり解明されていない。
方言があるといってもそれが松川浦地帯の方言かというと「なも」は東歌全体にあるのだから東は浜名湖辺りも東になる。名古屋もそうであり広い範囲なのである。
そこで「なも」が使われたとしてその広い東の共通的方言だったら方言なのかとなる。
そもそも方言はほとんど青森でも沖縄でもそうだが大和言葉を変化させたものであり
だからこそ大和言葉の古いものが辺境に残っていたのである。
すると万葉集時代に方言があったということはすでに全国的に大和言葉が普及して方言化していたとなる。そしてそこから方言になるのは時間がかかる。
東歌ができたのはそれだけすでに東でも大和言葉が普及した結果だとなる。
それもさらに辺境の蝦夷のみちのおくの地域で使われたというのはどういうことなのだろうとなる。
つまり松川浦まで東の方言があることはそんなに広く使われているものだろうかとなる。

 
タグ:松が浦
posted by 老鶯 at 06:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 万葉集