2014年07月23日

原発事故で失われたもの(飯館村を例にして) (補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)


 
原発事故で失われたもの(飯館村を例にして)


(補償金に頼る堕落した生活になったー嫌悪される避難民)

●働くと帰還すると損だということの矛盾


たとえば震災前に月収30万円だった夫が妻と子供2人と暮らす場合、30万円プラス40万円で70万円が支給されている。新たな要求に基づけば月収分の30万円プラス慰謝料35万円×4人分で140万円、計170万円が毎月支払われる計算だ。ここには財物損害、いわゆる失われた資産などの補償は一切含まれない。(避難区域)
http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/31912093.html

夫婦二人と子供三人の家庭でN市の仮設住宅に避難している個別事例。月額で70万円。この主人は半分を生活費として奥さんに渡し、残り半分を自分が使う由。自分の使う分でレクサスをローンで購入し、残りはパチンコに使う(といっている)。(飯館村)
http://blogos.com/article/74517/

原発事故で起きてきたことは何なのか?津波でもそうだが当たり前にあった生活が失われたことである。そもそも故郷に住んでいることこそ当たり前であり故郷が何かなど普通の人は考えたこともないだろう。その当たり前のことが当たり前の生活が失われたことなのである。
津波もあるが原発事故の結果故郷全体が失われたことなのである。
津波だったら被害が大きくても海岸地帯だけの被害ですんだのである。
避難区域になった所は住めなくなったし未だに田畑は原野になっている。
そして不孝なのは実は故郷を失って苦しんでいるのではない、かえって多額の補償金で楽になり仕事を失っても補償金で遊んで暮らしているその人間の堕落にあったのである。
人間の悪い面が多額の補償金をもらって露骨に現れたのである。
もともと田舎に住んでいる人たちが素朴だとかない、今はどこでも金が第一になっているそういう広域社会に住んでいる。だから金さえあればいい暮らしができる。
それが避難民に露骨に現れたのである。
レクサスを買いギャンブルに毎日興じている。東京まで行ってギャンブル風俗に行っている人までいるし仙台にも遊びにゆく、仮設にフィリッピンの女性が来ているとか、何か補償金の額が大きいから遊び人間になってしまったのである。


では避難民が働こうとするとその分が補償金からひかれるとか働くと損になるというのもそうした遊び人にさせる。それが避難民にとっては馬鹿らしいから遊んでいた方がいいとなる。相馬市でトマトを作る農家に雇ってくれと言ったら飯館村の人が断られた。
これは冷たいなと外から見る人にはなる。でも実際は多額の補償金をもらっているのだからお前たちは働く必要はない、それより相馬市では原発の補償金はもらっていないから津波の被害者が優先だというのもわかる。浪江でも工場経営者が元の仲間に仕事をくれと言ったらお前らは補償金をたんまりもらっているのだから仕事しなくてもいいだろうと言われた。確かに工場経営者だったら軽く億の金がもらえる。牧場経営者で5億円もらった人がいるとかその額が大きいのである。
「お前らは仕事しなくてもいい、補償金で遊んでいろ」となるのも変なのだけど現実にそうなっている。


一方で外からでも避難民を受け入れたところではそういう人たちに対して不満になる。
イワキでも福島市でも全然補償金をもらっていないからである。なんだあいつらは補償金でぜいたくして毎日パチンコにゆき遊んで暮らしている。俺たちは何ももらえず働いている、あいつらのために働かせられているとまでなる。やはり避難した人たちは何らか避難した先では周りの人はが働いているから生活できる。でも避難民は補償金で働かないからそう言われる。
その補償金の額では内部でももめているのだ。双葉とか大熊とかイワキに補償金で新しい立派な家を建てた住宅地が出現した。しかし道を挟んでまだ仮設に住んでいる人たちがいる。それは広野町とか補償金が少ない人たちなのである。
都路村でも道をはさんで補償された者とされないものでもめた。南相馬市でも鹿島区は30キロ圏外で補償金が少ないから不満である。それで小高区の人たちが仮設が大勢住んでいるのでその人たちをうらやみ車をパンクさせたと聞いた。
それがもっと激しく起きているのがイワキである。2万人も移動したらその軋轢は激しくなる。

●ギャンブラーになった避難民


原発事故周辺では何が起きたとかというと補償金が多額な故に内部でももめているし外部からは遊び人だと批判される、では補償金をもらっている人たちにしても言い分はある。なにしていいかわからないし金があれば遊んでいる方がいいとなる。帰還する意欲をなくさせているのである。仕事するにしたって農民だったら簡単にできないし仕事しない方がいいと普通はなる。だからギャンブルになった。
田舎に住んでいたからといって普通はその人たちが今は素朴だとかいい人だとかない。
つまり人間の醜い本性があからさまに現れてしまったのである。
金があるんだから遊んでいればいい、何しようと勝手だとなる。
だから避難民は浪江だったら一人35万にしろとか補償金を要求するだけの人たちになったそういう人たちをみている時、いろいろ理由はあっても今は嫌になるだろう。
それで大内村に住んでいた外部の人は嫌で去ってしまった。


つまり当たり前にあった生活が失われた、その当たり前の生活とは何だったのか?
それは実は人間の本性たる悪が隠されていた生活だったのである。
田舎の人が素朴だとかいい人だとかはない、ただ今までだったら貧しい人は貧しい人なりに生活していた。飯館村は県民では一番所得が低くかった。飯館村が原発補償金もらっていたろうと言う人がいたけどないと思う。何か目立った施設もなかったからである。
そこは一軒一軒森につつまれて隠されるようにあった。
その時人間の生活は隠されていてそうした人間の悪い本性が露骨に出てきていなかったのである。
確かに場外馬券場とかはあったからギャンブルはあった。でもそれは全体ではない、一部である。ただ場外馬券場は鹿島区にもあり田舎に住む人がギャンブルをしないということはなかったのである。それが原発事故で露骨になり全体に波及してしまったのである。
だから避難民はギャンブラーとなり遊び人となってしまったのである。

そのことの影響の方が今になると大きい、教育上もよくないしそんなことばかりしていたら人間がどうなってしまうのか?
毎日家でも博打の話しばっかりになったらどうなるのか?
そのことの影響が今は大きいのである。それは別に避難民でもない回りの人にも影響するなんだあいつら補償金で遊んで暮らせる、俺たちは働くのが馬鹿らしいよなとなる。
生活保護者の方が俺たちより金をもらっているから馬鹿らしいよなというのともにている

ともかく自分にしてもこういう人たちばっかりになったら嫌になるしそういう話題ばかりしかないとしたら嫌になる。現実になっている。確かに外部から人が入ってにぎわうのだがそれも何か普通ではない、プレハブとか労働者でも大勢きていると何か治安が悪くなるとか心配するのもそのためである。やはり田舎だと一軒一軒土地があり広い敷地に住んでいるのがあっている。ただそれを今までは当たり前としてみていたのである。
だからそれを特別なものとしては見なかったのである。でも仮設に住んでいる人たちと広い敷地の農家に住んでいる人たちはあまりにも違っているから意識するようになったのである。


●神は人間の生活を隠したー飯館村がその例だった


だが,不死の神々は,優れて善きことの前に汗をお据えなられた、
それに達する道は遠く,かつ急な坂で,
始めはことに凹凸がはなはだしいが,頂上に到れば
後は歩きやすくなる――始めこそ歩きがたい道ではあるが.
(『農耕と暦日』289 - 292 行)

この引用箇所における「優れて善きことの前に据えられた汗」というのは,
ゼウスの「正義」(ディケー)を実現するための「仕事」(エルガ)に他ならない
「怠惰な生を送る者に対しては,神も人もともに憤る」
(『農耕と暦日』303 行)とあることからも,
今の世の人間たちと神々との関係は,決してよいものとは言えない.
神々との関係を修復するために,ゼウスが人間たちに唯一残した道―
それこそが「仕事」(エルガ)なのである.

【主要参考文献】
廣川洋一『ヘシオドス研究序説』(未来社,1975)

http://human.cc.hirosaki-u.ac.jp/jinbun/web/img/pdf/research25/002.pdf


仕事とは単に金を得ることだけでない、他にもいろいろ仕事には意味と意義があった。
そんなこと普通は意識していない、深く考えて仕事している人はいないからだ。
ただ金になればいいとかは常に意識させられる。でもでは多額の補償金が入ってきた時
金があれば働かなくてもいいとなる。その時人はギャンブラーとなり生きる価値すら失ったとなる。そんなやつらは目障りだから追放されることにもなる。
もちろん仕事がすべて肯定されるわけでもない、仕事にもいろいろあるからだ。
ただ今回の原発事故では仕事が奪われた当たり前にあった故郷がなくなったとか当たり前にあったことの意義が問われたのである。


もう一つはヘシオドスが「神は人間の生活を隠した」というとき人間の生活が自然の中に隠されてあったとき良きものであったのだ。人間の本性は本来悪であり田舎の人間もやはり悪であり欲望も深い、ただそういうもの欲望でもおさえられてその本性が隠されて暮らしていたときそういう悪は隠されて見えない、だからそもそも日本の神道でも罪はつつむであり自然の中につつみかくされたとき覆われてみえなくなると意識したと同じである。日本の自然はその自然が神道の基なったごとく美しかったのである。
それが文明化して都会化したとき人間の生活がむきだしになり日本がもっていた本来の美は真直なる美は失われたのである。



隠された村


深い森につつまれて飯館村はありぬ
花はのどかに咲き日は静かに過ぎてゆく
人々の生活は山間に森に隠されてありぬ
その醜い人間は森の中に山の中に隠されありぬ
小鳥は本然の歌をここで歌い
その声は森にひびきわたり暮れぬ
自然に飾られて何も飾らぬ村よ
石はそこに寄り合い誠実の日がある
人々の欲はそこにおさえられて
森が深く息づき本然の生を養ふ



こんなふうになっていたのが飯館村だった。飯館村は何か違っていた。それは他より森とかに隠されていて本然の自然が深く息づいていたからそう感じたのである。
自然の神秘性がありそう感じたのである。
それが失われたとき、人間の悪が本性が露骨に現れだけとなってしまったのである。
そのことが最大の悲劇であったのだ。金では買えないものが飯館村全体にあったが失われたのである。
posted by 老鶯 at 07:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 飯館村