2014年07月16日

贅沢を覚えた猫(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)



贅沢を覚えた猫

(豊かさの貧困ーモノがあふれても売れない時代)

●猫も人間と同じだった

猫を飼うということも一つの経験であり猫というものが自分にはわからなかった。
実際に飼ってみて猫というものを新たに理解した。猫にはほとんど関心がなかった。
犬は子供の時飼っていた。猫についてはそもそもわからなかった。
猫も犬と同じく人間が飼うと人間と一緒に生活すると人間化してゆくものだと思った。
その猫はたまたま餌をやったらいつくようになった。もともとは飼われた猫だったのだろう。だから甘えるよに鳴いてよってきた。ただ半年以上すぎるけどまだ時々襲いかかるように吠えるように化け猫のよように口をあけてなる

おそらくこの猫は捨てられて野良猫となり相当に人間に虐待されたのだろう。
だから人間になつかなくなった。その傷が深く忘れられない、人間に恨みをもっている。でも最近は自分のところによってきて眠るからなれてきている。
でもまだ時々口を空けて化け猫のようになる。
ただこの猫はしょっちゅう餌を要求するからよく野良猫として生きていられたと思う。
野良猫として生きるのは相当に厳しいと思うからだ。
猫の胃袋は小さいから食い溜めをできない、だからしょっちゅう餌が必要になるというが野良猫だったらそんなに餌がない、だから相当に窮乏した生活をしていた。
その窮乏感とはその日食えるか食えないかというぎりぎりの生活からくる窮乏感だったろう

野良猫は家猫に餌をやるからその餌をねらってやってくる。野良猫は結構多いものだと思った。最近近くの空家に三匹の子猫が出入りしていたのを見た。
空家だと猫の住まいにはいい場所である。その三匹も野良猫になる。
だから野良猫は増えるから餌をやるなと言う人もいる。
野良猫は結局もう野生の猫のように自分で餌をとれないのだから人間の問題化している。犬のように登録制にしろとか地域猫として飼いとかいろいろ法律まで整備しろとまでなるそれは一個人で勝手に飼ったりするとまた増えたりするから去勢して飼いとかなるからだ猫というのは人間化すると人間の問題になるのである。
だから猫はもう介護までされたり猫の墓まで普通にある時代になったのである。

猫は自分が食事している時、猫が自分の食事しているのを見ている。その時、サシミでも一切れとか与えていたらその味がわかって必ずご飯のとき見ていて分けてくれと鳴くのである。他にも魚類や肉類なども一切れとか分けてやっていた。するとその味を覚えて食べたいとちょこんと座って鳴いて要求するのである。
この猫は自分の家で飼われるようになってから贅沢猫になったのである。
野良猫の時は満足に食えなかった、窮乏していてうろついていたのである。
その生活は相当に厳しいものだったろう。家に入ってきてはぶたれたり追われて生活していたのである。野良猫は飼い猫の三分の一の年くらいしか生きられないという。
それだけ野良猫として生きるのは厳しいのである。

それが一旦こうして贅沢を覚えると自分が食事して何も与えないとすごく不満そうにしている。それがやはり表情でわかるのだ。とにかく食事の時迫ってきて鳴いて「俺にもくれ」と要求するのがわかるからだ。
だから与えないと「なんでくれないんだ」と口に言わなくてもひどくがっかりしたようにして離れるのである。
だから猫もぜいたくを覚えるとその味を覚えるといいものを与えないと不満になるのである。野良猫のようにともかく腹をみたせればいいというのではない、うまいものを食べない日は不満になるのである。贅沢を覚えてその贅沢ができない窮乏感をもつようになったのである。


●モノがない時代の貧困


この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにているなと思った。
自分の子供のころはモノがない何もない社会だった。どこの家でも飯台一つくらいしかない貧乏だった。電気製品は何一つない裸電球一つあるだけだったのである。
食べるものは麦飯でありオカズはコロッケとかサケとか決まっていた。今日ももコロッケ明日もコロッケなどの歌がはやったのもそのためだろう。その頃まだ卵も農家では食べられても一般の家では食べられなかった。だから自分の家では店をやっていたので農家に卵を買いにやらされたのである。卵はずっと贅沢品だったのである。
病人しか食べられないとかの贅沢品だった。

その時代は乞食というのも普通にいた。乞食は戦前も田舎にもいて悲惨だった。
それは野良猫とにていたのである。
ただ回りを見ればみんなそんな何もない貧乏暮らしなのだからその貧乏を嘆くというよりはあきらめて生活していたのだろう。
大正生れの母は今でも梅干しとご飯があると満足するくらいである。
もちろん介護されているのだから食欲がないからそうなっているがもともとそういう暮らしだったのである。粗食で生きてきたのである。ただその後はやはり食べ物は贅沢している、だからエチゴなどやケーキは食べるのである。

現代の貧困は何かというとボロを子供などいないから貧乏に気づかない、野良猫がいるのが普通気づかない、でも猫を飼っていると必ず野良猫もよってくるのである。
この猫はやはり現代の社会を生きる人間とにている。自分の子供の頃はなにもない、飯台が一つあるくらいの生活だった。電気製品も一つもない、裸電球が一つくらいしかない生活でありそれは共通していた。
食べるものでもオカズは決まっていた。麦飯とかでありコロッケでありサケとかは良く食べていた。肉は食べず卵は農家では食べていたが一般の家庭では食べられない贅沢品だった。親が病人で卵を食べていたのをうらやましがっていたことを話す人がいた。
だから店をやっていたときその卵を農家から買わせられたのである。その時は農家の方が家で納豆まで作っていたのだから豊かだったのである。そもそもモノがない時代はモノを作り出す米でも野菜でも卵でも作り出せる農家の方が豊かになる。
戦争中でも戦後でも着物を食料と代えたということでもわかる。そして農家は汚いとか都会の人に言われた。今でも農家は農家の人が汚いというからそういうことは今でもある。


その頃は乞食も普通にいた。乞食は一軒一軒物乞いして歩いていた。それは普通の光景だったのである。戦前になると山頭火のような物乞いして旅できたというのもそういうことが普通にできた時代だったからである。戦前から戦後十年くらいは普通に乞食がいたのである。今は乞食がいないから貧乏人がいるように見えないのである。
だから貧乏自体がないように見える社会なのである。
現代がいろいろ貧乏のことが言われるようになった時、それがモノがない貧乏ではない、モノがありふれてそのモノが買えないという貧乏なのである。
それは野良猫から飼い猫になり贅沢を覚えた猫と同じである。
うまいものを食わせないと不満になった猫である。その窮乏感は渇望はかえって強くなり不満になる。

●モノがあふれているのに買えない貧乏の時代

例えは新車が絶えずでるけど車を運転できる人なら買いたいと思っても買えない、するといいものがあるのに買えないという不満が渇望感がましてくるのである。
ではその渇望感を充たすにはどうするかというと借金してまで買うということになる。
それでサラ金とか闇の金融から借りている人が八人に一人もいるのが現代社会の実相なのである。充たされない欲望を借金で充たしている異常さなのである。
まず昔だったらローンで家を建てたりはしない、家を建てるのも借金なのである。
だからあとで借金は大きな負担となってまた苦しむことになるのだ。
「消費者は王様」だという社会になったとしても消費する金がない人、貧乏が増えたのである。そんなにモノを作っても売れないとなるとそんなに作ることもないとなる。
少子高齢化でますますモノは売れなくなる。だから実際は作る方も売る方ももう限界にきているとなる。それでもグローバル化社会になるとあらゆる食べ物でも入ってくるからほしいとなり欲望は無限に拡大してゆく。

現代の矛盾はそうしていくらでもモノを作り出しても今度はそれだけのもの買える経済力がない人たちが増加した。フリーターとか派遣とかニートとか正社員でいな人たち増えた。その人たちは賃金が安いのだからモノを買えといっても買えないのである。
これも欲望資本主義社会の矛盾なのである。何か過度な無際限の欲望資本主義が限界にきているのだ。作る方にしても売る方にしても買う方にしてもそれが限りないものではなくどこかでとまる、制限される、それが無限に増えてゆくということはありえないのであるそういう無限に増えるということを追求してゆく社会自体が過ちだとなる。
そのことは社会自体に個々人に返ってくる。


これが今回の原発事故と関係ないように見えても関係していた。つまり身の丈にあった生活ではなく、無限に拡大した欲望を充たす社会だからこそ原発事故も起きた。
豊かになるには原発が魔法のようなものであった。でもそれは危険であったがその危険も無視して豊のためにはどうしても原発が必要であるとなり作られた。
これは石油もそうである、豊かになるためにはどうしても石油が必要であり危険でも石油を得る必要があるとなり戦争してまでも石油がほしいとなる。
原発事故でもそういう無際限の欲望追求の社会にもあった。
人間はどこかで欲をとめない限り危険なものになってゆく。戦前や戦後十年の貧しい時代にもどるのかというのではなく何らかこれだけ豊かになったら欲望の制限が必要になっているのだ。第一みんなそんな欲望を充たされる社会などないから一部の金持ちが豊かな暮らしができても今度は多数の貧乏人が生れる。高度成長時代のようにみんなが豊かにはなれない社会になっていたのである。
売る方にしても作って買う人がいない、こうなれば作る方もまた貧乏になってゆくという矛盾が生れたのである。
posted by 老鶯 at 02:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 経済社会労働問題