2014年07月05日

南相馬市が賠償金で分断されたのはなぜか? (南相馬市民としての一体感を計る政治的配慮が必要だった)


南相馬市が賠償金で分断されたのはなぜか?

(南相馬市民としての一体感を計る政治的配慮が必要だった)

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なぜ南相馬市は賠償金で分断されたのか?
それは合併前の小高町、原町市、鹿島町の三つの区域に東電で賠償金の額が決められた。鹿島区は30キロ圏外であり一番安くされた。
小高と原町は賠償金に不満はない、鹿島区だけが割りを食ったのである。
小高は警戒区域になって住めなくなったのだからそれなりの賠償金をもらえることは当然だとなる。
原町にすればここも一時避難命令が出たから避難した人も多いから鹿島区より多くもらってもいいとなる。
鹿島区は30キロ圏外であり屋内退避地域だから一番少なくなった。


そして南相馬市では小高と原町では賠償金について不満はない
原町でも二年分とかで一人十万もらっているとかこれはわからないにしても多いと思った鹿島区は一人十万で七カ月分である。原町と鹿島は相当に差があるのだ。
だから小高と原町は不満はなく鹿島だけが無視された結果になった。
最初は市の調整金から鹿島区に一所帯百万を出すというとき、原町の人がかなり厳しく反対したのである。
その時はまだ東電からの賠償金がどういうふうにもらえるのか未定であった。
その金は一時的に市の調整金から出したのであり仮払い補償金だった。
あとで本賠償で東電から支払われたのである。
だから市の財政の負担になったことはないだろう。


何がここで問題になったかというと南相馬市が合併する前のそれぞれの事情で元の市町村に分断されてしまったのである。
南相馬市に合併したなら南相馬市として一致して市政にあたらねばならない。
それが賠償金の額で分断されたのである。
ただ小高と原町は多数になったから少数派の鹿島区は無視され犠牲にされた。
民主主義は多数決の原理だから少数派は無視されというのもしかたないともなるのか?


でも南相馬市として共同性を保つには何か政治的配慮が必要だった。
鹿島区選出の議員もこのことで何か市議会で訴えるのも聞かない
これは南相馬市の政治的問題だったのである。


この賠償金問題は他ではどこも原発事故の被害を受けた町でも村でも分断されていない。大熊町でも双葉町でも浪江町でも飯館村でも一つになって賠償金を東電や政府に要求している。その町や村で差別はないのであてる。
南相馬市だけが賠償金で分断された。特に鹿島区だけか割りを食ったのである。
小高にしても本当は小高町となって一つとなって賠償を要求した方がわかりやすかった。そうすればもっと賠償金も交渉はしやすかったのである。


ところが南相馬市になったとき、小高町としては要求できない、南相馬市の一部としてあるのだから要求できない、すると南相馬市として要求するのだがそれも東電や政府によって決められたことに問題があった。
政府や東電は南相馬市のこうした事情を考慮しないで賠償金を分断して決めた。
そのことについて国会議員も動いていない、福島県選出の議員が東北の復興担当になっているのにこうした南相馬市の事情を考慮していない


南相馬市はまず南相馬市として一致して東電に賠償を請求するべきだった。
南相馬市に賠償金を払うのであり小高とか原町とか鹿島とかに分けるべきではなかった。確かに放射線量とか被害の大小があったが放射線量は山側をのぞいてそんなに変わらなかったからである。
政府も東電も南相馬市と交渉して南相馬市と一括して賠償金を払うべきだった。
なぜなら南相馬市は一体であり別々に払ったら南相馬市ではないとなる
南相馬市の市民として一体としてこの問題にあたるべきであり
そうでなければ南相馬市として合併した意義もなにもないのである。


南相馬市に合併したのは日が浅いから一体感もないし南相馬市民という感覚も育っていない、
でもこういう危機の際には一体感を作るチャンスでもあった。
日本には市民という感覚はないし相馬藩という歴史はあっても市民という感覚は薄い、
だからどこの市に属していてもその市と一体化する歴史感覚がない
ヨーロッパでは市が国であり市に市壁を巡らして生死を共にしてきた歴史がある。
だから市で一番立派なのは市庁舎でありそれも古いのである。
それは三百年とか五百年の歴史がある。市と市が戦争していたのがヨーロッパだった。
日本では市にあたるものがなく藩が市の代わりになっていたのであり
藩より村が一体感をもつものとしてあった。
そういう歴史の違いがあり日本では市民意識が薄いのである。
パスポートでもどこのcitizen(市民)なのかと書かねばならない、どこの市民に所属するのが大事なのかとなる。ヨーロッパは市が一つの国のような役割を果たしていたから
そうなる。


つくづく今回の津波や原発事故は様々なことがテーマとなった。だからいろいろなことを考えるようになった。そもそも故郷はなにかなど当たり前にあるものだし考える必要もなかったのである。それが故郷を離れ故郷に住めなくなり故郷失う流民のようになることなど想像もできなかったろう。
明らかに避難区域などは流民化したのである。流民という現象は世界では国と国が争い起きていることである。日本国内で流民化するということは考えられなかったのである。
だから双葉町なら双葉町、浪江町なら浪江町、飯館村なら飯館村とその町や村の一員であることを否応なく強く意識させられる結果になったのである。


ただ南相馬市はそういう一体意識がなく分断された。特に鹿島区は除外されたようになってしまった。
南相馬市の一体感を作るには保つには政治的配慮が必要だった。
南相馬市として政府や東電に議員を通じて政治的にはたらきかけ運動する必要もあった。一方的に政府や東電から決められことが南相馬市の場合はよくなかったのである。


この原発事故問題は福島県民としての問題でもあった。会津などは遠いから関係ないと思ったがそれなり放射性物質もとんで山菜などに影響したし観光にも影響した、そして浜通りから避難民が仮設に住んでいる。だから福島県全体を意識させられる問題でもあった。ところが浜通りと会津は風土も違っていて一体感がないのである。
だから浜通りに原発が建っても関心がなかったろう。中通りさえそうだった。
それが福島市や郡山市の方が実際は放射線量が南相馬市の海側より高かったのである。
だからそこは賠償金をもらえないから避難した人たちに不満をもっている。
原町の人が福島市で車を傷つけられたというときそんなことあるのかと思ったがやはり福島市は放射線量が南相馬市より高いのに賠償金がもらえいな不満があってそうした。
福島県内も分断されたのである。福島県知事選挙など関心がなかった。
でも原発事故は福島県全体に影響していたから福島県の政治もこうなると直接影響するのだと現実の問題として自覚したのである。


ところが原発はどうして建てられるかというとその建てる地権者と漁業権とあとは県知事の許可で決まっていたのである。そんな狭い範囲で決められるものではなかった。
その影響は福島県全土に及びさらに東京までも及ぶものだった。
だからすでに原発は一国家の問題でもあり地球環境破壊するから世界の問題でもあった。そういう認識はなくその狭い地権者とか漁業権者と知事の許可で決められていたのである

ともかく津波や原発事故は様々な問題を浮き彫りにした。そこに様々なテーマが生れた。それは人間社会全般に及ぶものであり単に科学だけの問題ではないのである。
フクシマの再生なくして日本の再生がないというときここがそれだけ現代の様々な問題の象徴的場所になってしまったからである。





citizen(市民)の歴史的意義
「市民」は、城壁と秩序の「内」にあり、それ(≒社会)を支える資格*1と気概*2をもつ人のことを言う。それをとくに「公民」と訳す場合がある。なので、「市民」とは「〜であるもの」ではなく、基本的に「〜になるもの」だ。つまり、自覚的・能動的存在であり、この点で「民衆、庶民(people)」とは異なる。

そして、とくに civil の用法に注目して分類すると、少し面白いことが分かる。

•(外政に対して)内政の; 国内の,国家の
•(聖職者に対して)俗(人)の.
•(軍人・国家に対して)一般(市民)の、民間の


古代(ほかの都市≒国家)中世(聖職界)近代(官僚機構・常備軍)といった、各時代における「個人的自由を抑圧するもの(≒権力)」との対比として使われているのが分かる

http://daruyanagi.jp/entry/2012/12/15/142304


ここの説明は興味深い、


各時代における「個人的自由を抑圧するもの(≒権力)」との対比として使われているのが分かる

市民は外政に対して内政だから自治市民としの自由を行使するものである。
だから原発は国家権力で強制された面があったからこれを阻止するのは権力に対抗する
市民である。


聖職者に対して俗人というとき、ヨーロッパではカトリックが政治支配したからそれに対する抵抗として市民があった・・つまり権力に対抗するものとして市民があったということは大事である。
なぜなら原発はそうした権力に対抗する市民がいないかぎり阻止できないものだったからである。
国家権力によっておしつけられてまうのである。
そういう市民意識でも県民意識でも発達していれば原発は権力側の思うままにはならなかったのである。


権力に対抗するものとしての市民の歴史的意義を見直すことが必要である。

集団的自衛権問題でも創価公明党という政治と化した権力と国家権力が一体化して進められる
それに対抗できるものは何なのか?
自由なる真の市民の力の養成が必要なのである。
ヨーロッパには歴史的にあったが日本にはないからこれから作る必要があるのだ。
日本の歴史はそういう点でまだまだヨーロッパに技術では追いついていてもその他の全体的社会構成においては追いついていないのである。


posted by 老鶯 at 20:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 福島原発事故関連

民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった (その最大の弱点は時代が特定できないこと)


民俗学で口碑伝説を重んじる意義は大きかった

(その最大の弱点は時代が特定できないこと)

 

文書の記録より口碑を重んじたのが民俗学を創始した柳田国男である。歴史というと文書が中心だかけど考古学などが発達して地中に埋もれたモノからも歴史を探るようになった考古学は年代を測定できるので証拠が確実にあることで信用されやすい。
文書にはそれがすべて正確とは言えないしその時の権力者の恣意によって左右される。
権力者に都合の悪いことは記されない、今回の原発事故でも権力側によって情報が操作されたことでもわかる。
マスコミも真実は報道しない、NHKもしない、権力によって権力側の圧力によって情報が操作される。NHKは中国や韓国寄りだということが常に今でもネットから批判される。
在日の人が牛耳っているからそうなるとか言われる。NHKもかたよって情報操作をしている。


だから歴史というのは力の弱いものから見る視点が常に欠けているし消されてしまう。
蝦夷というものが大和王権に滅ぼされたがその実体は不明になる。
蝦夷側から何か記して残すことができなかったとなる。敗者は勝者によってその記録も残されないし消される。
権力者のことは事こまかく記されるが一庶民のことは記されない
だから記録として残っているのは戦国時代なら戦争のことでありそれで家臣が死んでどうだこうだと事こまかに記されている。相馬藩でも慶長津波があった時期も戦国時代の末期であり秀吉、家康の時代だからそのことは事こまかに記されているのだ。
慶長津波のことは溺死者700名した記されないない、だからその時の庶民の暮らしがどうだったのかというのもほとんどわからない。
一庶民は何かその頃、日記に記すようなこともなかった。何かを記すには紙も高価だし字も書ける必要があるし簡単にできない、墓すら高価で庶民は残せなかった。
江戸末期に庶民豊かになりわずかだが墓を残すようになった。


だからそうした庶民の歴史は伝えられないので戦争ばかりが歴史ではないと柳田国男が口碑を重んじる民俗学を創始した。文書に残らない学問の追求だった。
そのことはやはり今回の津波で歴史研究では大事なことが判明した。
慶長津波のことを文書に残っていないから知る術もないということである。
相馬藩でも関心は戦争のことであり跡継ぎ問題であり慶長津波については700に溺死としか記されていない。
だから本当にそんな津波があったのかとまでなる。
そんなに被害があったならなにかしらもっとその被害状況などが記されていいはずだからである。それが全くないということが大きな歴史の空白を生みこの辺には津波が来ないんだという信念にまでなっていた。
それは慶長津波についての記録がないことがその原因だったのである。


そもそもその前に海辺で暮らしていた人の暮らしもよくわからないのである。
どんな人が住んでいてどんな暮らしをしていたかもわからない
庶民が日記を残したりしていないからである。
記録を残すにしても400年前となるとそれを残し維持するだけでむずかしくなる。
相馬藩政記が残されたのは相馬藩の政治として権力があって残されたのである。
庶民は権力がないのだから残せないのである。
つまり庶民の暮らしより戦争に勝ったか負けたとかが大事になる。
そこで死んだ家臣のことは詳しく語られるのである。


だから津波に関しても柳田国男の追求した口碑とか伝説とか民俗学はやはり歴史をどうとらえるかで重要な新しい学問だったのである。
郷土史というとき、それは広範囲な知識が必要であり一人だけではできない
地質学となると科学的知識も必要だし生物学的知識も必要である。
そういう総合的なものとして郷土史がある。


原発でもそうした津波を考えるのにも伝説とか郷土史などは無視された。
ただ最近科学的調査でポーリング調査で津波の痕跡が発見されて忠告したが東電ではきかなかった。
この辺にはこんな伝説がありますよと言っても科学者は耳を傾けないだろう。


『双葉町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <(双葉町細谷は)伝説細谷千軒といって、海岸まで大変に栄えたという。
 古老の話では、昔、海津波で被害を受けてから、人家も移動したとのことである。
 現在は、海岸もかなり浸食されているが、昔はかなりの集落で、出土品も耕地整理の折に発見されている。『双葉町の人と伝説』より>(『双葉町史』第5巻 民俗編)

『大熊町史』に以下のような伝承が記載されている。
 <野上向山に「魚畑(いよばたけ)からかい森」がある。大昔、大津波が起きてこの地一帯は海水に侵され、その水が引いたあと魚介類が残ったので名付けられたという。『双葉郷土誌』>


こういうことを調べて忠告しても聞くことはなかったろう。
からかい森とあるようにからかっているのかとさえなる。
郷土史はそれだけ科学の時代には重要視されない


ただ口碑とか伝説とか庶民が伝えたものの最大の弱点はそれがいつ起こったのか、ただ昔々にあったとさでは信用できない、文書に記されたものもすべて信用できないのだがそこに時代を書いてあることが一番大事なのである。
時代が特定できることが歴史にとっては一番大事なことであった。
口碑や伝説は時代がわからないことが最大の弱点である。
なぜなら「てんとう念仏」という言い伝えが柚木に残っているとしてもそれが慶長津波なのかどうかわからないということである。
むしろ自分が発見した海老村の大工の伝説は中村の天守造営の時と時代が特定できるから資料として信頼できるとなる。


自分が郷土史に興味をもったのは墓を見たり石碑を見てからである。そこには必ず時代が特定できる。萱浜の墓地にも天明と記された墓があったからここは古い場所なのだと知ったのである。他にも新地の神社に文禄という碑があったときもこれは古いと見た。
おそらく文禄時代に検地がはじまっていて文禄と記された。検地を記念して石碑が残された。葛尾(かつろう)村にも明暦と元禄の碑があったのでここも古いなと思った。
時代が特定できないと津波のことでも一体それが貞観津波のことなのか慶長津波のことなのかそれとも別な津波のことなのか時代を特定できないから困るのである。
だから文書中心の歴史の解釈になってしまうのである。

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新地町の神社にあった

posted by 老鶯 at 12:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 地震津波関係