2014年07月03日

原町の相馬農業学校は養蚕学校だった (その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)



原町の相馬農業学校は養蚕学校だった

(その歴史と私の大正生まれの母の話しなど)

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鹿島区の養蚕農家


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相馬市の旧街道

屋根の上の小さな屋根は換気するためのものだった

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日立木の稲荷神社


大正十五年生まれ、八十一歳
私は一九二六(大正十五)年二月十一日、原町区馬場のこの家で生まれ、今年八十一
歳になります
石神第二高等尋常小学校を昭和十四年三月に卒業し、相馬農蚕学校(現在の相馬農業)などに進学したかったのですが、当時家が貧しくて進学もできず、押釜の砂工場やあ
ちこちで働きました。私は草履を履いているのに、友人の農蚕学校生は、足に格好よ
くゲートルを巻いて立派そうでうらやましく思ったりしたものです。
http://www.haramachi9jo.net/kaihou/pdf/043_haramachi9jyo.pdf



1903年 - 原町他2ヶ村組合立原町実業補修学校として創立。
1908年 - 相馬郡立相馬農業学校に校名改称。
1921年 - 福島県立相馬農蚕学校に校名改称。
1948年 - 学制改革に伴い、福島県立相馬農業高等学校となる

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明治6年には、二本松市、喜多方市に相次いで器械製糸工場が操業を開始し、明治21年の繭生産量は4,753トンとなり、明治43年には8,865トンの繭を生産するほどになりました。
 この間、明治32年には日本銀行福島出張所が設置されましたが、これは養蚕や絹織物業における決済等の必要性からと言われています。

http://www.pref.fukushima.jp/yasai/kennai-engeinousakumotu/yousan/yousan-genjyou.html


相馬農業高校は1921年(大正11年)に「相馬養蚕学校」に変わった。はじめは農業学校だっのに養蚕専門学校になったというのはそれだけ養蚕が農業の主流となったからだろう。
その頃ピークになっていた。何かしら養蚕と関係していた時代である。。
この辺では女性はたいがい福装でで働いている人が多い、あそこはかなり大きく今でも女性の働き場となっている。でも今はその他にも女性の働く場所はある。

一般的には戦前はまだ草履をはいていた。なぜなら若山牧水も草履はいて旅していたからであ。靴がまだ普及していなかったのである。、ネパールでは素足で歩いていたから草鞋を履くということもそれから比べれば文明人となるのか、88歳でありこれは間違っている

この話で興味深かったのは私の姉がやはり大正生れであり年齢的には変なのだけど姉は姉である。その姉が常に言っていたことは相馬女学校に行きたいけど貧乏で行けなかったと言っていたことであり家が貧しくて進学できないということだった。
その頃どん底の貧しさでありそれはみんなそうであり相馬女学校に行けるのは相当な金持ちだけだった。相馬女学校を出たというだけでその当時は一目置かれるものだった。
それで飯館村の大倉の女性が「俺は相馬女学校出たんだよ、親戚の家から鹿島の横手から通ったんだよ・・」とか言っていた。その女性はなぜ裕福だったのか?
それは当時は山をもっていると材木が売れるから金持ちなれていた山持ちはその当時は大きな財産であった。


私の姉は学校も一番だった。運動も体も機敏だったからできた。男勝りで何でもできたのである。それで赤十字の看護婦になった。当時は看護婦になるものみんながなれない、東京で資格をとるために学んだ。その後赤十字から招集命令が来てシンガポールに四年間、従軍看護婦として勤めて辛酸なめた。そのことが忘れられず死ぬ直前までそのシンガボールのことを語っていた。


そして私の母も大正生まれで尋常小学校だった。その頃はみんな尋常小学校だった。
私の母は原町の夜ノ森のすぐ近くが実家だった。地図を見ると相馬農業高校が近くにあった。そのことで母が戦争のことを話ししたことを思い出した。
相馬農業高校が戦争の時空襲されて燃えた。相馬農業高校は大きい建物だからねらわれたのだ。
防空壕に逃げたのだか父親は怖くないと逃げなかったが最後は防空壕に逃げた。
その蓋が飛行機がすれすれに飛んで持ち上がって怖かったとか言っていた。
そこは相馬農業高校があるから危険だったのである。


父親は警察署長だったがやめて機織工場を経営したが失敗したことが実家の悲惨な一家離散になった。その頃機織工場をやれば成功するという風潮があったのだろう。
ただ私の祖父にあたるがその人は全く経営の才能もなかったのである。
ただ警察所長だからできるという奢りがあったのだろう。
母はただいばるだけの人だったと言っている。結果的にはその祖父の事業の失敗が一家離散とか子供に過酷な運命を強いたのである。
ただその当時はみんな貧乏だから誰でも苦労していたし母が特別ではなかった。
今は実家はなく墓だけが残っているのもそうした祖父の事業の失敗などで一家離散になったことが原因している。


大正四年生まれの母はすでに実際は百才である。大正からすでに百年の歳月がすぎる。
原町の無線塔が大正時代に建てられた。


1923年(大正12年)9月1日に関東大震災が発生した際に、第一報を無線通信によって世界中に打電した。関東大震災によって原町無線塔が注目されて以後、日本各地にラジオが普及していった。1958年(昭和33年)12月23日に開業した東京タワーが「テレビ時代」の到来の象徴であったのに対して、原町無線塔は「ラジオ時代」の到来の象徴であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%86%B6%E3%83%BB%E5%8E%9F%E7%94%BA%E7%84%A1%E7%B7%9A%E5%A1%94


母もその時子供でも地震を感じたのを覚えていた。無線塔は旧原町市のシンボルとして長い間建っていた。やはりそれだけの役割があったために世界からも注目されたのだ。
原町市は相馬市と違いいち早く近代化した街として発展したのである。
その象徴がまた原町機関区としてあったことである。その時森林鉄道が日本全国を縦横に走っていた時である。意外な所に森林鉄道が走っていた。
その跡を丹念に探査している鉄道マニアがいるから調べられる。
森林鉄道で木材とか石材を東京の方に運んでいたのである。
平機関区も大きく小名浜から石炭を船で運んでいたのが鉄道で運ぶようになった。
鉄道全盛の時代は戦後もずっとつづいたのである。鉄道の民営化してから衰退したのである。


私が原町市と相馬市は感じが違ってる。相馬市は中村城があった城下町であり今も城跡がありそこがち中心になっている。原町はいち早く近代化された街であり駅前通りが発展した。それが今はシャッター通りになりその街並みが長いから何か一段とさびれてしまった。駅前の図書館だけが立派なのも何かそぐわない、今は原発事故でスーパーヒタチが止まったままで原発事故後相馬市と原町を行き来する二両の電車だげである。


時代とは常に変わってゆくものである。特に津波原発事故以後の変わり方はあまりにも激しかった。今もその混乱はつづいている。百年も生きれば一世紀生きたのだからそこに庶民でも歴史を刻み歴史の重みをもつようになる。
親はやはりその家や市町村の歴史をになっている。そして祖父母もいろいろあってもやはり歴史を語り歴史をになっている。最後は人は死んでみんな物語り(ストリーーヒストリー)になるのである。


最後はみんな語り部になる。自分もまた家では自分しか残らず一人で供養することになった。それも自分の生れた宿命だと思った。
ともかく人間はその時代時代を生きる、そしてみんな死んで歴史となって次代に伝えられる。ただ親のことで祖父母のことでもなかなかわかないことがある。
それでも死んでから回想するとそういう人だったとか自分にとってどういう影響をしたかなどがわかってくる。生きている時はなかなかわからないのである。


養蚕については兜造りの家がそちこちにまだまだ残っているから偲ぶことができる。
二階が兜のようになっていてそこで換気していた。
ともかくこの兜造りの家は本当に多い、農家の40パーセント近くが養蚕をしていたのだから多いのが当然であった。それだけ養蚕が盛んだったのである。
農村は養蚕社会だったともなる。それが今や十数軒くらいしか残っていないというのも時代の変わりようの激しさを物語っているのだ。
天皇陛下も今も養蚕していて美智子皇后が蚕を手にしていることでもわかる。
国を支えたのがまさに蚕だったのである。


秋蚕(あきこ) 美智子様のお歌

眞夜(まよ)こめて秋蚕(あきご)は繭(まゆ)をつくるらしただかすかなる音のきこゆる
時折(ときおり)に糸(は)吐かずをり薄き繭の中なる蚕(かひこ)疲れしならむ
音(おと)ややにかすかになりて繭の中のしじまは深く闇にまさらむ
夏の日に音たて桑を食(は)みゐし蚕(こ)ら繭ごもり季節しづかに移る


明治5年(1872)、富岡製糸場の初代工場長であった尾高惇忠(渋沢栄一の従兄弟)は、生糸の原料である繭の生産量を高めるため秋蚕の開発に努めた。しかし、その頃は秋蚕は公認されておらず、惇忠は明治政府と見解を異にすることを理由に、明治9年(1876)職を辞した。
その後、埼玉県令白根多助などの尽力で秋蚕が公認されるに及んで、繭の生産量は倍増し、生糸の輸出量も増加して、新政府の財政に大きく貢献した。
清心寺には、秋蚕を発見した五明紋十郎の功績を記念した「秋蚕の碑」が建てられている

秋蚕というのは増産するために作られたものだった。品種改良がどこでも成されているように自然のままでは農業でも停滞する。そうした品種改良の結果として農業も発展する。

この歌は女性的な感覚の歌なのだろう。音に耳をすましている。そこに女性らしい気遣いがある。美智子様は詩も作っているからそういう文学的才能もあるから評判もいい。
ただ雅子様は比べるとあまりにも見劣りする結果となった。
昭和天皇もいろいろ言われるが短歌は上手であった。
歴代の天皇でもいろいろいてその評価もいろいろである。
美智子様となると結婚式とかから見ているから時代的には団塊の世代には親しいものとなる。
美智子様は平民から選ばれたことで注目された時代の象徴でもあった。
ただ皇位継承問題があり雅子様と美智子様では差がありすぎることである。

posted by 老鶯 at 20:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史(相馬郷土史など)

山帽子(大雪で枝が折れても咲いた山帽子)


山帽子(大雪で枝が折れても咲いた山帽子)

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赤まるのところの枝が折れた


大雪に枝の折れにし山帽子今年も庭にさわに咲くかな

山帽子さわに咲きにき涼しくも風の通れる昼間なるかな
真っ赤なるハイビスカスの二輪咲き夏の日さして我が前にあり


今年は大雪でこの山帽子の木の枝も三カ所折れた。
その跡が残っている。赤く囲んだところがそうである。
他にも山では木が倒れたり枝も折れた。
今年は?梅も寒くて雪で咲かなかった


それでも今年も山帽子は多(さわ)に咲いた。
この花は一杯咲くし長く咲いているからいい
風にそよぐのも夏らしい


ともかく自然は厳しい
この辺は津波でもそうだし大雪の被害もあった。
それでも今年もこれだけ山帽子の花が咲いたことは感動である


この辺の状況もこれと同じである
ずたずたに津波であれ原発事故であれ傷ついてしまった
それでも放射能汚染でも花に影響なかった
だからこうして花が咲いたことに感動する


津波の被害も大きいしうちのめされた
原発事故もそうである、でも花は咲いたし
花は咲かせねばならない
自分は花を追求してきたから
傷ついて花を見て花を咲かせる


自分の一身上も書いてきたようにここ六年間は
介護であゃ自分自身の病気であり他者からの攻撃であり
同情されることはなかった
かえって弱ったところを攻撃されてきた
犯罪にも合い、病気をいいことに弱みにつけんこんで
借金は要求されるわ、ただ攻撃されるだけだった


だからそういう人たちを今度は攻撃できるが自分はしない
その人たちはそれなりの報いを得る
復讐するのは神であり人間ではない
弱者をいためつけるものを神は絶対に許さない
その報いは必ずある
それは大国だからといってもそうである
弱いもの小さいものをいためつけるのを神は許さないのだ


ともかくこの山帽子はこの辺の状況や自分を象徴していた
三カ所の枝が折れてその傷も生々しい
それは自分のことでもあり回りのことでもある
ずたずたに傷ついたが花は咲いた
花はこういう状態でも咲かせねばならないのだ